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多くの敬語に尊敬の気持ちは含まれないのだから必要ない?いらない?

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敬語って何で必要なんだろうか?という疑問が以前からあるのだが、実際、年下の人にため口を使われたりすると、少々イラっとする面もあるが、これは完全に敬語を使わないといけない社会の慣習に自分が染まっている瞬間だなと認識するいい機会でもある。敬語を使わないことが不自然な社会の中に生きてしまっているからだ。でも、英語にも敬語に近い表現はあるみたいだが、私はほとんど使ったことないし、使われた経験もない。でも、イラッとしたこともない。それは少なくとも私の生きる社会の中では、英語の敬語表現は一般的ではないから。敬語を話すことが一般化してしまっている社会の中では、敬語を話さないとどことなく違和感を覚えるが、そうではない場面だと、全く感じ方が違うのです。敬語を使わないといけないルールとして、年上、年下の関係があるが、そもそも年上なら無条件に敬わないといけない理由は何なんだろうか?と思う。先に生まれたことが何か偉いのか?というと、そんな理屈はないでしょう。敬語を使う場面で1番謎だと思うのがここなのです。敬語は必要ないというか、いちいち頭の中で判断して使わないといけないから敬語はめんどうくさいのです。

 

あと、おかしな敬語を使う人がいるっていう話もたまに聞きます。若い人、高齢の人、あまり関係ないかもしれないが、例えばバイトの接客でおかしな敬語を使っている人がいたとして、その人に注意をしたりする人もいるみたいなんだ。敬語にこだわりを持っているのだろうか?店員が「拝見させていただきます!」と言ったら、「おいおい拝見しますで良いんだよ!拝見するという謙譲語にさせていただきますという謙譲語をさらにくっつけえるんじゃない!」みたいな指摘をする人がいるんんだろうか?というか、敬語の目的が、仮に相手を敬うことに置かれているならば、敬おうとしている時点でもう目的は達成しているわけだから、どうでも良いんじゃないの?と思えてくるのです。つまり、敬語の使い方が間違っているとか、合っているとかは関係なくなるわけですよ。正しい敬語を使えていなくても、敬語を使おうとしている時点で、相手を敬おうとする意識が見えるわけだから、敬語の役割は果たしていることになります。だから、細かいミスはどうでもいい気がしてくる。

 

これは敬語以外の言葉の使い方でも全く同じです。以前、センター試験の英語をホリエモンが解いたときに、文章の空欄に4択で単語を入れていく文法・語法問題が10問あって、そこをホリエモンが何問か間違えていて、解答解説を聞いているときに「こんなもん、どれ入れたって通じますよ」って何気なく喋って、隣で一緒に受けていたアメリカ人ミュージシャンのマーティー・フリードマンさんが頷いていた記憶があるが、私もそう思います。センター試験に限らないけど、こういう文法・語法の穴埋め問題って、単語の使い方としては正しいルールに当てはまるものは1個しかないようになっているのだが、単語自体の意味は似ているものが多い。実際にネイティブを会話していて、4択のうち、3つは間違いなわけだが、その3つのどの単語を入れて会話をしたって多分通じるんですよね。意味は分かってくれると思いますよ。日本人だって、外国人のたどたどしい日本語を聞いても、大意はだいたい分かるでしょうから。そのうえで、ホリエモンは本当に英語力をつけさせたいのならば、こんな文法問題とかはやめて、長文問題の割合を増やした方が良い。と言っていったのです。

 

実際、同じ英語だってイギリス人とアメリカ人だと使い方が違うみたいなことも聞いたことがあるし、日本人が日本語完璧に使っているか?そんなことはない。文法的におかしな使い方はいくらでもしている。でも、細かいミスなら通じますよね。先ほどの「拝見させていただきます」だって、意味は間違いなく通じるし、敬語を使おうとしている姿勢も伝わるでしょう。それで良いじゃん!と思いますけどね。言葉っていうのは、コミュニケーションのためのツールなのだから、結果的にコミュニケーションに支障の出ない範囲のミスは見過ごして良いだろうと思う。面接とかを受けるときには、敬語に限らず、言葉の使い方が少しでも間違っているといけないという、非常に厳しい世界で生きないといけないことになるが、そんなものを求めてどうするんだ?とも思えてくる。結局、言葉に品格を求めすぎじゃないか?と思えてきます。名前と一緒なんですよね。言葉も名前も本来の意味があるはずで、それは言葉はコミュニケーションをとるため、名前はある人間と人間を識別するため、でも現代ではそこに両方とも品格が求められている。何かよく分からない付加価値がつけられているのです。そして、その付加価値から逸れるものは排除される世の中になっている。

 

敬語が必要ないとか、いらないとかいうよりは、敬う対象は自分で決めさせてくれよと思うのが本音なのです。年上だから無条件に敬わないといけない謎がどうも残るのです。会社の上司とかにも、どう考えても敬えない人間とかいるんじゃないですか?本当に敬語はめんどうくさいと感じる瞬間もあるでしょうね。にもかかわらず、敬語を強制されるわけでしょう。敬うって、強制によって成り立つんですかね?それって、敬う気持ちとは違うところにある気持ちな気がするんですよね。敬語が強制される社会って、そこで使われている敬語に、多くの場合で「敬う」気持ちは含まれていないでしょう。自発的に敬語を使えるから、敬いたい人だけに使えるわけだから、敬語を使う対象は、まさに自分が敬うべき相手に使っていることになります。だから、そこには相手を敬う気持ちが間違いなく存在しているが、分け隔てなく敬語を使わないといけないとなると、敬う、敬わない関係なく敬語を使わないといけないので、敬う気持ちが全く篭っていない敬語も存在する。それはもはや敬語じゃないだろうとも思えてくるが、何て呼んだら良いのか?分からない。敬語は普段話しなれていないせいか、やっぱり使いづらいというのはあるし、敬語はいらないというか、敬語にかんじがらめにされる生き方が疲れるというのが、個人的な感想です。敬語は自分が必要なときだけ使う。敬語が必要ないと自分が思えば使わない。そういう生き方はできないものですかね?

 

 

 

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