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就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

自己責任を押し付ける行為は人のせいにする無責任?人を追い詰める嫌いなワードに感じることもある

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「自己責任」って言葉がいろいろな場面で見られるが、自己責任という言葉の定義ははっきりしない。自己責任という言葉が嫌いという人もいると思いますが、結構曖昧な使われ方で、それぞれが自己責任だと思ったとき使っているという印象です。自己責任という言葉は、定義がはっきりしないからこそ、結構いろいろなシーンで使われやすいし、使うことが容易い。しかし、自己責任という言葉の濫用はそれこそ責任逃れという状況がもたらすことがある。誰かが「自己責任」という言葉を使ったときというのは、責任はお前にあるんだ!という言葉を放ったに等しいわけで、それを別の捉え方をすると、それを言った本人や社会の側には責任はないんだ!という言い方にも聞こえる。それが正しいか?どうかはケースバイケースだろうが、自己責任という言葉は自分たちが責任を負いたくないからこそ、使われる可能性もある言葉とも言えます。

 

イケダハヤト氏が「自己責任とは「他人のせい」にすることではなく「自分のせい」にすること : まだ東京で消耗してるの?」のエントリーで以下のことを言っています。

 

>自己責任とは何か。さまざまな考え方があるテーマですが、ぼくはひとつ、自己責任という言葉は「他人のせい」にするのではなく、「自分のせい」にするときにこそ、使うべき言葉だと考えています。 たとえば、ホームレス状態に陥った人を、「お前が今の状況に陥ったのは自己責任だ!」と語る。 ひきこもり状態にある人を、「ひきこもりになったのは自己責任だ!税金で助けるなんてもってのほかだ!」と主張する。 仕事で失敗した部下を、「お前が失敗したのはお前の責任だ!」と罵る。 「自己責任」を他人になすりつけるとき、その人はまさにその「自己責任」から逃れていることに気がつかなければなりません。平たく言えば「他人のせい」にしているというわけです。 「他人のせい」にすることが高じていけば、人々の断絶は深まり、困窮状態は悪化していくばかりです。「他人のせい」を極めていった結果、社会が不安定になり、貧困、犯罪、疫病が蔓延したとき、もはやそれは「他人のせい」にできなくなるでしょう。 極論ですが、世界は「縁」で結ばれているものですから、厳密にいえば「他人のせい」なんてものはないわけです。あの人の苦労や失敗の原因は、実は自分にもある。完全に無関係でいることなんて、できないわけです。世界の関係性に気づかず「わたしはあの人と一切の関係がない」と無責任を決め込むのは、鈍感な態度ともいえます。

 

自己責任を使う人は一種の責任逃れをしている可能性もあると。それが自己責任という言葉を嫌いな人の気持ちでしょうか。これは私の持論になりますけど、自己責任だけを貫けるシーンというのは、ものすごく少ないように思いますけどね。多くの場合は自己にも責任はあるが、他にも責任があるだろうと言えるようなケースになると思います。にもかかわらず、どうも日本人は(いや、世界の人もそうか?)責任を1人に、または少数に決めたがる傾向にあります。それは自己責任を追及する人もそうだが、責任をとって辞めるようなケースも同様です。会社のトップが辞任をするなんてことがよくあるが、特定の人間にだけ責任を求めて、それ以外に少なからず原因をもたらしているであろう人は責任をとらなくて良い、またはとらせないようにする、そういう風潮がある気がします。部下が明らかにミスをしているのに、その部下をかばって、「いやいや、責任は私にあります!部下は悪くありません!」と謝るようなシーンがあると思うんですけど、こういう上司を見て、良い上司だなー。と思う人もいるかもしれないが、会社からすれば最悪な上司でしょう。部下がミスをしているならば、そのミスを追及させないと、そのミスが永遠に葬られてしまい、その会社はまたミスをします。この流れを止められないのです。つまり、自己責任論もそうだが、誰か1人がまとめて責任を被るようなやり方も間違っていると思う。

 

