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就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

道徳はなんのために?答えのない問いの議論はやる意味あるのか?役に立たないという声もあるが

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日本における道徳の授業の重要性を訴える人たちもいるが、同時に道徳はなんのためにやるのか?と疑問に感じている人もいるでしょう。道徳の授業っていうのは答えがない問いについて考える授業だという。それはそうなんだろうけど、私は最近疑問に思っていることがあって、それは答えのない問題について考える意味って何なんだろうか?ということ。道徳は役に立たないと考えている人も結構いるみたいだし。日本では、むしろそういう答えがない問題に対して考えることは重要だといわれることの方が多いように感じるが、その理由は何なんだろうか?と思う。例えば、テレ朝でやっている「朝まで生テレビ」って番組あるじゃないですか?その番組におけるAIや人工知能を扱った回で司会の田原総一郎氏が、テーマとは関係ない話に逸れたときに、世界の首脳が集まったときの会談で、日本の首脳は毎回発言が少ない。それは学校で正解のある問題しか考えさせないからだ。と強く訴えていたのだが、これはよく分からない理屈だと感じたのです。まずそもそも発言が少ないことが悪いことなの?逆に発言が多いことは良いことなの?という疑問はある。そして、そもそも発言が多い、少ないが、答えのない問題について考える訓練をしていないから。という理屈はそもそも成立するのか?など、個人的にいろいろな疑問は生じたわけだが、この意見を見る限り、少なくとも田原氏は答えのない問いを考えることは意味があると考えているわけですよね。

 

しかし、私は学校でやる道徳のような授業をやる意味はよく分からない。それは答えのない問いを考える意味が分からないということと恐らく同義だと思う。道徳はなんのためにあるのか?と教育関係者などに問えば、答えのない問題を考える力を養うためだ。とか返ってくる気がするが、その答えのない問いに対して考える力を養ってどういう意味があるのか?と問うたら、どういう返答が返ってくるのか?は気になる。例えば、選挙において自民党民進党はどっちが当選するのが良いですか?という問題は、いわゆる答えがない問いと言えると思います。多数決で言えば、今ところは自民党を選ぶ人が多いだろうが、それはその人たちの意見であって、自民党を選ぶのが正解ではない。つまり、この問いは答えがない問題だと言えるし、この問いについて考えることは、答えのない問題について考えるということになると思います。で、この問いに関して考える意味とは何でしょうか?という問題が当然出てくるわけだ。自民党を選んでも、民進党を選んでも、それぞれ得する人間がちゃんといるはずです。その多い、少ないという問題は当然あるが、多数決で決まる問題ならば、それは答えがある問いになってしまうので、多数決では決まらないという前提で話をしたい。このケースで自民党民進党はどっちが政権政党になった方が良いのか?の問いは、一般的には正解がない。どっちを望ましいと考えるか?は人による。それこそトランプとヒラリーはどっちが良いか?という問いと同じだと言える。

 

トランプとヒラリーが争っていたときもどっちか?っていうと、トランプの評判はよくなかった。しかし、選挙を終えてみれば当選したのはトランプだった。つまり、アメリカ国民の中にはトランプを支持する人もいれば、ヒラリーを支持する人もいたということになる。各人がどっちが大統領になった方が自分たちにメリットがあるか?という基準によって、トランプとヒラリーのどちらを望むか?は変わる。だから、各人にとっての正解はあるのだが、アメリカ国家全体から見ると正解はない。どっちが当選してもメリットを被る人間、デメリットを被る人間が一定割合いるということになります。つまり、アメリカ全体から見たときにどっちが当選した方が良いのか?なんて答えは出せないわけ。日本人だってこの大統領選挙に注目していた人はたくさんいたと思うし、どっちが望ましいか?ということを考えていた人もたくさんいたのではないでしょうか?でも、それを考える意味とは何なのか?答えられるでしょうか?どっちが当選してもメリット、デメリットがあるわけだ。各人は「望ましいことの基準」があるから、それに沿って考えることになるが、その望ましい基準とやらがそもそも正しいという担保はない。そうなると、各人が正しいと思った意見は、正しいと思った意見でしかなく、正しい意見ではないとなる。

 

正しいと思った意見をお互いにぶつけることが、答えのない問いについて考えることになるのだが、じゃあそういったプロセスを経ないで、考えるの面倒だから、オレはヒラリーでいいや!みたいに考える人がいると叩かれる風潮にある気がする。でも、実はこういう姿勢はじっくりと考えているケースとあまり変わらない気がするのです。だって答えがないんだもん。答えがあにという前提について議論をするということは、どういうプロセスを経て出た答えだとしても、それが正解か?どうかの確認ができない。じっくりと考えてヒラリーを支持した人、何も考えないでヒラリーを支持した人、じっくりと考えてトランプを支持した人、何も考えないでトランプを支持した人、この中でどれがもっとも正しい行動か?というと、全部一緒です。つまり、手間をかけてちゃんと考えて出した答えが、何も考えないで適当に考えて出した答えより優れているという根拠が一切ないのだ。それはその確認が永遠にできないからです。トランプとヒラリーって結局どっちが良かったの?という問題は、また「人による」という問題にもなるが、そもそも今回はトランプが当選したが、トランプが今後大統領として活動していく中で、トランプに投票した人が、こぞって全員彼の活動ぶりに満足いくか?というと、そんなわけはないと思う。絶対に不満に感じる人が出てくると思う。これはヒラリーが大統領になった場合、それ以外の人がなった場合でも一緒だと思う。つまり、期待をしてトランプに投票した人も、彼の大統領としての活動を見たときに、投票しなければ良かったと思う人がどうしても出てきてしまうことは避けられないと思うのです。投票してくれた人を全員を満足させられる大統領なんてまずいないんですよ。ってことは、投票する前から自分が誰を支持するか?の判断は、結果論の観点から、自分の中の正しさの基準に照らしても正しいとは必ずしも言えないのだ。自分が誰を支持するか?の判断は、アメリカ国家全体から見てもどっちが正しいか?は分からない。また、自分目線から見ても結果が出てみないと分からない部分もあるという意味では、投票先を決める段階では「正解はない」し、「正解が何か?は分からない」のだ。

