夏休みになると、小中高などで読書感想文という洗脳狂育が全国で行われている。私も高校の時に読書感想文を書かされましたが、未だに時間の無駄にしか思えない。というか、学校に通っていた時間が無駄だと思っているけど。この読書感想文とやらは基本的に好きでやっている人は少ないだろう。嫌々やらされていると思うのだが、ネットで見つけたある生徒と教頭先生の話のツイートがトゥギャッター(読書感想文に「つまらん」とだけ書いたら教頭先生に呼ばれ、その結果国語が大好きになったというお話 - Togetter)にまとめられていた。詳しくはリンク先から見てほしいのだが、簡単に説明すると、ある中学校の生徒が読書感想文をやらされて、やる気がなかったのだろう。一言「つまらなかった」とだけ書いて提出したら、教頭先生に呼び出され、何がつまらなかったのか?理由を言えと言われ、その生徒が箇条書きにして理由を書いたところ、その教頭先生がその箇条書きの理由を文章にしてつなげてくれたみたいだ。それを繰り返しているうちに、なんと「つまらなかった」という一言しかなかった読書感想文が、原稿用紙10枚分になったという。
この生徒は結果的に国語が好きになったみたいなので、その分は結果オーライだとして悪い結果とは言えないかもしれない。しかしだ、私に言わせてみれば、この教頭先生の行動ははっきり言って理解ができない。というか、このトゥギャッターには、この一連の話のツイートへの反応があるのだが、どれも賞賛ばかり。「いい先生だなー」とか、そういうコメントが多くあるのだが、私に言わせれば、どこが???という感じ。この教頭先生のとっている行動ははっきり言って謎だ。そもそも読書感想文は感想文で良いのだから。「理由」はいらない。理由があっても良いかもしれないが、理由がなくても成立するのが読書感想文だ。理由まで加えると、もはや感想文ではなく評論になる。リンク先に載っているが、実際この教頭先生は「これが評論というものなんだよ。よくがんばったね」と言っていたようなので、自ら感想文を逸脱していることを認めている。そして、そもそも「つまらない」という一言で、すでに感想文として成立しているにもかかわらず、原稿用紙10枚分も書かせるとか、正気の沙汰には思えない。何の意味があるんだ???
この教頭先生の行動は私にとってみれば、やる必要のないことを無理やりやらせて、生徒の貴重な時間を奪った行為にしか思えない。それがなぜか賞賛されるという状況がマジで理解できない。この生徒は国語が好きになったという結果から、教頭先生の行動を正しいと思っているかもしれないが、それはたまたま国語が好きになった人がいたという話である。まあ、そもそも国語を好きにならなくても、別に何か問題があるわけじゃない。国語が相変わらず興味がないままだとしても、国語に使う時間を別の何かに使えるならば結果は変わらない。だから、国語が好きになったとして、それが良いことか?どうかはそもそも別である。国語を好きになった結果、執筆活動を始めて芥川賞とかとれるほどになったならば話は違うかもしれないが、たいていの人は国語がどれだけ好きでもサラリーマンにしかならないので、国語が好きになったとしても自分がその趣味に没頭する以外で価値が生まれるとは思えないし、何かに没頭するならば、国語以外だって全然ありえる。国語が好きにならなければ、別の何かに没頭していたかもしれないのだから。国語が好きにならなくても別の何かを好きになっていたと言えるならば、国語が好きになったことはプラスマイナス0である。仮に国語が好きになったことをプラスと捉えても、明らかに論理的におかしなことをしているのに、それを正しいことなんだと生徒に認識させている時点で、教育として大失敗だろう。読書感想文を書かせるにあたって、教頭先生のやったことは完全に無用の産物である。そして、その無用の産物を称賛する人たちを見ていると、日本の闇を感じる。
この人が結果的に国語が好きになったのだから、それでよかったじゃないか!という意見もあるかもしれないが、この人の例ははっきり言って稀だと思う。というか、完全なる結果オーライであり、やっていることは明らかにおかしいのだが、それによって本人が満足してしまった状態だろう。具体例を挙げれば、ブラック企業扱いされているワタミの渡辺美樹氏は以前、従業員に対して「仕事をしている12時間の間にメシを食える人間は二流だと思っている!お客様のことを思うならばモノなんか口に入るわけがない」と話したことがあるのだが、これに賛同する人はほぼいないと思う。しかし、この言葉を信じて、実践して働いている人もいるみたいなのだ。つまり、その人から見れば渡辺美樹氏のこの言葉は正しいものとして受け入れられてしまっているのだろう。しかし、一部の人間がそう解釈したとしても、客観的に見て渡辺美樹氏の言葉が正しいとは捉えられないと思う。なぜならば、お客さんからしてみればそんなことを望んでいないと思うからだ。つまり、一部の人間が仮に結果的に満足していても、客観的に見てやり方が異常としか思えないことは批判して良いと思っているし、批判することで、そのおかしいやり方をする人間がいなくなれば、幸せになる人が増えるんじゃないの?と思う。少なくとも私はこの教頭先生のようなやり方をされて、結果的に満足に浸るなんてことはありえないし、他にもそういう人は多いだろうと思うのです。
この生徒は感想文を書けばよかったのに、なぜか結果的に評論を書かされるという、マジで理解ができない行動をとらされている。しかも、原稿用紙10枚分もだ。この原稿用紙10枚分の努力は一体何の意味があったのだろう?と思う。読書感想文なんてものを課している時点で、学校の教育を執る者として、正直何を考えているのか?が分からないけど、読書感想文はもはや本当に感想文ではない。生徒が自由に書いた感想文が無制限に認められない時点で、もはや洗脳である。ホリエモンも自身の著書で、学校の教育は洗脳であえると言っているが、マジでそう思う。大学は知識を植え付けさせる場で、人格的な部分の教育はほとんどしないから良いと思うものの、小中高はガチでそういうところにうるさい。だから、生まれ変わったら私は絶対に学校には行かないだろう。まともな先生もいるとは思うけど、数はかなり少ないと思うし、そもそも先生は選べない。私は洗脳と気づいて方向修正できたから良いけど、大人になっても気付かない人は多くいるだろうし、常識とやら固執して、他者に強要する輩は基本的にそういったタイプの人間なんだろう。洗脳がそれだけ上手くいっていることの証かもしれないが、学校の教育がいかに多くにとって不都合な状況を生じさせているのか?洗脳から解かせる役割を担える人間が増えてほしいと願うばかりです。

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