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ノーベル賞を受賞することの何がすごいのか?を説明できる人って多分いない

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以前、イチロー氏が国民栄誉賞を15年ぶり3度目の辞退をして話題になったが、当然だろうね。あんなもん貰って何が嬉しいって言うのよ?(笑)それとほぼ同じような話になるが、ノーベル賞って何がすごいんでしょう?っていう質問をしたら、何て答えるのか?私はすごい気になっていて、以前この質問をしたことがあるのです。ちょうどいい機会があって、「国公立大学が私立大学よりも優れているところって何?」みたいな話をしていたときに、たまたまノーベル賞受賞者の数を国公立大学の優越する部分として挙げている人がいたから、私はその人に「ノーベル賞って、何がすごいの?w」と質問をしてみたのですよ。そしたら、明らかにうろたえている感じがしました。まさかこんなことを聞かれるとは思わなかったのでしょう。ちょっと時間を空けて「世界中にノーベル賞をすごいと思っている人がたくさんいるからなんだよ」と答えた。すると、私は「じゃあ、その世界中の彼らはなぜノーベル賞をすごいと思っているんですか?w」とさらに質問をしたら、今度はダメだったね。回答が来ませんでした。こんなもんだと思いますよ。冷静になればわかると思いますが、ノーベル賞っていうのは、この賞それ自体に価値はありません。これはノーベル賞だけではなく、国民栄誉賞芥川賞とか、賞とされるものは全部そうだし、世界遺産などの記号として扱えるものは全て同様の性質を持っています。賞ってのは記号ですから、価値の有無には関係ないのですよ。

 

何でも良いけど、例えばプロ野球でシーズン200本安打を打った人に赤いTシャツがプレゼントされるとします。この場合、200本安打が研究成果とか、ノーベル賞が与えられる成果物であり、赤いTシャツがノーベル賞それ自体に当たりますが、今回の例でいうと、赤いTシャツは200本安打を打った証としての記号なんです。要するに、プロ野球ファンは赤いTシャツをもらったことにすげー!ってならないわけでしょ?あるときからシーズンで安打を10本しか打たなかった人にも赤いTシャツを送ることになりましたとなって、10本しか打たなかった人が赤いTシャツを貰って、すげー!って思えないのだとしたら、それは赤いTシャツに何の価値もないってことなんです。すごいって思う対象は200本安打を打ったことでしょう?そういうことなんです。だって、赤いTシャツなんてユニクロで買えますから。そんなに欲しいならすぐに手に入りますよ。記号に価値があるのではなく、記号を与えられた対象物に価値があるのです。赤いTシャツも、ノーベル賞も、それを与えられたからすごいのではなく、その成果物が存在している時点ですごいと言えるのです。ノーベル賞が授与されて、その成果物の中身には何の変化もないわけでしょ?変化がないならば、ノーベル賞それ自体には価値は0なのよ。

 

ノーベル賞を凄いと感じている人が世界中にいるというのは私もそのように感じる。しかし、彼らはノーベル賞それ自体に価値を見出したうえですごいと感じているのか?と言えば、そうではない。言ってしまえば、何も考えていないのだ。すごい賞という雰囲気にのまれて、思考停止に陥っている。つまり、無意識のうちにすごい賞なんだと思っている民衆は大量にいるが、彼らはなぜそれがすごいと言えるんだろう?なんて考えないわけですよ。つまり、本来はすごいと言える理由があるからすごいと言えるはずなのだが、彼らにはこのすごいという理由がないのに、すごいと感じているという、本来ならばありえないプロセスが生じているということです。すごいと言える理由がないのに、すごいと感じている人っていうのは、論理的に考えるというよりは、感性で動く人間という言い方もできるだろうが、根拠がないのに、物事を断定するようなタイプの人に近い。個人的には問題だと思っている。ノーベル賞があんなに騒がれるのは、ある団体がそもそも原因になっているのです。それがマスコミです。

 

