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就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

連帯責任は理不尽な悪習?メリットはあるが根拠が意味不明でおかしいと思う点がある

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昨日、高校野球の出場辞退のニュースをめぐって、「連帯責任」についての話をしたのだが、この連帯責任という慣習は今に始まったことではないけれども、やはり個人的には理不尽さを覚える。やはり連帯責任はおかしいと思える点がある。とはいっても、連帯責任にメリットがないわけでないということになる。連帯責任のメリットというと、心理的に圧力をかけることだとよく言われています。つまり、自分が悪いことをすると、その責任追及の範囲が自分だけではなくて、他人まで及ぶことから、自分だけの問題では済まなくなるという点、またはそれによって他人から自分への非難が及ぶことを危惧する点などを踏まえて、悪いことをしなくなるのではないか?という見方がある。これが実際に機能しているのか?は不明だが、連帯責任の意義ということも言えるかもしれない。連帯責任はなぜあるのか?目的は何なのか?というと、ほぼこれに集約されるのではないか?と思うが、仮にこの部分に効果があったとしても、=連帯責任が正当化されるわけではないと思う。

 

つまり、これは連帯責任のメリットを述べたわけだから、有効性について説明したに過ぎない。明らかに足りないわけですよ。何が足りないか?っていうと、連帯責任はなぜ正しいと言えるのか?という、連帯責任を押し付けて良い正当性です。例えば、部活動とかで部員の一部が犯した問題について、他の部員が責任をとらされるとかいうのが、よくあるパターンだと思います。でも、ある部活動という単位の中で、一部の部員がやった問題の責任を、なぜ他の部員にとらせても良いのか?の説明は誰もしない。連帯責任はなぜ正当性を帯びるのだろうか?そういう現状を「連帯責任」と呼ぶだけ、よくある出来事と称しているだけであって、そこの理屈を説明してくれる人間がいないと思うのです。分かりやすく例をあげると、例えば、あるマンションの大家さんが、「今日からこのマンションの住人は全員連帯責任を負ってもらいます。住民の中でマンションのルールを破る人間が1人でも出たら、住人は全員丸坊主にしてもらいます」と決めたとしよう。さて、この大家さんの決定に住人は納得がいくだろうか?は?何で俺たちが?私たちが?と、当然疑問に思うのではないか?しかし、この大家さんの決定は、よくある連帯責任を具現化したに過ぎない。

 

つまり、先ほどは同じ部活動のメンバーという共通点で、こちらは同じマンションの住人という共通点によって結び付けられた人たちが、互い連帯責任を負うというだけであって、性質は特に変わるものではないと思う。しかし、連帯責任について肯定的な見方をしている人が、実際にこの大家さんのような決定に遭遇したら、本当に納得してくれる?いや、してくれないと思うんですよね。そりゃ、連帯責任っていうのは、所詮他人事だからだ。自分が実際に連帯責任を負わないといけない事態なんて、人生の中でそうはない。また、連帯責任の典型例は部活動や会社などの共同体の中であって、同じ住居をともにする人たちなんて聞いたことないからだろう。つまり、連帯責任を負わされる事態が非日常的なところにあったのに、いきなり日常的なところにきたら、違和感を覚えるというわけだ。この例は、性質はよくある連帯責任と大して変わらないと思うし、この場合の同じマンションの住人同士が互いに連帯責任を負うというケースでも、結果としてルールを侵す人間を出さないという圧力をかけられるはずだ。つまり、連帯責任のメリットは機能しているならば、連帯責任のメリットを認めていて、かつ賛成している人間は、こういう連帯責任について当然肯定すべきだろう。逆にこの連帯責任を否定する人間はおかしい、辻褄が合わないという評価になってしまうだろう。自分が関係する連帯責任だけは否定するのか?と私なら思うはずだ。

 

逆に自らに降りかかるこういう連帯責任を理不尽だとでも思うならば、連帯責任の中にも理不尽と思えるものが存在する=連帯責任は場合によってはおかしいと言えるということになる。そうなれば、じゃあどういう連帯責任はおかしくて、どういう連帯責任はおかしくないのか?を説明すべきだという話になる。部活動という共同体はOKで、同じマンションの住人同士という共同体はなぜダメなのか?の説明はできるのだろうか?連帯責任を課しても良い範囲が、それぞれの主観で勝手に決められているとしたら、それは連帯責任は理不尽だと言われても仕方ない。連帯責任はそれ自体が悪習というよりは、適用範囲が曖昧で、一部に限定されている印象なのです。連帯責任を肯定する人は、その機能が維持されると思われる場面について、あらゆる場面について連帯責任の導入を認めるべきだ。そうじゃないと説得力がないだろう。連帯責任は個人的には意味不明だと思っている。それはやはり連帯責任の機能面について、有効性については一部理解は示せるものの、連帯責任を課してもという根拠が特にない点が意味不明だと思う。また、どんな場合でも連帯責任を課してもみんなが納得するか?というと、そうでもないはずで、そこが連帯責任が意味不明というかおかしいと思う点にもなる。

 

連帯責任は本当に理不尽な制度だと思います。でも、それが続けられてきた理由は有効性の部分が認められてきたからだと思う。でも、有効なものを何でもやって良いか?っていう問題とは違うと思う。家族の中に犯罪者が出たら、自分も牢屋行きとか、クラスメイトの中でいじめを行うものが出たら、クラスの生徒は全員スクワット1万回とか、こんなことでももちろん連帯責任の有効性は失われないはず。でも、これらに納得するか?といったら、当事者は納得しないと思う。そして、実際に部活動とかで連帯責任を負わされている子達も納得していない人が多いだろう。連帯責任は真面目な人間にとって、基本的に自分にとって損失しかないから、当然納得できないはずなんですよ。でも、連帯責任を肯定する人間が多いというのは、先ほど言ったように非日常的なことで、自分にそれが降りかかってくる恐れがないから。言うなれば、交通事故に遭う確率があまりにも低いから、車の使用を多くが容認している状況に近いと思う。交通事故に可能性が1億分の1くらいだったら、みんな多分車の使用は容認するでしょうけど、これが10分の1とかだったら、車危なくない?とか、そういう雰囲気になると思うんですよ。所詮は自分に現実的な被害が起きる可能性がどれだけあるか?で有効性のある制度やモノを認めるか?認めないか?決めている人は多いんじゃないか?と思う。連帯責任はおかしいとは個人的には思うが、自分には関係ないと思われることに対していかに想像力を膨らませることができるか?によって連帯責任を肯定するか?しないか?も変わってくるのではないか?と思う。連帯責任を実際に自分が負わされて、素直に納得する人間はほとんどいないんじゃないか?と思うし、連帯責任が嫌いという人はある意味素直だと思います。連帯責任は悪習だと私は思っているし、その連帯責任の悪習の部分は、正当性が説明されない限り残り続けるでしょう。連帯責任は根拠が意味不明というのが1番正当性を主張しづらいところになると思います。

 

 

 

「自己責任論」をのりこえる―連帯と「社会的責任」の哲学

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