就職しないで、ブロガーになった人のBlog

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自分に関係のない話題に口出し、ネチネチと批判をする人たち

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ネットが進化して、SNSなども普及すると、自分を発信することと同時にそれに対する反応もかなり頻繁に行われるようになる。相互間のコミュニケーションがとれていい気もするけど、何かどうでも良いような批判をしている連中を見ていると、なんだかなー。という気分にもなってきます。2ちゃんねるとかは特にそうだと思うのだけど、個人のブログとかにも、「それお前に関係ないじゃん!?」というようなよく分からない批判が目に付くことも珍しくない。人のプライベートにまで気持ち悪いくらいに批判をして来る連中はちょっと気持ちが悪いレベルです。「ネットが窮屈になったとかいうくだらない議論~批判を恐れず発信すればいい : ブロガーかさこの生き方・働き方・考え方+旅」というブログには以下のことが書かれています。

 

確かに最近異常といえば異常で、フィギュアスケーター安藤美姫さんが、交際相手と子供の3ショット写真を公開したところ、批判コメントもあったらしく、それについて、「私の事が心から嫌いなのであれば見なければいい」と反発。 ほんと、もっともだと思うわけです。自分のことを批判されたなら反論するのは構わないけど、自分に関係ないことをただ叩きたいがために批判する無駄。嫌いなら見なきゃいいのに、わざわざ見て批判しておもしろがる、腐った神経の輩が増えたことは確かだろう。

 

「嫌なら見なければ良い」というのはまさにその通りで、こういったどうでも良いようなこと、自分には何の関係のないことで批判をとにかくしたがる人たちというのはい多い。例えば、このブログでも何度も取り上げているキラキラネームの問題であっても、元日の昼間にフジテレビでやっていた番組で爆笑問題がネタをやっていたのだが、そのときに太田光さんが「キラキラネームは子供が可哀想」と言っていた。これはあくまでもお笑いのネタだから、それにマジレスするのもどうかと思うけど、これの本当の問題は何か?っていうと、「キラキラネームを付けられた子が可哀想」なんて発言があるからこそ、子供たちが可哀想なんだと思う。そういう発言をしている人は有名人を問わず、ネット上には非常に多い。だから、世の中の風潮としてキラキラネームの子=可哀想という図式が出来上がってしまっているのです。

 

「キラキラネームを可哀想」だと発言している人は、自分たちは間違っていることは言っていないと思っているのだろうけど、キラキラネームが可哀想なんて発言をそもそもしなければ、それを子供たちが認識することはありえない。つまり、子供たちの頭の中に「珍しい名前を付けられた子は可哀想なんだ」という認識は生まれないのです。ということはどういうことか?そんな発言さえなければ、子供たちは今と比べて自分たちの名前を気にすることはないってことです。子供たちを本当に可哀想に仕立て上げているのは「キラキラネームを可哀想」なんて言っている人たちだと思う。だから、本当に子供たちを想っているのなら、もうお前ら何も言うな!としか言いようがない。別の話になると、何年か前に話題になった「孤独死」の問題です。「孤独死は可哀想だからなんとかしないといけない」といった声が世の中で生まれたのだが、こういったことを言った人は孤独死とは現在のところの縁のなさそうな人たち。そんなに年齢がいってない人たちであって、当事者ではない人たちなのです。すると、そこに高齢者から反論がきました。「孤独死が可哀想だと?ふざけるな!」といった反論がきて、孤独死対策は単なる余計なお世話になっている。という新たな世の中の認識が生じたのです。孤独死をするのは可哀想という認識、多くの人たちに看取られて死ぬというのに比べて、劣った死に方という考え方を持っている人たちがいて、そういう人たちが彼らを憤慨させたのでしょう。そりゃ、自分たちの死に方を他の人より劣っているなんて言われたら頭にきますよね。

 

