就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

綺麗ごと抜きで言うと、商売の基本は「バカをいかに騙して利益をあげるか?」である

私の持論の部分も含むけど、基本的にビジネスというのは「バカをいかに騙すか?」を徹底しているように見える。もちろんみんなそんなことは口が裂けても言わないが、有能な人ほどそれを実践していると思うのよね。日本人だけなのか?は知らないけど、私は多くの日本人を見てきて、ものすごい頭が悪いなと思う瞬間がある。何日か前にトレードオフの概念が欠如しているという点を挙げたが、実はもう1個重大な問題があるのだ。それは状況が明らかに違うものを普通に比較して、優劣を判断してしまうということです。これは私が日本人を見ている限り、多くが平気でやっていることなのです。例をあげたらキリがないくらいに。1日1回はそういう場面に遭遇する。例えば、今日遭遇した例を挙げさせてもらうと、先日プレミア12という国際大会で野球日本代表の侍ジャパンが優勝した。前回は確か3位だったんじゃないか?と思うけど、今回は優勝をしたということで、前回大会の小久保監督と今大会の稲葉監督を比べている人が普通にいるのです。

 

いやいや、そもそも選べる選手が違うし、日本以外のチームの強さも違うし、大会のレギュレーションが違うしってことで、比較をする以前に状況が全く違うんだけど、なんでこの状況で比較をしてさ、稲葉監督と小久保監督の優劣を判断できるとおもっちゃうわけ?(笑)前回大会で稲葉氏が監督を務めていても同じく優勝できたと断言できて初めて、両者の優劣が比較できると思うんだけど、そんな証拠どこにもないの。それぞれの監督の能力面、手腕を結果論から評価できると思ってしまう人たちが普通にいるということ。単純比較をするということは、比較をする際に揃っているデータのようなものが完全に公平である必要があると思うのだが、すでに話したように全く公平じゃないわけ。公平ではないということは、それが揃ったときには十分に結果が変わる可能性があるということ。で、タイトルにもあるような、商売はいかにバカを騙すか?というのは、この部分を突き詰められた結果でもあると思っているのです。多くの人は騙されているとは思っていないが、知らない間に騙されているのです。で、騙されたことに気付かれては困るので、誰もそのタネ明かしをしない。というか、タネ明かしができる人がかなり少ないんだと思う。騙されない人がほとんどいないんじゃないだろうか?

 

ビジネスにおいて、バカを騙して利益をあげている顕著な例だと思うのが、私は大学とか高校などの学校だと思っている。こういうところはまさにバカを相手に商売をして、バカを騙して利益をあげている存在だと思うのだ。学校は不特定多数が多く通うから、その中に当然バカは大量に含まれている。その最たる例としては、それぞれの学校が用いる「実績」というもの。高校だったら有名大学の合格実績とか、大学ならば就職実績などが代表だろうか?これって、さっきと同じなんですよ。実績として評価する中で、公平なデータがまず揃っていると言えるのか?という問題があります。高校の大学の合格実績で言えば、これはその高校の生徒が残した実績としては正しいが、高校の実績ではないだろうと思うわけです。まるで高校の手柄のように扱っているところが多いと思うけど、高校の力だけではなく、生徒のポテンシャルが重要なわけでしょ?生徒のポテンシャルがそれぞれの学校の実績を左右する要素としてむちゃくちゃ大きいのよ。で、そのポテンシャルっていうのは生徒ごとに違うし、学校ごとにも違う。つまり、合格実績を評価するってときには、他校と比べてってことになると思うが、他校と比べて生徒のポテンシャルが全く同じではないのだから、その高校の実績から優劣を判断することは不可能なのです。つまり、高校の指導力そのものは判断できない。中学生や保護者が合格実績を見るときには、自分(自分の子供)がどのレベルの大学に入れそうか?どのレベルまでの指導が期待できそうか?の目安として見ると思うのだが、目安にはならないんですよ。実績から高校の受験指導などの実力は測れないから。

 

これは就職実績も同じで、就職率の高低をいろいろな大学ごとに比較して、自分が入る大学を決めるような人もいると思うけど、就活もポテンシャルが重要であり、ポテンシャルが高い学生が多くいるところとそうじゃないところに分かれます。ポテンシャルが高い学生が多く集まっているところの就職率が高いのは当然で、ポテンシャルが低い学生が多く集まっているところの就職率が低いのも当然とも言えるのだが、就職率の高低を比較するときには、そこまで考慮しないといけない。就職率が高いところに行った方が自分が就職できる確率が上がるんだ!と思ってしまうような人は、私は頭が悪いと思っています。就職率が高いのは大学の就職サポートが手厚いからとか、大学名が有利に働いているからと一概には判断できず、そもそも就活に向いている学生が多くいるだけかもしれない。そんな大学に入った人が超絶コミュ障だったら?就職できる可能性は相当低い。

 

