就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

転載と引用の違いを解説しているサイトは多くが間違っていると思うんだけど

無断転載を断っている、それを明示しているサイトとかって結構あるんだけど、そもそも転載とは何だろう?転載と引用についてを解説しているサイトは結構見つかるんだけど、いくつか覗いてみると書いてあることはほぼ一致している。引用は特定の文章等を掲載元とは違うところにそのまま移して、独自の見解などを添えることとなっている。そして、転載はその独自の見解がないまま、掲載元とは違うところに移すだけとなっている。いくつかのサイトを見たが、基本的にこういった違いが書かれている。引用の定義はだいたいあっていると思うのだが、転載の定義は多分違うと思うんだよね。ネットの辞書で「転載」について調べてみると、「既に刊行されている書物・新聞・雑誌などに載った文章や写真などを、他の印刷物に載せること」と書かれているのです。つまり、掲載元にある文章などを、掲載元とは違う場所に載せることが、転載に当たるわけです。そうなると、独自の見解などを載せていないことは、転載の定義には関係ないわけだ。分かりやすく言えば、元の文章を掲載元とは違う場所に載せただけのケース、元の文章と掲載元とは違う場所に載せて、そこに独自の見解を付け加えたケース、この両方とも転載と呼べるわけです。ただ、後者の場合にはより細かい呼び名として引用という名前をつけている。

 

ということは、転載と引用は並列の関係ではないということ。転載という大カテゴリーの中に引用という小カテゴリーがある状態なのだ。つまり、転載と引用の違いを書いている人は、算数と分数の違いを解説している状態に等しい。「分数は算数である」という言い方は間違っているとは言えないかもしれないが、分数は「分数」という細かい呼び名を与えた方が分かりやすいだろうから、区別がされているのだ。算数の中に分数がある状態なわけですよね。算数(数学)が消えれば分数も消えるわけだから、分数は算数と違う独立の存在じゃないってこと。生物が消えれば人間も消えるという状態と同じですね。仮に生物が全てこの世から消えたという状態があったとして、その状況で人間だけは生きているっておかしいわけでしょ?生物の大カテゴリーの中に人間という小カテゴリーがあるのだから。転載と引用も同じです。転載という概念が消えれば引用も消えるわけだから、転載と引用は実現が異なる概念というのがお分かりいただけるだろうか?

 

転載は特定の文章などを元にあったところ以外に載せること全般であり、そういった行為の中で独自の見解を添えたものがさらに引用になるという話なのだ。だから、転載と引用は本来比べられないものなのです。転載とは何か?について調べると、さらに「そのまま載せる」という表現を使っている辞書も見つかるのです。上記の定義だと、他の掲載物に載せるということしか書かれていないが、そのまま(文章を一切改変せずに)載せるという言い方をしているケースもあります。ただ、この場合でも文章をそのまま載せること自体が転載というだけであって、その後に独自の見解を添えるか?という違いに言及されていないのだから、結局転載と引用の違いは多くの人が考えている人とは違うということが言えると思います。「そのまま載せて公開する」という書き方があれば、それは独自の見解がないものを転載と呼ぶという状態だと思うが、そのまま載せるしか書かれていないのです。そのまま載せたというその行為それ自体が転載であり、そのまま載せた文章に加えて、さらに見解を載せてから公開すれば、それは引用に変化するわけだ。

 

そこで問題なのは、私がたまに見つけることがあるんだけど、ネット上で「無断転載はお断りします」みたいなことを書いているサイトがあるんです。でも、転載は引用に当たる書き方がされていれば、許可なんかいらないのです。以前「DeNAの無断引用や情報の不正確性を訴えるニュース記事がそもそも不正確なんだが - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」の記事でも紹介したように、DeNAのキュレーションサイトの社会問題がありましたけど、あれも無断引用が問題視されていたみたいなことがマスコミが報道していたわけだが、当然ながら引用は無断でOKだし、無断引用を咎める根拠なんかない。つまり、引用は許可がいらないのだから、無断引用を責めていた人たちは明らかにおかしなことを言っていたということになる。無断引用で謝罪って、いまだなんのこっちゃって感じですけど。内容の信憑性とか、根拠の信頼性の問題で責めていた人もいたが、信頼性がないようなものなんてものは、単なる感想でしかないので、個人の感想として捉えればいいだけの話です。

 

信頼性がない、根拠が乏しいことを書いてはいけないというのは、感想すら述べられないということと同義だ。明らかに根拠が乏しい、信頼性が薄いものを信じてしまう人が悪いのであって、感想でしかないことを述べるのは悪いことではない。根拠が乏しい文章ならば、そんなものは信用しなければ良いでおしまい。それ以上どこに責める余地があるの?(笑)口コミなんてだいたいそうだからね。それに当時DeNAが運営していたのは医療系のキュレーションサイトらしいが、信頼性がないようなものなのであれば、気功とか明らかに科学的根拠がない治療などをなぜ責めないのか?というのは当然疑問だよ。気功を胡散臭いものだと思うのは自由だけど、それを頼る人がいるのも自由だという話なわけで、気功を治療として使うのが悪いわけではないですよね。

 

話は大分それたが、無断転載の中でも、引用に該当しないと思われるものは断る権利はあるが、引用にあたるものも転載に含まれる以上、無断転載はお断りという表記はおかしいのではないか?と。だから、多分「無断転載を禁じる」などのことを書いている人も転載と引用の違いが分かっていないというか、転載という言葉の定義を正確に知らないんだろうと思います。実際、無断転載を禁ずる文章を書いている人の中には、引用すらも許可なくやってはいけないものであると考えている可能性もある。私が見たような、転載と引用の違いを解説しているサイトは、恐らく当時叩かれていたDeNAと同じことをやっていたわけですよね。というか、転載と引用の違いについては定義が一応あるわけだから、確実に間違いの情報と言えるわけだが、DeNAの場合には根拠が薄いとか、そういう次元なので、情報としての信用性の程度の問題であり、情報が間違っていると断言できる問題ではなかった(正しいか?どうかの判断ができなかった)のです。つまり、DeNAがやったことよりも明らかに罪が重いですよね。こういう部分が平気で放置されて、DeNAみたいに大企業で目立つ存在は盛大に叩かれるという、これも頭の悪い人たちが引き起こしている日本の闇の1つでしょうな。

 

