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就職しないで、ブロガーになった人のBlog

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知識偏重の入試で何が悪い?常識を捨てなければ知識偏重の教育からは抜け出せない!

受験勉強、大学の選び方 大学生活、教育問題
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センター試験は2020年で終了し、それ以降は新たな大学入試の試験が導入されるらしいが、その頃には全問マークはやめて知識偏重から抜け出すための仕組みに変わるとされている。とはいっても、とりあえず記述問題が出るのは国語と数学のみらしい。その後どうなってくのか?分からないが、当分は国語と数学に記述問題が出るので、それが新しい試験の目玉になるのだろうか?数学のことはよく分からないが、国語の記述問題というのはなんとなく想像がつく。記述模試では国語でも記述問題が出るし、私立大学でも記述問題が出ることはあるから、ああいった感じになるのではないか?と思うが、そもそもの大前提として知識偏重って悪いことなんだろうか?という疑問があります。知識偏重の定義もよく分からないが。新たな試験は記述問題が出るから、そこが知識偏重から抜け出すための違いになるのかもしれないが、国語ってそもそも知識問題ってほとんどないと思うんですよね。現在のマーク式のセンター試験であっても、知識問題は全くないわけではないが、読解問題がメインの中ではほとんどが知識問題ではないように見える。見えるというだけで、ある種知識問題にもなっているわけだが。

 

それに他の教科に関しても答え方が知識問題っぽいだけであって、別に考える力を必要としていないわけではないと思う。ただし、すでに定まっている解答を導き出すためという意味では知識問題とも言えると思いますけどね。考える力の種類は科目ごとに違ったりもするが、センター試験に代わる達成度テストが目的としている思考力、判断力、表現力はマーク式のセンター試験であっても十分見られるはずだと思っているし、それが知識偏重ならば、新たに導入される記述問題も知識偏重に違いないと思う。知識偏重の何がいけないんだ?という気持ちも個人的にはあるが、そもそも現時点のセンター試験が知識偏重か?というとそうは思えない。知識をもとにしてある程度考えないと解けない問題になっているケースはあると思うし、そもそも論を言えば、受験勉強自体が考える力を養う場として大いに機能していると思っている。受験勉強のやり方は人それぞれ違う。予備校に通うか?否か?もそうだが、まず志望校が違うから、そこを決める段階から考えるはず。そして、志望校を決める理由は何だろうか?志望校が決まったら受ける学部学科は?入試方式は?選ぶ科目は?勉強の進め方は?使う参考書は?など、受験勉強の中であらゆる決断や判断を下す機会があるはずで、それによって運命は変わる可能性があります。

 

思考力や判断力がないと受験勉強は勝てない。受験勉強で結果を残した人はいわゆる考える力が、その点に関しては備わっていると見て良いと思う。すでに思考力の実験は終わっているのではないか?と思います。さらに言うと、記述式の問題が出ることで採点が公平に行われないことへの懸念があります。国語の現代文の問題って、マーク式の今ですら物議を醸すことがよくあると思うのですが、それが記述式になったらどうなる?ここで問題なのは、明らかに採点者の予想の範疇を超える解答がくるようなことがあるということです。そういったときに常識的に考えておかしいから×とかする人が出てくる気がする。しかし、そんなことをやっていたらそれって知識偏重の入試と何が違うんだ?となる。考える力が全く必要ではないわけではないから、知識偏重とは言えないかもしれないが、それはマーク式の問題も同じだ。そして、常識を基準に採点する採点者がいるならば、その点においては知識偏重になってしまっているのだ。だって、常識っていうのもある種知識なわけですよね。例えば、「建国記念の日はいつだ?」と聞いて、『知らない」と答えた人がいたら、「そんなことも知らないのか?常識だぞ?」と返ってくるかもしれない。この場合、建国記念の日を知らないことがおかしいということを「常識」を基準に論じているわけだ。つまり、常識が基準になるってことは、定まっているものでなければいけない。1cmの長さが人によって違っていては困るように、常識というのもみんなでほぼ同じ感覚を共有しているものという前提があるのだろう。そして、建国記念の日は何月何日か?を知っていて当然だ!それは常識だ!となるのでしょう。答えが定まっているからこそ、それを常識だ!と言えるわけです。答えが定まっていなければ、人によって違うならば、それを常識だなんて言えないのです。つまり、常識という言葉を使った時点で、それはある種共有された答えが存在する知識になっているのです。それって教科書に書いてあったから。という知識と何ら変わらないと思う。教科書に書いてあったことに照らしてという作業も、常識に照らしてという作業も変わらないわけです。常識の範囲内から解答を拾ってこないといけないという制限が仮につくならば、それは知識をもとにして解答を練るのと変わらないのだ。見られるのはせいぜい表現力くらいだと思います。そういった常識を基準に採点をするとなれば、それは私たちに備わっている知識を前提に採点することになり、それがまさに知識偏重と言わざるを得ないと思うのです。

 

