「印象操作」という言葉を聞くこともよくあるんだけど、印象操作というのはまるで特定のケースにしか発生していないような表現に聞こえる。特に政治関連のニュースになると、この言葉を聞くことがたまにあるのだが、そもそもテレビや新聞などのメディアがやっているのは全て印象操作だ。それだけじゃない。基本的に印象というのは、恣意的操作されたものが私たちに届けられる。それが当たり前であり、印象操作を問題視している人たちは正直言って理解ができない。特定のニュースにおいて、恣意的な印象操作があったということを批判する人がいるが、それはもはや人間はなぜ不老不死じゃないのだ?と怒っているくらいに、現実的にどうしようもない部分を批判しているように思えてくるのだ。とても分かりやすい例があったのだが、昨日3月14日放送の水曜日のダウンタウンにて、島から1回も出たことがないという人を探す企画が行われていた。いろいろな島を訪れてもそんな人は1人も見つからない。そんな中で現れたのが、確か青ヶ島ってところだったと思うけど、そこに暮らす通称「仙人」と呼ばれる人が、1回も島から出たことがないというタレコミが島民からあり、その人とコンタクトをとろうとしたのだが、いざ話をしてみようとすると、ものすごい不機嫌みたいな感じで、なかなか取材を受けてくれない。
島から1回も出たことがない人という部分が、人を馬鹿にしていると捉えられたのか?武器を持ってスタッフを追いかけてくる一幕すらあった。スタッフが粘り強く交渉をすると、最終的には笑いながら取材に応じてくれるという状況ができたのだが、はっきり言ってこの番組を見ても、いろいろな印象操作が意図することなく行われる可能性があることが分かる。要するに、武器を持って追いかけてきた時点で、スタッフがこれはヤバいと思って、退散していたら、この仙人と呼ばれている人は「単に危ない人」という印象だけが視聴者に伝わったのだろう。しかし、粘り強く交渉した結果、実は優しい人なのでは?という一面を視聴者に植え付けることになった。仮に危機を感じたスタッフがそれ以上交渉を続けるのを止めたとしても、99%の視聴者を文句を言わなかっただろう。しかし、それは仙人なる人物の危ない一面だけが伝わったに過ぎない。実は話してみると優しい面もあるんじゃないの?という部分は視聴者に伝わらずに終わったはず。この差によっても、印象はがらりと変わるし、これが実際に起きていても、これは印象操作とは言われないはずだ。しかし、視聴者の印象を変える力を持っている意味では、スタッフのやり方1つでいくらでも変わるということの表れでもある。
もっと分かりやすいのは犯罪報道だろうね。殺人事件の犯人が捕まったときには、その犯人が犯した事件についてのみが語られることが多い。その犯人が過去にどういう生い立ちで、どういう生活をこれまでしてきてみたいな部分はほとんど報道されない。つまり、ある犯罪をした部分だけが報道されれば、視聴者のその人に対する印象はものすごく悪い。しかし、その人の生きざまを全て知ったうえで見ると、ちょっと同情してしまう人が増えるはずなのだ。ある事件の犯人が実は職場では真面目な好青年だったという事実を知っている人からすれば、何であの人があんなことを・・・。と思う可能性もあるが、そんな事実を知らない人からすれば、単なる犯罪者としてぼろくそに叩くだろう。つまり、犯罪者という事実だけを報道し、その犯罪者の普段の姿や一面を一切報道しないとすれば、それも印象操作に他ならない。できるだけ悪く映るように報道しているという姿勢が見える。そう考えると、マスコミなどがやっていることはほぼ全てが印象操作だ。特定の印象操作のみが問題視されるけど、はっきり言ってよく分からない。
マスコミが報道するのは、特定の人間の所業の一部である。それは政治関連のニュースでも同じだ。ある人間の人生はものすごい量の構成要素によって成り立っているはずなのだが、マスコミなどが伝えるのはその一部であると。というか、一部しかどうあがいても報道できません。つまり、ここで問題なのはマスコミによる印象操作ではない。印象によって人を判断する人たちが問題なのだ。要するに、ある人間のある一部分しか報道ができないというのがマスコミなのだから、そのマスコミの報道を見て、人間の判断をする方が間違っているのだ。人の判断というのはできるだけ総合的にやるべきだと思っている。マスコミによって報道された内容が印象操作に見えても、マスコミが印象操作をすることなく、報道をすることは不可能であると。その状況で正しい姿勢は、そもそも人間はいろいろな側面を持っており、私たちが知ることができるのは、その中のほんの一面のみなのだから、その一面のみで人を判断するのはやめるべきということになる。結局、ある一面で人を判断しても、別の情報源から別の一面の情報が得られれば、それによってその人に対する印象はまた変わる可能性があり、さらに別の一面を知ることができれば、また印象が変わる可能性がある。印象によって人を判断するということは、その繰り返しである。よって、情報の量によって、印象はいくらでも変わり続け、永遠に定まらない。結局、その人への評価は状況によって違うという状況が存在するだけで、1つの決まったものは存在しないということになるのだ。
結局のところ、悪いのは印象操作をするマスコミではなく、印象操作を批判する側ということになる。印象操作が悪いのではなく、自分が抱く印象によって判断すること自体が間違っているのだ。印象というのはもはや本能的なもので、合理的な判断とは無縁である。つまり、そんなものを判断基準にしている時点で、その判断に一体何の価値があるのか?と私は思う。先ほどの例を出すと、仮に仙人が武器を持って追いかけてきたところまでしか番組で映っていなかったとしても、その人が「単に危ない人」という判断で終わるではないということになる。そもそも危ない一面、人の印象を害しかねない一面なんていろいろな人が持っていると思うのですよ。それを人前では出さないようにしているだけであり、それも1つの(他者に対する)印象操作に他ならない。でも、そんなことは当たり前のようにみんなやっている。つまり、人前に出す部分だけを見て印象が決まるというのは現実的にあるが、その印象でその人を判断することも本来は得策とは思えないということ。判断基準として全く正確に機能しないものを使うのを止めれば、そもそも印象操作は問題にならないし、こういった問題の根本的な部分が解決するはずだ。マスコミだけに限らないけど、印象操作を止めること自体は不可能だと思うので、そこを前提にして考えると、印象をもとにして行われる判断それ自体を止める方が正しいのではないか?と思います。

偽りの報道 冤罪「モリ・カケ」事件と朝日新聞 (WAC BUNKO 273)
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