就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

シリアで拘束された湯川さん、後藤さんに自己責任論を押し付けるのは妥当?

【スポンサードリンク】

シリアで湯川さん、後藤さんの日本人2人が拘束された事件で国内では「自己責任論」で盛り上がっていますね。自己責任論を展開する人の主張としては、元々危ないと分かっていた地域に自ら乗り込んでいったのだから、日本政府としては身代金の要求に応じる必要はない。ということなのではないでしょうか?これは2004年かな?イラクで香田さんが拘束され、後に殺害されたときにも同じような自己責任論が世の中を占めていた気がします。当時、私は高校1年生だったと思いますけど、危ないところに自分の意思で行ったのだから、しょうがない。みたいなことを考えていた記憶があります。実際、あれから10年以上経って、今の私の気持ちとしては半分くらいは自己責任だよな。くらいの感じです。残りの半分は自己責任で片付けるのは何か冷たい気がする。ということです。また、シリアで日本人を拉致、拘束している側に非を見出せるのならば、今回の2人に落ち度があったにせよ、彼らが悪いわけではないという結論になるからです。

 

それはどういうことか?というと、例えば、道端で指名手配中の凶悪犯に出会いました。さて、あなたならどうするでしょうか?逃げる人が多いのではないか?と思います。しかし、ここで「お前は最低の人間だ!」と説教を始めて、持っていたナイフで刺されてしまったとしたら?これh説教なんかを始めたそいつが悪い。理屈が通じない相手につかみかかった方が悪い。といった風潮になるんじゃないか?と思いますけど、彼の説教自体は一般的な道徳観念からして間違った行為じゃないと思う。そこは多くの人も頷けるんじゃないか?と思う。つまり、凶悪犯を目の前にして、説教なんか始めるのは、その人に落ち度があったというのは否定できないかもしれないけど、だからといって凶悪犯がナイフで刺した行為が正当化されるわけではないし、彼の犯人への言葉自体が間違っているとも言いがたい。つまり、こうした行為を自己責任論として突き放すのは些か腑に落ちない部分もあるのです。

 

ただ、今回の場合は拘束された日本人2人を救うには身代金20数億円が必要ということで、20数億円を実際に払う以外に彼らの命を救う手立てがないとしたら、いくら彼らの行動自体が間違っていないとしても、そう容易く払える金額ではないし、ちょっと面倒みれないよ。という気持ちになるのも無理はないかな?という気がしてきます。ただ、彼らからしてみれば、20数億円の身代金を要求されるとは思ってもいないでしょうからね。そこは1つ重要な気がします。というのも、交通事故なんて毎日どこかで起きているのだから、現実に交通事故に遭った人がいたとしたら、「交通事故なんていつ起きるか?分からないのに、外に出たお前が悪い」と言う人はいないでしょう。それは外に出る必要性があるということもそうだけど、交通事故に遭う確率の問題です。最近の話題で言えば、御嶽山の噴火の事故だって、趣味で登山に行った人たちに自己責任を突きつける風潮はほとんどなかったと思う。あれだって、救出のためにかなりのお金がかかっているはずだけど、何で自己責任を突きつける風潮がなかったか?というと、噴火が起きるとは誰も思わないからです。確率的に誰も想像できないようなことが起きた場合には、それを事前に予知して避けるための行動をとれ!というのは難しいという判断なのでしょう。

 

そうなると、今回の日本人拘束事件の場合は、危ない地域だから、拉致、拘束される可能性は十分予見できたにせよ、20数億円の身代金を要求されるなんて、想像できたとは思えない。今回報道されているのは、シリアで日本人を拘束している彼らの目的はジャーナリストの排除ということも言われており、戦地に赴いてくる連中が相当ウザいっていうのもあるでしょう。だから、本来ならば彼らの目的は拘束したジャーナリストの殺害とかであり、その火の粉がまさか日本政府まで飛んでくる。しかも、とんでもない金額の身代金を要求されるとは思えなかった。というのはあると思うのです。今回、拘束された2人の心の中にはリスクはあるけど、そのリスクを負うのは自分たち自身だ。という自負もあったのではないか?と、他に飛び火はしないという予想もあったのではないか?と思います。ただ、誘拐や身柄を拘束するという手段をとれば、自分たちの要求をより呑んでくれる可能性が高いと犯人らが考えるのは無理もない話であり、そういう手段に出ることが全く考えられなかったわけではないので、私の中では、自己責任は半分で、残り半分は彼らのせいではないだろうという気持ちです。

 

同じくジャーナリストとして戦地に赴き、現地で実際に拘束され、命の危機に晒された経験のある瀬尾傑さんは「なぜジャーナリストは戦場に行くのか~安易な「自己責任論」ではなく「冷静な議論」を | ニコニコニュース」の記事で、以下のように語っています。

 

「日本では戦場ジャーナリストというのは、フリーランスによる一部の活動と思われているが、欧米では違う。戦争報道が、ジャーナリズムの中心に位置づけられている。日本でもかつて、開高健さんがベトナム戦争を直接取材して、死ぬ思いをしながら、戦争文学の傑作を書いている。ジャーナリズムにおいて、戦争取材は極めて重要な役割を果たしているということを、ぜひ理解してほしい」

 

ジャーナリスト自身は、自身の役割や仕事が「現地に行かないと分からない」とか、「伝えなければいけないことがある」といったことを口にしている。それをジャーナリスト自身が思うのは自由なのだが、だからといって他の仕事と比べて、ジャーナリストが世の中で高い役割を果たしているとは、私はあまり思わない。戦場カメラマンの人とかも同様かと思うのだけど、私は戦争というのは、国内で起きる殺人事件と大差ないと思っているから。戦地での取材や写真に興味を示す人がいるのは事実だろうけど、シリアで起きている戦争というのは、私は日本で起きた殺人事件と状況を異にするものとはあまり思えない。人が人を殺す動機の違いでしかない。あとは規模か。だから、日常的に起きる殺人事件に大して興味が持てないのであれば、戦争報道についても同様であり、それが世の中にとってどれだけの役割を果たしているか?というのは、私にとってはニュースで殺人事件を見た程度のものでしかないのです。

 

他の人は違うかもしれないけど、私は昼間のワイドショーとかも見るので、他国の内戦や紛争の報道は割と耳にするけど、それらを伝えているのはジャーナリストの役割が大きいと思います。ただ、それを聞いて特に何かを思うとか、考えるとかはあまりない。むしろ、そういう報道を心から欲しているわけでもない。知らなくても良いこととは言わないけど、特別知りたいことではないのです。他のニュースに頭の中で埋もれてしまうこともよくある。何が言いたいか?っていうと、ジャーナリストは世の中に貢献しているのだから、危険を冒して戦地に赴いて、その結果国や国民が多大な被害を被ることが正当化されるみたいな言い方は腑に落ちないのです。少なくとも、私にはジャーナリストの活躍はほとんど影響ないし、彼らが戦地に赴く理由の中では、客観的に見たら自己満足で行っている部分も大きいと評価されてもしょうがないのでは?と思ったのです。自己責任論が妥当か?は別としても、彼らの行為はほとんど私たち一般人の感覚では趣味の領域にしか思えないのです。

 

 

 

あわせて読みたい記事