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社会人になっても学生気分のままのような、ゆるい怠惰な生き方をしても良いと思うがね

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「学生気分が抜けていない奴が多い」みたいなことを社会人になると多く言われているのを目にするような気もするが、学生気分が抜けていないというのは、恐らく社会人としてあるまじき行動をとっているとか、そういうことだと思います。学生気分っていうのは、大学生時代のことなのかな?大学生のときは私も酷い生活っていうか、だらけた生活をしていた。でも、別にそれがおかしいと思ったことはないし、いまだに思わない。むしろ、社会人の生活がそういうところに厳しすぎだろと思うくらいだから。私はフリーランスをやっているが、学生時代よりもだらけた生活を多分している。朝起きるのも遅いし、寝るのも遅い、仕事しながら遊んでいるし、そっちの方が捗るからなんだが。学生気分が抜けないどころか、学生時代よりも学生気分に入り浸った生活をしていると言えるかもしれないです。サラリーマンとかを羨ましいと思う瞬間は普通にあるが、かといってサラリーマンをやりたいか?というと、正直あまりやりたくない。

 

サラリーマンとして生きる選択肢の中に、優れている部分もあるものの、そうじゃない部分も多くあるため、そのデメリット部分を考えると、サラリーマンを気楽に選択はなかなかできない。それがすでに述べた部分で、学生気分のような、ゆるい生き方ができないってこと。この生き方をしていて、1番のメリットは何か?っていうと、月曜日に恐怖を感じないことです。正確に言うと、日曜日にそれを感じるわけだ。私は高校くらいまでそれを感じていた。明日、学校からまた学校があるよ・・・。と思うと、非常に憂鬱だったが、大学に進学すると、自由に時間割も決められるし、月曜もそれ以外もハードスケジュールになることはほとんどなかったから、月曜日は別に嫌じゃなかった。むしろ、大学に通うことで暇にならなくて済むといった面もあったのです。だからこそ、大学生時代はそれまでできなかった怠惰な生活を送っていました。それでも別に学業に支障が出たこともなければ、卒業もできたし、別に悪くなかったんじゃ?と思います。

 

特に多くの学生がやっていると思うんだけど、単位がギリギリもらえる欠席日数分はちゃんと休むみたいなことを私も一部の授業でやっていた。履修してみて、全くついていけないわけじゃないが、でも面白くないと感じた授業は、出る気がしないので休みたくなってくるのです。全くついていけない授業は早々に捨てる。しかし、頑張れば単位はとれそうな授業で、全く面白みを感じない授業のうち、出席をとる授業は単位がもらえるとされているギリギリの欠席日数に留めておく。逆にそのギリギリの欠席日数まではちゃんと休んでおくという、非常に効率の良い単位のとり方をしていた。しかし、社会人になると、そういうことって許されないじゃないですか?今の例でいうと、出ても意味を感じられない授業は出てもしょうがない、でも単位は欲しいという前提に立つならば、1番効率的に単位をとる方法は欠席しても良いギリギリの日数分は休み、他の日の授業はちゃんと出て、テストを受けたり、レポートを書いたりして、単位を取得するということになるでしょう。これが最大限の効率的な単位のとり方になると思う。無理に全部の授業に出席する意味がないと思ったときに、それをやる必要がない。

 

