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「いじめ」の定義を恣意的に、都合のいいように適用する輩が1番の問題児である

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いじめられる方に原因があるというのは、私は正しいと思っています。これは覆しようがありません。これを間違っていると指摘する人もいるが、それはおかしい。なぜか?と言えば、いじめをする側が原因もなくいじめをすることはありえないから。「いじめられる方にも原因がある」という言葉は、多分誤解をしている人が多いと思うのだが、「いじめられる方が悪い」とは別である。なんだろうな?家にカギを書き忘れた人がいて、家に泥棒に入られたら、家にカギをかけ忘れたあなたには、泥棒に入られた原因があるというのは、どう考えても間違っていませんよね?カギをかけていれば泥棒に入られなかった(可能性が高い)わけだから。つまり、「いじめられる方にも原因がある」という言葉は、いじめられる方が悪いか?どうかに一切言及しておらず、いじめをする側が理由なくいじめをするはずないのだから、いじめられる方にも(いじめたくなる)原因があるというのは100%正しいのです。

 

上記のツイートは、数年前に話題になったものなのだが、これはちょっとおかしい。いじめをしたいという結果があるから、「結果があって原因がある」という言い方をしているが、そんなことはありえない。結果が先にきて、原因があとにくるってどういう状況よ?(笑)就活生が志望した企業の志望動機を考えているような状況だろうか?それは現実的にあるけれども、それは受かるために志望動機を考えているに過ぎないわけだ。志望した時点で、すでに志望した理由はあるはず。数多くの企業の中で企業の中で、その企業を選んだ理由があるはずなのだ。つまり、志望した企業の志望動機を後から考えるなんてことは、受かるためには必要なことかもしれないけど、現実的に非常におかしなことと言える。いじめに関しても同様で、いじめる対象がちゃんと決まっているわけでしょう?なぜその人を選んだの?という理由があるはずなのです。誰でも良かったという人という人であっても、いじめたい欲求が生まれる原因は間違いなくある。つまり、絶対に結果が原因より先にくるというのはありえない。いじめをしたいという結果があったときには、それよりも前にいじめたい欲求がすでに生まれているはずで、その欲求が生まれる原因がすでにあるはずなのだ。

 

 

上記のツイートは最初のツイートに対する返信となるものだが、多分この人は冒頭で述べたタイプの人間なんでしょう。いじめられる側に原因があるという話のツイートにこういう内容を返信しているということは、いじめられる側にも原因がある=いじめられる方が悪いという解釈をしちゃう人間なんでしょう。2つの文章は全く意味が違いますけどね。前者は善悪の価値観を含んでないんですよ。客観的な事実のみを述べただけであり、後者は善悪の価値観の判断を含んでいるんですよね。あと、そもそもこういうことがそもそも私はいじめだと思っているんですよ。いじめる側が圧倒的に非があるとしているが、そもそもいじめる側というのはどうやって決まるんだ???ドラゴンボールZでいうところの孫悟空フリーザはどっちが正義で、どっちが悪か?というのは、判断できると思うんだけど、でもその判断はなぜ正しいと思えるのだろうか?なぜ孫悟空が正義で、フリーザが悪なんだろう?どっちも結構酷いことしてると思うんだけど。孫悟空は少なくともフリーザを殺しているし、魔人ブウ(悪の)とかも殺している。この世界では生き返ることもできるわけだが、フリーザももちろんいろいろな民族を殺してきた。つまり、どっちも殺しはやっている。じゃあ、なぜフリーザが悪なんだろうか?

 

理由があるとすれば、フリーザが先に殺しをやっているという部分がイメージとして残るからだろうか?物語ではフリーザナメック星人らを殺す場面があり、さらにはクリリンも殺して、孫悟空の怒りを買い、その後スーパーサイヤ人に覚醒した孫悟空フリーザの対決となる。そのイメージから先にやった奴が悪い、先にやった奴に後から同じ行為をするのは悪くないという考えに至るのだろう。この考えは松本人志氏が以前言っていた死刑を肯定する際の根拠と似ている気がする。松本人志は1回の表そっちが殺したんだから、1回の裏はやらせて(殺させて)くれという部分を根拠に、死刑を肯定していたのだ。へーって感じかもしれないけど、これには大きな穴がある。なぜか?と言えば、1回の表が確定しないからだ。1回の表が確定しないというのは、特定の殺人を1回の表と決めて良いのか?ということ。それが決まるならば、死刑によって殺すのは1回の裏だからイーブンなようにも思えるが、でもその殺人犯がやったのは実は1回の裏だったって可能性もある。例えば、その殺人犯が殺した相手が、その殺人犯に何かしらの恨みを買われる行為をしていた場合だ。せっかくだから、いじめにしようか?凄惨ないじめをかつて受けており、それを理由に殺したといった状況があった場合、私から見ればこの殺人は1回の裏に思えるわけですよ。つまり、かつてやっていたいじめが1回の表であり、そのいじめていた側を殺したというのは1回の裏とも言える。つまり、いじめに対する報復が殺人なのだ。

