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死刑制度に賛成か?反対か?なんて議論することの無意味さ

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死刑制度の存続については、わが国においても度々議論されています。死刑制度はあた方が良いのか?ない方が良いのか?最初に私の立場を示しておくと、やや反対よりの中立派です。どっちかっていうと、死刑制度には反対かな?と思いつつも、心から反対を主張するまではいかない、どっちとも言えない派です。死刑制度自体は犯罪の抑止力になっているとも言うけど、現代ではそこが機能しなくなってきているという意見もあります。「死刑になりたかった」といった理由で犯罪を犯す人が実際にいるわけですから、その兆候は確かにあるけど、全てのケースにおいてそうとは言い切れないでしょう。ただ、死刑になる場合ってのはかなりの凶悪犯罪であって、1人を殺したくらいじゃなかなか死刑にならないので、そもそも死刑に値するような複数人を殺すような、ほとんど無差別殺人に近いような状況かもしれませんけど、そういうケースがどれあけあるんだろう?と思います。抑止を期待したところで、一体何件が抑止されているんだろうか?下手すりゃ、その抑止のために冤罪で死刑で被る人がいるかもしれない。

 

また、よく多くの人が批判しているのは「人を殺してはいけないのに、どうして国は殺して良いのか?」という矛盾を突いた点です。憲法に違反しない限り、法律等を決められる国が死刑制度を決めたんだから、そこは国民よりは国の方が自由度が高いというか、国民よりもできることの範囲が広いことは理解できなくはないんだけど、死刑以外でもこの国は、かつて戦争などで多くの人たちを殺してきました。そういう事実を考慮すると、何が言えるか?っていうと、「状況によっては人を殺しても良い」ってことを国自らが体言してしまっているのです。つまり、そんな国が「どんな場合であっても殺人はいけないですよ?」と法律上で主張しても、説得力がないのです。国自身が自らの都合によって、罪もない人たちを殺してきたのは事実でしょう。場合によっては殺しても良いじゃないか!っていうことを国が示してきたのですから。

 

ここから本題なのですが、殺人を実際に犯したくなる何らかの動機を持った人と、そんなこととは無縁の人たちが話し合っても解決は不可能なんですよね。人を殺したくなるほど恨みを持つ経験なんてそうはないでしょうから。私だって今のところはないですもん。有名な漫画、アニメ作品「金田一少年の事件簿」に出てくる犯人が抱えているような、あまりにも深すぎる動機については、ちょっと犯人に同情しちゃうものがいくつかあります。ただ、「同情はできるけど、殺人はよくないよね」っていうのを視聴者の多くは思うんでしょう。ただ、それはあくまでも部外者だから、そういうことが言えるのかもしれない。自分は部外者だし、その犯人が持っている憎い動機を部外者が完全に理解できるわけはないのだ。その抑えがたい憎しみはその人自身にしか多分分からない。かといって、部外者である私たちが殺人を肯定するわけにもいかないのだけど、私たちが殺人を簡単に肯定できないのは、あくまでも私たちは部外者であって、犯人の抱えている憎しみを他人事レベルでしか理解できないからかもしれない。ということは、自分が犯人と同じ立場だったら、殺人を肯定しているかもしれない。

 

「殺人はよくない」と言う人や「殺人罪」を作る国は、間違いなく、殺人とは無縁の人たち。ほとんどは人を本気で殺したくなるくらいの動機を持つ経験がある人たちではないでしょう。そうなると、そういう人たちが実際に殺人を犯した人に、「殺人は絶対にダメだ」ということも、法律があるから理屈ではあっているんだけど、彼らだからこそ簡単に言えてしまうのではないか?という疑問が残るのです。これが先ほど言った、殺人を犯した者と殺人とは無縁の者が分かり合えるはずがない。という主張の真意になります。よく死刑賛成派の人たちは、反対派の人たちに「自分の家族が殺されても同じことがいえるのか!?」といったことを放ちます。これは実際に、今平穏な毎日を過ごしているときと、人を殺したくなるような強烈な憎しみを抱いたときでは、自分の殺人に対する捉え方(肯定や否定具合)が異なるということの表れでもありますね。要は、平穏な毎日を送ることができている現在では、殺人はよくないから死刑には反対だ!といった殺人を否定する態度であっても、自分の家族が殺されて平穏な毎日が侵されたら、さっさと犯人を死刑にしてくれ!といった殺人を肯定する態度に変わるかもしれないということです。

