就職しないで、ブロガーになった人のBlog

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他人を思いやることができる優しい人間なんて、実はこの世に1人もいません

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タイトルの通りですが、他人を思いやる気持ちというのは、概念としては存在していたとしても、実際は存在しないでしょう。こういった言葉は、たいていは他人が使うものです。特定の行為を見て、その行為をした人に対して、別の人が「あの人は他人への思いやりを持った人なんだね」みたいなことを言うわけです。自分で自分に対して使う人もいるかもしれませんが。ただ、ある人から見たときに、特定の人の行動が他人への思いやりを持った行動に見えたとしても、その人は他人を思ってその行動ととったと言えるケースは万に1つもないと私は思っています。突き詰めれば、人間が起こす行動の100%は自己満足であると言っても過言ではないと思うのです。

 

例えば、お年寄りの人が重い荷物を運んでいる光景を見て、それを手伝ってあげたとしたら?これはお年寄りを思いやったうえに発生した行動か?と言えば、絶対に違うと思う。この行動を起こした理由としては、「重い荷物を運んでいる高齢者を見過ごすことができない、見過ごすような自分を許せない」という理由が最たるものでしょう。別の言い方をすれば、この高齢者を無視することに関して、自分が自分に対して許容できないという状況なわけです。つまり、無視をすると自分の感情が害されるので、その不愉快な感覚を避けるために、あえて他人を助けるという手間をかけたという状況が正確だと思います。ある意味この場合の自分は自身でも、第三者でもあります。自分という人間が自分という人間を見たときの評価を気にしたゆえに起きた行動になります。こういうことは別のシチュエーションでもありうることです。例えば、恥ずかしいという感情がありますが、誰にも見られていないとしても、恥ずかしいという感情が芽生えることってあると思います。これはまさに自分が自分自身を評価しているからです。他人には見られていなくても、自分は見ているし、知っている。だから、恥ずかしいと思ってしまうのです。目撃者の中に自分も入っているということです。

 

話は戻るけど、お年寄りのためにやったように見える行動は、実は自分のため、自己満足のために起こされています。でも、傍から見ればお年寄りのために行動してあげた、優しい人みたいな状況に見えるわけです。これは弱者を見て見ぬふりをするのはよくないという、一種の常識のようなものがあって、それに影響を受けているから、そういう行動を起こすのでしょう。常識なんか知らねーよ!って思っている人ほど、弱者を見ても無視できる、別の言い方をすれば、弱者を無視することに関して、自分で自分を許容できるという状況なわけです。要するに、他人のために動いてくれるような、社会にとって有益と言える人間はいるが、思いやりを持った人間は1人たりともいないと言えると思います。他人に対してどの程度配慮するか?から分かることは、どの程度常識を妄信しているか?どのくらい社会で一般的に正常とされている感覚に影響を受けているか?でしょう。これは自らそういう行動を起こすか?だけではなく、そういう行動を起こさない人に対して、非難をするという態度からも確かめることができます。

 

実際、他人がしている行動を許せないと思ったら、バッシングする、誹謗中傷する、いじめる人間は五万といると思いますが、それを自分に対してやっているのが今回のような人ということです。でも、他人から見たときに、ある場面では思いやりがあるように見える人でも、別の場面では思いやりがないと思える行動を平気でとる場合もあります。例えば、一般的な誹謗中傷を非難しておきながら、犯罪者に対しての誹謗中傷をするような人が実際いますよね。この人は傍から見た場合でも、犯罪者に対する思いやりはありません。それは犯罪者に対しては誹謗中傷したって構わない(誰もその行為を咎めない)という常識があって、それに洗脳されているからです。人の一部だけを見ても正確な評価はできないわけですが、できるだけ広く見渡すことで、その人の本当の人間性が見えてくる場合もあります。この人は少なくとも犯罪者に対しては、かなり野蛮な人間性と客観的に評価できるわけです。誹謗中傷それ自体が悪なのだとしたらね。世間はそれを見て、悪いという評価はしないんでしょうけど。この場合、世間がそもそもそっち側の人間ですから(笑)テロリストを見て、テロリストの仲間たちががこいつは悪人だなんて思わないのと同じです。

 

いじめ加害者をバッシングするのも、いじめられている人がかわいそうだから、その人をなんとかしてあげたい!からではなく、いじめ加害者をいじめたいという欲求が最たるものでしょう。だから、日本ではいじめ加害者をいじめるいじめ加害者が後を絶たないのです。「「いじめ」という言葉は、いじめ加害者をいじめるために存在するんだよね(笑) - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」の記事でも書いたけど、みんないじめが大好きなんですよ。しかし、人間は本音として、いじめが大好きでいじめをしたいんだけど、それを大っぴらにやるのは、目撃者である自分が許さない。常識的にはいじめというレッテルを貼られるような行為を行うのはよくないとされているから、その常識を妄信する人間は、なかなか簡単にいじめはできないのです。だから、あくまでもいじめを行っている奴をいじめるのは悪くないんだ!と目撃者である自分に言い聞かせて、改めて自分はいじめを堂々と行うわけです。自分を納得させられる大義名分を探すわけです。日本人のいじめって、現代では誹謗中傷のスタイルが多いと思います。特定の対象者に向かって悪口を言うケースが多い。いじめをなくしたい、やめさせたいが理由なら、そんなものは必要ないんですよ。というか、どんな内容であっても本人に言わないと意味がないのだが、99%の人間は自身のSNSとか、ヤフコメとか、本人の伝わらない場所で誹謗中傷をするのです。何の効果もないですよね。いじめの抑制に何の効果もないことを平気でやるってことは、(いじめを本気でなくしたいと思っているけど)頭が致命的に悪いか、いじめることが目的でそういう行為をやっているということです。いじめ加害者をいじめている時点で、いじめ抑制どころか、自ら増殖を加速させているんですけど。

 

この世において、他人のためにという気持ちを動機として、自らの行動を決定している人はほぼいないと思います。本人や周りはそう思っている、そう思いたいという部分はあるにせよ、現実としてはまずありえない光景だと思います。人間がとる行動のすべては自分の都合のために、または自己保身のためです。いわゆる自己中な人間しかいないというのが、私の持論になります。でも、それが悪いことか?というと、私は善悪には興味ないので、そういう評価はしないから、悪いことなんて言うつもりはさらさらない。ただ、現実はこうなってますよ?という点を言いたかっただけです。当然、この記事、これまでのすべての記事だって誰かのために書いてあるわけじゃない。言いたいと思ったことをそのまま言っただけ。すべて自己満足です。この記事が誰かのためになるなんて1ミリも思っていませんが、もし楽しんでもらえた人がいたならば幸いということです。

 

 

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