著作権トラブル解決のバイブル!  クリエイターのための権利の本

著作権トラブル解決のバイブル! クリエイターのための権利の本

  • 作者: 大串肇,北村崇,染谷昌利,木村剛大,古賀海人,齋木弘樹,角田綾佳,小関匡
  • 出版社/メーカー: ボーンデジタル
  • 発売日: 2018/09/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 

あわせて読みたい記事

習志野高校と星稜高校のサイン盗み事件で騒ぐ人たちの気持ちが理解できません

私は野球好きな人間だけど、甲子園は全く見ない。アマチュアの野球は全く興味がないのだが、春のセンバツ高校野球で、千葉県の習志野高校と石川県の星稜高校の試合でサイン盗み疑惑があったらしいのだ。私は正直言って、サイン盗みを叩く人の気持ちは理解できない。そもそもサイン盗みというのは、確固たる証拠がない。やっているかもしれないという根拠は見つけられるが、それは根拠であって証拠ではない。盗まれたと主張している星稜高校の監督は「映像で証拠がある」としているが、そんなものあるわけねーだろwwwと、思わず独り言でツッコミを入れてしまった。サイン盗みが疑われるときには、基本的に塁上のランナーなどが不自然な動きなどをしているらしいのだが、結局不自然と言われても、それはその選手の癖だったりする可能性があるので、サイン盗みにおいて確固たる証拠なんかないですよ。

 

サイン盗みに関しては、調べてみるとルールで禁止されているわけではなく、マナー違反の範囲になっているようで、罰則もないみたいな記述が見つかった。つまり、叩いているのは感情論ってことになりますな。結局、サイン盗みがいけない理由はあまり見出せないが、そんなに問題ならば何でこんな曖昧な形にしているの?ルールで禁止し、罰則も設ければ良いのに。それができない理由としては、やっぱりサイン盗みが確固たる証拠が存在しないからでしょう。つまり、審判としてできることはサイン盗みが疑われたときには、その紛らわしい言動等を禁止することができるのみであり、サイン盗みを防ぐように努めることしかできないのだが、それは=サイン盗みを100%的中させることができない自信のなさの表れだと思う。だから、ルール違反にはできないんでしょう。

 

罰則なんて設けてしまったら、冤罪だったときにどうしようもないですから。トーナメント方式の甲子園では致命的な罰則として機能する可能性があり、仮に冤罪だったら、罰則を突き付けられた高校側から審判に対する相当な非難があるはず。実際、真実を知っているのは疑われた側の高校だけですからね。だからこそ、できるだけサイン盗みが起きないように努めるだけであり、サイン盗みの事実を指摘して、ペナルティを与えるようなことはしないのだろう。サイン盗みをしているか?否か?ってのは、外形的に判断できるわけじゃないから。実際この習志野高校と星稜高校の試合でも、サイン盗みが疑われるきっかけとなったのは、塁上のランナーがヘルメットを触る仕草みたいです。それが不自然に見えたのかもしれないけど、不自然に見えるってのは、多くの選手はその動きをしないってことだと思うのです。

 

つまり、多くの選手がやらないような動きをしたときに、不自然だと思われるんじゃないでしょうか?そうなると、そんなの該当する選手はたくさんいると思いますけどね。イチローのあの打席でのルーティンだって、イチロー以外やらないんですけど、不自然なんて指摘されないですよね。毎回やっているから見慣れてしまったのだろうけど。不自然に見えるってだけで、サイン盗みを疑うのはどうかと思うのだけど、根拠がそこしかないのならば、よくもまあそんな根拠でサイン盗みを指摘できるな・・・と思えてくるのですが。そもそもサイン盗みは何が悪いのか?という点についても話しておきましょう。サイン盗みは高校野球や甲子園ではルールで禁止されているわけではなく、マナー違反というあいまいな扱いになっていますが、サイン盗みがよくないとされている理由の1つには、盗まれないようにサインを複雑化することで、試合時間が遅くなるのが問題ともされているらしいです。例えば、投手と捕手の間のサイン交換が長引くと、試合時間にも影響すると。高校野球の場合には試合時間を長引かせられないので、合理的にも思えなくはないが、それは投球間隔のルールを設ければいいだけの話なのですが。MLBでは何秒以内に投げないといけないという明確なルールがあるらしいですから。だから、現実的に問題視すべき点には思えません。バッターとランナーコーチのサイン交換に関しても、投球間隔のルールによって時間を制限できます。そもそもサインを定期的に変更すれば良いだけの話で、それなら複雑化しないで盗まれない対策ができます。

 

私はサイン盗み否定派ではないので、サイン盗みが行われても何の心境の変化もありません。サイン盗みは罰則もないわけわけだから、強いて言うならば学校の評判が落ちるくらいしかデメリットはない。それを覚悟でやるんだったら、止めようがないと思います。それに確固たる証拠を見出せない行為を禁止しても、冤罪が生まれそうでそこが怖いのです。確固たる証拠がなくても、こうやって疑われて叩かれるわけだから、サイン盗みの意図なくても、結果的に疑われてしまう場合があるってことですよ。そんな理不尽な状況を作る方が私は問題だと思っているので、サイン盗みは完全OKにして、やる、やらないチームの方針の自由にした方が健全だと思ってます。配球を読むとか、苦手なコースを攻めるとか、結局試合の外でもいろいろな分析が行われており、サイン盗みもその一環でしかないと思いますけどね。相手の弱みを握るための努力の1つでしかないので、そんなに否定する材料があるだろうか?と思います。

 

「サイン盗みを疑われた選手が、次の試合でおとなしくしてたら、サイン盗みしたってことだな」とか、ツイッターでつぶやている人もいたが、疑われている時点で、その意図があろうが、なかろうが慎むに決まってんじゃん・・・疑いの目をかけられた時点で叩かれるんだから、それが嫌な選手はそもそもできるだけ疑われないようにするでしょう。何でそんな想像力もないの?(笑)と思ってしまうような、批判もあります。だから、はっきり言って批判している側でまともなことを言っている人間が、私から見ればあまりいないのですよ。思い起こせば、松井秀喜選手を5打席連続敬遠をした明徳義塾も同じような感じで叩かれていたと思うけど、日本人って、ルールを遵守を要求する癖に、ルールで禁止されていない行為にうるさいよね。と思います。当然敬遠に関してはマナー違反ですらないわけだが、むしろあっちの方が当時は騒ぎになっていたでしょう。明徳義塾の選手の宿舎に嫌がらせの電話などが多数寄せられて、そのせいで次の試合に負けてしまったみたいな話も聞いたことがあるが、習志野高校と星稜高校の試合だけの話ではないけど、理屈で物事考えられない人ってのは、いつの時代もいるもんですな。

