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謝る意味がないと多くが認識しているのに、謝罪を強要する文化の謎とそれが生まれる理由

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世の中には謝罪を要求する謎とも言える文化が定着していると思う。客観的(多数から)に見て悪いことをしたとされるときには、謝るのが当然という風潮がまずある。しかし、その中で謝らない人もいる。それはおかしいことだろうか?というと、私はおかしくないと思う。しかし、多数の人間はそういう人がいると謝罪を要求というか、強制しようとする。そういう光景はよくあるんじゃないか?と思います。ただ、私は謝罪をしないことに関する是非よりも、もっと気になることがあります。それはなぜ彼らは謝罪を要求をするのだろうか?ということです。謝罪をする、しないという問題よりも、謝罪を要求する、しない、の問題の方が私にとっては興味深い。というのも、本人が謝罪をする気がない状態で、無理矢理させる謝罪には何の意味があるんだろうか?ということ。1つ例を挙げると、例えば、謝るという行為はしているが、やり方が明らかに謝罪をする気持ちが感じられないようなシーンがたまにあると思うんですよ。

 

謝罪の言葉はあるが、態度がへらへらしていて、顔は笑っているとか、そういう状態です。この謝罪を見て、納得する、満足する人っていないと思うんですよね。でも、こういう謝罪に満足しない理由、納得しない理由ってなんでしょう?それは外見では謝っているが、謝る気持ちが微塵にも感じられないからでしょう。つまり、謝罪する気持ちがない部分に怒りみたいなのを感じるのではないでしょうか?それ自体が真実だとすると、さっきのケースも同じじゃないですか?となります。つまり、何かの問題を起こした本人が謝る気がないときに、世間がその態度を非難したり、謝罪を要求することがたびたびあるが、その状態でその本人が謝ったとして、それは謝罪する気持ちがあるからこその謝罪ですか?違いますよね。世間が言っているのは、ただ謝れという一点張りですよ。その状態で仮に本人が謝罪をしたとするならば、それは世間からの圧力に屈して謝罪を仕方なく行ったという見方ができると思います。謝る気持ちがないのに謝ったという点においては、さっきと一緒なんですよ。しかし、さっきの例では納得しない人が大勢いると思われるのに、こっちでは納得するというか、その謝罪の気持ちがないような人を無理矢理謝罪に追い込むことを率先するわけじゃないですか?意味が分からないんですよね。

 

共通しているのは謝る気持ちがない人が謝ったという状況なわけですよ。でも、なぜ世間の見方や感情が異なるんだろう?というのが、私は非常に疑問なのです。謝る気持ちが微塵にも感じられない態度をとっている人が謝っても納得しないならば、謝る気持ちを見せようとしない人に無理矢理謝らせようとする行動をとるのはなぜか?前者の謝罪が意味がないと考えるならば、後者も意味ないですよね。ってことは、何でその意味のない行為を強要するのか?謎なのです。理解ができないのです。私が意味があると思えるのは、謝罪の必要性を説くようなやり方です。つまり、多くの国民がやるような謝罪しろ!という一点張りではなく、本人がやったことの問題点を認識させるような説得の仕方を通じて、本人に自然に謝罪を促すようならば、それは意味がある気がするのです。というのも、そのプロセスを経て行われた謝罪は、本人からの自発的な謝罪だから。でも、世間が強要しているのは自発的な謝罪ではなく、外部からの圧力による謝罪なわけだ。謝罪する気持ちが感じられない謝罪は多くが非難するでしょう。しかし、多くがやっているのはその謝罪する気持ちが感じられない謝罪なわけですよ。この理解できない行動はなぜ生まれるのだろうか?

 

結局、これも子供の頃からの教育の問題ですよ。子供が学校で何らかの悪さをしたら、教師から説教をされて、謝ることを強制される。それは親から受ける教育もそうかもしれない。しかし、そんな当たり前ともされている光景は、「考えられない大人」を作り出すわけ。つまり、世間の中で(謝るほどの)悪いことというというのが自然と定義づけられて、その行為に該当することをした人に対して無条件に謝れ!という圧力が発動するわけ。そこに論理的な思考は存在していない。世間に存在する誤るべきこととされている定義に該当するか?否か?の判断が行われているだけで、その前段階において、その行為がなぜ謝るべきなのか?そして、謝らないといけない理由といった考察は存在しない、幼少期から大人に刷り込まれた洗脳とも呼ぶべき謝罪の文化が、大人になっても引き継がれているだけなのだ。だから、何でもかんでも謝る圧力をかけてくる大人ばかりになる。やるべき教育というのは、謝ることをさせることではない。これはさっきと同じで、やったことの問題点を客観的に洗い出し、それを子供に認識させる。これだけで良い。後はその子供が謝るか?謝らないか?は完全にその子に委ねるべきだ。大人もそれで良い。謝ることがそもそも良いこととは思えない。それは謝る必要性の有無とは無関係にさせる謝罪が世の中には溢れているだろうと思うから。謝る以前にもっと考えるべきことがあるのではないか?と思います。

 

 

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