マスコミが報道するから騒ぎになるのです。逆に言えば、マスコミが毎年のノーベル賞受賞者の方法を一切やめたら、世間の9割9分はノーベル賞に対して何の関心も持たないと思うのですよ。たまたまつけたテレビでやっていた、たまたまネットニュースで、新聞で見たとか、そういう理由で受賞者のこととか、ノーベル賞の存在それ自体を知る人が多いと思うのだが、結局冒頭で言っていた「世界中すごいと思っている人が多いから」って理由も、結局はマスコミが報道してくれるから起きることであり、ノーベル賞の力ではないということが分かる。例えば、去年か、おととしか忘れたけど、お正月にやっている芸能人格付けチェックという番組で、出演者の1人であるYOSHIKIさんが結果発表までに、待機部屋に用意された大量のお菓子を食べているシーンが映し出されていて、視聴者の多くがそのお菓子が気になったようで、番組終了後からそのお菓子が大量に購入されたみたいなニュースがあったんですよ。何でこのお菓子は大量に売れたのか?そのお菓子に価値があったからですか?注文時点では価値の有無なんか判断のしようがないですよね。だって、視聴者は食べたことがないんだもん。それにそのお菓子はその時点で初めて知ったと思います。しかも、YOSHIKIさんは「お腹が空いていたから食べた」と後に語っており、すごい美味しかったと感じていたか?は不明です。つまり、注文した人は有名人が美味しそうに食べている映像を見て、それで自分も食べたくなったというのが正直なところだと思うのだが、これって美味しいことが確定したわけでもないのに、大量に売れたわけだから、価値の有無で判断したのではなく、マスコミが特定のお菓子を美味しそうに映し出した、その映像を全国の人が観た結果、多くの人が食べたくなった。ただ、それだけだと思うのですよ。CMと一緒なのよね。

 

実際、映し出されたお菓子が別のものであっても、恐らく同じように大量に注文されたでしょうし。視聴者にとってはそれが何か?は関係なく、注目してしまうものであればなんでも良かったのでしょう。そして、大量の人が購入したからといって、それで価値が高くなるわけじゃない。だって、そもそも価値が高いとされているものの中には高級品もあるし、そういうものは大量に注文されませんから。一部の人しか買えませんよ。だから、多くの人がすごいと思ってくれたとしても、だから何?としか言いようがないのです。話は戻るけど、普通に考えたらノーベル賞を受賞しても、何の変化もないわけじゃないですか?そして、これは西村博之氏が言っていたことなんだけど、承認欲求を持っている人を疑問視して、「周りに認められたい、評価されたい人っているけど、認められたり、評価されても自分自身に何の変化もないじゃん?(笑)」っていうことを言っていたのですよ。評価された結果、昇進して給料が上がるとか、具体的なメリットのある変化が訪れる場合はともかくとしても、そうじゃない単に褒められることとか、共感されることとか、何の意味があるの?(笑)みたいな感じで言っていたことがあるのです。

 

ノーベル賞もそれを受賞しても研究成果とかの中身に特に変化はないですよね?強いて挙げるならば、それによって特定の研修者、研究内容などの成果が世界中に知れ渡るということがあるから、それが嬉しい!とか、自分が有名人になって喜ばしい!というのは理解できる。しかし、それはすでに話したように、マスコミの力です。ノーベル賞の力ではないのです。ノーベル賞を受賞していないが、人類にとってメリットのある研究成果などをノーベル賞のときと同様に、大々的に報道すれば、ある程度は注目されると思いますよ。つまり、マスコミのさじ加減が重要なのです。受賞の有無は一切関係ないのです。その変化を生じさせない賞になぜ価値を見出すのでしょうか?ノーベル賞の権威はマスコミが存在しなければ、0に近いです。マスコミがこの世に存在しなければ、ノーベル賞という存在を知らない人が世の中に大量にいたはずですからね。

 