 

学校でのいじめにおいても実は同様のケースがあり、捉え方次第で誰が悪いのか?は変わる。例えば、数人のグループが特定の生徒を常に無視し続けたとしよう。その数人のグループは、その無視をした生徒が成績優秀で、異性にもモテてむかつくという理由からいじめたとしよう。この数人のグループらの言い分では、自分たちに嫌悪感をもたらすお前の存在が悪い。だから、俺たちがやったのは1回の裏だという言い分があるかもしれない。しかし、世間はその言い分は肯定しないだろう。というのも、成績優秀で異性にモテているという状況は一般的に言えば悪くないことだからです。でも、無視をするのは悪いことなんでしょうか?いじめとされるものの中には犯罪に該当しないものが多数含まれるだろう。仲間外れとか、無視は代表的だろうが、無視はなぜ悪いの?と言えば、いじめの類型に当てはまるというイメージが多くにあるからでしょう。でも、それはイメージの問題であって、無視が悪いという根拠にはなりません。なぜならば、相手の問いかけにこちらが反応をしないといけない義務などないから。

 

無視をされると非常に傷つく。だから、無視はいけないんだ。という理屈かもしれないけど、応答なんかしたくない相手に応答しないといけない苦痛だって間違いなく存在する。無視をされるのは苦痛かもしれないが、無視をしてはいけないことを強要したら、それも間違いなく当人にとっては苦痛ですよね?いじめを論じるうえで、学校とか、多数の大人はこの認識が足りない。一方しか見ないんですよ。仲間外れも同じです。仲間に入れたくない人間を仲間に入れないといけないとなれば、その集団にとっては明らかにマイナスです。ほとんどの人間は仲間外れにされた側の気持ちだけ考えて、仲間に入れたくないのに入れさせることを強要される側の気持ちなんか考えないんですよ。そこは成績優秀で異性にモテるという部分と全く同じです。成績優秀で異性にモテるのが悪いなんて根拠もどこにもありません。強いて言うならば、嫉妬が理由でそういう人が嫌いな人は世の中に間違いなくいますけどね。だから、無視とか仲間外れが「された側に嫌悪感を持たせるからよくない」と言えるならば、その理屈で言えば当然ながら成績が良くて異性にモテモテの状態もよくないということになります。だって、間違いなく誰かに嫌悪感をもたらしてるもん。つまり、そういうのを見せつけるのはよくない。モテる人間は悪だとか、そういう価値観も存在しないといけないのです。

 

実際、「「いじめは許されない」、では「いじめ」とは何か - 小島秀一|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト」のページでは法律によるいじめの定義を定めているが、いじめの定義は「児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう」となっている。要は特定の児童等が、同じ学校に在籍している別の児童等による何らかの心理的、物理的行為によって苦痛を感じれば、それはいじめだと。この基準を適用すると、同じクラスにいる奴がテストで良い点数をとるとか、異性と仲良く話しているという行為が、特定の人間にとって苦痛に感じられたとしてもいじめにはならないかもしれない。テストで良い点数をとるとか、異性と仲良く話すのは間違いなく「行為」だが、「児童等に対して」という言葉があるように、苦痛を受けた側に対する行為じゃないといけないという。テストで良い点数をとるとか、異性と仲良く話すという行為は、苦痛を受けた側に対して意図されて行われた行為ではない。ただ、結果的に苦痛を受けているのは同じなのに、苦痛を受けた側に対してなされる行為に限定するならば、何で苦痛を受けた側に対して直接なされた行為はダメなのか?という理由が必要だろう。だって、直接じゃなければ良いということは、誰かに苦痛を与えること自体は絶対にダメってわけじゃないんだろうから。ただ、無視をされたりすることもこの定義に当てはまると思うが、無視をしないで!みたいに無視をする側に言ってしまうのもダメってことだな。無視をしたい人間にとってみれば、無視をしたい対象に応答しないといけないなんて苦痛でしょうから、無視をするな!という発言は、明らかに苦痛を感じている人間に対して直接行われているし、明らかに心理的影響を与えている。そもそも無視は不作為なので、それを「行為」と捉えるのもどうか?って感じだけどね。

