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日本は正直者が報われない社会か?いや、ちゃんと報われているのでは?

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正直者が報われる社会にすべきだ!という声は根強い。今の日本は正直者が報われる社会か?というと、そうは思えないですね。正直者が報われる社会というときの正直者って何か?っていうのも1つの問題にはなるわけですけどね。ここでいう「正直者」というのは、社会のルールを守り、そこから逸脱しない人間、つまり犯罪を犯さないとか、ルールから逸れない、不正やズルをしないといった人間になるのかもしれないです。私は別に正直者が報われる社会にする必要はないと思っています。正直者が報われる社会にしたところで、何の得があるのか?というと、答えられますかね?これって、もはや資本主義と社会主義の対立と大差ないと思っていて、結局支持する人間の数とかで決まっている気がするのです。つまり、今の日本において正直者が報われる社会の方が得をする人間よりも、非正直者が報われる社会の方が得をする人間の方が多いだけだと思うのです。それって、結局社会主義の方が得をする人間だっているわけですから、その主張と変わらないのですよね。

 

ただ、正直者と非正直者とぢらが得をする社会の方が良いか?というときには、これは二者択一で、恐らくどちらかしかとれません。全てがどっちかに偏っているわけではないが。全ての場面において正直者は報われないわけじゃないから、完全に非正直者が報われる社会に傾いてるとは言えないけれども、今は非正直者が得をする社会が選択されている。そんな見方をしている人が多いのかな?と思います。しかし、正直者がバカを見る社会っていう言い方が何か違う気もする。それって、その人がそう思っているだけじゃないか?という気もしてくるのです。つまり、非正直者が報われている社会だと感じている人もいるが、一方では、いやいやちゃんと正直者が報われているんじゃないの?と思っている人もいるかもしれない。つまり、何が正直者か?っていう定義自体がないため、温度差というか、感覚の違いは間違いなく生まれるでしょう。例えば、野球の例になるけど、野球好きの人はたまに見るんじゃないかな?身体の一部を出して、わざとデットボールに当たる選手がいるシーンを。例えば、巨人の小林誠司選手は、肘を出してデットボールの判定を受けたことがあり、これが原因で一部の人たちから「肘林」なんて揶揄のされ方をしている。

 

さて、この小林選手は正直者でしょうか?非正直者でしょうか?私は正直者だと思います。その根拠は、結局審判がデットボールを宣言していること。というか、別に故意にちょっと身体を出してデットボールになろうとする選手は小林選手以外にもいる。その度に、その当たり方が極端じゃなければだいたいデットボール判定してもらえる。つまりだ、現在の日本のプロ野球のルールでは、多少当たりにいくくらいならば、それはデットボールの許容範囲になるということですね。それを熟知している選手は、避けるよいも怪我をしない範囲で当たった方が得だから、極端じゃない当たり方をすればデットボールになりそうな投球のときにはわざと当たりにいく、または避ける素振りを見せながら、実は当たりにいっているというような行動をとるのです。これはルール上はデットボール判定になるので、何ら問題ない行為です。たまにピッチャーが「おいおい、当たりに行っているぞ!」と抗議しているシーンもあるが、デッドボール判定が覆ったためしはない。ここで、デッドボールは絶対に避けるべきだろうと考えている人からしてみれば、こういった行為は非正直者に見えるんじゃないか?しかし、私は審判が認めている以上は、ルールの範囲内なのだから、それは全く問題ない、ただ狡猾だくらいにしか言えないので、彼らはルールを犯していない以上は正直者だと思う。

 

つまり、こういう温度差によって、今の日本社会も報われている人間は正直者か?非正直者か?が分かれるのではないか?と思います。言ってしまえば、今の日本社会で通用するのは正直者か?非正直者か?の違いではないと思う。融通が利く人間か?そうじゃないか?だと思う。漫画「ドラゴン桜」に登場する弁護士の桜木建二も言っていたが、今の日本社会のルールは頭の良い人間が作っていて、バカは損をする仕組みになっているという。そのうえで、ルールの画策に参加できない人間のうち、頭の良い人間はそのルールを上手く利用すると言っている。先ほどの野球の例でいえば、デットボール判定されるギリギリの範囲での故意の当たり方をすれば、それはデッドボールを勝ち取れるわけだから、上手くルールを利用していると言える。どんなボールも全力で避けにいく選手は、ある意味頭が悪いと言えるのかもしれない。実際に解説者とかでも「今のボールを避けたら監督に怒られますよ」と言っている人もたまにいるし、当たれるボールは当たりに行くのが常識という人もいるのでしょう。ここでいうどんなボールでも全力で避けにいく人間は1つの型にはまりすぎていて、融通が利かない。つまり、適応力がないということ。小林選手みたいな人は、ある種ルールをうまく利用して、チームに貢献している。この点に関してだけ言えば適応力があると思う。

 

現実社会で言えば、法律を犯したりしている人間はさすがに正直者とは言い難いが、その法律を悪用するような形(抜け道を見つけたりする行為)は、違法行為ではないため、客観的に悪いとは言えない。言える根拠がない。むしろ、抜け道を作った方が悪いと返されてしまう。またまた野球の例で申し訳ないが、江川卓のドラフト会議での空白の一日事件は、まさにドラフトのルールの抜け道を利用した策だった。抜け道を利用したってことは、ルールや法律を犯したわけじゃない。しかし、そのルールや法律の趣旨からすると、看過できない行為に見えるものがある。それを人々は何て思うか?「ずい」と思うのではないだろうか?結局はこのずるいという感情が生まれた相手は非正直者に見えてくるはず。でも、その非正直者はルールや法律を犯してはいない。ルールや法律の作成権者が見落としていた部分を上手く突いただけなのだ。それを人々は「せこい」と感じる。つまり、上手くしてやられたと感じることを嫌うのだ。それが=いけないこと、悪いことであると証明するのはおよそ不可能だろう。法律やルールを犯していないのだから。ここでずるいとか、せこいと感じる人が恐らく正直者で、ルールや法律の抜け道を利用する人が非正直者という認識になりやすいのではないか?と思うが、客観的に見たら、後者の人間も、私は与えられたルールや法律の中で生きているので、正直者だと思います。ドラゴン桜で言われているように、彼らはそのルールや法律を上手く利用しただけなのだ。つまり、彼らを私は正直者だと思っているので、彼らがのさばるような社会は、ちゃんと正直者が報われている社会ではないか?と思うのです。

 

 

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