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ブラック企業の朝礼と体育祭の応援合戦の状況が酷似していることに気付いた

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以前、Youtube上でブラック企業と書かれていた会社の朝礼の光景の動画あり、それを見ていたのだが、とにかく大声を出すことが正義であり、それが強要されている状況がありました。私としては十分だろうと思える声量でも、声が小さい!と、どこからが罵声のようなものが聞こえてくるような内容だった。私はこの動画を見て、あれ?と思うことがあったのです。何かに似ているなwと思ったら、それは体育祭のときの応援合戦なのです。とにかく大声を出すことを当時強いられた記憶があります。私は小中高と運動会や体育祭をやってきましたが、学校側が1番力を入れていたのは多分中学校のときでしょう。地元の公立の中学に通っていましたが、私の中学校は毎年5月に体育祭をやっていました。その練習に関しては、他の学校も同じかもしれませんが、すごい気合が入っており、毎年4月にクラスが決まると、早速体育祭実行委員とか、応援団を決めたりして、応援合戦の練習が始まるのです。どんな応援スタイルにするか?振付どうするか?などを応援団長や応援団が決めて、それを同じチームの生徒らでみんなで練習をしていきます。

 

私の中学校はそこそこ規模が大きく、どの学年も7クラスありました。それを2,2,2、1と各学年で分けて、学年ごとに合体させて4チーム作っていたのです。そのチームごとに応援合戦の練習を4月の入学式直後からやり、体育祭の日が近づくと、本来の授業は全くやらず、1日中体育祭関連の練習のためにジャージ登校という期間もありました。それが1~2週間くらいかな?続けて本番を迎えるという感じでした。応援合戦が4チームごとに行われて、それも優勝を決める中の点数に反映されていたのです。何が基準だったのか?はよく分かりませんが、間違いなく声の大きさは基準にされていたと思う。とにかくバカでかい声をみんな出していたし、そこは見られていたという意識があったのでしょう。当時は私も頭が悪かったから何も考えずに従っていたが、今思うと本当に謎ですよ。大きい声を出すことがなぜ是なのか?よく分かりません。そもそも応援合戦ってなんなん?って思います。体育祭の練習はかなり時間をかけて学校で取り組んでいましたが、そのうちの7~8割くらいはこれに使われていたと思います。で、この応援合戦ってなんなん?っていう思いが大人になって浮かんでくるのです。

 

私は足が速かったから、体育祭自体は結構楽しかったです。ただ、応援合戦に関してはマジで適当にやっていたと思う。当時はつまらないなという印象が強かったが、今は何のために応援って必要なの?と思えてくるのです。これに関しては体育祭だけではなくて、応援全般にもかかわることなのだが、応援というのはプラスの作用だけではなく、マイナスの作用もあると思っています。応援に何の意味があるのか?と言えば、応援された側が嬉しいとか、やる気がみなぎるとか、そういうのがあるかもしれないが、体育祭の競技って、はっきり言って応援は耳に入ってこないと思うのです。多くの競技をやっているときにも応援は各チームからあったのだが、競技に集中していたら、応援は耳に入ってこない。体育祭の競技って気を抜く瞬間っていうのはまずないわけです。走る系の競技はもちろんだが、綱引きとかもそうかな?始まりから終わりまでずーっと集中していないといけない。これが例えば野球だったら、投球間隔の中で打者は一旦落ち着くなどの合間があるわけだが、体育祭の競技には基本的にはそういうのがない。そこにまず応援の無意味さを感じてくるわけです。そして、野球みたいに応援している人の声がちゃんと聴く余裕があるようなときであっても、応援がマイナスに作用することもあります。

 

スポーツだけではないけど、結果を出すうえで1つ重要な力があるのですが、それは「冷静に現状を分析する力」なのです。野球で言えば、相手の守備位置の確認とか、次の配球を読むとか、そういった部分でそれを実行するには冷静でいないといけない。少なくとも頭は冷静じゃないと、そういう考えに及ばないと思うのです。冷静でいないと論理的に考えることができない、いろいろな部分に気を配ることができないと思うのです。特にリアルタイムの応援によってやる気が上がるとか、そういう状況は実は好ましくないわけです。燃えるとか、感情的になってはいけない場面だから。私は大人になって、応援の必要性が分からなくなってきたと、必ずしもプラスではないなと思っているのです。だから、応援をすることで応援された側が良い結果を出せるようになるとは必ずしも言えないと思う。プラスになる面がないとは言いませんけど、プラマイ0かなって思うのです。そして、私が経験したようにあんなに大声を張り上げて応援する必要はどこにあったの?と、やっぱり思うのです。応援をしないと体育祭が盛る上がらないというのはあるにせよ、それは応援合戦というものが体育祭にとって当たり前に存在してしまっているがゆえの話であり、それが当たり前に行われないという状況になれば、誰も違和感は覚えません。あれって、無駄に体力消費してね?って思うんですよ。

 

私が観たブラック企業とされている会社の朝礼でも、「声が小さい!」という声が飛んでおり、大きい声はいいことだ!みたいな雰囲気を感じたのです。他の会社でも同じような朝礼の風景はあるかもしれないです。ただ、体育祭も含めてだけど、大声を出すってことは体力を使うのです。体力をこんなところで使ってどうするのかね?と思うのです。応援合戦の効果なんてものは測定のしようがない。言い換えれば効果がないということも測定はできない。効果がないという証明ができないからこそ、効果がないわけがないという思考に陥り、今でも全国の学校で行われているのではないだろうか?スポーツイベントでも応援はつきものだし、応援の効果がないわけがないという発想から抜け出すことができなければ、応援をやめるわけはないのだ。アドバイスになるような応援だったらまた話は違うとは思うけどね。しかし、単に応援をしているだけ、叱咤激励をしているだけならば、冷静な判断力を失うだけの可能性も否定できないと思う。私は学校が大嫌いだが、体育祭はまだマシだった。運動が得意だったというのもあるけれども、相当勉強が嫌いだったんだろうね。だから、さっき言ったジャージ登校という期間は本当に天国みたいな感じでした。応援合戦は適当にやっていればいいのだから、学校に通うならば、無駄と思いつつも従っておくのが合理的かもしれないけど。

 

 

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