 

高校野球界の監督がここまで明かす! 野球技術の極意

高校野球界の監督がここまで明かす! 野球技術の極意

 

 

 

あわせて読みたい記事

趣味が資産になるか?ならないか?は人生の難易度に大いに関係するという話

人はそれぞれ趣味を持っていると思います。しかし、趣味は千差万別であり、人によっては大きな費用の負担を強いる場合もあります。例えば、車が趣味って人もいるわけでしょう?水曜日のダウンタウンという番組で、年収300万円の人がフェラーリのオーナーとなっているケースが放送されていたが、彼の場合は中古だと思うのだが、800万円のフェラーリを購入したらしい。月に3万円の10年ローンを組んでおり、さらに月に7~8万円の維持費がかかるという。このケースでは、趣味の負担がものすごくでかいですよね。車は一応資産にはなるが、買ったときの値段と比べて、売るときの値段は下がる場合が多い。そして、毎月払っている維持費はもちろん資産にならない。趣味にかかる費用はトータルで相当なものだと思う。私の趣味は何か?っていうと、子どもの頃に集めていた遊戯王カードを今でも収集している。というか、子どもの頃には思うように買えなかったので、その分今思う存分買っている状態です。私みたいな人たちが、今大人になって全国で遊戯王カードを取引しているみたいです。1~3期と呼ばれる時代(1999~2003年頃)までのカードは今でも高値で取引されており、間違いなく有名Youtuber(ヒカル、はじめしゃちょー、みさわなど)の影響もあるのだが、遊戯王カードは資産に間違いなくなる。

 

特に初期のカードは現在のデュエルで使うために買っているわけではなく、私みたいにコレクション目的で買っている人が多いので、相場の変動の幅は小さい。現在もデュエルで使われるようなカードは、再録とかルールの変更などにより、相場の変動が割と起きるのだが。しかし、初期のカードはそういう事情がほぼ関係ないので、相場が非常に安定している。実際、ヤフオクとかで例えば1万円で買ったカードを、もう1度ヤフオクに出すといくらで売れるのか?というと、1万円前後で売れても不思議ではない。つまり、買った値段と売るときの値段がほぼ同じってことになるので、カードを買った値段の分だけ資産になるということが言えます。それは見方を変えれば、欲しいカードを手に入れたのに、そのカードの値段分の自分の資産は減少していないってことになります。モノを買うとお金が減るのが通常だが、お金が減った気がしないという状況なのです。何でこういう状況が起きるのか?というと、遊戯王カードのコレクターが全国の数多くいて、かつ初期のカードは絶版であり、数は今後増えない。むしろ経年劣化などにより、美品の枚数はどんどん減っていくから、美品の人気カードの価値は年数の経過によって上がっているのです。だから、買ったときの値段よりも高く売れるというケースも存在することになります。まさに株なのです。だから、美品のカードを美品のまま保存できればこういう状況が起きるのです。

 

20年くらい前の時期は遊戯王カードが1番流行っていたと思うけど、その当時の人気カードのうち、美品のものは信じられないくらいに値段が上がっています。例えば、以下の動画であるように世界に100枚くらいしかないと言われているカードが100万円を越えていたりするのです。

 

 

上記の動画みたいな値段のカードは稀だけれども、1枚1万円を越えるようなカードはザラにあります。で、割と相場は安定してます。初期のカードはデュエルに使われるわけではないものが多く、遊戯王カードの現在の環境に左右されません。そして、先に話したように相場が上がる要素があるので、投資をするならば遊戯王カードなどのレーディングカードゲームは割とおすすめじゃないか?と思います。どのカードを買うか?の見極めは重要ですけど、詳しい人ならば結構値が上がるカードは見極めやすいんじゃないかな?上記の動画のブラックマジシャンガールのシークレットレア(大会限定)も2年前くらいだと多分100万円くらいだったが、現在ではこの値段ですよ。彼は145万円を使ってこのカードを買ったが、手元には145万円分の資産が残るということになります。そして、このカードはまだまだ値を上げ続けるのでしょう。ちなみにこのブラックマジシャンガールのシークレットレア(大会限定)は、約1年前にはじめしゃちょーも購入しているが、そのときの値段は120万円ですから、短期間で価値が上がってますよ。

 

車の場合には買ったときの状態をそのまま維持するって不可能でしょう。走行距離は絶対に増えるし、経年劣化や雨風などによる劣化などもあるし、美品を美品のまま維持するってことが99.9%不可能だと思うのです。そして、維持費が絶対にかかってしまいます。車が趣味の人は資産として一応残るが、維持費を含めて支払った金額のほんの一部しか残らないでしょう。でも、遊戯王カードは違うのです。他のトレーディングカードも同様の面はあると思いますが、意外と投資目的で買っている人もいるんじゃないかな?あとは前にもこのブログで紹介した、フジタさんという芸人の人も趣味がゲームで、レトロゲームというジャンルのソフトを多数収集している。これも間違いなく資産になるし、買ったときの値段と売るときの値段はあまり差がない、むしろ上がっているケースも考えられます。その事情は遊戯王カードと同じです。レトロゲームファンが全国に多くいて、レトロゲームソフトの数は今後増えない(リメイクされることがあっても、リメイク後のソフトは昔のものと同じ価値にはならない)し、美品の数は減っていく。特に箱や説明書付きのものはどんどん劣化していくので、美品は値段が上がっていく可能性が高いでしょう。彼は借金持ちらしいのだが、ゲームソフトはレアなモノを含めて2万本以上所有しているみたいなので、意外と資産はすごいんじゃないの?って思うんですよ。1本平均100円だとしても、200万円になりますからね。

 