大学がオープンキャンパスとか開くと、その大学の就職実績を高校生らにアピールする光景は見慣れたものだと思うけど、その実績はその大学に在籍する学生の有能さをアピールすることとしては正しいと思う。しかし、その学生が有能だとしても、それは別の人がその大学に入ることで就職が有利になることと=ではない。その大学に入って就職が有利になるか?というのは、主にサポート面の充実度や大学名が有利に働くというケースが存在すればの話だが、それは実績から学生の能力面を引いた残りの部分ということになる。ただ、それは現実的にはできない。学生の能力面だけ結果から評価することができないから。言ってしまえばオープンキャンパスというもの自体がまさにバカを騙しているイベントとも言える気もするが。こんなものは大学の宣伝が目的の99%ですから。高校生らのためではなく、大学のためにやっており、しかも普段の大学と同じか?どうかを問わず、意図的に良いところのみを見せようとしている。高校の学校説明会でもありえることだけど、オープンキャンパスに行って大学選びの判断をするよりは、普段のなんでもない日に行った方が絶対に良い。オープンキャンパスというものを楽しみたいといった目的ならいいけど、大学選びの参考にしたいならば、オープンキャンパスは入学希望者にとっては役に立たないどころか、邪魔な存在である。高校の場合には、学校見学をするときにわざと綺麗な場所ばかり連れていかれて、入学後にそうじゃない場所が多くあることに気付いたみたいな声を結構聞くのです。学校側の意図を事前に読むことができれば、そういうことは事前に想定できるが、多くの人は騙されてしまうのです。

 

話は戻るけど、私から見れば高校や大学が実績をアピールしているというのは、単にバカを騙そうとしている光景に見えてしまうのです。あとはそもそも就職を有利にしたいならば、有名大学、偏差値の高い大学に行った方が良いという一般的な言説もあると思うけど、これもまさにバカが騙されているケースだと思っています。有名大学に進学するとなぜ就職が有利に運ぶと思っているのか?これが疑問なのです。有名大学に進学すると学歴面で有利に働くことがあるかもしれない。大学名が就職に無関係と言える証拠もないから。しかし、高学歴だから存在するデメリットもあって、そこを考慮する力がないのかな?と思えて仕方ない。この前のトレードオフの話にも似ているのだが、学歴が高いことで存在する就職における有利な面しか多くは注目しないんですよ。学歴が高いことで存在する就職における不利な面を見る気がないというか、そういうものが存在しているという発想がないのです。高い偏差値の大学に進学すると、大手企業を狙う人が増えるはずだ。それは有名大学ほど中小零細ではもったいないと思ってしまうからであり、結果的に大手病と言えるような、大手企業じゃないと我慢できない人が増える。一方で、Fランク大学に進学した人は、ある意味最初から大手企業は諦めて身の丈に合った中小零細を受ける人が増えると思う。その結果、単純に内定のとりやすさに関しては、Fランク大学の方が上ということもありえるのだ。特定の超有名大学と特定のFランク大学を比べて、後者の方が就職率が高いということは現実的にありえる。

 

そういう意味では高い偏差値の大学とFランク大学で就職実績に違いが出ているのも頷ける。それは大手企業を受ける人数が明らかに違うだろうと推測されるからだ。Fランク大学の就職実績を見て、大手企業に就職している人数の少なさから、大手に入るならば有名大学に行った方が良いんだ?と思うかもしれないが、これは完全に結果論です。受ける人数が違うのだから、受ける人数が多い方が大手企業への就職実績が良好になるのは当然である。人数で比較をするならば。結果論では、Fランク大学が大手に相対的に就職しづらいのか?は確実に判断することができない。それは学生のポテンシャルの違いもあるので、仮に率で比べてFランク大学の方が劣っていたとしてもだ。実績から言えることは、高い偏差値の大学と比べて、Fランク大学の学生は大手企業に就職した人が少ないということだけです。高い偏差値の大学とFランク大学ってのは、就職においてそれぞれ一長一短だと思います。つまり、どっちは行った方が有利か?というのはケースバイケースになるのです。さっき言ったように、大手病になりづらいという意味ではFランク大学の方が就職に有利な場合がある。企業の規模を無視した場合には。

 

あとは大学が実施している学生へのサポートの充実度にも差がある。有名大学ほど就職支援には力を入れません。学生が勝手に実績を作ってくれるから。それは学生自身のポテンシャルの問題もあるがね。それに有名大学は偏差値が高いということや知名度がブランドになっているので、それで受験生を呼べる。しかし、Fランク大学知名度もなければ、偏差値も高くないということで、経営をまともに成り立たせるには、就職で実績を出すのが1番なのです。特に就職率に関しては最高のアピール材料になります。大学自体の魅力を作るにあたって、1番簡単なのは就職実績だと思う。だから、Fランク大学ほどそこに熱を入れるわけ。そして、大学名では有利にはなれないから、学生自身のスキルを高めさせることに努めるだろう。よって、就職サポートは有名大学よりも力を入れてくれるはずだ。あとはFランク大学は学生数が定員割れしているところもあるなど多くなく、職員が1人1人に対応しやすい、1人にかけられる時間が多くなるというメリットもある。そこも含めてサポートが充実しやすいのはFランク大学だと思われる。つまり、コミュ力などに長けている学生は有名大学に進学して、学歴という武器を手に入れればいいかもしれないが、コミュ力がない学生はそのスキルを習得するのに努めるべきであり、相対的に就職サポートが充実していると思われるFランク大学の方が良いと思う。学歴があっても、コミュ障だと就職は厳しいと思いますよ。確実にコミュ力の方が就活では重要です。