でも、社会人になるとね、例えば12時集合ってなったときに、11時59分59秒に着くのがある意味効率的な生き方になるわけだ。到着時間が遅れれば遅れるだけ、家で遅くまで寝ていたりできるから。早く到着すればするだけ、家で寝ていられる時間が短くなる。だから、遅刻しないギリギリの時間に到着するのが、当人にとって、この場合での最大の効率性を発揮した瞬間になると思う。しかし、未だにそういう暗黙のルールがあるのか?は知らないが、集合時間の5分前には着ておけ!と言われることもあるし、10分前という指示の会社もあるかもしれない。それは集合時間のぴったしの来ようとすると、それだけ何かの間違いやアクシデントで遅刻する可能性が高まるから。という理由で、全くおかしい言い分ではないとは思う。しかし、私に言わせれば、1分でも遅刻したらまずいような時間を集合時間にするなよ!と思う。友達の待ち合わせとかで、1分、2分遅刻して怒るような人はなかなかいない。それも結局学生気分が抜けていない例になるかもしれないが、それくらいのことは許してくれるし、こっちも許すよ。でも、社会人になると、そういう部分は大目に見てくれない。それが社会人の常識だという意見もあるだろうけど、そんなものが常識になっているから、みんな生きづらいんだよな。と思えてしょうがない。その1、2分の遅刻が許せたら、みんなが大目に見られたら、みんながあと5分くらい長く布団の中でゆっくりできるんだよ。通常、1,2分の遅刻では問題は起きない。起きるならば、そんな時間を集合時間や始業時間にしている方が問題とも言える。問題が起きるほどの遅刻が起きてから、または起きる恐れがあってからで良いと思うがね。でも、そもそも遅刻が大問題を起こすことは通常はあまり考えられない。それが起きるとすれば、遅刻を感情的に許せない人間がいるからで、遅刻してくる社員がいる会社とはもう取引なんてしてやらない!と、実害が起きているわけではなく、ただ感情的に許せない行為を問題視してしまうことが、取引相手の会社の損害として問題になるわけだが、このケースでは先ほどの会社が遅刻してきた社員のことを何にも思わなければ、取引は続行され、取引相手の会社も損害はない。遅刻をしても全てが丸く収まる事態もありえるということ。それをやろうと思えば実現するんですよね。ただ、人間の感情はそう単純に操作できるものでもなく、それをやれと言われても簡単にはいかないのも認める。でも、そういう人間が仮に遅刻に寛容な精神になって、そこからの連鎖でどんどんみんなが寛容になれれば、みんながゆとりを持って、ゆるく生きられそう。

 

ある外国人が言っていたことで、日本の電車の正確性はすごいと感心していたらしいのだが、その外国人が日本の電車の駅のホームで待っていたところ、アナウンスで「2,3分程度遅れる」と流れてきたらしい。その外国人はそのときになんて思ったか?というと、たった2、3分でいちいち遅れるアナウンスをするのか?うちの国じゃ2、3分の遅れなんて日常茶飯事だぞ?という感情になったらしい。それくらいに日本の電車は正確だということを言いたいわけじゃない。それくらいに日本の社会では時間に厳しいのだ。2,3分の遅れでもいちいち詫びないといけないということです。ある意味、日本人からしたら、そういう生活に慣れてしまっているから、2,3分の遅れを「たった」なんて思えないかもしれない。でも、外国人からしたら「たった」なわけだよ。私も2,3分の遅延でいちいちアナウンスする必要はないと思う。日本の電車は正確で素晴らしい!なんて賞賛を受けているシーンを見て、私は逆のことを思う。それは日本人が時間に多少でもルーズになることを許さないことの象徴だよな。と、むしろマイナス視している。

 

私も学生時代、特に大学生の頃は遅刻はそれなりにしていた。というか、あえて遅刻していた授業もある。理由は先ほどと似ていて、出席をとる授業で仕方なく何回かは出ないといけないものがあったときに、出席カードというものを配るんだが、それを配る時間帯は授業開始後10分とか、15分とか相場が決まっている。だから、その時間帯に到着すれば問題はない。私以外にも遅刻して入ってくる学生が非常に多い授業もあるわけです。何てふざけた学生なんだと思うかもしれないけど、大学は多くの教授は遅刻に関して何も言わないし、寝ている生徒とかがいても起こさないケースが多い。そして、遅れてきた学生にも、その時間に教室内にいれば出席カードはちゃんとくれる。律儀に毎回ちゃんと出席し、遅刻なしないで授業を受ける学生も、私みたいにゆるく授業を受ける学生もどちらも尊重してくれる。それは授業に遅刻してくること画誰も困らないからだ。問題が起きないからだと思うのです。私が言うのもなんだけど、大人も子供もこれくらいのゆるさがあって良いと思う。逆にこのくらいのゆるさがないと、人生苦痛ばかりだ。学生気分が残っていて良いと思う。しかし、会社はそういうのを許してくれない。ゆるい仕事の仕方を、生き方を許してくれない。それが唯一無二の正解ではないけど、もはや社会の常識として定着してしまっているから覆すのが難しいのだ。たとえ、2,3分遅刻するくらいの瑣末な部分であっても許してくれないのだ。2,3分の遅刻くらい許せえるようなゆるい社会が、社会人の中にも蔓延れば、日本の生きづらいと感じる部分、厳しいと感じる部分は多少はマシになるんじゃないか?と思う。

 

 

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