私の場合には趣味がたまたまそういう事情を抱えたものなので、ある意味運が良かったですよ。フジタさんも同様だと思うのだが、趣味が資産になるか?っていうのは、実はかなり大きい。趣味が一切資産にならないケースもあるはず。例えば、旅行とか。そういう趣味は手元に残るものがないですから。食品以外のお土産とか、写真とかくらいかな?ただ、それがある程度の金額で売れるのか?というと、厳しいでしょう。お金に関しては、育った環境とか、自分の能力とか、そういう面によって左右される部分はあるのだが、意外と大きいのがやっぱり趣味なんですよ。趣味を持っていない人ってほとんどいないと思うから、その趣味が資産になるのか?ならないのか?というのは、人生におけるお金の部分でかなり影響します。趣味は自分で選ぶものではありますけど、興味とかそういうものは自分でコントロールできるとは言い難いですからね。自分が生きてきた環境や境遇によって、趣味って決まってくる部分があると思うのです。

 

しかし、今の若い人たちにはそういう資産になる趣味を持つことが困難という現実があるのです。これは森永卓郎氏が出演しているラジオ番組で言っていたことなのだが、若い人は基本的にお金がないから、家賃が安いような狭い家に住むと。そして、狭い家はモノを置けないので、彼らはモノを買うという趣味ではなく、コトを消費するような趣味を持つことが多いみたいな話をしていたのです。つまり、資産となるような趣味を持つ人が必然的に減るということです。トレーディングカードくらいは1枚1枚が薄いので、狭い家でも置けるとは思うけど、最近はテレビやパソコンを持っていない若者が多いわけだから、モノを置くスペースが少ないという理由やそもそも娯楽にお金を使っている余裕がない人も多く、趣味をほとんど持てないという人も出てくる。趣味が持てないような人は、その分が出ていかないのだから、資産にならない趣味を持っている人と比べたら資産として出ていく分はない。だから、この場合には資産にならない趣味を持っている人と比べて、有利な面もあると言えるのかもしれないが。趣味を持つ場合には確実にお金がかかる場合が多く、そのお金がどれだけ資産になるか?というのは、人生設計をするうえでも非常に重要と言えるのではないか?と思います。

 

お金は寝かせて増やしなさい

お金は寝かせて増やしなさい

 

 

あわせて読みたい記事

千葉経済大学の偏差値や難易度と評判は?倍率や合格最低点はどうなっているのか?

千葉県にある私立大学として知名度が高いのは千葉経済大学になると思います。千葉経済大学は経済学部のみであり、経済学科のみという、非常にシンプルな構造となっており、難易度などは把握しやすいということが言えます。千葉経済大学に関しては規模は大きくないものの、千葉県の私立大学では知っている人も千葉県民以外で多数いると思います。付属校が甲子園に出たりしていて、そのつながりでも知名度があるのです。千葉経済大学の偏差値に関しては高くはないですけど、しっかりと難易度を理解しておきましょう。千葉経済大学の難易度に関しては、まずは偏差値を見ておいて、あとは大学の評判なども重要なので、千葉経済大学の評判についても少し紹介していきたいと思います。

 

千葉経済大学の偏差値はどれくらいか?

千葉経済大学の偏差値について知っておきましょう。千葉経済大学の偏差値は経済学部のみですけど、35.0~37.5となっています。千葉経済大学の経済学部ではA日程2科目、A日程3科目、B日程があります。A日程3科目が37.5で、それ以外が35.0となっています。千葉経済大学の難易度としてはこういう部分をチェックしないといけませんが、千葉経済大学の偏差値は全体的に高くはないということです。千葉経済大学の難易度はこういう感じで、学部が1つしかないので、入りやすい学部などもないです。受ける人は入試方式を選ぶことができるくらいなので、考えるべきなのはそこです。一般入試に関しては入試方式が3つありますから、それぞれの入試科目などを調べたうえで、受験をしていきましょう。千葉経済大学のそれぞれの入試科目をチェックしておく必要があるので、大学の偏差値などとは別に知っておきましょう。一般入試で受ける際の千葉経済大学の入試科目はまず頭に入れておいてほしいです。

 

千葉経済大学の一般入試の入試科目は?

千葉経済大学の入試科目に関しては、入試方式別に知っておきましょう。A日程3科目が英語、国語、選択科目となっており、国語は古文、漢文は出ません。選択科目は日本史、世界史、政治経済、数学(数Ⅰ、数A、数Ⅱ)となっています。オーソドックスな感じでしょうか?A日程2科目は国語(古文、漢文を除く)が必須で、数学(数Ⅰ、数A、数Ⅱ)と英語から1つを選択となっています。英語を受けなくても良いというのは大きいかもしれませんが、その場合には数学を受けないといけないのです。B日程に関しては詳しく調べると、2つに分かれているようです。ただ、1つはあまり一般的に受験者が多くなさそうな入試方式です。B方式の前後期一般型に関して、こちらの入試科目は国語(古文、漢文を除く)、政治経済、数学(数Ⅰ、数A、数Ⅱ)、英語から2科目洗濯となっており、この中から好きな2科目で受験ができます。そして、B日程には前後期複合型というのもありますけど、こちらの入試科目は国語(古文、漢文を除く)、政治経済、数学(数Ⅰ、数A、数Ⅱ)、英語から1科目選択です。ただ、面接試験があるようなので、面接対策をしないといけないということになります。そこがやや特殊なのです。

 

千葉経済大学の倍率や合格最低点は?

千葉経済大学の入試科目を理解してほしいですが、あとは倍率も重要です。千葉経済大学の難易度に関係するのが倍率なので、そういったところも把握しておきましょう。倍率に関しては入試方式ごとにやや違いはありますが、概ね1.5~2倍くらいです。低いとも言い難いですけど、高くはないので、千葉経済大学の倍率としてはそういった感じで把握しておきましょう。入試方式によってはもっと低いケースもありますが、せいぜい1.5倍弱です。あまり変わりませんし、高い場合も2倍強くらいですから。倍率というのは千葉経済大学の難易度に関係するので知っておいてほしいです。センター利用入試はやっていないようなので、合格最低点に関しては一般入試のみを把握しておけばいいです。千葉経済大学の合格最低点を把握しておきましょう。千葉経済大学の合格最低点はA日程3科目が300点中180点前後、A日程2科目が200点中120点前後、B日程についてはともに200点中140点前後となっています。この数字は毎年そこまで大きな変動はないと思いますけど、少なからず上下するので、そこは頭に入れておいてほしいです。千葉経済大学の偏差値からすると、問題のレベルが高いとは思えません。だから、過去問があればそれを解いて何割とれるのか?とか、千葉経済大学の問題のレベルとか傾向を分析していくと良いと思います。