 

万人が有名大学、高い偏差値の大学に進学した方が有利!なんてのは嘘です。ここも騙されているというか、考える気にすらなってない人が多くいると思います。就職に対する意識が高い受験生ほど就職実績が優れている大学を選ぶかもしれないが、それによって意識の高い学生ほど就職実績が良いところに集まる。甲子園の強豪校にいい選手が集まるのと同じ。その学校は毎年強いわけだが、就職実績も同じであると。強豪校というのは、良い選手が多く集まっているから強いと言える面もあるわけで、就職実績が良いところも優秀な学生の力なくしてはなしえない。つまり、学校の力=学生の力でもあり、就職実績はやっぱり結果論だなと思います。逆に就職のことをまともに考えていない人ほど、就職実績なんか見ないし、就職実績があまりよくない大学進学する率が高まると思います。結局そういう違いがある中で、どっちが就職に有利か?なんて判断しても意味ないのです。入塾時点で偏差値30の生徒しかいない塾と、偏差値60の生徒しかいない塾で、東大の合格実績がそれぞれ5人と10人でした。人数が多いから、東大に受かりやすい(塾としての指導力が高いと言える)のは後者の塾ですか?とはならないわけです。そういう前提条件が明らかに異なっていて、単純に比較をしてしまうことが明らかに無意味である状況であっても、日本人はその比較をしてしまう。それによって誤った判断をする。それに気付かない。だから、騙されてしまうのです。

 

私の話になると、私は高校時代に自分としては良い大学に進学できたと思っているが、その結果に関して高校がどれだけ貢献したか?というと、2パーくらいだと思っています。当時の私の高校の合格実績で言えば、トップクラスのレベルの大学に受かったのだが、私の受かった大学は高校のホームページの合格実績欄に載ってましたし、合格体験談を依頼された記憶もある。高校の合格実績に載ったってことは、完全に高校の手柄にされた感はあるが、私の感覚だと高校の授業でやったことが入試で生きたとか、基礎学力を高めるに役立ったとは、正直あまり思えない。というのも、私は学校の授業とか、全然真面目に聞いてなかったし、高校3年生のときは受験を意識した勉強だったので、学校の定期試験のための対策なんて全然してなかったから、学校の成績はよくないです。授業中は自分で買った参考書などを使って内職しまくってたしね。学校の勉強が邪魔とは言えないものの、自分のペースで受験勉強をやらせてほしかったとは思っていました。完全に独学で受験勉強をやっていて、そこで得た知識や経験のみがほぼ役に立ったと私は思っています。そういう人は多いと思いますけどね。これは予備校でも共通する部分はありそうな気はしますが。学校の授業ってのは全体を意識してやるもので、個別の生徒への対応は難しい。だから、結果的に役に立たない部分は大いに生まれる仕組みになっている。

 

高校の合格実績や大学の就職実績というのは「バカを騙して儲ける」典型例だと思ったから挙げたものの、こんなのは氷山の一角でしかない。バカを騙して儲けるというのは、世界中のいろいろなところで行われている。詐欺罪に該当しない範囲で、人を騙してお金を巻き上げる商売はいくらでも存在すると思う。この要素が1ミリも存在しないビジネスは1つもないんじゃないか?と思います。逆に言えば、世界中の人が本質部分を見ることができるようになってしまったら、バカを騙して儲けることが厳しくなるので、別の方法を考えるしかない。ただ、多くの人が本質的なものの考え方ができるようになると、確実に物は売れなくなると思う。経済のことを考えるならば必要悪とも言える状況なのかもしれないです。これが良いことか?悪いことか?というと、多くの人は感情的には良いこととは思えないと思う。それはバカにされているイメージがつくからだろう。しかし、そうしないと商売が成り立たない面もある。国も恐らく国民が頭が良くなりすぎるのは問題だと思っていると思います。教育内容とかはそういった面を絶対に考慮して作られていると思います。口には出さないが、バカはバカのままでいてほしいと思っている人は結構世の中にいるんじゃないですか?学校に進学をさせること、通わせることが当たり前になってしまっている日本ではこの状況は変わらない気はしますが。学校って、将来社畜になる資格を得る以外に何かメリットがあるのか?私は理解ができない。

 

 

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トレードオフの概念の欠如が、日本人の頭の悪さの象徴かもしれない

