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一審の死刑判決が覆ったら裁判員制度の意味がない!←え?

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長谷川豊さんという元フジテレビアナウンサーの方がブログ「裁判員制度なんざもうやめてしまえ : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』」で怒っていらっしゃる。彼が怒り出した発端は、以下で引用していますけど、裁判員裁判によって出された死刑判決が、その後最高裁によって覆されたことらしい。私はそれの何が問題なのか?は理解できないのだけど。彼はこれによって、裁判員制度自体意味がないという結論になってしまっているようだが、本当にそうだろうか?別に裁判員がかかわった裁判の全てがその後ひっくりされているはずはない。一審の結論のまま最後まで進んだケースだってあるでしょう。逆に全ての裁判員がかかわった裁判がその後も全て一審通りに進んでいたら、その方が圧倒的に不自然でしょう。2審、3審と行われる理由は、裁判の公平性と慎重性を担保したものなのだから、その後慎重に再度裁判をしてみて、一審と違う結論になることは当然ありうる。それの何がいけないのか?

 

審議できるのが1審だけ、というのだ。陪審員の話をあまり持ち出してもしょうがないのだが、アメリカの陪審員の判断は「貴重な国民の意見」である以上、裁判所であってもないがしろには出来ないと決められている。例えば、筆者も取材した2011年、アメリカを震撼させたケーシー・アンソニー裁判という、あまりにも大きな社会現象となった裁判があるのだが、その裁判は陪審員が「無罪判決」を決定した。
正直に言って、かなり感情的には有罪にした方がいいレベルの裁判であったが陪審員たちは「疑わしきは罰せず」という裁判の基本原則に従って無罪を言い渡している。
こうなると、アメリカでは「無罪」で決着するのである。司法関係者は四の五の言えないのだ。当然だ。その為の陪審員制度である。
ところが、日本の「裁判員裁判」は1審でどんな判断をしたところで、2審や最高裁でいくらでもひっくりかえせるという。冗談じゃない。何のための裁判員制度だ?

 

日本の裁判員制度は、あくまでも一審のみと決められているのだから、そりゃ二審以降で判決が覆されることは当然に起こり得ると思うし、裁判員が下した結論を覆すな!とも聞こえるこの発言こそ、意味が分からないのです。一審の判決が覆されるのがおかしいならば、2審、3審ともに、1審の判決を全て支持するような流れも、それこそ不自然ではないでしょうか?2審、3審の意味って何なんでしょうか?別に一審の判決が全て、2審以降で覆されているわけじゃないです。そういうケースもあるというだけに過ぎないので、それに長谷川氏が異議を唱えるならば、やはり1審の判決を2審以降で全て覆すな!という発言に思えてきますが、そっちの方が大問題だと思うんですけどね。事実上1審で全てが決まるわけだから、当然公平性や慎重な真理という3審制という従来の目的は達成されなくなります。そして、そこに納得がいかないのであれば、じゃあ2審、3審も裁判員が同席できるように制度を改良するとか、この人の言い分だと他にも手段はあると思うのだけど、ブログの記事本文に書かれているような、いきなり「裁判員制度なんかやめちまえ!」というのは、あまりに乱暴な結論じゃなかと思います。そして、この方は死刑判決が取り消された理由を「先例」と説明する裁判官や関係者にかなり苛立っているみたいで、詳しくは本文を読んでほしいのですが、その一審で死刑判決を受けた被告に対する恨みつらみと、被害者の方への無念、哀悼をブログにて綴っています。

 

