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詭弁や極論は言う人は正論?何が悪い?うざい、嫌いという気持ちに正当性はある?

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極論というのは何かと嫌われる存在というか、うざいと思われている言い回しかな?と思います。極論か?どうかっていうのは、そもそもその人の感じ方の問題でもあるので、それが本当に極論か?どうかは見分けはつかないです。そう感じるか?どうか、それ自体がその人の感想なので、極論を言う人は確かにいるかもしれないが、それが本当にそうか?であることの証明はしようがないのです。それはとりあえずおいておいて、極論は何が悪いのか?という問題があります。私そんなに悪くないと思っています。極論はうざいと言われる部分もあることはあるのだろうけど、それはイメージが大きい気がします。例を挙げると、転売を否定する人がいるわけです。転売という行為は法律で許された行為であることが多いのだが、そういったものに関しても否定をする人は後を絶たないわけ。でも、その転売が違法ではないという前提に立つならば、客観的に見てその転売行為を否定する理由は存在しないと思います。法律の基準によって許された行為を否定するということは、その人は法律という基準よりも、自分の感情の方が上だという主張をしているわけですから、その思想を許すと、もはや犯罪行為も正当化できますよね。という反論を転売ヤーの方がしたとします。しかし、何で犯罪の話になるのか?それは極論ではないのか?という反論も転売否定側からくるかもしれない。

 

つまり、転売が法律によって許されている行為なのに、転売を否定する、転売は悪い行為だと主張するのであれば、法律よりもその人の感情が善悪の基準になっている。いわゆる感情論になるわけだけど、それを許すと、犯罪行為も正当化できるというのは事実でしょう。法律の基準よりもその人自身の感情を善悪の基準にして良いのならば、俺は人を殺しても良いと思った。という感情が人を殺すことを正当化するための理由になってしまいます。理屈で言えば、そうなるのです。しかし、理屈ではそうなっていても、それは極論だろう。という反論が飛んできそうです。この場合、犯罪者と同じ思想や考え方になってしまうけど、それでも良いの?というのが、そういう反論をする人の趣旨なのではないか?と思うが、私が仮に転売ヤーを否定する側の人間だったら、「犯罪者と同じ考え方の何が悪いの?犯罪は悪いことでも、犯罪者と同じ考え方をしても、それだけじゃ罪じゃないよね?それの何が悪いのかな?」とでも反論するかもしれない。私は転売行為を否定する側の人間ではないが、そういう反論をし返すことも可能と言えば可能だろうし、この反論の内容自体は妥当性があると個人的には思っています。どっちにしろ、このケースでは感情論以外で転売行為を否定する理由を見つけるのは難しいと思っているが、転売行為を否定する側を責め立てるときに、犯罪者と同じ思考だとか、同じ考え方だ、それが通るならば殺人も正当化できる。というのは極論をぶつけることは重要だと思っています。

 

さて、この極論は何が悪いのか?となる。問題はそこなのだ。極論を言う人はなぜかうざいと思われることも多いと思われるが、それはどうしてだろう?ちゃんとした理由があるのか?ある理屈を通そうとするときに、その理屈が全てのケースにおいて通用すると断言できないだろう?という反論をするときに、極論を言うと非常に便利なんですよ。さっきの例はまさにそれで、転売行為を否定する側の使っている理屈を、別の例に当てはめたら、同じくそれを正しいと言えますか?と相手を論破しにかかるときに、極論が使われているとなる。この極論に対して、先ほど使っていた理屈を通せないならば、その理屈はあるケースでは正しいが、他では間違っているという判断になり、その理屈自体が必ずしも正しいとは言えないことの証明になると思うのです。だから、極論はある理屈を否定しにかかるときには非常に有効な手段なのです。相手の主張の矛盾を突くことができるから。そういう行為というのは多くの人から嫌われているということなのだが、なぜ極論を嫌いな人がいるのか?というと、それは簡単です。極論を言われると反論ができなくなるからです。すでに話したように、相手を論破しにかかるときに有効な手段として機能するのが極論なので、それを言われると、反論が非常に難しくなります。だから、結果的に論破されやすくなり、嫌う人が出てくるのではないか?というのが、私の推測です。

 

「それは極論だろ!」以外で反論がしづらい。正論と言えるか?どうかは別としても、非常に反論に苦しむからこそ、言われた側からすると、うざいという感情になるのではないか?と思うのです。私自身は極論を言う人がいても、それ自体を否定しようとは思わない。その主張が正しいか?間違っているか?の判断は、それが極論か?否か?を基準にして行うべきではないと思っている。あくまでもその主張に妥当性があるか?矛盾は生じていないか?などの側面から考えていくことになるだろう。同じような言葉で詭弁というものもあります。詭弁って何か?っていうと、これもまた難しいのだが、理屈が通っていない主張なのに、正しいように思わせる言動かな?と、要するにこじつけという感じなのかもしれないです。詭弁の定義は上手く言葉で説明しづらいが、具体例を入れると分かりやすいかもしれないです。例えば、死刑制度の議論になると、確実に出てくるのが「お前、家族が殺されても同じことを言えるのか!?」と、死刑賛成派が反対派に詰め寄るときに発する言葉です。私はこれは詭弁だと思っています。なぜか?仮に本当に自分の家族が殺されたときに、死刑は反対ですとは言えないとしても、それ自体が死刑があることの正しさを証明することにはならないから。詭弁は正論じゃないからこそ詭弁って言われると思うんだけど、基本的にこのセリフに正当性はないと思っています。なぜか?すでに話したように、死刑反対派の人間が、自分の家族が殺されたときにまで死刑反対を主張できないとしても、それは感情による判断であり、論理的に導き出されたものではないからです。

