最近の相撲では本当にこの話題が多い。「横綱の品格」という言葉がいろいろな箇所から出てくる。最近、矢面に立たされているのは白鵬だが、白鵬の取り組みに対する態度とかを指して「横綱の品格として問題がある」的な発言が相撲協会からなされることが多い。白鵬の取り組み方の態度に対しては、いろいろな見方があるだろうが、それを「品格」という言葉で表現するのは、私は相撲協会の言いたいことが全く分からないということになる。つまりは白鵬の態度が相撲協会から見て気に食わないものであったということは推測できるものの、具体的何がどう問題なのか?という部分は何も伝わってこないのだ。「品格」なんてアバウトな言葉で誤魔化すから、そういうことになる。頭の良い人間だったら、何がどう問題なのか?をちゃんと説明すると思うのだが、品格に欠けているとか、そういうことしか言わないのだ彼らは。つまり、これって小学生が喧嘩で「バカ」とか言っているのと変わらない。大人ならば、なぜバカと言えるのか?という部分をちゃんと説明すべきだし、品格に欠けているという言葉を使うならば、なぜそれが品格に欠けるのか?具体的な言葉で理由を説明すべきでしょう。もっと言えば、横綱の品格の定義を明確にしろ。ということになる。
「横綱の品格とは何か?〜ある相撲好き武道家の考え | From Akira Masuda,空手武道通信からのお知らせ | IBMA 極真会館増田道場」のサイトに書いてあったことを引用したいと思う。
>さて、これから大相撲の横綱の品格とはどのようなものなのかを明確にしていきたい。でなければ、品格という尺度により人を批判する時、どのようにはみ出しているか、理解できない。そして、当事者は一体何を批判しているのだろうと思ってしまうだろう。もしかすると、モンゴル人の白鵬には、そのはみ出している部分が理解できていないのかもしれない。問題は、白鳳の数々の横綱らしくないと言われる行動が、確信犯的な行動であるかどうかである。もしかすると、モンゴル人の白鵬にとっては自然なあり方なのかもしれない。
全ては、大相撲関係者が、外部から示された横綱の品格というものを理解していないということの証明のように思えてくる。おそらく、大相撲協会が横綱の不祥事を処理する際、品格という抽象的な言葉で、無理に体裁を整えようとしたことから、話がややこしくなってきている。
(中略)
また今回の問題で、大衆の大相撲を見る眼に、私は国民の民度を見る思いである。やはり品格という言葉が抽象的すぎる。それを関係者(親方)が理解していない。例えば、それが戦いの作法を指すのか。それとも言動を指すのか。それとも両方を指すのか。それを明確にルール化するしかないだろう。
相撲協会の問題な言動としては、アバウトで、人によって捉え方が変わるような言葉を使用して、相手を否定していることなのだ。品格という言葉の明確な定義はない。横綱の品格に関しては、これまたアバウトな定義がいくつかあるらしいのだが、これを見ても結局どういう行動が当てはまるのか?は判断できない。法律自体は存在するが、その法律が何を言っているのか?常人にはさっぱり理解できないような状況で生活をしていたら、ある日逮捕されてしまった(知らない間に法律に違反していた)という状況と同じである。こんな理不尽なことがあるか?つまり、横綱の品格という言葉がはっきり明確になっていないがために、その横綱の品格とやらに背く行動をとってしまうのだ。基準がはっきりしなければ、無意識の横綱の品格に欠ける行動をとってしまうのは仕方ない。つまり、横綱の品格に欠けた言動が問題ならば、その原因の根本は相撲協会にあるでしょう?ということなのです。あなた方が基準を明確にしないからこそ、横綱の品格に欠ける言動が生まれやすくなってしまうのですよ?ということです。つまり、問題の根本の原因が自分たちにあるにもかかわらず、人のせいにしているのが相撲協会になるわけです。そんな彼らに品格はあると言えるのでしょうか?
相撲協会にそこまで思考が働く人間がいないのが問題であって、横綱の品格に欠ける言動を生み出しているのは彼らなのだから、まずは相撲協会をなんとかしろよ!とファンは批判をすべきなのだ。そもそも品格にうるさい時点で、私は昨今起きた女子高生の黒髪強要問題と同じ匂いを感じる。あの問題の根本は、特定の価値観しか認めないということもあるが、それとは別に学校としての体面を保つためという部分があったと言われている。つまり、黒髪以外の生徒が通う学校という部分が、周囲の評判を落とすと考えられたというのだ。それ自体は確かにと思えないわけではない。髪の毛の色で人を判断するような国民が多いと言われたら、その通りだろうなと思えてくる。つまり、周りのご機嫌取りをするために、黒髪を強要するような主体が出てくるような状況と横綱の品格を求める相撲協会の状況は私は同じだと思っている。結局はファンがそういう横綱を求めている(品格に反する横綱を否定する)ということになるだろう。つまり、ここで言うファンはさっきの例で言えば、髪色で人間を判断する近隣住民ということになる。相撲協会側は当然ながら相撲の、力士の評判に関してはかなり敏感だろうし、評判が落ちないように配慮するのは当然かもしれないが、やっていることは私は黒髪強要と同じだと思っています。自分たちの体面を気にするあまり、周囲のご機嫌とりに奔走していると思うからだ。相撲ファンの全員がそういう目線で横綱を見ているとは思わないし、白鵬の態度がそんなに問題だろうか?または横綱の品格にそんなに厳しくなる必要あるの?相撲協会側に疑問を感じているファンもいるとは思っている。
結局、同調圧力的な問題に収束すると思っているが、特定の価値観が強要されている現状は大相撲界でも一緒だと思っている。白鵬の言動の何が問題なのか?と言えば、感情論になりがちな部分も多いと思うのだが、いろいろな力士がいるという状況をどうも肯定できない人たちがいるのだろう。特定の型にはまった力士じゃないとダメで、多様な力士の存在を認めないわけだから、私が大嫌いな同調圧力の側面がここでもやや見受けられると感じてしまう。こういう側面においても、私は相撲協会に品格があるとは思えない。相撲ファンのご機嫌とりなのか?相撲協会の独断の判断なのか?は定かではないけど、どっちにしても特定の価値観に縛られ、特定の価値観を強要する姿勢は、ある種の差別的な行為になるのだが、相撲協会が差別を是認するならば良いんだけど、彼らが差別を大っぴらに肯定するとは思えないので、そんな言動の矛盾を抱える相撲協会に真の品格があるとは思えないのだ。また、あるサイトには取り組中にブーイングをする客に品格が備わってないだろうという指摘もあり、そういう客に対して何の指導もしない相撲協会側を暗に批判しているケースもあった。お金を使ってくれる客側を批判することなんかできないんだろうが、そうやって自分たちの事情を最優先して批判の対象を選別しているだけでも、十分差別的な状況だと言える。相撲協会側は横綱の品格にうるさく言う前に、自分たちの品格について考えてみたらどうなんだろう?と思う。

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