 

国がやってきたのもそれと同じでしょう。戦争だって、かつては他国との領土の取り合いで罪もない人たちを殺してきました。私には理解できませんが、当時は帝国主義の時代で、国の領土をとられるということは、国にとって許しがたい動機になるんでしょう。だから、戦争をしかけて殺し合いを始める。しかし、そういった動機がない状況、特に現代では殺人はよくないと主張する。さっきと一緒で、国だって、自分たちの立場、状況が変われば殺人を肯定もするし、否定もするのです。現代でも、中国などと領土の取り合いをしている面もあり、それがいつ殺人を肯定する戦争に発展するか?分からない状況と言われることもあります。今は一応平穏だから、殺人は否定中だが、それがいつ肯定に朝令暮改されるか?分かりません。

 

先ほどの例でいうと、私はたとえ家族が殺されても、死刑は望まないでしょう。それは死刑が最高刑というのは、疑問が残るからです。そもそも「人は死んだら苦しみは味わえない」から。せいぜい、苦しみがあるとしたら死刑が執行されるまでの精神的なものでしょうね。そういう意味では、無期懲役の方が、自由な生活が奪われて、一生の監獄の中という状態ですから、まだ苦しみがあるんじゃないか?少なくとも死刑に比べたら。そういう意味でいうと、死刑はあっても良いかもしれないけど、少なくとも極刑が死刑であるというのは、微妙に納得ができない。この世から存在そのものを消すことが1番残酷な刑罰という認識があるのかもしれないけど、私にはそうは思えないのです。少なくとも、死刑を当事者の気持ちになってみれば。それ以外の第3者からしてみれば、死刑を受けたな。受刑者死んだな。っていうのが如実に認識できるので、残酷に見えるってだけの話であって、それはあくまでも傍観者だから感じられるものだと思うのです。当事者にしてみれば、死刑を受けた直後以降は眠くて寝ている状態と変わらないわけですよ。

 

そして、殺人罪という罪名と死刑という一種の矛盾の存在もある。殺人はいけないことなのに、国は人を殺して良いのか?という批判はこれからも続くでしょう。ただ、世の中には人を殺しても良い例外的な場面というのが存在するのかもしれない。それは特定の正解の場面があるのではなく、単に当事者以外の人が「この人殺されてもしょうがないよね」と同情してくれるとか、そういう曖昧な根拠で決まってしまう。ドラマやアニメのシーン、そして国が行う死刑というのも、そのうちの1つかもしれない。先ほど挙げた金田一少年の事件簿の犯人の動機には同情する人も多くいるだろうし、国の死刑だって、「これは死刑に値するわ」と思う人も多くいるでしょう。人を殺しても良いのか?そうじゃないのか?についても正解はないが、例外的に人を殺しても良い(周りから非難されづらい殺人)場面があるか?についても正解はないだろう。つまり、人を殺してはいけないと国は主張しているが、例外を認めていれば、死刑は例外に当たるのかもしれない。

 

死刑制度を廃止する国も多く出てきている中で、日本は今後も存続する方向で動いているらしい。世論調査などでも、日本国民の多くは死刑制度には賛成らしい。だからこそ、世界の他国から非難も浴びているが、私は一概に死刑制度を存続することも廃止することも、どちらが良いか?を決めるつもりはないし、どちらが良いか?も分からない。それは同じ殺人でも、動機があまりに身勝手で非難しかされないものもあれば、動機に一定の理解を示し、ある程度加害者の犯行に同情を見出せるものもあるという二極化されることがあるからだ。私自身、同じ殺人と聞いても、今挙げたような2つの反応をしたことがある。さっき挙げた例のように立場が違えば、殺人を否定したり、肯定したりするケースもありうる。そうなると、ひょんなことから死刑制度についても賛成から反対に寝返ったり、その逆もありうるのではないでしょうか?そうなると、死刑についても実は二極化した反応が生まれて当然だと思う。賛成も反対も生まれて当然であって、今後もその議論は永遠に止むことはないでしょう。

 

 

 

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