これまで日本人を長く観察してきたが、私は基本的に全体的に日本人は頭が悪いと思っている。外国人との比較ができないので、私の単なる主観による判断でしかないので単なる感想だと思ってもらって構わない。それに私自身も頭が悪いからもしれないし。私も日本人なので(笑)そんな私からすればどうしてそんなことも分からないのだろう?と思うことが今までに多々あった。その1つがトレードオフという概念が総じて欠如しているということだ。そもそも「トレードオフってなんですか?」と聞いたら、結構な割合で意味を答えられないんじゃないか?と思うのです。「「最低賃金1000円」が実現した時に、この国で起きること(加谷 珪一) | 現代ビジネス | 講談社(3/3) 」からの引用でも書かれている通りだが、日本人はやっぱり頭悪い人が多いんだなと思うんですよ。私もそういう人に出会うとイライラすることもあるが、相手にしたくないと思えばスルーしますね。言っても分からない人だなというケースが結構あるんですよ。

 

>日本人はトレードオフという概念が希薄であり、よい施策を行えば、すべてがバラ色に解決すると考える傾向が顕著である(常に正しい解答が用意されている暗記型学習の影響も大きいかもしれない)。現実の社会においてそのようなケースはほとんどなく、何かを取れば、何かを失うことが多く、トータルで損得を考えなければならいことが圧倒的に多い。

 

私が最初に日本人がトレードオフという概念が欠如しているなと感じたのは、5,6年くらい前かな?ベーシックインカムの話で、導入に批判的な人が理由にあげていたのが、介護などの職を担う人がいなくなるというものだったのです。それを言っていた人たちは、それがベーシックインカム反対の理由になると思っちゃっているわけです。ただ、それはそういう側面があるということを言ったに過ぎない。なぜならば、これは結局トレードオフの問題だからです。彼らは介護を受けているような人たちが困るということが、ベーシックインカムに反対の理由なのでしょう。しかし、困る人がいる一方で、ベーシックインカムがあるから助かる人もいますよね?という話なのよ。その困る人は助かっている人がいる一方で起きていることなのです。それが反対の理由になるなら、こっちが賛成の理由になっちゃうわけですよね。介護職を担う人間が減ることが社会的にとって相当致命的である理由を説明できないならば、賛成の理由が生まれている時点で、相殺されてしまいます。それ以降、私は日本人はトレードオフの概念が欠如しているなーと感じることが非常に多くなりました。

 

特に最近顕著な出来事があったのですが、それが5chのある板のあるスレッドを覗いていたときに、私の母校の大学が批判されていたんですね。批判の内容は「キャンパスが狭い」ということだったんです。私は狭いと感じたことなかった(正確には他大学のキャンパスの広さを知らないから比較ができない)ですけど、世の中には狭いと感じているという人もいるということで、そこは良いんですよ。個人の感じ方だから。ただ、その批判をしていた人は、どうも狭いことを悪いことと捉えているようで、私はあっけらかんとしてしまいました。キャンパスが狭い=悪いことって思っちゃうんだー?と、衝撃的でした。キャンパスが狭いと確かに困ることはあると思う。ただ、そもそも狭いって言われても、あなたが感じている狭さと私が感じている狭さは違うから。みたいな話になってくるわけですよね。狭いって言葉は絶対的な言葉じゃないから。相対的な言葉だから。どこかの大学と比べて狭いなら分かるけど、この人もこの前の記事で言ったような、相対的なものの見方しかできない人なんでしょう。狭いって言葉は日本人なら全員が同じ感覚になれる言葉じゃないのよ。ってことは、比較対象が存在しないと本来は使えないのよ。

 

この時点で頭が悪い人なんだろうなと、ちょっとイライラ気味だったが、レスバトルには参加せずにレスの行方を見守っていたけど、終始キャンパスが狭いことと、それがよくないといった口ぶりのレスが続いているだけでした。反論している人もいたけど、私の思っていることとは違っていました。私の大学のキャンパスが狭いというのは、何との比較なの?という話なんだが、この人は主観で広い、狭いの2択のうち狭いという選択をしたのだろう。ちょうどいいという選択肢もあったかもしれないが。その判断に何の価値があるのか?とも思ったけど、何よりも問題なのは、この人は狭いことを悪いことだと捉えていることなんですよね。狭いからこそ起きているメリットに気が付かない。例えば、私の出身大学のキャンパスは都心にあるわけで、立地は結構良いって言われているんですよ。つまり、それは多くの人にとって一般論で言えばメリットなわけじゃないですか?ただ、立地が良い(大きな駅の近くにあるなど)とされていることにもデメリットがないのか?と言えば、ないこともないだろうけどね。したがって、その場合には立地が良いということが必ずしも良いということではなくなるけど。そうなれば、私もトレードオフの概念が乏しい日本人の1人ってことですよ。タイトル通りで間違ってないでしょ?(笑)一応、ここで立地が良いということは、プラスの要素として考えていくが、そのうえで都心にキャンパスを作ろうと思ったら、場所はそんなにとれませんよね。だから、郊外にあるキャンパスよりは絶対に狭くなります。敷地面積で言えば。

 