 

千葉経済大学のキャンパスの評判や口コミ

千葉経済大学の評判を知ってほしいですけど、特にキャンパスに関しては4年間通うので詳しく理解しておきましょう。千葉経済大学のキャンパスはJR総武線などの西千葉駅が最寄り駅で、そこから徒歩15分くらいとなっているようです。キャンパスまでの周辺状況としては、コンビニやラーメン屋、うどん屋などがあるという在学生の口コミがあります。そして、西千葉駅の隣には千葉駅という大きな駅があって、ここはかなり栄えているので、そこに行って学生は遊ぶようです。総武線を使えば、都心に行くことも可能ではありますが、ちょっと時間がかかります。キャンパスの雰囲気としては、見学に行くと分かりやすいですけど、かなり綺麗です。校舎もオシャレですし、清潔感があって、通いたくなると思えると思うのです。千葉経済大学のキャンパスの評判として、口コミをチェックしても同様のことが書かれています。キャンパス内には女子学生用のパウダーサロン、売店、本屋、学生食堂、トレーニングルーム、そして大きめの図書館などがあって、充実居ている印象です。千葉経済大学のキャンパスの雰囲気は見学に行くと分かりやすいですけど、千葉経済大学の学生の評判を見ている感じだと、キャンパス内も立地条件も含めて、ある程度評価している人が多いようです。

 

大学選びをはじめからていねいに【改訂版】 (東進ブックス 大学受験)

大学選びをはじめからていねいに【改訂版】 (東進ブックス 大学受験)

 

 

あわせて読みたい記事

脇田兼則の正体は何者?ラムである可能性とスコッチが生きてる、生存説の考察について

名探偵コナンにおけるラムの正体は複数の候補がいますが、脇田兼則もその1人です。脇田兼則の考察は多いですよね。主にラムに関するものですけど。脇田兼則に関しては確かに正体が気になるというか、怪しい面があります。声優が千葉繁とかなりの大物なので、何かしらストーリーに関係してくるキャラだと思うのです。脇田兼則の正体がラムであるということではないとしても、単なる寿司職人で終わるキャラではないでしょう。脇田兼則が初登場したのはアニメだと「となりの江戸前推理ショー」で、この回で脇田兼則の素性が明らかになります。個人的にはこの脇田兼則はラムの臭いがぷんぷんするんですよ。それは脇田兼則に怪しい部分があるとかではなく、この脇田兼則が初登場した回そのものにあります。この回でも当然事件が起きるわけですけど、その事件の容疑者の中の1人の発言にちょっと注目がいきました。容疑者の1人が、実は今日家に帰って仮面ヤイバーを観たかった!と発言しますが、この容疑者によると、今日の放送回はボスの側近が登場するらしいのです。何ともタイムリーな!と思いましたね。ボスの側近が今日の仮面ヤイバーで登場するという部分は、ラムを連想させるわけじゃないですか?ってことは、この「となりの江戸前推理ショー」でも、ボスの側近が出てくるのでは?脇田兼則の正体がラムなのでは?と考え、もしそうだとしたら、すごく自然なのになー!と、個人的には思ったのです。

 

でも、逆に言えばラムなのか?どうか怪しい面もあります。この脇田兼則の登場回では、片目が眼帯で隠れており、本人は酷いできものができたから隠していると言っていたが、視聴者から見たら義眼フラグなのでは?と思うかもしれない。ただ、義眼を隠す理由が思いつかないですけどね。義眼って見た目じゃ分からないでしょう。だから、義眼だったとしても眼帯で覆う必要はないですよ。そうなると、眼帯は単なるミスリードと考察するのが自然かな?と。脇田兼則が何者なのか?と言えば、今のところは単なるミステリー好きのおっさんって印象です。実際、この回では脇田が馬券を盗んだ犯人を推理するわけですが、犯人の予想は外れるわけです。これは演技じゃなくて、ガチで外しているように見えるのです。ただ、すでに話したように、声優で千葉繁を使っているので、単なるポンコツキャラという感じでもない気がします。ポアロにはバーボンこと安室透が働いていますし、身近なところにキーキャラクターがいることはよくありますから。脇田兼則の考察をすると、今後ストーリーの本筋に絡んできそうな感じはします。そういう重要人物が毛利探偵事務所のすぐそばにあるいろは寿司にいても不思議ではない気がします。脇田兼則の場合には、今後どういった形で登場するか?が重要になります。

 

そして、この脇田兼則の正体は実はスコッチなのでは?という説もあるのです。スコッチは死んだというのが一応建前ですが、実はスコッチは生きてる可能性もあるのです。脇田兼則の考察ではスコッチが生存しているということで、それが脇田兼則なのではないか?と考えている人もいます。スコッチが生存していて、脇田兼則に変装しているとする説なんですね。スコッチの声優も緑川光というかなり有名な人なので、あれで死んで終わり。というのも、なんかね~?って感じです。登場回は少ないですし、いずれも回想ですから。脇田兼則が何者なのか?単なる推理好きのおっさんというのが、私の第一印象で、推理力は赤井、羽田、安室などには到底及ばないという感覚ですが、正体がスコッチだとするとまた違うのでしょうか?実際、このとなりの江戸前推理ショーの回では、冒頭になぜか過去に放送した「ゾンビに囲まれた別荘」の話を持ってくるんですね。まるで死人がゾンビのように生き返ったかのように見せた。というその話のトリック、核心部分をなぜか、毛利小五郎と脇田兼則の会話の中で登場させています。死んだ人間が生き返るように見せる・・・あれ?スコッチが生きてることの伏線???とも思えなくはないです。ただ、これは「生き返ったかのように見せた」であり、実際に生き返ったわけではないですし、スコッチが生きてるとしたら、むしろ「生きている人を死んだように見せた」が正しいわけです。そうなると、スコッチ生存説は薄いかな?と思うのです。実際、スコッチの年齢は安室や赤井と変わらないくらいかな?そうなると、あんなおっさんに変装するかね?と思います。脇田兼則の考察においてはその正体がまず気になりますが、スコッチが生存しているか?の考察もちょっと関係してくる人物ということは言えるでしょう。

 

