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虹の色は何色か?という質問に「7色」と答える人が抱える常識に沿った区別の問題点

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「虹の色は何色か?」と問われたら、何と答えるでしょうか?ちなみに私はこんな質問を今までに受けたことは1度もないが、仮にこの質問をされたとしたら「分からない」と答えるだろう。私はこの答えが真理だと思っているし、最も正しい答えだと思っている。日本では虹の色は7色であると教えられているというか、そう思い込まされている。でも、何で7色なの?7色という答えは彼らにとっては正しいと思うのだろうが、それは「大まかに分類したら7色とも数えられる」というのが正しい。ただ、これは7色だけの話じゃない。8色でも、9色でも、固有の数字を答えてしまっている人は全員同じです。そして、7色とも数えられるというのは、言い換えれば、数え方によって虹の色は何色にでもできるということなのだ。なぜならば虹の色というのは、グラデーションになっており、例えば、多くが青色と認識する部分に関しては、青一色ではなく、細かく分けたら何色にでも分類できる。青という系統の色には〇〇ブルーみたいな色の名称があるように、無数のものが存在するのだから、細かく分けたらキリがない。

 

つまり、虹の色というのは人間の目では認識できないほどに色は細かく分かれており、無限に色の数が存在していると言っても過言ではない。色の名称がついているモノだけでもかなりの数があるだろうが、名称になっていなくても、グラデーションである以上は、濃度が少しでも変われば別の色になるし、人間の目では違いを認識できない範囲の中にも、無数の違う色が存在していることになる。こういったことが理由で、虹の色は何色か?という質問の正確な答えとしては、数えられない、分からない、無限といった回答が正しいと、私は考えるのです。この話は何のためにしたのか?というと、なぜ人は答えを1つに決められない問題を決めようとするのか?という部分を明らかにしたいと思ったからだ。今日、たまたま「人を殺してはいけない理由」という内容を扱ったブログなどをいくつか見ていたのだが、人を殺してはいけない理由に関して、回答の中身は違えど、真面目に答えている人が多くいたのです。こうこうこういう理由から、人は殺してはいけないんだ!という感じだったけど、人を殺してはいけない理由が存在すると思っている人は、まさに虹の色を聞かれて7色と答える人間と同じなのです。はっきり言って、そんな理由は存在しないが正しいです。人を殺してはいけないと思っている人がいるというだけであって、人を殺してはいけない真理は説明ができません。実はそんな理由は全部「それの何が悪いの?」で一蹴できてしまう。

 

「人を殺してはいけない」というのは、人類における常識である。その常識は無条件に正しいはずだと思っているというだけであり、正しさを証明する根拠は存在しない。つまり、感情論でしか議論ができないテーマなんですよ。そもそも人を殺すことがいけないが正しいとしたら、人を殺す可能性がある行為もいけないことになります。そうなると、車を運転するのはダメだね。仕事とかで使っている人もいるけど、中には趣味がドライブって人もいるわけだ。趣味が人を殺しかねないものって冷静に考えたら、それって相当ヤバイ趣味だと思うんだけど、社会では趣味がドライブって言っても変な反応されないですよね。つまり、大多数は人を殺しかねない趣味を容認しているんですよ。それはドライブという趣味は常識に沿っているから。ここで言う常識というのは、それを普通と感じる人が多数派であるというものであるが、ドライブという趣味は相当危ない行為であるにもかかわらず、社会的に容認されている。人を殺すことがいけないならば、人を殺しかねない行為も当然NGのはずだ。ましてやドライブは人が生きていくうえで必要な行為ですらない。やらなくてもだれも死なない。いや、むしろやらない方が死なない人が増えて好都合だろう。

 

この状況というのは、現実に存在する。人を殺すのはよくないが、人を殺しかねない行為を容認するという状況は、結構多くの人が抱えている問題でしょう。それは結局虹の色を7色と答える人と同じであると。ある特定の領域において、区別をしたがるのだ。例えば、ナイフを持ちながら街を歩く行為が趣味だと言ったら、多分相当ヤバイ奴だという反応をされると思うのだが、車を運転することが趣味だと答えても変な反応をされないというのは、特定の領域において区別をしているから。その区別をする基準は何度も言っているように常識である。でも、どっちも危ない行為なんですよ。しかし、なぜか区別をしたがるんですよね。ナイフを持って街を歩く行為ってのは、滅多に見ないので、その人が誰かを傷つける意図がなかったとしても、怖いんでしょうね。しかし、ドライブをしている人っていうのは、そこらじゅうで見るから、見慣れた光景ということで恐怖心は多くの人にはないんでしょう。しかし、人を傷つける意図がないドライブをしている人が人を傷つけない保証はないし、人を傷つける意図がないナイフを持って街を歩く人が必ず人を傷つけるという保証もない。つまり、見慣れた光景か?そうじゃないか?という部分からくる、恐怖心のイメージの有無というのは、あくまでもイメージの話であって、それを放置した場合のトラブルが起きる確率とは一切関係がない。にもかかわらず、私たちはそのイメージから勝手に区別をするのです。人を殺すのはよくないことだ(なぜならば自分が殺されたくないから)が、ドライブをして人を殺すかもしれないリスクを背負うのは良いこと(ドライブを自由にできない人生なんてつまらないから)であると区別をしているわけです。

 

つまり、自分が殺されるリスクを負いたくないから、一般的には人を殺してはいけないと主張をするのだろうが、部分的に人を殺しかねないことであっても、自分の希望を達成するために例外をもってきているのである。そして、この状況を多くが容認している。この時点で、人を殺してはいけない理由に関する考察は完全に破綻している。それ以前に日本は資本主義社会であり、セーフティネットもザルのままだし、その結果として実際に餓死者とかも出ているのだから、この社会システムを容認している時点で、人を殺そうとしているという姿勢は多くの国民から感じ取れるわけですよ。人が死ぬのはよくないかもしれないが、社会主義的政策に反対する人は多くいますよね。自分が困るからでしょう。ベーシックインカムに反対する人が出るのもそれが1番の理由であるケースは多いと思う。だから人が死ぬ状況を容認して自己利益を追求する人が世の中に多いから、日本は純粋な資本主義社会なのです。人は自分の都合のいいように区別をするのです。そして、その区別の基準は常識であると。常識的に許される行為とそうじゃない行為を決めたがるのだが、その区別は時として平気で矛盾を生む。

 

虹の色をなんのためらいもなく7色と答えてしまう人間が日本にはたくさんいると思うが、その回答に至るまでのプロセスに、何の思考も存在せず、無意識のうちに7色であると、世間の常識こそが根拠である回答をしてしまっている人がほとんどかもしれない。しかし、常識が正しく、非常識が間違っているという根拠はもちろんない。そして、人を殺してはいけないというのが世界の常識であることはそうだろうが、この常識に関してはいくらでも反論が可能となってしまう。つまり、真理ではなく、1つの意見に過ぎないのだが、虹の色と同様に、なぜかこれが真理であるかのように主張する人は後を絶たない。同じような例は他にもいくらでもあるのだが、常識に沿うことが正しいと感じてしまう、常識と非常識を基準にして善悪を区別をする人間は、世の中に相当程度いるということを私は感じている。

 

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