キャンパスの立地の良さは敷地面積と絶対にトレードオフの関係になるんですよ。広い場所にキャンパスを移転したら、絶対に立地が悪くなります。で、今の立地を維持したままキャンパスを広げる方法はあるのか?と言えばないと思います。現実的な方法としてはまずない。だから、キャンパスが広くなっても、立地が悪くなるなら狭いままでいいと思う人もたくさんいると思います。キャンパスの評価をするときには、メリットとデメリットの両面を見て行うべきだと思うのだが、この人は頭が悪いからデメリットだけ見て評価しちゃってるの。狭いのはデメリットかもしれないけど、狭いからこそ生じているメリットを見る気がないというか、発想がないのよね。トレードオフという概念がないから。引用した部分にも書いてあるけど、トータルで物事の損得を判断するという能力がないわけですよ。だから、実際に私の大学のキャンパスを移転するか?という案が浮かんだときには、デメリットだけ考慮するなんてありえないわけです。メリットも含めて考えて、トータルでどっちが望ましいか?を考えるべきなのに、視野が狭い人っているんだなーって、本当に思うばかりですね。

 

あるメリットを達成しようとしたら、あるデメリットがつきものな時点で、そのデメリットの指摘はあまり意味ないのよ。なんだろう?投資っていうのは、短期的な収支で言えば損をするわけじゃないですか?でも、長期的に見たら得をする可能性があるからやるわけですよね。この場合、短期的な損を指摘して何の意味があるんですか?長期的な得を得るためにはほぼ必須とも言えるものなので、問題はその長期的な得の大きさとの比較になるわけです。だから、さっきの話で言えば立地条件の良さとキャンパスの狭さを比較したうえでの評価をするなら分かるのよ。立地条件とキャンパスの狭さはある程度比例関係にあるわけだから、絶対にセットで考えないといけない。でも、そういう発想がない人は実際いるわけで、多分世の中に多くいるのだと思います。恐らくだけど、日本人の多くは少子化が悪いことだと思っているはずなのです。でも、それって少子化のデメリット以外も見ての考えなのか?というのは疑問ですよね。そういうことです。

 

そもそも私は授業間の移動時間が短くて済むので、キャンパスが狭いことそれ自体もメリットだと思ってますけどねw私にとっては移動時間が短いって結構重要ですよ。私の場合には自分の部屋が広いことにメリットを見出せませんし。狭い方が掃除も楽だし、モノをあまり置けないから、結果的に浪費が減り、良いなと思っていますよ。キャンパスが狭いということだけに注目しても、それがデメリットと言えるか?はその人次第でしょう。ちょうどいい大きさってのは人によって違うわけだから、私の大学のキャンパスの敷地面積がもっと広い方が良いと思っている人もいれば、狭い方が良いとか、今のままで良いという人もいると思うのです。自分の価値観が絶対って人が世の中には多くいるってことですね。私は無視しますけど。

 

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明治学院と國學院はどっちが上で頭いい?偏差値やレベルとイメージや雰囲気の違いは?

明治学院大学國學院大學というと、結構レベルが近いイメージを持っている人も多いと思います。明治学院大学國學院大學は一応同じ大学群としてくくられることが多く、レベルはほとんど変わらないとされています。しかし、現実はどうなのか?明治学院大学國學院大學の難易度はほぼ一緒と言えるのか?また、明治学院大学國學院大學の違いはどんなところにあるのか?について知っておくと良いと思うのです。どちらも難関大学に近いレベルで、かなり難しいと言えると思います。頭いいという雰囲気はそんなにないかもしれませんが、私大難化が続けば、明治学院大学國學院大學もそのうち頭いいという印象が芽生えてきやすいと思います。私大難化の中で、両者の偏差値はともに上がってきていますから。河合塾の個別日程の偏差値を使って、明治学院大学國學院大學はどっちが上なのか?という部分をまず説明していきたいと思います。

 

明治学院大学國學院大學の学部別の偏差値は?

明治学院大学國學院大學のレベルをそれぞれ確認していきますけど、まずは文学部になります。文学部は國學院大學の看板学部となっていますが、明治学院が55.0~57.5、國學院大學が52.5~60.0となっています。どちらかと言えば、國學院大學の文学部の方が偏差値の幅が広いです。つまり、かなりレベルに差があるということになります。でも、これを見ると、文学部に関しては差がありません。したがって、明治学院大学國學院大學の文学部の比較で言えば、どっちが上とかはほぼないでしょう。学科次第です。次は法学部になりますが、明治学院大学國學院大學の法学部に関しては、明治学院が52.5~57.5で、國學院が55.0~60.0となっています。なんと文学部よりも法学部の方が偏差値が高くなっているのが國學院大學なのです。そして、法学部に関しては明治学院大学國學院大學では差があります。同レベルではないです。法学部に関しては、明治学院大学國學院大學ではレベルに差があり、國學院の方が上と言えそうです。

 

そして、経済学部ですが、明治学院の経済学部が57.5~60.0とかなり高いです。國學院の経済学部は57.5~60.0となっており、明治学院大学國學院大學の経済学部の比較に関してはほぼ同じと言えるのです。どちらも非常に高いレベルで、MARCH下位レベルくらいありますから、本当に難易度が高いと言えるのです。明治学院大学國學院大學の学部ごとの難易度の比較ではこういったところになります。國學院大學の学部はあまり多くないので、明治学院大学と被っているところはそんなにありません。文学部、法学部、経済学部で比較をすると、明治学院大学國學院大學はどっちが上か?というのは、そんなに差はないと思います。というか、ほぼ同じです。あとは明治学院大学は心理学部と国際学部の2つの偏差値が高く、そういったところを含めると明治学院大学の方が上と言えるとは思いますが。特定の学部同士での比較で言えば、どっちが上か?というのは差はないと思います。私大難化の中で、どちらも頭いいという印象が強くなってきています。以前のレベルとはかなり違いますから。あとは明治学院大学國學院大學のそれぞれのイメージなどを検討していきたいと思います。

 

明治学院大学國學院大學のイメージや雰囲気の違いは?