例えば、小説の問題とかで、Aという登場人物のすごい不機嫌そうな描写があったとする。そこに傍線が引かれていて、「このときAの気持ちはどうだったか?」というような問題が記述式で出たとする。このときに受験生の中には「実はAは嬉しい感情を抱いていた」という回答をしたら、常識的に考えたら×になりそうだ。不機嫌そうな描写あった時点で、私たちの多くは悲しいとか、イライラしているとか、そういったマイナスの感情を想像するからだ。しかし、その根拠は何か?っていうと、常識とかになってしまう。別に常識は根拠にはなりえても証拠にはなりえない。今はツンデレという描写もあるし、外見的にはそうは見えなくても、内心はプラスの感情を抱いているケースがないなんて言えない。しかし、アンケートをとれば、マイナスの感情を抱いているに違いないと考える人が多数派だろうし、採点者もそういった観点から採点をするのではないか?しかし、なぜそう言えるのか?は常識を根拠にするしかない。でも、すでに述べたように常識は証拠にはならない。常識というのは「その可能性が高いのではないか?」と推測するための材料になるだけであって、本当にその可能性が高いのか?も分からない。

 

そして、さっき言ったように常識というのは私たちの感覚の中にある知識と変わらないのだ。多くが共有しているであろう知識なのだ。江戸幕府初代将軍は誰?と同じように、この表情をしているときの人間の感情は嬉しい?悲しい?というのも、それを答えるときに用いられるのは知識なのだ。江戸幕府の将軍のときには学校で習ったとか、教科書に書いてあったとかになるが、この表情をしているときの人間の感情に関しては、今までの自分の経験則によるものだろう。つまり、この表情をしているときにはこういう感情を抱いているというある種の記号によって結び付けられた解答が、今までの人生を通じて導き出せてしまうのです。そして、それが高確率で当たっているだろうと誰もが思えたならば、それは立派な知識になると思います。その知識をどこから習うか?の違いあれど、すでに頭にインプットされた自分の持っている知識によって答えている事実は変わらないと思う。これは数学とかにも同じようなことが言えるかもしれないけど、国語とかに記述問題を導入したとしても、採点者の意識が変わらない限りは、結局知識偏重からは抜け出せないだろう。答えがある程度の範囲に収まってしまうというのは、知識を用いて答える問題の特性だと思う。思考力、判断力、表現力を問うならば、もはや正解なんてものを設定すべきではない。つまり、点数をつけるべきではないし、入試でやるべきではないと思う。それは小学校の道徳の時間みたいに、大学入学後に成績とは関係ない授業の一環としてやるべきことではないのか?

 

常識を盾にされると、当然だが思考力も制限される。しかし、社会に出てから通用するために、活躍するための人間を育成するには常識の殻に閉じこもっていては無理だ。イノベーションを作り出すのはいつも非常識だし、ノーベル賞を受賞するような研究成果だって、みんなができないようなことを、やろうとしない方法などに目を向けることも重要だと思う。数日前に書いた人工知能に人間が滅ぼされるという記事の中でも、常識の範囲内でしか物事を考えていないと、それが人工知能に人間がとって代わられるきっかけになってしまうと述べた。これは若新雄純氏が言っていたことになるが、ある中学校の入学試験の問題で、「登山をするときに必要なモノは何か答えなさい」というのが出たらしい。非常にざっくりとした入試問題だが、彼はそれを答える人間によって本当に様々な解答が出るだろうということに、この入試問題の意義を見出しているらしい。

 

答える人によって、登山に必要なものの種類や数は全然違うことが予想されるが、若新氏は「私ならヘリで頂上まで行きますね(笑)」と答えていたが、それに対して自分で「でも、ヘリで頂上まで行ってしまうのって登山って言えるのかな?」なんて問題提起をしていた。ヘリコプターで頂上まで行く方法は、登山としてはあまりに非常識な手段と言える。しかし、現実的に可能な方法ならば、この入試問題の問いへの解答としては相応しくないとは言えないはずだ。若新氏の言うように、登山の定義から考え直さないといけないような、厄介な問題だということも言えるかもしれないが、お金さえあれば、時間も手間も1番かからないのはヘリだろう。この問題は何らかの条件は課されていないので、本来ならばヘリコプターと答えた人にも一定の点数はあげないといけないと思うが、今の大人たちが採点をすると、ヘリを使うなんて突飛な方法を想定していないとなれば、こういう回答は×になる可能性も否めない。結局、そこが解決されない限りは記述式の問題の導入は反対だ。マーク式でも当てはまることかもしれないけどね。知識が無ければそれを元にして考える力も生まれないという意味では知識はすごい大事で、知識偏重は私は悪いとは思わないが、常識に囚われる国民が多ければ多いほど、どういう取り組みをしても、知識偏重の大学受験からは抜け出せないと思っています。こういった入試問題でヘリを使うという方法を提示した子にもちゃんと点数をあげられるような仕組みにならなければ、常識の範囲内で考えるという、もはや知識と変わらないような回答しか練れない子を増やすだけなのだと思います。

 

 

世界のエリートが学んできた 「自分で考える力」の授業

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