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差別を批判している人も、その主張自体が差別になることに気付かないという現実

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以前、フジテレビの番組でLGBTをいじる内容のバラエティ番組を放送したところ、それが炎上し、フジテレビの社長が謝罪をすることになった。その騒動の余波は外野で未だに続いている。特にこのウーマンラッシュアワー村本大輔氏のツイートは「他にも差別されている人がいるからって、お前らだけが文句言うな!我慢しろ!はおかしい!」といった批判をしている人が特に多い。しかし、このツイートの真意は別のところにあるのではないか?と考えている人の意見も見つかる。それは「差別されている人たちは他にも多くいるのに、なぜ特定の層の人たちだけ被害者面するのか?他の差別には声を挙げないで、なぜ特定の差別だけに批判をするのか?ということを村本さんは言いたかったのでは?」という解釈をしている人もいる。私はなるほど。と思ったと同時に、これっていつも私が考えていることと同じだなと、直感的に思った。村本氏の真意は分からないが、後者の意見で言っているならば、私は支持する。というのも、差別を批判する人たちが1番差別しているという事実に多くは気付いていないからだ。

 

つまり、差別を批判するということは、差別が悪いことだと思っているはずで、だったら、差別全体として声を挙げれば良いことなのだ。でも、多くの人は「人種差別」や「学歴差別」、「性差別」など、特定の差別を取り上げて、それのみ論じるようなことをする。ってことはどういうことになる?特定の差別はダメと言っているが、逆にそれ以外の差別は容認しているものがあるってことでしょう?差別全部がダメと思っているならば「〇〇差別」じゃなくて、最初から「差別」と言えば良いんですよ。でも、そういう表現を使わないってことは、差別全体が悪いと思っているわけじゃないことになります。つまり、中には容認すべき差別があるってことであって、それ自体がもう差別的な考え方なんです。それに気付いていない人がかなり多くいるはず。差別を批判している人も、結局差別的な態度には変わりないよね。っていう結論になります。

 

あと、駒崎氏の批判も正直よく分からない。特に前半部分に関しては。学歴や職業等が本当に選択できるものか?っていうのも疑問だが、選択できるものとできないものを別に考える意味とは何だろうか?その根拠が全く書かれていないので、結局この部分に関しては駒崎氏の感想ということになるだろう。つまり、正しいか?どうかは別問題だということ。私は本人に選択の余地があるか?どうかで、非難されても良いもの、悪いものを分けるのはおかしいと思っているのですよ。だって、本人に選択の余地がないもので批判されていることなんて山ほどあるからです。その代表例は思想です。LGBTを悪く言う思想もその1つだが、社会的に許容されない思想っていうのが間違いなくあるはずで、そういう思想っていうのは本能的に脳内に惹起されるものであって、LGBTの問題と同様に、本人の努力や匙加減ではどうにもできない問題だと思うんです。あとはその本能的な思想を外部に表明するか?どうかの問題で、例えばある人が本能的に「人を殺してみたい」と思ったとします。そういう思想を外部に表明したら、基本的に叩かれます。LGBTに関しても、同性愛が生理的に無理って人もいるわけですよね。これも本能的な問題で、努力や匙加減ではどうにもならない気がする。で、それを外部に表明したら、今のご時世だと叩かれるのではないか?でも、LGBTを外部に表明しても叩かれないならば、あれ?って話になるんですよ。

 

つまり、LGBTが何らかのことで批判されたり、不快な思いをさせられたりすることは、山ほどあるうちの1つであって、他の山ほどの中にはLGBTに対するそういう問題とは違った反応をする場合が大いにある。LGBTが批判されたら、今のご時世ではその批判自体が批判されそうだが、先ほどの人を殺してみたいという思想は、多くから批判されるだろうが、その批判に対して誰も異を唱えないということになるだろう。つまり、駒崎氏、そして駒崎氏のツイートを支持している人は「私は人を殺してみたい」と言っている人に対して、「そうだよな。1度くらい人を殺してみたいと思う人だっているよな」と、肯定しないといけないというか、差別してはいけない、思想それ自体は尊重しなければならないのだ。駒崎氏やそれ以外の人が選択できる余地があるか?ないか?で、差別の妥当性を論じるならば、こういうことになる。駒崎氏も結局、先ほど書いたように、差別を訴えている人間という側面と差別をする人間という側面の2つを抱えているということになり、彼は差別を批判しているのか?是認しているのか?分からないということになる。

 

結局、LGBTに対して不快感を持っている人がいれば、LGBTとして生きたいという人もいる。どっちも自分の利益を優先する行為であって、ある種間違ってはいないと思う。何が問題か?っていうと、こういうケースというのは、世間の風潮によってどっちが正しい、どっちが間違っているという風に固定化されてしまうことだ。どっちも自分の利益を優先する行為にもかかわらず、どっちかの肩を持ってしまうということ。これ自体が私は1番の間違いだと思う。LGBTとして生きるのも自由だし、それに不快感を持つのも自由だろう。お互いが自分と相手はどっちも正しいんだ。ということを認め合いながら生きるのが、私の考える正しい社会だと思うのだ。ただ、それは実現されそうにない。自分の利益を主張するということは、批判に対して批判をするのも自由だろうし、その連鎖は止められない、止めないといけないという理由も見いだせないからだ。私自身はLGBTに対して何の偏見も不快感もない。というか、私は多様性が尊重される社会を理想としているので、むしろLGBTのような少数派の出現は大歓迎だ。ただ、私のような人間ばかりではないので、そういう人たちも社会を構成する一部の層として是認すべきなのではないか?それも含めて多様性(LGBTも多様性の一部だが、LGBTを批判する人も多様性の一部である)が尊重される社会と言えるのではないか?と思う。理想の社会を目指しながら、自分にとって常に理想の社会は訪れないということも必要な考えではないかな?と思えてくる。ただ、そういう態度をになるためには、人間が言葉を話すということをやめない(自分の意見を表明する機会を生じさせてはいけない)と無理な気がしてくるが。

 

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