 

別の例を挙げると分かりやすいかもしれない。例えば、「暴力はよくない」という意見を言ったとします。その意見自体に反対する人はほとんどいない気がしますけど、別の誰かが「暴力団の目の前で同じこと言えるの?」と言ったとします。現実的に考えて、暴力団の目の前でこのセリフ言えますか?と言ったら、当然ながら怖くて言えません。でも、だからといってじゃあこの「暴力はよくない」というセリフは間違っていることになるの?と言えば、そうはならないと思うのです。実際、暴力は犯罪に該当する可能性も高いので、客観的に見て暴力団の前で「暴力はよくない」という言葉を言えなったとしても、その言葉が間違っている根拠にはならないのだ。そうなると、死刑反対派の人が、実際に家族が殺されたときにまで死刑反対を貫けないとしても、それは=死刑賛成派の主張が正しいことにはならないのです。論理的に矛盾が生じるからとか、そういった理由で家族が殺されたときに死刑反対という立場を貫けないならばともかく、家族を殺された人が死刑反対の立場を貫けない理由は、単なる感情がそれを許さないという、かなり主観的な理由なので、客観的に見て、それは死刑反対派の意見が間違っていることにはならないと思うのです。言ってしまえば、家族を殺されたときなんてシーンを持ち出してくること自体が極論の例にも当てはまる気がするが、そういう例を持ってくること自体は悪くないと思う。しかし、そういう例を持ってきたところで、この場合には相手の主張の矛盾をつくことには多分ならないんですよ。だから、意味がないと思うのです。

 

というのも、死刑制度反対派の主張していることの理屈の矛盾を否定するような例じゃないから。問題は言動の矛盾ではなく、理屈の矛盾を突くことではないか?と思うのです。例えば、死刑制度反対派の主張の根拠が、人を殺すことは犯罪だから死刑制度は廃止されるべきだというものだった場合、その人が自分の家族が殺されたときにも死刑制度の反対を主張しづらい気持ちになったとしても、それは先ほど挙げた理屈自体を責められたわけでもなく、理屈自体の矛盾を指摘されたわけではないので、相変わらずその理屈は生きている状態になります。表面的な言動が矛盾していても、理屈が相変わらず通っているなら良い気がするのです。これは私の意見でしかないが、そういった部分で詭弁は正当性がないということになるのではないでしょうか?これに関してもさっきと同様で、どれが詭弁で、どれが詭弁じゃないか?の判断は難しいと思いますけどね。詭弁はこじつけと言われることもありますから、詭弁が詭弁である限りは正論になるということはありえない気がするけど、詭弁か?どうかの判断が難しいということなのです。だから、人によっては詭弁に見えることが別の人には正論に見えることもあるなど、こういう定義自体を争うことになると、もはや収拾はつかなくなるのです。

 

極論に関してはそれが正しいと言える余地はあると思っています。それはすでに話したように、極論を言う人がいても、それは理屈自体に矛盾があるわけではないという限定はつきますが、その例自体がかなりぶっ飛んでいるというだけであって、ぶっ飛んでいる例でも、現実的にそうなったらどうする?あなたは同じ主張をできる?という問いかけは問題ないと思うのです。一貫した理屈に基づいた問いかけの仕方ならば、極論はどんな例であっても良い気はします。だから、先ほどの死刑制度の例にしても、家族が殺されたときにも同じことが言えるのか?という極論は、その主張をした人の理屈が生きている、矛盾がない前提ならば、そういう問いかけをすること自体はとりあえず間違っていないと言えると思う。しかし、問いかけの仕方がまずいので、反論が容易だというだけなのです。極論をうざいと思う人もいるが、正論の場合もあると思うし、何が悪い?と個人的には思っているので、議論の場で使っても良いと思うのです。強いて言うならば、一貫した理屈に基づいた例なのに極論を否定するならば、極論じゃない主張は支持して、極論は否定するという区別をしないといけない理由を述べるべきだと思うのです。

 

そこを言わないと、自分の都合の悪い主張に対して、全部「それは極論だろ」を言えば良いということになりますから。例えば、悪事を働いた人に対して、「これくらいいだろ」と言っている人がいたら、「じゃあ、あなた自身が殺されても良いの?」と返せば、これは極論でしょうけど、「このくらい」を許して、「殺人」は許せない理由をちゃんと述べるべきだということです。許せる、許せないの境界線をどこに置くのか?そこに置くことの正当性はどこにあるのか?根拠はあるのか?などをちゃんと説明すべきだと思うのです。そこまでちゃんと説明できたら、極論を排除することも正しいとなりそうですが。極論を嫌いと思う人は多くいるのだろうが、個人的にはそこはせめてやってもらいたい部分です。ただ、それを求めると逆の極論が返ってくる可能性もあります。じゃあ、「肩を叩いただけの行為もダメなの?」とかですね。それが悪事と言えるのか?どうかはさておき、そういう逆の極論にもちゃんと説明できるように、極論を言う側も考えておかないといけないのです。

 

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