明治学院大学國學院大學の2つの大学はレベルは近いですけど、イメージは同じではないでしょう。レベルが近い分、頭がいいとか、そういった意味でのイメージは同じような感じかな?とは思いますけど。明治学院大学キリスト教系の大学、國學院大學神道の大学ですから、雰囲気は違います。どっちがいいとは言えませんが、それぞれの雰囲気に関しては、好みの面があると思うので、そういった面を知っておきましょう。ただ、違いと言ってもキャンパス内の雰囲気の違いはすでに話したようなキリスト教系か、神道か、という違い部分のみであり、明らかにここが違うとはいいがたいです。学部の数が違うので、それぞれの学生の数が異なり、どちらかと言えば明治学院大学の方が賑やかかもしれませんが、明治学院大学は白金キャンパスではなく、横浜キャンパスに通う学生も多くいるので、そこまでキャンパス内の学生数の違いもなさそうです。渋谷はそんなに広い土地がとれないので、明治学院大学のキャンパスの方が一般的には広いはずです。あとはこれは偏見も入るかもしれませんが、明治学院大学の学生の方がキラキラしたような雰囲気を感じやすい可能性があります。そういった面が違いとして考えられます。

 

明治学院大学國學院大學では就職の差はあるのか?

学生本人の頑張りが重要なので、就職率とか、就職実績などを単純比較してもしょうがないです。一般的には同じレベルの大学であるがゆえに、企業がこの2つでそんなに差をつけることは考えづらいです。つまり、明治学院大学國學院大學の場合、どっちが有利か?と言えば、大学名で差が生まれるとはほぼ思えません。だから、あとは本人の頑張り次第です。MARCHには届いていないものの、一般的には準難関大学という位置づけだと思いますし、明治学院大学國學院大學の学生は頭いいというイメージの人事も結構いるのではないでしょうか?だから、大企業が狙えるラインにはいるでしょう。ただ、就職は本人がなんとかしないといけないもので、面接などの人物試験がどれだけ得意か?これに尽きます。面接が苦手な人は東大でも厳しいですよ。企業からすれば東大のコミュ障よりもFランの饒舌な人間の方がマシだと思うでしょうから。だから、就職は大学名が良いに越したことはないかもしれないが、面接などの人物試験ができなかればどうしようもないと思っておきましょう。明治学院大学國學院大學の就職においては差はないと思いますが、どちらの大学に入っても、それ以外の大学に入学しても、人物試験への適性がないとどうしようもないのです。

 

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違いの説明=正当性の説明になると思っている浅はかな日本人が多いと感じる

これは過去の記事でもちょっと触れていることなのだが、改めてこの話題をメインにして書きたいと思う。私が以前、5,6年くらい前かな?子どもを不幸にするという理由でキラキラネームに関して否定的な人に、「子供を不幸にするのがダメならば、例えば親が不細工な場合、子どもに容姿が遺伝して、それも不幸にしますよね?」と質問したことがある。すると、相手はなんて返してきたか?というと、「先天的なものと後天的なものは違う」というものでした。相手の言い分によると、先天的なもの(この場合、両親の容姿は自身の努力ではなく、生まれつきものである)を理由に子供が不幸になったとしても、それで両親を責めるのはおかしい。というようなものだったと思う。これは相手はちゃんと反論になると思っているんでしょうね(笑)このレベルで正論を言っている気になっている相手は本当におめでたいと思いますよ。この人の説明は先天的なもの(両親の容姿)と後天的なもの(キラキラネームをとつける行為)は違うという説明をしているのだが、言ってしまえばそれで終わりなんですよ。違いを説明しただけであり、その違いがあるとなぜ結論が異なって良いのか?の説明が一切ない。つまり、この人の意見では、違いがありさえすれば、取り扱いを変えていいということになるが、その理屈を前提にしたら人種差別とかも余裕で肯定できちゃいますけど?人種という違いがあれば、この人は取り扱いを変えて良いと言っているわけだから。この人が差別主義者って言うならば矛盾はないかもしれないけど。

 