 

このページには「一読しただけでは分かりにくいが、簡潔に言えば、 「心理的又は物理的な影響を与える行為」によって、やられた側の児童生徒が「心身の苦痛を感じているもの」は全ていじめ、とのことになる。やられた側の主観が判断の基準であり、また、やられた側に原因があるか否かも問わない。」とも書かれており、結局やられた側の主観で良いわけだから、いじめとされる行為に対する注意などもダメってことなんだろう。上記で挙げた、無視に関しても同様で、特定のグループが特定の子を無視していたとして、当事者ではない別の子が「無視をするなんてクズよ!」みたいなことを言って、無視をしている側が傷ついたと訴えたら、そのセリフを言った人もいじめと認定をすべきとなるだろう。この法律ではそういった部分は趣旨としていない可能性は高いが、文字通り解釈するとそうなるし、そういった部分も同じ構造である以上、いじめと認定しない理由もない。苦痛を受けているという部分が重要なのだろうから、そこを重視した場合には、いじめに該当する行為はこういった感じで、従来いじめとは認定されづらい行為の中にも山ほどあるだろう。

 

つまり、上記のツイートにあるような「いじめる側が圧倒的に非があるのに」なんて発言をするのは、お互いに嫌悪感をもたらす行為をしているのに、一方だけをよくない行為とみなすような人がする発言なんですよ。先ほど挙げたケースで言えば、間違いなくこのツイートをした人は無視をする側が悪いって言うでしょうね。でも、やっている行為の性質は全く同じなんだけどね。無視をして相手を不快にするのはいじめだが、無視を非難したり、テストで良い点数をとって異性と仲良くして、特定の人間を不快にするのはいじめじゃないという、何の根拠もない線引きを勝手にやっているんですよ。法律的に根拠を見いだせなくはないが、この人はほぼ間違いなく法律を根拠にはしていないだろうし。つまり、「まず悔い改めるべきなのは加害者」という点は良いとしても、この曖昧な定義の中では加害者が決まらないんですよね。世間一般の作られたステロタイプの見方しかできない人は一方を加害者と決めつけたがるが、そうじゃないのだ。いじめの法律はあるのだが、結局いじめの線引きは都合よく行われているならば、明確な基準が事実上存在しないので、本来加害者と被害者という区別すらも、正確につくわけがない。しかし、ステレオタイプの見方から本能的に、都合のいいように区別をする人間がいるということがこれで分かる。恐らく、世の中に大量にいるのだろう。いじめの問題の本質って、私はここだと思うんですよね。ステレオタイプのいじめに当てはまる行為をする人はいじめとして認定されて、悪い奴扱いされるが、それと同様の行為をしていて(法律上のいじめの定義に当てはまっていて)も、ステレオタイプに当てはまらないものはいじめ認定されず、悪い奴扱いもされない。実際に起きている例で言えば以下のことです。

 

>教員や元教員がいじめについて語るときに「学校の仕組みそのものがいじめを発生させている大きな一因*1になっているんじゃないのか」という発想がそもそもない人が多いように感じる。現状の学校の仕組みはそれが当然のものであってその仕組みそのものを批判的に見るという発想がそもそもないという。本当は気づいているけど立場上言えない(言いたくない)のか素で気づいていないのかは知らんけど。

 

>じつは、教師は率先して「いじめ」の技法を使っています。自分で作った「禁止」事項を使って。それは「正当な理由」で子どもたちを叱責しているように見えます。「いじめている子ども」たちが「いじめられている子ども」を追いつめるように。そうやって子どもたちをコントロールするのです。まさに「いじめ」の構造です。

 