これこそが私はどうかと思うのですが、裁判員の人たちも同じ気持ちだったかもしれないけど、犯人が糞だからとか、被害者が可哀想だからというのを裁判に持ち込むべきじゃないと思う。それを持ち込んで良いのはせめて裁判を行うための法律の部分であって、裁判そのものに感情論を持ち込んだら、ある種世論で判決がいくらでも操作されてしまうわけですよ。私が「先例」に一定の合理性を見出しているのは、不公平が起きづらいということです。そして、恣意的な判決、量刑になりづらいという点です。私情が挟まると、人によって、犯人に対する憎しみや被害者に対する悲しみの感情が絶対に違うはずだし、誰が裁判官(裁判員)を務めるか?によって、判決や量刑が物凄く変わってくる可能性がある。裁判という名の単なる運ゲーになる。そもそも、裁判は法律に則って行わなければならないのだから、当然裁判官は法律に則ってある程度機械的に裁かないといけない側面が大きい。だから、この人は裁判官をバカだの、辞めろだの罵っているが、それは元の法律の問題であって、法律に則って判決や量刑を命じる裁判官に言うことではないか?と思います。法律がそう決めているのだから、この人が悪いと罵るべきなのは法律や国会議員であって、裁判官ではないのです。

 

裁判で必要なのは客観的な真実性と公平性だと思う。真実性というのは、常人の目から見ても、間違いないといえるような証拠によって有罪、無罪が決定されること。これも証拠捏造などの問題は別途あるのだから、絶対に確実な証拠は存在しないと思うが。そして、公平性というのは、先ほども言ったけど、裁く人間によって有罪、無罪と量刑が著しく異なってはいけないことです。これらは人間が行うのだから、あくまでも理想であって、現実的にこれらが全て満たされるとは思えない。裁判官だって、私情が挟まってくることはあると思うから。私情を挟むなという要請はあるが、それが現実的に達成されているとは限らないのです。ただ、長谷川氏のように私情を挟むべき友とれる発言は、やはり間違っていると思うのです。長谷川氏の言うことは、一般人の感覚からすると、想起する普通の感情かもしれないが、それって裁く側の人間が、自分は絶対に裁かれないことを良いことに、自己満足を実現するために都合の良い裁き方を強要している姿勢に思えてきます。結局、裁かれる側の人権を考えていない。どんな凶悪な犯罪をした人間でも、火あぶりにしたり、拷問したりして良いわけじゃない。ちゃんと裁判を受けて、刑に服する。そういう権利がある。それは法律によって決まっている。それが犯罪者でも、そうでなくても平等に守られているからこそ、法律は絶対的な尺度として機能する。それがケースバイケースで捻じ曲げて良いならば、もはや法律を基準にして善悪を語ることはできないし、法律を破る人間がいても、その人に文句も言いづらくなるのです。法治国家なのだから、裁かれるべき基準は感情ではなく、法律じゃないといけないのでしょう。

 

だから、私は今の裁判のあり方に納得いかないのであれば、「裁判なんかやめちまえ!」は理解できるけど、「裁判員制度なんてやめちまえ!」は違うんじゃないか?と思います。今の日本の司法制度が望ましくないと思うのは、個人的には全く同感なんですけど、長谷川氏みたいに遺族感情を持ち寄っても変わらないと思う。先ほども言ったが、裁判はあらかじめ決められた法律に則って行われていくのだから、結局遺族感情を持ち込むならば、せめて法律を制定する段階でなければいけない。現実的には長谷川氏が国会議員になって、法律に携わる仕事をして、それで裁判のもととなる法典自体を変えていく。これしかないと思いますよ。この国では、死刑制度の存続か?否か?でも、いろいろと揉めているし、そのときにも間違いなく出てくるのが遺族感情でしょう。こっちは裁判そのものではなく、裁判において適用される刑の種類を決めうる議論だから、まだ遺族感情を入れても良いかな?と思えないところはない。死刑制度の存否に関しては、日本と世界では明らかに価値観や考え方が違うらしい。世界では死刑制度は廃止の方向に向かっているし、そっちが優勢みたい。だからといって、死刑制度を廃止しないのがおかしいという結論にはならないが、これも人間の感情をめぐる問題だから難しい。こっちも別途、議論していきたいですね。

 

 

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