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人に負のレッテルを貼る人は、人間は生まれながらの悪人であることを知らない

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私は普段、自分を「悪人」だと思って生きている。その理由は、人間なんてみんな悪だろうと思っているのが3割くらいで、残り7割くらいはそっちの方が非常に都合がいいからだ。個人的には善悪のレッテルなんてくっだらねーと思っているが、都合がいいならば利用しない手はないため、私は自分を悪人だと見なして生きているのです。自分を悪人と思うことで何が変わるのか?それは罪悪感を覚えづらいということです。多くの人たちが躊躇してしまうことを私は平気でしやすい。例えば、空気読まない発言とか、私は日常的にするので。それは自分を悪人だと思っているため、悪人なら仕方ないでしょ?と割り切れるから。自分を善人だと思いたい人たちからすれば、容易にとることができない選択も悪人なら可能なのだ。だって、悪人なんだから。場合によっては、人生を豊かにさせることができる選択をとることも簡単にできる。

 

ちょいちょい過去に名前を出している「なれの果ての僕ら」という漫画では、ある人物が同窓会を開き、そこに集められたかつてのクラスメイトや担任を監禁し、そこで極限状態での人間の善性を試すという実験が行われる。しかし、最終巻を読んでみると分かるけど、衝撃の事実が判明する。以下はネタバレになってしまうのでご注意を↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最終巻を読むと、この人間の善性を試す思考実験とやらは、とんだ茶番であることが発覚するのです。この同窓会&実験の首謀者は、人間は元来悪であることを認識したうえで、今回の善性を試すという試みをしている。つまり、善性なんか確認できるわけがないと知っていたのだ。起きる結果は予想できるものであり、実際に予想通りの結果が起きたと言える。ただ、それだけだった。世間一般の価値観に照らせば、この同窓会に参加し、実験に巻き込まれた登場人物は全員が(世間が大好きなレッテルを使った場合には)クズに見えてくるに違いない。正確に言えば、クズに思えてくる瞬間があるということ。そんなことをお互いにしていたのだ。舞台さえ整えてあげれば、人間の本性である(世間一般で言うところの)悪が顔を覗かせるんだろう。これは実際にそうだと思うんだよね。自分はまともだと、善人に違いないと思っていたのに、こんなシチュエーションで生活を強いられた結果、自分でも信じられない本性が露わになり、自分が1番驚くような光景が広がるわけですな。自分ってこんな人間だったの?という事実を登場人物の各人が実感することになる。

 

しかし、このいわゆるクズに成り下がった登場人物は、実験が終焉を迎えるにあたって、徐々にその心境を変化させていく。世間一般で言うところの善人のような面を覗かせていくのだ。そして、そんな光景とは裏腹に、世間を騒がせた52時間に及ぶ監禁劇は、世間の注目の的となり、事件のことを詳しく知らない大衆は自分たちの想像で、あることないことネット上に書き立てて騒ぐクズに成り下がる。根拠のない妄想で他人を否定しにかかる、誹謗中傷などに勤しむわけだね。これがこの漫画のエンディングに近い状況です。この漫画を見ると、最終的に登場人物の中で生き残った人間は、人間の生まれながらの悪の側面を実感しているように思える。自分たちが悪人に成り下がって、ここで彼らもようやく気付いたのだろう。人間はシチュエーションさえ整えば、悪にしかなれなくなる。人間は生まれながらの悪人の要素をみなが持っている。作中にも出てくる「弱さを知った人間の強さ」といった部分が垣間見えるのです。実験を通じて、自分たちの悪としての本性をまじまじと知った彼らの方が、これからの人生を善人として生きることがしやすいんじゃないか?そして、こちらも作中に出てくる「悪を懲らしめたい欲求」に駆られた大衆は、これからも頭の悪い正義感で人々を傷つけ続ける。そんな未来が容易に想像できますね。人間は悪人の部分を隠しながら普段生きてるのです。というか、多くが共感する部分はどんなに残酷であっても、悪とはみなさないが正しいのでしょうかね。

 

また、この作品の面白いところは、監禁されて実験に巻き込まれている側の人間の中に存在する主人公が、実験の首謀者ではなく、その首謀者の母親(重要な登場人物として後半から登場する)を憎んでいるところだ。実験中には殺し合いが始まり、結果的に10人以上の人間が死ぬのだが、そのきっかけはこんな同窓会を開催して、実験を企てた人間がいたからだ。しかし、主人公は実験を企てた張本人ではなく、その母親を殺そうと企む。ただ、当然ながらこの母親にも親がいるはずで、その親がこの母親を産まなければ、この首謀者も産まれなかったわけだ。主人公が首謀者ではなく、その母親を悪だと考えた論理を使うと、その親も悪であり、その家系でずーっと悪人の連鎖が続いてきたってことよね。やっぱり人間ってみんな悪なんだと思えて仕方ない部分だった。悪人が悪人を産み続けている、その結果が今なんだと。それに実験に巻き込まれたとはいえ、結果的に殺し合いをしていた連中も親から産まれてんだから、彼らを産む親がいなければ、そもそもこんな殺し合いは起きなかっただろう。少なくとも彼らによる殺し合いはね。彼らが生まれていなければ、別の人間がこのクラスメイトになっていたわけで、実験の首謀者の同窓会には違うメンバーが来ていたというだけなので、結局は殺し合いは防げなかっただろうが。

 

この漫画は良くも悪くも現実を非常にリアルに描いている。リアルすぎるからこそ、リアルに感じない人もいるかもしれないが。そういう人はある意味現実を知らないんだろうなと、私は思っている。世間が大好きなレッテルをあえて使うならば、人類みんな悪人ですよ。にもかかわらず、人は他人に対して負のレッテルを貼りたがりますよね。候補としてはいろいろなものがあるが、人間は生まれながらにして悪人ならば、そのレッテルに何の意味があるのか?不明です(笑)明らかに男である人に対して、「お前男だろ」と言って何の意味があるんでしょう?言われた方としても、それが何か?としか思えないのではないだろうか?そんな行為を大衆はしているように、私には見えてしまう。他人に対して、例えばクズ、育ちが悪い、サイコパス、性根が腐っているなど、明確な定義が存在せず、主観によって使い分けがされる負の意味を含んだレッテルが私に対して投げかけられたとしたら、私は「その通りだが何か問題でも?」と返すだろう。というか、そう返すしかない。私は自分を悪人だと思っているし、認めているから。そして、「お前もそうだろ?」とでも言うんじゃないかな?これらの言葉は主観的な用法しかできないため、相手が主観によって自由に使った時点で、私も同様に主観によって自由に使うことができますから。

 

悪人に対して悪であるという意味のレッテルを貼る行為の合理的な意味とはなんだろうか?それは非常に気になる。しかし、それを使っている側はそんなことまで考えていないに違いない。合理性ではなく、感情的な部分から飛び出た言葉なんだろうし。そういう意味不明な言動を多くがしているわけで、そんな部分に突っ込むのは野暮なのかもしれない。私も負のレッテル使いますけど、私はレッテルなんか意味がないと思っている人間だが、意味があると思っていると思われる人間に対して使うと、面白い反応をしてくれるので、そこにだけ意味を感じています。逆に言えば、レッテルなんてバカバカしいとみんなが思っていれば、私がレッテルを使うことはほぼなくなるのだろう。そんな未来が訪れる気はさらさらしないけどね。

 

 

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