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芥川賞や直木賞はまだ良いが、国民栄誉賞ってどこに価値があるの?

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今年の芥川賞直木賞が発表された。今年は以前から話題になっていた芸人のピース又吉直樹さんの「火花」が受賞し、そっちで話題は持ちきりだ。同時に受賞した羽田圭介さんは話題を完全に持っていかれてしまった感はある。ただ、毎年思うのだが、芥川賞直木賞を受賞する意味ってナンナンだろう?と思っています。受賞をすれば、話題になって、本が売れる。本が売れれば収入が増えて、ウハウハwwwというのはわかる。そこに価値は間違いなくなるが、名誉的な価値はどうなんだろうか?と思うのです。売り上げで決めるなら良いけど、数人の選考委員の好みで決まる賞に果たして、どれだけ名誉的な価値を見出せるか?売り上げの数など、客観的な数値で決まるものじゃなく、個人の主観で決まるもの。しかも、選んでいるのは、日本人の中の数人です。芥川賞直木賞だけじゃない。国民栄誉賞ノーベル賞プロ野球沢村賞やMVP、ベストナインなど、挙げたらキリがない。野球の例は最終的に選んでいるのは人だが、個人成績という数値を基準にしているから、まだマシかもしれないが。

 

この中で特に疑問なのは、国民栄誉賞だ。芥川賞直木賞は、一応その文学に造詣の深い人が選んでいる。ただ、国民栄誉賞を選んでいるのは、誰か?というと、そのときの内閣総理大臣だ。国民栄誉賞は芸能、文化、スポーツ、その他など、いろいろなジャンルから選ばれているが、芥川賞直木賞のようにその道のプロが選考しているわけじゃない。はっきり言ってしまうと、ジャンルによっては私と変わらないレベルなんじゃないか?と思っている。そして、ジャンルによっては私の方が、一般庶民の方が詳しいのでは?ということもありそう。国民栄誉賞についていえば、この人が貰えて、どうしてこの人が貰えないの?という意見が度々出る。確かにそういう疑問もあるのだろうが、いかに素人が選んでいるか?という1つの根拠にもなると思う。

 

そしてだ、受賞者は毎回凄いありがたく頂戴している雰囲気だが、何がそんなにありがたいのかがよく分からない。総理大臣が国民栄誉賞を作って授与して、それがありがたい賞だとしたら、私が国民栄誉賞を作って、有名人に授与したら、同じくありがたいと思って、受賞してくれるの?してくれないでしょう(笑)そんなものに興味がないと言われそう。でも、総理大臣が作った国民栄誉賞に価値があって、私が作る同賞に価値がないというのは、些かおかしい気がする。総理大臣は何のプロなんだ?総理大臣と私の間に、その賞の創設や授与における格差があるとは思えない。身分の格差はあるが。その身分の格差によって賞の栄誉に格差があるというのも些か納得いかないでしょう。だって、来年から芥川賞直木賞の選考は全て総理大臣が独断で行なうとなったら、多分大ブーイングだと思います。何ででしょうか?総理大臣に文学作品を評価できる資質がないと思われるからでしょう。資質で決まるわけでしょう?なら、資質が同じだと客観的に認められる場合、つまり私が総理大臣が授与しているのと同様に、別に新たに国民栄誉賞のような賞を作って授与したら、同じようにありがたくもらってもらわないと。となる。

 

そうならないのであれば、総理大臣が授与する国民栄誉賞のどこに、そんなにありがたいと思える要素があるのか?となってしまいます。実際、受賞した人たちが心の中ではどう思っているか?は分からないですけどね。テレビの前ではけなすことはできないですから。イチロー選手が3回くらい国民栄誉賞の受賞を辞退している。あと、同じく野球関係者だと福本豊さんも辞退している。私が仮に貰えるとしても多分辞退するだろうね。貰えるかも?ってだけで十分話題になるし、受賞よりも辞退するって方が話題性は大きいからね。

 

芥川賞がじつに閉鎖的で腐った文学賞だという、つい10年まではだれもが知っていた常識を忘れ去られ、ネット時代になってかえって(なにも実態は変わっていないのに)なにか偉いものなんだからすごいんだろうというブランド強化が始まっているあたりに、日本社会の限界を見るのは考え過ぎかしらね。

 

上記は作家、批評家の東浩紀氏がTwitterで数年前につぶやいていたことなんですが、最後の「なにか偉いものなんだからすごいんだろう」というブランド信仰みたいなものは確かに存在すると思うよ。普段、本とか全く読まない人だって、芥川賞直木賞を受賞したら凄いんだろうな。という感じになっていると思う。私も昔は多分そうだった。けど、本の売り上げみたいに全国民から平等な基準で評価されたものはともかくとして、わずか数人の選考委員が評価したものが果たして、本当に「良い作品」と言えるのか?は分からない。受賞作品の候補になるのは間違いなくある程度は売れているのだろうが、受賞候補の作者は、最終的な数人の好みによって、作品の優劣が決まってしまっている現状は納得いくのかな?と思います。かつてMr.Children紅白歌合戦に出ない理由として言われていたのは、歌によって順位を決めたくないといったものだった気がする。レコード大賞とかはその前から出ていたわけだが。

 

紅白はともかく、レコード大賞もどこに価値を見出せば良いのか?分からないレベルになっている。以前からそうだと思うが、あれも数人の選考委員が決める賞で、その年に生まれた楽曲の中から選ばれるわけじゃない。レコード大賞授賞式に出席するアーティストの中から選ばれる。もの凄い範囲が狭いんです。つまり、出席しないアーティストやバンドの楽曲は選考対象にならないため、そこから選ばれた大賞の楽曲がそんなに凄いことになるのか?という話になってしまう。ボルトやゲイやガトリンやパウエルが出られない100mの決勝で金メダルをとって、どれだけの人が凄いと思ってくれるか?という話だ。レコード大賞も歴史は古いし、すでにブランド化されている面はあると思う。ただ、東氏の言うように、よく分からないけど、凄いものっていうの一種のブランド信仰によって、よく分からない価値が日本に蔓延しているのはありそう。芥川賞直木賞の受賞作品に納得いかない人はいると思う。そりゃ選考の基準は感性や感覚というものだから、それによって別の作品の方が優れているのでは?という意見が出てくることはおかしくないと思う。受賞作品が一定のレベル(文学作品のレベルというのもよく分からない基準だが)にあることは間違いないと思うが、それが本当に1位と言って良いのか?は分からない。それぞれで1位の作品が違っても問題ないと思うし、こっちの方が相応しいだろう!という意見が出ても不思議じゃないと思う。人の感性や感覚によって選ばれた賞などは、だいたいそういう問題が孕んでくる。国民の多くがブランド信仰によって、価値があるか?どうかよく分からないけど、凄いんだろうと思っている限りは、こういった賞が廃れることは無いのだと思います。

 

 

火花

火花

 

 

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