脇田兼則のあの口調が、スコッチだというのは何とも想像できません。スコッチが生存しているとしても、変装する必要がそもそも分かりません。死んだことを偽装しないといけない理由があるのでしょうか?むしろ死んだと(安室に)思われている状況の方が、特に赤井にとっては不利なのでは?と思うのです。だから、脇田兼則=スコッチというのはイマイチ納得がいかないのです。脇田兼則の正体がラムという可能性もあるわけですが、どうなんでしょうね?私の中では、脇田兼則が何者か?ラムなのか?という考えはそもそもないのです。というのも、私はラム=ベルモットだと思っているのです。そもそも私はあの方=ベルモットだと思っていますから。あの方は烏丸蓮耶なのですが、この人はすでに死んでいるだろうという見立てのもと、ベルモットが影武者として指示を出していると思っています。そして、ベルモットがボスならば、なぜベルモットがあの方のお気に入りなのか?も説明がつきますから。自分自身がボスならば、自分自身を優遇するのは簡単です。そして、ジンのセリフにある「あの方がなぜ赤井を恐れているのか?分からねえが」という部分に関しても、ベルモットは赤井がシルバーブレットだという認識だからでしょう。で、ラムの容姿は十人十色というのも、ベルモットが絡んでいる臭いがしてきます。少なくとも脇田兼則の正体がラムであるという雰囲気は私はあまり感じないのです。

 

しかし、これは私の感覚の部分です。というのも、脇田兼則が阿笠博士の家を訪ねるシーンがあるのですが、そのときに灰原はいませんでした。灰原がいない・・・なんとも意図的な部分を感じるんですよね。組織のコードネームを与えられた人間の正体が判明するとき、灰原がその場にいることが過去に何度かあったんですよ。ピスコのときもそうだし、バーボンのときもそうです。ピスコのときにはジンに撃たれたあと、煙突から逃げてきたところにちょうどピスコが現れますし、バーボンのときには灰原(に変装した怪盗キッド)に対してバーボンが正体を明かしています。つまり、ラムの正体が明かされるときというのは、灰原がそこに絡んできそうな気がしており、ラムの候補となっている、若狭留美と黒田兵衛はすでに灰原と対面しており、脇田兼則は対面しておらず、かつ対面するチャンスのときには家にいないという偶然・・・これはラムの正体が分かるときのために先延ばししているのか?とも思えてきます。脇田兼則の正体がラムだとするとしたら、そういった根拠も私の中にあるのですが、なんとなくこれが組織のナンバー2・・・?みたいな感覚で、あまりピンとこないんですよね。ただ、見た目でそう思わせられたら、ある意味ラムの優秀さが際立つわけですけど。脇田兼則の考察では、まず何者か?というのが重要ですが、候補としてはラムか?スコッチか?それとも組織に関係ない人物か?ということになりそうです。

 

 

あわせて読みたい記事

青山学院大学のイメージでチャラい人、可愛い子が多いか?という質問をする人と回答する人の思考の問題点

たまたまあるネット掲示板を見ていたら、「青山学院大学ってチャラい学生多いですか?」といった質問が投稿されていて、回答が何件か着ていた。在学生っぽい人の回答もあったのだが、私は「日本人にこのパターン多いよね・・・」と正直、思ってしまったのですよ。青山学院大学の雰囲気とか、学生のイメージを知っておきたいという質問者の気持ちは理解できるとして、なぜそれをこういう場で質問すれば把握できると思ったのだろうか?そこが全く理解できない。この質問は穴だらけなんですよ。まず「チャラい」の定義ってなんだ?と。イメージとして典型的なチャラい学生像のようなものはあるにせよ、その程度は人によって異なるはずなんですよね。だから、質問者と回答者のチャラいという言葉の定義がずれていたら、はっきり言って意味がない。普通に考えたら多少なりともずれているでしょうね。あと、もう1つ重要なのは、仮にチャラいの定義が完全に一致していたとしても、そういう人が多いと言えるか?は比較対象によります。

 

恐らくこの質問をしている人と回答している人は、ともに「多い」、「少ない」という言葉が比較対象によって使い分けられるべきという発想がないんだと思う。これは「強い」、「弱い」とかも同様である。というか、世の中のほとんどの言葉は厳密に言えば、比較対象が存在して意味を成すものばかりだけどね。例えば「バカ」という言葉だってそうだ。バカの定義なんかないので、要するに頭が良い人と比べたときに、バカと言えるわけで、そのバカと言える人をまた違う人と比べたら、そのバカと言った人は今度は頭いいと表現できる可能性はある。非常に不安定な言葉なんですよね。多くの場合は「多い」という比較対象は、世の中の平均と比較したときなのだろうが、この場合のチャラい人の平均って、判断できるんですか?っていうのが問題なんです。何割が平均なのか?が確定しないのです。結局、チャラい人が多いか?って問題は比較対象により、平均と比べるとしてもその平均が分からなければどうしようもない。特定の大学との比較という可能性もあるかもしれないが、そっちも結局分からないとどうしようもない。

 

「多い」って言葉は絶対的な言葉じゃないんですよ。相対的な言葉なのです。私も過去に絶対的な意味合いで、いろいろな言葉を使ってきたことがある可能性が普通にあるだろうから、仮にそうだとしたら当時の私もバカであったと認めざるを得ないが。ただ、今の私からすると、やっぱり違和感しかないのですよ。質問者もそうだし、回答者も「多い」、「少ない」と回答しているときに、比較対象は出していません。つまり、絶対的な見地から多いか?少ないか?を判断していることになるが、その判断に何の意味があるのでしょうか?さっきと同じだけど、どこからが多いって言えるの?少ないって言えるの?という基準がないでしょう?基準がない以上、相対的な比較しか本来はできないんですよ。つまり、例えば中央大学青山学院大学はどっちがチャラい人が多いですか?みたいな質問ならばまだ答えられる余地はあります(両大学のチャラさ具合について知っておく必要があるけど)が、青山学院大学はチャラい人が多いですか?ってのは、普通は答えられないと思います。

 