しかし学校を、外の広い社会と比較して考えてみると、数え切れないほどの「おかしい」、「よく考えてみたらひどいことではないか?」という箇所が見えてくる。

市民の社会では自由なことが、学校では許されないことが多い。

たとえば、どんな服を着るかの自由がない。制服を着なければならないだけでなく、靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制される。どこでだれと何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される(給食指導)。社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。

逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。

 

上記の引用はそれぞれ「学校の仕組みそのものがいじめの温床になっている - chanbaraの断片 - 断片部」、「学校教育の本質が「いじめ」である – アゴラ」、「日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由(内藤 朝雄) | 現代ビジネス | 講談社(3/4)」からの引用になります。ここで重要なのは、どの記事も「学校(教師)がそもそもいじめをしている(いじめの主体になっている)」と言っているということです。私はこれにむちゃくちゃ同意します。学校側がそもそもいじめをしているのに、学校がいじめをよくないと言っていたらとんでもない矛盾ですよ。現実的にそんなとんでもない矛盾を全国の学校が平気でやっているんだけどね。代表的なのは校則だね。校則というのは当たり前の認識になっている人が多く、かつその内容に共感する人が多いから、それがいじめだなんて思わないが、どう考えてもいじめと同じ構造です。というのも、何でも良いけど、制服を強要するのがそれで、そもそも私服がいけない理由なんかありません。私服は法律で許されているし、私服を着ている人がいるから何か問題が起きることもなく、そもそも私服が許されている学校があって、制服を強要する学校がそこは問題視しないのだから、私服がいけない客観的理由なんかそもそもないことは、制服を強要する学校側が認めているのだが、その状況で制服を強要するというのは、それ自体に理屈のうえでの正当性がないことになります。

 

そもそも上記の法律が児童等となっているのが意味不明なんですよね。学校側がいじめをするっていう発想はないの?と、何でそこに限定するんだろうと思うのです。学校が全く同じことをやっていても、いじめには当たらないというのが法律の解釈なのかもしれないが、何で?と思うし、学校側が現にいじめとされる行為と同等の行為をしているのに、それを否定すると国にとって都合が悪いからだろうか?別に校則が全部なくなっても困らない(実害は生じない)と思いますがね。現に校則がほぼ存在しない学校はありますし。私服を着ている生徒がいることでなんの問題があるのか?と言えば、実害はありえません。制服以外は統率がとれないとか、和を乱すのがよくないとか、そういうイメージや気持ちの問題でしょう。それってつまり、異性にモテて勉強ができる奴がむかつくという気持ちの問題と全く一緒なんですよ。学校が意図的にいじめをしている1番分かりやすい瞬間です。校則は正しいものだと信じて疑わない、思考停止の人間が政治家の中にも、国民の中にも大量にいるからこそ、校則というのは正しいものとして扱われているが、当然ながら思考停止人間の言っていることが正しいわけがない。「校則」と名前がついたものは正しく、そうじゃないものは「いじめ」の類型に入れるような、考える力がない大人や子供があまりにも多いのです。

 

世間ではブラック校則なる言葉もあるが、ブラック扱いされない校則ももれなくいじめですよ。現実的に校則を作っている学校側だけではなく、それを支持する保護者や生徒、児童もいじめに加担しているのと同じと言える。彼らはいじめ加害者になっているとは絶対に認めないだろうけどね。ブラック企業で働いている人間が、そこで働き続けていることで加害者になっているということを認めたがらないのと同じだろう。自分が悪者にされてたまるか!と考えてしまうのです。いい大人がね(笑)と思いますけどね。学校側が主体的にいじめを行っているという点に気付ける人は少ないだろうが、私は学校がそもそも諸悪の根源だと思っている。そして、いじめの定義なんて、多数の者によって都合のいいように勝手に変えられてしまうものだから、そもそもいじめの問題について真面目に考えること自体がバカバカしいのかもしれない。いじめられる方にも原因があるというのは間違いなく正しいが、本当にいじめられているのは誰か?という部分が確定しない、見る人によって変わるような問題であれば、当然ながら人によって感覚が違うわけだから、自分たちがやっているのはいじめだとは思わない人間がいるはずで、それは学校もそうだって話になる。つまり、そういう人たちがいる限り、いじめがこの世からなくなることなんてありえないという証明にもなると思っています。

 

バカをつくる学校

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