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人類は遺伝子レベルで洗脳を受けており、生まれた時点ですでに不幸になっている

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世の中には、社会には洗脳されるタイミングが存在するが、代表的なのはやはり学校でしょう。その前に親の教育を受けており、それも洗脳には違いないが、世の中で望ましい存在になるように、不都合な存在にならないように、親や教師から私たちは無意識のうちに洗脳を受け育っている。しかし、洗脳はもっと前の段階からすでに始まっている。これは洗脳とは言っているが、誰かが意図して洗脳をしているわけではない。洗脳する人間がいたわけではないが、気付いたら洗脳されている状態にあるのだ。私たちは実は生まれた時点ですでに洗脳されている。というか、遺伝子レベルで洗脳を受けた状態で生まれてきている。そういったことに私は割と最近気付いた。そこに気付くと、世の中のあらゆる場面で、非常に不可思議なことが起きていることを知る。

 

私が言っているこの場合の洗脳とは何か?というと、人類が代々受け継いできた共通の感覚というものだ。つまり、誰かが教えたわけではないのに、みんなが共通して持ってしまっている感覚がそれである。代表的なものでいえば「人を殺してはいけない」とかそういうものになるが、これは学校や親が全く教えないとまでは言えないだろう。しかし、例えば土下座をするのが恥ずかしいとか、苦痛であるという感覚はみんなが持っているであろう。私は持っていないのだが(笑)多くの人は土下座を強要されると、それをしたがらない。なぜだろう?土下座というのは3秒でできることだ。しかも、痛みがあるわけではなく、金銭的に損をするわけでもなく、何かが減るわけでもない。マイナスと言える要素がほぼないのに、多くが嫌がる。恥ずかしいという気持ちば芽生えるくらいだろうが、なぜ恥ずかしいと思ってしまうの?土下座は恥ずかしい、やりたくないという感覚になっているが、私はすぐにでもやるだろうね。それで物事が解決するなら安いものだと思うだろう。すでに話したように、土下座をすることのマイナス面って大してないんだけど、すごい辱めを受けるような感覚を持っている人が多いじゃないですか?これは何でそう思っちゃうのでしょう?

 

それは土下座は恥ずかしい行為であるという感覚を生まれながらに持ってしまったからだ。実際、土下座は恥ずかしいことだなんて習ったこともなければ、洗脳を直接受けた記憶もない。しかし、世の中ではみんながそう思っているし、これから生まれてくる人たちも同様だろう。これは人類が代々受け継いできてしまった共通感覚であり、本人の論理的思考の有無に関係なく、無意識に判断してしまっていることなのです。土下座をすることは自分のプライドに反することであるとか、相手の思惑通りに事が進んでそれが許せないとか、いろいろな気持ちが芽生えていると思うが、そんな要素を気にしないといけない理由を論理的に説明するのは無理だろう。多くがそう思っているから、人間が勝手にそういう風潮を作り、さらに多くがそれを信じ込んでしまっているのです。その仕組みに気付くと、土下座を嫌がる人も気持ちが全く理解できなくなる。お店とかでモンスタークレーマーと呼ばれている人が店員に土下座を強要したニュースとかあったけど、私ならすぐにでもやるでしょうね。恐らく目の前の人物はキョトンとしているだろうけど、3秒で解決じゃないですか?(笑)正論を突っぱねるのは1つの手段だけど、正論が通じる相手じゃない場合には、相手の気分を良くすることを1番に考えるべきだと思うよ。そんな客はめったにいないんだから、土下座した方が早いよ。

 

土下座を恥ずかしく思う気持ちというのは、単なる一例で、こういうケースというのはいくらでも見いだせる。人間が無意識のうちにみんなと同じ感覚になってしまっている状態で、かつ論理的思考とは無縁のところにある謎の感覚というのは結構ある。言葉では説明ができないような、謎の矛盾する行為というのは結構あるんだよ。例えば、街中で真冬に自分1人だけ半袖半ズボンで過ごさないといけないしたら恥ずかしい!って多くは感じるのではないだろうか?この場合、寒さに対する苦痛は度外視して、恥ずかしいという部分だけ取り扱う。それは仕事でもなく、何かの罰ゲームだとしよう。でも、なんでそれを恥ずかしいと思うのだろう?その理由をきちんと言語化できるだろうか?理由として考えられるとしたら、みんなと明らかに見た目が違うから。というのが1つあるだろう。多くがアウターなどの洋服を着ているのに、自分が真夏みたいな格好だから。みんなと違うことをしているから。というのがあるかもしれない。しかし、自分1人だけがその場で水を飲む行為をしたとしたら?それは同じように恥ずかしいの?というと、そうではないだろう。周りにいる人たちが誰1人何も飲んでいない状態で、自分がペットボトルの水を飲んだとしても、絶対に恥ずかしいなんてならないよね。ってことは、みんなと違うからっていうのは理由の根本じゃないんだよ。

 