キラキラネームの問題も孤独死の問題も、それに声を挙げるのは全く関係ののない第3者です。孤独死の問題は当事者が大人だから反論できるけど、キラキラネームの場合は当事者が子供なので、反論するどころか、そういうもんだと思い込まされてしまう。つまり、孤独死の場合は他人がどう言ってこようと、自分たちは可哀想なんかじゃない!勝手にレッテルを貼るな!といくらでも反論できるが、キラキラネームの場合は反論をするどころか、世の中のそういう風潮に完全に飲み込まれて、キラキラネームを付けられた子は可哀想なんだ。じゃあ、私も、僕も可哀想な子なんだね。という認識に陥ってしまう。キラキラネームの問題はその家庭やその子にしか関係のないことであり、あえて第3者が口を出すことではないはず。でも、それを口に出すことで子供たちを不幸に追いやっているのに気付かないのでしょう。別の例えをすると、自分が年収300万円だったとして、これが多いのか?少ないのか?分からなければ、生活が一応できるのならば問題はないし、悩みもないと思います。しかし、実は同じ年代の平均年収が500万であると誰かに知らされてしまうと、自分は他の人間よりも劣っているのか・・・。と劣等感に苛まれてしまうでしょう。余計なことさえ言わなければ年収300万円の人も心に充実感を抱えながら暮らせた可能性があったのに。

 

名前が変わっていることを何とも思わなければ、その子の生活に支障はないし、その子の認識としても悩みはないだろう。ただ、変わった名前を付けられた子は可哀想なんだよ?という認識を大人が子供に植え付けたことで、子供は間違いなく悩む。キラキラネームを批判する人は、子供のことを思って批判しているんだろうけど、その行動は却って子供を、そして名付けた親を悩ませているのですよ?そこに気付かない人が多くいることもそうなのだが、わざわざ自分に関係ないことにまで首を突っ込み批判をしなければ気がすまない人たちは、個人的にはちょとヤバイんじゃないか?と思います。世の中にはキラキラネームなんて蔑称ができてから、変えたいとか、改名したいと思っている人が増えたそうだ。それは紛れもなく、キラキラネーム可哀想説を世に伝播して連中の責任でしょう。彼らが余計な口出しをしなければ、他人の問題にいちいち首を突っ込まなければ、ここまで悩む人は増えていないはずだ。キラキラネームを叩く人たちは正義のつもりでやっているんだろうけど、私からすればあなたたちは間違いなく悪ですよ。だって、人を不幸にしてるんだもん。

 

第3者が何でも批判して良いって言うのなら、貧乏人は将来子供が困る可能性があるのだから子供を産むな!という批判もOKということでしょう。ただ、これが本当に余計なお世話だと思うのは、それを言う資格があるとするのならば、子供だけであって、子供が「うちは貧乏でも十分幸せだよ?」と言ってくれるのなら、特に問題はない。それどころか、こういう発言を許してしまうと、先ほど言ったように、貧乏な家に生まれた子は不幸なんだ。という認識を子供植え付け、本来ならば貧しいなりに楽しい家庭生活が送れていたのに、それがぶち壊されてしまう可能性だってある。本当に余計なお世話の代表例だと思います。子供を産まない家庭が増えると、国が当然困るので、本来ならばそういう家でも支障が生まれないように国が支援をしていくべきだとは思うのだけど、僕が頑張って将来たくさん稼いで、お母さん、お父さんを楽にしてあげるよ!という子供がいても何の問題もない。実際問題をいうと、子供を産もうとするときに、おそらく多くの家庭は良いイメージのみを膨らませて、懸念材料についてはほとんど考えてない家庭が多いと思うので、それはそれでちょっと問題かな?と思わないでもないけど、それも究極的に言えば、関係の私が口を出すことではないか。と自分を納得させています。芸能人が不倫をすると、他人の家庭の問題にも首を突っ込み批判する人たちも同様だと思うけど、そんなに彼らは自分に何の関係のないことであっても、人を叩き続けないと気がすまないのでしょうかね?そういう人たちは今後もいなくならないとでしょうから、私たちはそういった人たちに遭遇しても反応しないで、華麗に無視するスルースキルを身に付けることも必要なのでしょうね。

 

 

ウェブを炎上させるイタい人たち-面妖なネット原理主義者の「いなし方」 (宝島社新書 307)
 

 

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