もはや在学生とかであるということもあまり関係ないわけです。青山学院大学のイメージとか雰囲気について知りたい人は実際にキャンパスに行けば良いんですよ。オープンキャンパスではなく、普通の平日とかに行ってみれば、青山学院大学の雰囲気というものを自分の基準で確かめられるので、ネットで素性も分からない人間に聞くよりも100倍参考になりますよ。実際、その質問者はいくつか着ていた回答に対して、参考になった!とか返していたが、どこに参考になる余地があったのだろう?と思いますよ。100歩譲って、チャラいという言葉の定義を説明したうえで聞いているならばまだ良かったかもしれない。しかし、その場合でもチャラい人が多いか?どうかの明確な回答は出ないわけだが。だって、在学生であっても、青山学院大学の中にその人の基準でチャラい人がどれくらいいるか?は分かりますけど、それが多いのか?どうかの判断は、何度も言っていますけど比較対象によります。で、当然ながら青山学院大学の在学生は青学の雰囲気とかには詳しいかもしれないが、他大学ことまでそんなに詳しいとは思えない。詳しいところがあったとしても、1つや2つじゃ足りないでしょう。質問者の意図は、恐らく世間一般の大学(つまり平均)と比較して、だと思うのです。そうなると、世の中の数多くの大学の雰囲気について詳しくならないといけないわけですから、普通に考えたら、青山学院大学にチャラい学生が多くいるか?なんてのは判断できません。

 

青山学院大学の学生のイメージとしてはチャラいみたいなのがあるのかもしれないが、それも所詮はイメージですからね。それにチャラいことが何か問題なのか?とも思いますが。青山学院大学の雰囲気は青山キャンパスと相模原キャンパスでも違うでしょうし、やっぱり見学に行ってみるのが良いんじゃないですか?こういう場で質問しても、お互いの感覚に一致する部分がある保証がない中でも質問なので、私は時間の無駄にしか思えません。あと、似たような質問で「青山学院大学は可愛い子が多いか?」みたいなのもありますね。これも同じです。可愛い子の定義もなければ、多い、少ないの基準もありません。比較対象によります。こちらも実際に大学のキャンパスに行ってみれば分かるんじゃないですか?青山学院大学は可愛い子が多いか?どうかが気になるならば、事前に見学をして確かめておくのが良いと思います。可愛い子の定義なんて、チャラい以上にブレがある気がしますからね。そういうところを気にする人は後悔しない大学選びをしたいならば、実際に見学しておくのが良いと思います。普段の授業があるような日に行ってみると良いと思います。実際、可愛い子が多いというイメージ自体はあるんだろうから、ルックスに自信がない子は避けるかもしれないね。そういう意味では、他大学と比べたときの青山学院大学は可愛い子が多いというイメージについては、理屈から言えば当たっている可能性もなくはないと思うが。

 

こういう部分って、実は結構いろいろなところで見られるんですよ。思い返してみれば、こういうことを言っている人ってよくいるなーと感じられます。例えば、スポーツとかで、特定のチームに関して、「〇〇が強いんじゃなくて、他が弱いだけ」とか言っている人を何度も見たことがあるのだが、これもおかしいですよね。強いっていう概念はやはり相対的なんですよ。他が弱いって言ってる時点で、その他よりも強いってことが自動的に決まるわけです。草野球をやっている一般人とプロ野球選手を比べたら、前者は劣るだろうが、小学生相手だったら普通は勝るだろう。草野球と小学生の比較というのは次元の低い比較かもしれないが、この中で草野球の大人の方が小学生よりも野球が上手いというのは間違いではない。だから、他がどれだけ弱体化していようとも、その弱体化したチームよりも順位が上のチームは強いと言えるわけだ。だから、他が弱いと認めている中で、その他じゃないチームが強くないって言えるなんて状況は基本的にありえないってこと。相対的な概念である言葉を、まるで絶対的な概念を持ちうる言葉として使う人はよくいるもんだなと、過去に見てきたが、多分今後もいなくならないんでしょう。日本の気質とも言うべきか?自分の主観が事実として正しいと思ってしまうからこそ、相対的なものの見方ができずに、こういう絶対的なものの見方をしてしまうのでしょうからね。私もそういうものの見方はできるだけしないようにしたいと思っていますが。

 

青山学院大の英語[第6版] (難関校過去問シリーズ)

青山学院大の英語[第6版] (難関校過去問シリーズ)

 

 

あわせて読みたい記事

日本を救うという考えの違いが面白い?評価の高い東のエデンという作品

今からちょうど10年前でしょうか?「東のエデン」というアニメがフジテレビで放送されていました。深夜アニメで、ノイタミナ枠というアニメを常に放送している曜日、時間帯だったので観ていた人も多いでしょう。東のエデンというアニメは、私リアルタイムでは観ていなかった。当時の新聞のテレビ欄でそんな名称を見た記憶はあったな・・・くらいの感覚で、その後DMMで1500円くらいでアニメ11話を実際に見てみたのだが、タイトルに惹かれてしまったというのが正直なところだ。このアニメはそもそも何をテーマにしているのか?分からない状況で見て、そういうことだったの!?という、新鮮な気持ちが芽生えましたね。アニメとしては結構深いテーマに突っ込んだ内容で、2009年と言えば、私は大学3年生だったわけだが、恐らくこのアニメの主要キャラとほぼ同じ年齢だったに違いない。そういう意味でも、後々視聴してみるとなんとなく親近感が沸いてくる。

 

この東のエデンというアニメは、一言で言えば100億円を使って日本を救う義務を課せられた12人のプレイヤー(作中ではセレソンと呼ぶ)の物語であり、「日本を救う」というのは、具体的に何なんのか?は明らかにされず、12人の中の先着1名だけが最終的にこのゲームからあがることができるという設定だ。残りの11人は消されるということになっている。この設定を見たとき、私は以前マンガとアニメどっちも見たことがある「未来日記」と設定が似ているなと思ったが、実際にアニメを見ると結構違いがありましたね。未来日記は、自分の未来が勝手に予知される未来日記を持たされた同じく12人によるサバイバルゲームであり、12人のプレイヤーがお互いに殺し合い、最後に残った1人だけが神になれる権利を持つという。しかし、東のエデンサバイバルゲームをするわけではなく、各自が自分の信念に従って、日本を救うためにお金を使っていく様を描いている。他のセレソンに干渉することはそんなにない。そして、一部のセレソンは協力しあったりもしているが。

 

