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「病気」や「障害」のレッテルの有無で人々の考え方や反応が変わるのはなぜ?

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「レッテル」というものに関して、人類は大好きなようだ。個人的には人類が抱える七不思議の1つにでも入れたいと思っているが、なぜ人類はレッテルにこだわるのだろうか?日常生活の中でそういうシーンに出くわす機会は割と多い。例えば、最近で言えば、ある猫をケージ内に閉じ込めさせている飼い主が、動画内のテロップで「いじめているわけじゃないから許してほしい」と書いていた例があったのだが、「いじめ」というレッテルになぜこだわるのだろう?と、私は不思議でしょうがなかった。いじめているわけではないと弁明している時点で、要するに別の目的があってそういうことをしているという意識が飼い主にあったと思われるが、いじめに当たるか?当たらないか?を気にする理由ってなんだ?と思う。そんな部分は当の猫にとっては何の関係もない。猫が感じている苦痛は、人間がその行為をいじめを呼ぶか?呼ばないかで?一切変化しない。じゃあ、逆に言えば今回と全く同じ行為を、いじめる目的でやったらダメなのか?って話になる。全く同じ行為である以上、いじめ目的でやったとしても猫にとっての苦痛の程度や影響の度合いは変わらないわけだが。それはダメなんですか???問題はいじめに当たるか?ではなく、猫に対して具体的に何をしたか?だと思うのですが。

 

ただ、私にとって不思議でしょうがないレッテルの最たる例は「病気」に関するものです。病気ってのは基本的に病名が存在する。だから、病気って言えるわけだが、この病名そのものは完全にレッテルです。つまり、特定の状況に関して病名が与えられる状況であれば、それはいわゆる病気に該当すると周囲から認められる。逆に言えば、異常な状況であっても、それに対する病名が存在しなければ、病気という扱いにならない。さらに言えば、私が見る限り、病気というレッテルに該当するか?しないか?で、人々の反応が大きく変わるように見える。例えば、かなり前に日本で起きた航空機の事故の話なんだけど、その事故はパイロットが意図的に機体を墜落させようとしていたらしい。それが判明すると、世間ではそのパイロットに対する非難が集中することになる。しかし、その後このパイロットは「統合失調症」であったことが報道されると、その非難は止み、今度は航空会社に対する非難に変わったという状況なのだ。パイロットが統合失調症になった原因として、航空会社が悪いと考えた人が多くいたということなのだろう。

 

今度はフランスの航空会社で起きたある航空機事故に関しての話をしたいと思う。この事故は結果的に機体が墜落したのだが、その原因がパイロットの信じられないミスであることで有名になっている。この事故を引き起こしたパイロットは世界中で無能の烙印を押されており、ニコニコ大百科にも彼の項目が存在するほど(つまり、悪い意味でネタにされている)だ。彼はどんなミスをしたのか?というと、機体が失速状態にあったにもかかわらず操縦かんを引いて機首を上に向け続けていたのです。通常、機体が失速状態にあるときには機首を水平にするようにし、推進力を高めて失速状態から抜け出すことが先決である。しかし、このときコクピットにいたパイロットの1人は、機体が失速状態にあることで、このままだと落下し続け、いずれ墜落するという危機感があったのだろう。高度を上げることを目指してしまい、機首を上げるという行動をとってしまったのだ。機体が失速状態になければ、これによって高度は上がるが、失速状態でこれをやると前に進もうとする力が削がれ、失速がより促進される。つまり、傍から見れば、このパイロットの操縦は機体が墜落する可能性を高めるものだったと評価できる。

 

このパイロットの操作ミスは、あまりにも信じられないものであったがゆえに、彼はその点でその後有名になってしまった。冷静な状態であれば、機首を上げるなんて行為はプロのパイロットは誰もやらなかったのだろうが。そして、当時もそうだったろうけど、現在でも彼を叩く人間は世界中にいるだろう。彼は何らかの病気を抱えていたという情報はないだけに、病気というレッテルを貼られることがなかったからだ。しかし、先に出した統合失調症の事例では、本人が飛行機を墜落させようとする意思を持っていた事実は明らかである。後者はそんな意図はない。じゃあ、なぜ人々の反応は違うのだろうか?一方は病気で、一方は病気ではない。そこに違いはあるが、両方ともパイロットとして不適格な状況は一緒だろう。むしろ意図的に墜落させようとする方が問題じゃないか?とすら思えてくる。

 

統合失調症になってしまった原因は、日々の労働が過酷だったからなどの原因があったとしても、そんな事情はフランスの例だって当てはまってもおかしくない。外的な要因により、彼が凡ミスをするに至った可能性は十分にある。そして、彼を責めている人たちはその外的な要因によって、彼が無能と言われる状況に陥った可能性は一切考慮していない。私が見る限りでは。病気だろうが、病気じゃなかろうが、社会にとってはどちらのパイロットの存在も困る状況なのは一緒なのです。病気の有無という点にこだわらないといけない理由はどこにあるんですか???フランスのパイロットが能力の欠如ならば、特定の病気になりやすいか?どうかも能力の欠如と言わざるを得ない。だって、全員が全く同じ状況にあっても、全員が統合失調症になるわけじゃないんだから。これは別の病気も同じですけどね。例えば、免疫力などの部分には絶対に差がある。今回は言いたいことを説明するために、私も「能力の欠如」というレッテルを使ってしまいたが。

 

こういう反応の違いって、日常生活の中で割と見られる。病気じゃなく、障害という言葉もそうです。いわゆるコミュ障っていうのは、障害扱いされないのが一般的だろうが、はっきり言って社会生活を営むのが困難だと言わざるを得ない事例は普通にあると思われる。それこそ足がない、手がないよりも困難なケースは全然ありえると私は思っている。しかし、手足がないは障害認定されるが、コミュ障は障害認定されない。そして、障害がある人に対しては、国は雇用に関して特別な措置をとる。しかし、コミュ障の人は健常者の扱いなので、優遇措置を受けられない。障害というレッテルの差によって、そういう状況は当たり前に存在している。コミュ障になることって、別に自業自得な側面があるとは思えないですし、障害者の中だって、障害を抱えるに至った原因に関して、自分が悪いと言えるケースはあるだろうし。なぜ障害にコミュ障が含まれないのか?謎でしょうがないです。ただ、障害と呼ぶか?はこの際重要ではないんだけどね。手足がない人とコミュ障な人で国の対応が違う点が問題なんです。障害というレッテルにに関して、国も平気で影響されてしまうわけだ。人類は何らかのレッテルの有無によって、考え方や反応を変えることをやめられないのだと思われます。

 

 

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