結局、周りの人間によって価値が決まるわけであり、ノーベル賞それ自体の価値があるか?と言われれば、価値は特にないです。競馬のドバイワールドカップとかは顕著だけど、昔と比べると価値が落ちてきているって言われているのですが、それはアメリカの強い馬が出てこなくなってきたから。とされている。つまり、これは非常に分かりやすい例だけど、参加する側の状況が価値を決めているってことです。レースそれ自体ではなく。日本のジャパンカップや香港の国際招待競走なども同様で、昔は海外の強い馬がたくさんきていたが、最近はいずれも地元の馬が強くなりすぎて、勝てなくなったために海外の強い馬が遠征しなくなってきた。よって、これらのレースも価値は下がってきたと言われているが、魅力がレースそれ自体ではなく、参加する側のさじ加減で決まっていることが分かります。で、強い馬が出なくなってきたから、つまらないと感じ、観ている方も熱狂しづらくなり、注目度も下がる。世の中の「価値」ってほとんどがそうだと思います。

 

競馬のレースは賞金が出るから、それを魅力に感じている人も多い。特にドバイは賞金が高いことでも有名だ。しかし、それは賞金に価値があるのであって、もはやレースそれ自体ではないってこと。賞金が10分の1でも出てくれるんですか?と言えば、出るわけがない。ってことは、関係者にとっての価値は、この場合は賞金であって、レースそれ自体じゃないってことが分かりますね。価値は賞金の多寡であるということ。競馬の場合には、他にも世界的に強い馬に勝つことで馬の価値が高まるような雰囲気があるが、強い馬がたくさん出るようなレースは実際価値があるという風にされている。ただ、強い馬が何でそのレースを目指すの?と言えば、他にも強い馬が出てくるから。そして、そういう他の強い馬を出す厩舎や馬主サイドの考えも、他にも強い馬が出てくるから。もはやそんな理由です。つまり、意識しているのは自分たち以外の出走馬であり、レースそれ自体じゃないのです。凱旋門賞に大した馬が出なくなったら、日本からの出走もほぼなくなるでしょうね。つまり、強い馬が集まるレースに価値があるとしても、それは強い馬が集まる状況に価値があるのであって、レースは何だって良いわけですよ。凱旋門賞だろうが、キングジョージだろうが、ブリーダーズカップだろうが、ドバイ、香港、オーストラリア、日本のレースだって良い。強い馬が集まるならば、どこの国のどのレースだって多くが注目するんですよ。レースそれ自体に価値があるって言うならば、大物が出走しなくなっても、大物が出ていた頃と同じ威厳を保たないといけないが、それは無理でしょう?ドバイ、香港、ジャパンカップは顕著な例ですね。注目度なんて絶対に下がります。つまり、競馬の場合、価値はレースに存在するのではなく、賞金とか出走馬のレベルにあるのです。

 

話は大分逸れてしまったが、ノーベル賞に価値があるということが事実だとしたら、それはノーベル賞を授与したという事実のみで今と同じように喜べる人がいた場合の話です。競馬で言えば、レースそれ自体に価値があると言えるのは、出走馬がろくでもない馬しか出なくて、賞金が0円でも、そのレースに馬を出したいと思える場合だけです。ノーベル賞の場合には具体的に言うと、富や名声は一切発生しない状況ということです。マスコミも報道しないし、その人がノーベル賞を授与された事実を誰も知らないし、お金も商品も何も貰えないし、単に事務局や代表者から口頭で「あなたに授与しました」という一言があるだけ。授与されたことを証明するものもない(証明するものがあったとしても、その事実を誰も知らない状況じゃないといけないので、誰かに見せてはいけないのだから、あっても意味がない)のです。ノーベル賞そのものに価値があると言えるならば、この状況で今と同じように喜べる人だけですが、ほぼいないと思います。富はお金の力だし、名声はマスコミの力なので、いずれもノーベル賞の力ではありません。それらを全て除外して、喜べる人だけが真にノーベル賞に価値があると言える人だと思います。でも、そんな人はまず存在しないと思うので、これがノーベル賞それ自体に何の価値もないことを証明する良い例えだと思います。つまり「授与した」という一言がある以外は、何の変化もない状態です。ノーベル賞が授与されたという事実のみの価値を測るには、こういう状況じゃないといけないので、実現のしようがないと思うが、そういったことが私の言いたいことです。

 

ノーベル賞受賞者が教えるノーベル賞をとる方法

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