日本を救うって何?っていうのが、当然ながら疑問なわけで、模範解答のようなものは一切用意されていない。だから、12人のセレソンは100億円の使い道が全く違う。日本を救うなどとは無縁な私利私欲の使い方をする人もいれば、国家を動かすために使っているものもいるし、この国への復讐のためにミサイルを発射し、大量殺人を実現したものもいる。そして、そもそも日本を救うなどどうでもよく、お金を一切使わないようなセレソンまでいる。ここが東のエデンの面白いところなのだ。それぞれ正解だと思っている日本の姿がそもそも違う。そして、このゲームの主催者は実は彼らが実際に動いている時点で、この世にはいないらしいのだが、この主催者がどんな日本を理想としているのか?も彼らには知る由がない。強いて言うならば、この主催者はかつて日本における大企業の創始者であり、戦後日本の礎を作ってきた人物とされている。その戦後における日本の発展そのものの意義を現代において問うてるような、そんな感じがする。東のエデンは面白いと感じている人もいれば、ちょっと意味わからんと感じている人もいるらしい。結構非現実的なシーンもあるからね。

 

100億円の使い方に関して言えば、現実的に、物理的に可能な範囲ならば何でも叶えられるようになっている。つまり、人を殺すことも可能である。日本を救うという大義のためならば、人を殺すこともこのゲーム内のルールでは認められており、各セレソン自身が人を殺したという証拠の抹消なども可能である。そうやって理想的な日本を実現すべき動くわけであるが、私が実際にセレソンになったら、何をするか?日本を救うっていう定義をまず考えないといけないが、このアニメは既得権益ってのが1つのワードとして物語の後半に何度も出てくる。既得権益を持った一部のおっさんとそれに対抗する若者という点も描かれており、いわゆる格差社会のような面が鮮明に見えるのだ。2009年当時は現実の日本もそんな世の中でしたね。日本を救うと言えば、私が思い描く世界で言えば、不幸を感じない社会の実現だろうか?人が不幸を感じるときってのは、他人と自分と比べるときだ。それをなんとかするためならば、やることは決まっている。私がセレソンだとしたら、やることは主に2つである。1つは日本国民全員の記憶を消すこと。もう1つは日本における文明を一気に退化させることです。

 

記憶を消すことは可能なのか?と言えば、普通に可能らしい。実際、作中では主人公がある理由から自分の記憶を消している。日本国民全員の記憶を消すことが100億で可能なのか?はとりあえず置いておくが、なぜ私が日本を救うために、国民を記憶を消す必要があるのか?と言えば、私が影響を受けた政治学者のロールズという人物の正義論という考えに由来している。ロールズは正義論の中で、「無知のヴェール」という考えを披露しているのだが、これは正義はどうやって決まるか?というときに、自分の存在に関して詳しく知ることができないとき、人は自分が不遇な状況に置かれることを避けようとするはずだと考え、その結果平等が実現するとしている。つまり、自分がどんな人間か?有能なのか?無能なのか?すら分からない状況では、自分が社会の仕組みによって虐げられることを恐れ、みんな平等な社会にしましょうと多くが願うはずだ。というのがロールズの考えになるのです。現代は各自が自分の能力を知っているし、能力を知っているがゆえに、有能な人間は富み、無能な人間は貧困に陥りやすい。その結果、格差が生まれる。そして、有能な人間が社会の仕組みを作り、既得権益を持ち始める。そこを問題視しているのがこの東のエデンの面白いところもであるのだが、私は一部共感しますよ。

 

すると、その連鎖を断つにはロールズの考え方と同じ状況を実現すれば良いとなる。各自が自分の能力に気付けない状況だ。そのために記憶を消し、かつ文明も退化させる。つまり、ネットなどない状況で、かつ他国がどうなっているのか?すらも知りえない(正確に言えば日本以外に国があるという感覚もなく、そもそも国という概念すら持たない)状況を実現する必要がある。分かりやすく言えば、縄文、弥生時代のような状況にするってことだね。そうすれば、例えばサッカーボールなどがないわけだから、サッカーが上手い人もそれに気付けない。他人と比べられる余地がほぼない状況を作れば、人は不幸を感じない。当然ながら、この状況を作ると「死」という概念もないだろうから、死ぬことへの恐怖も感じづらいはずだ。しかしながら、こういう状況を作っても、効果は期間限定だろう。だって、縄文、弥生時代を経てその後実際に日本は発展してしまったのだから。つまり、今日本をそういう状況にしても、また同じ状況になるんだろうなと思っている。そのときにはまたセレソンを使った同じようなゲームが開催されることを祈るしかないのか。それに私が考えた日本を救うという理念は、私の中での正義による結論なので、賛同者が多くいるとも思っていない。そんな日本は嫌だ!と反対する人が多くいるだろう。ただ、どんな救い方をしても、異論が出るのは間違いなく、日本を救うというときに、正解となる回答はもはや存在しないだろうと思う。それは私がすでに指摘したように、格差が出来上がってしまっているから。格差があるってことは、立場が違うってこと。

 

先に出したミサイルを撃って大量殺人をやってのけたセレソンのやり方に賛同する人も少なからずいるはず。それは同じく日本に対して復讐心を持っている人だろうし、自分の人生に充実感なんてほとんどないって人だと思う。逆にそんなやり方は賛同できないって人は、今の自分の人生にある程度充実感を持っている人の割合が高いのではないか?と思う。既得権益を持つものと持たないもの同士、理想とすると未来は違うし、それが違うものである以上、お互いをともに幸せにする方法はないのではないか?と思っている。すると、やっぱり平等にするしかないよね。となってしまうのだ。私の目から見れば、作中で各セレソンがやっている100億円の使い方は、全員を幸せにすることはまず無理だろう。日本を救うという定義の違いがあるので、全員を幸せにする必要なんかない、日本国の維持と発展が重要だというのも分かる。それが社会なんだろうということも分かるし、このゲームからあがったところでどうせ自分の理想的な状況は実現しなんじゃないか?とも察している。このアニメはテレビ放送していた11話と映画によって完結するようになっており、映画まで見ないと結末は分からないが、最終的にはニートって有能だよね!って、メッセージも感じ取れる。閉塞感が漂う日本の空気を打開するために、現実に存在する常識を打破しようとする姿も見て取れる。あとは就職するってクソだなと感じるシーンもある。そういう意味でも異色の作品ではあると思うが、東のエデンにおいて描かれている最後の姿は、多くの人にとって理想の日本なのか?そうじゃないのか?あなたはどのように感じるだろうか?

 

 

あわせて読みたい記事