それ以外で考えられる理由としては、自分が目立つのが嫌だからというのもあるかもしれない。確かに自分だけが真冬に半袖半ズボンだとしたら注目を絶対に浴びるし、目立つのはその通りだと思う。しかし、結婚式とかは普通に目立つ存在で、多くがその主役になっているし、そもそも芸能人やスポーツ選手、Youtuberなど目立つ有名人になりたいって願望を持っている人はたくさんいるわけですから、これも理由としては乏しいと思う。目立つこと自体は優越感も得られるからね。そうなると、答えは1つしかない。「周りがおかしいという認識を持つから」というのが最大の理由だろうと思う。公共の場で、真冬に半袖半ズボンでいるなんて頭おかしいんじゃないの?と、周りが思うということを容易に想像できてしまうから。というのが1番納得できる理由だと思います。しかし、じゃあなぜ周りの人間はそんなことを思うのか?ここまで考察してしまうと、答えは出ません。つまり、彼らは「非常識」を嫌っている、おかしいと思っているのです。多くが真冬の格好をしている場所でそんな寒そうな格好でいること自体が頭おかしいだろうと思っているわけです。じゃあ、非常識は何でいけないの?という疑問をぶつけるだけですがね。

 

そして、さらに別の例を挙げれば、お笑い芸人のバカリズムという人が、女性の胸を触るための方法論といった題材のネタを以前やっていたことがある。これは女性に対して胸を触らせてほしいと頼むが、断られてしまったため、論理的に「あなたが胸を触られることを嫌がる理由なんてない」ということを理詰めで説得しにかかるというネタなのだ。そして、女性は論破された状態になり、最終的に胸を触ることに成功するという結末なのだが、このネタを真面目に考察すると、女性が胸を触られるのを嫌がる客観的理由を、女性自身が説明することが非常に難しいという事実が判明してしまう。女性が胸を触られると苦痛を感じる感覚、それは生まれた時点でそうなっており、社会というものを知る段階で、いつの間にか自分の頭の中に一種の経験則のような形で存在しているのだが、それは社会の雰囲気からそう思い込んでいる状態であり、何かしら明確な不可欠な理由があって、そう思っているわけではないのです。

 

ずいぶん時間がかかったけど、ここからが本題です。私がこの記事で何を言いたいのか?といえば、人間はこういう生まれながらにして受けた洗脳によって勝手に不幸になってしまっているのです。バカリズムのネタを見るとわかりやすいと思うけど、実は嫌がる理由を自分で説明できないのだが、無意識のうちに不快になってしまっていることは結構あると思うのです。説明できないってことは、不快になることが当然であるという、その理由が客観的に存在しないということになってしまう。土下座の例でいえば、私が言ったように、土下座をする手間はほとんどかからないし、お金も損しないし、何かが減るわけでもないし、嫌がる理由がほとんど思いつかないんですよ。3秒で終わるじゃないですか?でも、土下座って基本的にみんな嫌がるじゃないですか?私はさっきも言ったけど、土下座なんていくらでもやってやるという人間なんで、土下座を嫌がる人の気持ちが理解できなくなってしまったんですよ。やればいいじゃん!3秒で終わるんだから(笑)とでも思ってるのです。土下座を不快に感じる人と何とも思わない人がいれば、絶対に後者の方が幸せなんです。不快に感じる瞬間が確実に減るわけですから。多くが不快に感じることを自分にとってそうは感じないという感覚は結構大切です。不快に感じることの多くは、不快に感じることが合理的とは言えない状況であり、むしろ損をしているのに、その状況に多くは疑問を持たないんですよ。

 

これは以前、西村博之氏が言っていたことだが、いわゆるブス専のような人は絶対に幸せであると断言していた。その理由はシンプルで、競争率が低いから。美人やイケメンと比べたら競争率が低くなるので、そういう人と付き合えたり、結婚できる確率は高くなる。しかし、なぜ多くの人は美人やイケメンがいいと思うのか?といえば、これも感覚の問題なので、論理的に説明はできない。人類が生まれながらにして持ってしまった共通感覚であり、ルックスのみで決めるとしたら美人やイケメンの方が望ましい思ってしまう感情は、生まれた時点で不幸になってしまっている1つの側面ともいえる。不細工でも問題ないと思える感覚は、珍しいかもしれないが、その人が幸せになるためには必要なことである。そこに気付くと、人類の常識、人類であれば多くが持っている共通の感覚というのは、自分が不幸になるための道具になってしまっているのです。「周りの目を気にしない」という言い方もできるが、無意識のうちに持ってしまっている感覚は、それが正しいと思っている人は多いとは思うものの、そんなものを持つ必要性は実はないんじゃないの?捨てられた方が幸せなんじゃないの?と私は思っているのです。私は昼間から外に出歩いているので、傍から見れば「あの人ニートじゃないの?」と思われている可能性もある。しかし、そう思われようが私はどうでもいい。というのも、私は「ニートと思われることで不快になる客観的理由なんかない」と確信しているから。

 

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