それに先天的な部分で誰かを不幸にして良いとなると、例えば家が超貧乏な子供は、満足に食事ができない場合には、他人の家に泥棒に入って良いということになりますよね。家が貧乏というのは子どもの努力とは関係ないし、子供が収入をあげるために労働をしないといけない義務はないので、子どもにとっては先天的な部分になります。先天的な家が貧乏であるという理由で、他人の家に泥棒に入って、その家の人間を不幸にしても良いのか?といえば、NOだろうね。親の容姿というのも先天的な部分ではあるが、それが理由で子供を不幸にしても良いと言えるならば、こういうことになりますよ。家が貧乏な場合には生活保護を受給しろとか、そういう反論もあるかもしれないが、それは別の選択肢があって誰かの不幸を避けることができるならば、その選択肢をとるべきということを言ったに過ぎない。つまり、先ほどの例で言えば、じゃあ親が不細工の場合、子どもを産まないという選択肢をとれば、誰かを不幸にしないで済むので、結局私の言っていることが正しくなっちゃいますよ。それで少子化が進む!とか反論するなら、キラキラネームを容認した方が少子化に歯止めがかかりやすくなりますよ?(笑)実際、キラキラネームが不幸になるっていうのは、キラキラネームをつける行為そのものではなく、キラキラネームを悪い言う連中が最大の原因になっているわけだ。キラキラネームはおかしいという風潮がなければ、キラキラネームをつけられた子供が不幸に感じる可能性は低くなる。その場合、「キラキラネーム」なんて概念や名称が存在しないのだろうが。そもそも私は少子化は歓迎の人間ですけどね。

 

結局、キラキラネームをつけるべきでないという理由が子供が不幸になるから。ならば、親が不細工の場合、その親は子供を産むべきじゃないが正当化されてしまうのです。キラキラネームをつけたいという欲求を持っている人ははっきり言って少ないだろう。しかし、自身または配偶者の容姿が優れていると言えるか?といえば、そんな自信が持てる人は多くないはず。むしろ、自分の容姿に絶対の自信がない人が多いんじゃないの?と思うのです。つまり、キラキラネームを否定することをしても、自分がキラキラネームをつけるわけがないと思えれば、自分の選択を否定することにはならないが、容姿が不細工な人間が子供を産むことを否定されると、自分がそれに当てはまっているのではないか?と心配になる人が多いはずです。絶対に自分が不細工じゃない(生まれた子供が自身の容姿に不満を一切持たない)なんて胸を張って言える人は少ないでしょうから。つまり、私の意見が正しいとなってしまうと、これまでに子供を産んできた多くの親、これから産もうとしている多くの親は矛盾を抱えることになるわけですね。だから、必死で否定しにかかるわけだ。キラキラネームで子供を不幸にするのはダメだが、親の容姿の場合はOKという、都合の線引きをしているわけです。タイトルに書いているように、こういう意見は全く反論になってない。中にはキラキラネームだろうが、どうでも良いと思っている親もいるだろうけど、キラキラネームを否定しつつ、子どもを産もうとする親はたくさんいると思います。

 

これは単なる一例に過ぎないものであって、こういう思考しかできない日本人は結構多い。私は今までかなり見てきた。違いを説明して終わりという。その違いがなぜ結論の違いを生むことを正当化できるのか?まで説明してもらいたい。それに違いを説明して終わりというケースでよくあるパターンっていうのが、一方の不可抗力を説明して終わりというものなんですよ。さっきのケースもそうで、先天的な容姿というのは、親にとってみれば不可効力の部分であると。だから、しょうがないんだという言い分なのだろう。あとは地毛が茶色の生徒を黒染めさせようとしたら叩かれたニュースが以前ありましたよね。ただ、あれもあくまでも地毛だから世間は擁護したと思うのですよ。しかし、地毛が黒で、後から茶色に染めようとする生徒がいたら世間も叩いていたのではないだろうか?少なくとも学校は叩くだろうね。しかし、地毛の茶色はOKで、後から染める茶色は何でいけないの?という質問をすると、返答としては地毛は先天的なものだからしょうがない。というパターンになると思うんですよね。つまり、地毛が茶色なのはしょうがないという説明で終わったとしたら、それは地毛と染髪の違いを説明しただけで終わり、かつ一方の不可抗力を説明しただけで終わりなのだ。私が言いたいのは、じゃあ不可抗力じゃない方は何で責めて良いのか?ということなのです。こういうことを言う人は、一方は不可抗力だからしょうがないしか言わないのです。だから、親の容姿の問題や地毛が茶色の方をその理由で擁護するのだが、一方を擁護できる理由しか述べておらず、もう一方を否定できる理由は述べないのよ。つまり、しょうがなくない問題、不可抗力じゃない問題をなぜ否定できるのか?という理由が必要なのだ。

 

不可抗力を理由に擁護するのはとりあえず良いとしておこう。しかし、キラキラネームをつける行為、髪を染めて茶色にする行為などの後天的な問題は、確かに不可抗力ではない。しかし、それを言うと子供を産む行為も不可抗力じゃなくなるけどね。自分の容姿は遺伝だから不可抗力だが、その状態で子供を産むことは不可抗力でも何でもない。その人のさじ加減の問題だ。でも、キラキラネームをつける行為、茶色に染める行為などの不可抗力じゃない行為はなぜしてはいけないのか?という理由がなければ、不可抗力の問題と不可抗力じゃない問題の結論が異なることに納得ができるわけがないのだ。例えば、酒やたばこをたしなむ人がいるから迷惑に感じている人もいるだろうけど、酒やたばこをたしなむことは不可抗力じゃないですよね。実際、こういった行為で迷惑に感じている人は結構いると思いますが、不可抗力じゃないことを理由にキラキラネームを子供につけることや髪の毛を茶色に染めることを否定する人は、不可抗力じゃないからという理由で、酒やたばこが禁止になっていないのはおかしいという主張をするのでしょうかね?こういう例は酒やたばこだけじゃなく、趣味や嗜好などの分野で挙げたらキリがないと思うけど。人に一切迷惑をかけない趣味や嗜好ってなかなかないと思うし。