「誰かのせいにする」ことをよくないものとして捉える風潮があるからこそ、こういう上司が生まれるんだろうけど、誰かのせいにするのは悪くないと思いますよ。それが本当にその人を責められる余地があるならば、誰かのせいにすべきでしょう。何らかのミスや失敗の原因の一端を担っている人間がいるならば、その人の責任を追及するのは間違っていないと思います。誰かのせいにすべきときがあるんですよ。自己責任に関しても誰かを追い詰める効果がある気がするけど、誰かのせいにしてはいけないという風潮も誰かを追い詰めていますよね。ただ、誰かのせいにしてはいけないと言いながら、自己責任論を追及している人がいたら、その人は間違いなく誰かのせいにしているわけですが。どっちやねん!って話ですよ。人のせいにするのはよくない風潮と自己責任を追及する風潮が両方存在しているって、それ自体が矛盾だと思うんですよね。貧困とかの問題で自己責任って出てきますよね。ここで私なりの自己責任の定義を考えたいのですが、私は自らの匙加減で100%避けられたことを避けないで起きたことに関しては自己責任が通用すると思っています。

 

だから、貧困に関してはは自己責任は通用しないと思っています。100%避ける方法がないからです。100%避ける方法がないってことは、それを避けられない人が多少なりともいるのはしょうがないという解釈になるので、貧困になるのは致し方ないという論理になるでしょう。自己責任を押し付けても良いというシーンはそういう限られたときだけだと思うんですよ。100%避けられたようなときだけとなると、自己責任を押し付けられるのはあまりないと思うのですが、じゃあ貧困が誰の責任か?といえば国でしょうね。自己責任論が言われているシーンがよくあると思いますけど、私はそのほとんどは自己責任を押し付けるのは妥当ではないと思っています。マジで自己責任論は人を追い詰めますからね。自己責任というのはあなたが悪いのだから、誰も助ける必要も庇う必要もないという姿勢にも思えてくるため、人を追い詰める傾向にあると思います。自己責任というのは自分や社会には責任がないという無責任という言葉と同義ではないか?と考えている人もいるようですけど、そういうにも解釈にもなるかもしれない。結局は責任を誰に押し付けるか?というときに自己責任が出てくるのだから、原因として含まれる人間に対して責任を押し付けるのは間違っていないでしょう。しかし、それを見当外れの人間に押し付けると、その自己責任が無責任になることもある。それは逆に自分には非がないのに、自己責任だと感じて自分が責任を引き受けるケースも含まれます。それも無責任だと言えるでしょう。責任の正確な所在を明らかにして、改善ポイントを分析しなければ社会も、会社も、人も成長できません。

 

責任を押し付けることや人のせいにすることは一概に間違っているとは思わないが、見当外れの自己責任や見当外れで人を庇うことは社会にとってプラスとは思えないのです。自己責任を押し付ける風潮が全部のケースで悪いわけではないが、誰に責任の所在が本当はあると考えるべきなのか?の検討が行われる前にイメージで、自己責任だと論じる人間がいると思うんですよ。貧困は自己責任だと論じるケースがあれば、それはそれに該当すると思います。貧困を確実に避ける方法もなければ、貧困を生み出す社会システムになっていることを踏まえれば、どうあがいても貧困が生まれる原因は社会の仕組みを作っている側に存在していると思いますから。自己責任は人を追い詰めることで嫌いだとする人も多い中で、自己責任を積極的に使う人もいるし、いろいろな人がいる世の中なわけですけど、少なくとも日本の中でおかしいと思うのは自己責任論と人のせいにするな論がごっちゃになっているところですよね。人のせいにしてはいけないならば、自己責任という言葉はもっと慎まれて良いのでは?と思いますが。私の中では自己責任を押し付けられるケースはあまり多くないと考えているので、人のせいにしてはいけない風潮があるのに、社会が責任を負わないで自己に押し付ける風潮はさっぱり理解ができないわけです。それが本当の無責任なんじゃないか?と。自己責任を押し付けることができる以外で自己責任を使うと、それは無責任を含んだワードに変貌するということだと思います。

 

 

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