 

したがって、答えのない問いに対して真剣に考えて出した答えと、何も考えないで出した答えのどっちが優れているのか?の検証もできないということなる。多くは真剣に考えて出した答えの方が優れているんじゃないの?と思うかもしれないが、その証拠はない。こういったことを踏まえると、道徳をやる意味とは何なのだろうか?という疑問が生まれる。道徳というのは役に立たないというわけではないが、やる意味があるのか?というと何とも言えない気がする。役に立ったと考えている人もいる一方で、なんのためにやったのか?道徳は役に立たないと考える人もいるだろう。前者にしてみれば意味のある授業だったし、後者にしてみれば、その時間を使って別のことを学びたかったとも思っているかもしれない。道徳をやる意味としては他者理解という部分も挙げられるかもしれない。他者の価値観に触れることが道徳のやる意味だと感じる人もいるかもしれないが、その価値観とやらに触れることが良いことなのか?を再度検証しないといけないが、それを検証しようとすると、また同じことになる。

 

だって、他者の価値観といったっていろいろなものがあるし、ある人から見ればとんでもなく恐ろしい価値観みたいなのもあると思うんですよ。価値観に善悪が一切ない!という状況ならば、それは意味があるかもしれないが、世の中にはどうしてもいい価値観と悪い価値観というような二分する考え方が蔓延している気がするし、特定の価値観は植えつけるべきではないという考え方に教育自体がなっていると思う。そうなると、他者の価値観に触れることが全ていいとは言えないということになってしまう。今回は答えがない問いに関して取り上げたけど、答えがある問いに関しても真剣に考えることが果たして良いことなの?意味はあるの?というケースが実はある。それはものすごい身近なケースで、多くの人も経験しているんじゃないでしょうか?例えば、学校のテストを受けているときの話で、択一の問題を解いているときに、例えば2つの選択肢で迷って、とりあえず1番にしたけど、全部の問題を解き終えたら時間が余っていたので、その問題について再度じっくりと時間をかけて解き直したら、やっぱり2番じゃないか?と思って答えを変えた。みたいなケースがあると思います。こういう行動ってみんながとるものだと思う。時間が余って寝ている人はいないことはないが、そんなに多くないと思う。時間がある限り、最後までどっちが正解なんだ?と真剣に考える努力をするはず。それこそがテストに向かうときの正しい姿勢だ!と思っている人も多いのではないでしょうか?

 

しかし、実はこの取り組み方というのは必ずしも正しいとは言えないと思います。逆の言い方をすると、時間が余っていようが寝ていた方が実は正しいのではないか?と思える余地もちゃんと残っていると思う。このケースにおいて、時間が余っている限り最後までちゃんと真剣に考えて答えに悩むという行動の方が正解だと言えるためには、その行動をする方が、時間が余っていても寝ているという行動をするときよりも、問題に対しての正解率が高くならないといけない。で、実際どうなのでしょうか?つまり、最初解答した選択肢のまま提出する場合と後でじっくり考えてみて解答を変えて提出した場合では、後者の方が絶対に正解率が高いと言えるでしょうか?答えを変えたということは、それだけより長い時間と手間をかけて考えたということが言えると思いますが、そういうケースの方が実は正解率が低いと、ある予備校講師が言っているのを聞いたことがあります。これはデータがあるわけではなくて、多分推測なんだと思うけど、そういう人たちが「じっくり考え直した結果答えを変えるという行動をするよりも、最初の直感を信じて解答した方が正解率は高い」と言っているのです。つまり、ちゃんと考えないで、より短い時間と少ない手間で出した解答の方が正解を選べている確率が高いと言える余地も実はあるということになります。

 

学校のテストとかは一応正解がある問いになりますが、正解がある問題であっても、じっくりと時間をかけて真剣に考えることが、必ずしも正しいとは限らないと言えるということなのです。実際に答えを変えて間違えるって経験は多くの人がしていると思うんですよ。変えなければ良かった!と後悔するケースはよくあることだと思います。正解がある問いですらそれに考えることの意味はあるのか?どうか揺らいでくる側面もあるわけですが、答えがない問題について考える意味とは何なのでしょうか?道徳はなんのためにやるのか?という問いに対する答えはあるのだろうけど、その答えに合理性がちゃんと伴っているのか?は別問題かもしれません。道徳は役に立つと考えている人と役に立たないと考えている人がいるという問題そのものが、1つの答えのない問いになるのかもしれないが、道徳はなんのためにやるのか?なんて考えている私のこの行動自体も、なんのためにやっているのか?という答えは出ない。道徳は答えのない問題について考えることだが、答えのない問題について考えることは重要だ!で止まってしまっている人が多いのではないか?その先の意味について考える人が少ないように感じる。道徳の授業で児童や生徒らに考えさせる前に、道徳みたいに答えがない問題について考える意味とは何ぞや?を私たち大人が考えるべきではないか?と思うのです。

 

子どもたちが身を乗り出して聞く道徳の話

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