 

趣味や嗜好は不可抗力じゃないので、さっきの理屈が正しいならば、これで全部否定できちゃいますよ。当然ながらキラキラネームや地毛を茶色に染める生徒らを否定する人の中には酒やたばこを嗜む人は多くいるだろうし、酒やたばこが社会に迷惑をかけ、世間の一部から嫌われていることも知っているはず。で、キラキラネームや地毛を茶色に染める生徒を否定する人が酒やたばこは不可抗力じゃないのに止めないとしたら、相当自己中でしょう。都合のいい部分だけ叩いて、都合の悪い部分は無視なわけだからね。キラキラネームが子供を不幸にし、しかも不可抗力じゃないからダメとかいうならば、社会の害悪にもなっている酒やたばこも不可抗力じゃないのでダメで良いですか?私が生きてきた中ではこういう自己中な態度の人は少数ではなく、結構多数派だと思っています。法律って存在が1番のそれだけどね。害悪になりうるものであっても、世間の多数派にとって都合のいいものは合法、悪いものが違法ってのはよくあるパターンです。酒やタバコなどが法律で認めてられいるが、脱法ドラッグにあたる薬物が禁止とかね。それに不可抗力が理由になるとしたら、最初に出した家が貧乏な子供の不可抗力のケースも擁護するんですかね?という話になりますがね。こっちの例も擁護できる人じゃないと、不可抗力を理由にしていい理由がないと思います。AとBの取り扱いを変えることの正当性を説明するときに、AとBは違う!という理由のみで反論をしてくる人が多くいますが、全員バカ丸出しですよ。

 

頭がいい人、悪い人の話し方 (PHP新書)

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子供を産みたくない、欲しくないという割合に驚き!いらないとする心理や理由は?

今の時代は子供を産む家庭はどんどん減っているらしいですね。子供を産みたくないと考える家庭が増えているらしいのだが、この考えは恐らく増え続けると思う。インドで自分を生んだ親を訴えたニュースがあったらしいのだが、これは本当に象徴的だろう。本人の同意なしに産んだから訴えたというのは、多くの人からすれば驚きの行動かもしれないが、同意なしで生まれてきてしまった本人からすれば被害者なんだろう。子供を産みたくないと考える人の中には「子供がかわいそうだから」という理由は恐らくある。経済的な理由もあるのだろうが、日本という国が、今の時代がいかに酷いか?を自身で認識していれば、子供を産みたくないという心理になるのは頷ける。私は絶対に子供を産みたくないというか、欲しくないです。だって、邪魔じゃん?(笑)ホリエモンが言ってたことだけど、自分にとって最も思い通りにならない存在って子供なんですよね。他人という言い方もできるかもしれないが、他人の人生が思い通りにならないとしてもそんなに気にならないが、子供は自分の思い通りにさせたいって思いがどうしても芽生えてしまう。だから、親にとっても、子供を産みたくないという気持ちが生まれる理由は存在している。犯罪など、子供の仕業で親の人生が狂うこともあるし。

 

子供を欲しがれば、間違いなくお金がかかるので、その点から私は今まで以上に労働量を増やさないといけないだろう。その時点で絶対に嫌だ。そもそもお金がかかるっていうけど、いくらかかるべきか?ってのは、世の中の多数決で勝手に決められてしまうじゃないですか?例えば、子供にフェラーリを買ってあげられないとしても、それは親の務めではないと考える人が多いと思うんですよね。でも、子供がフェラーリを欲しがっていて、それを自分で買えない。親にも買ってもらえないとしたら間違いなく不幸じゃないですか?それを容認するのが世間なんですよ。要するに親が果たすべき務めというのは、子供の気持ちに関係なく、親が勝手に決めるんですよ。世間で常識とされるような親の務め(例えば、学校に通わせるとか)を果たせば、あとは子供が不幸になっても知らんぷりというのが、多くの親の態度なんですよ。でも、自分の意志で生まれてきたわけじゃない子供が親の都合で不幸になっていいという理由は、どう考えても説明ができないのです。だから、「反出生主義は正しい?頭おかしい?正直言って私は反論できないのが現状である - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」の記事で書いたけど、反出生主義という考え方が根付いてきたわけですよね。

 

私は極論を言えば、親は子供を産むならば自分自身の人生をすべて子供に捧げるべきだと思っている。それが私の考える親の務めなのです。でも、世間はそんなのは嫌だって思うわけです。私も思います。だから、私は子供を欲しくないのです。でも、世間は産んでいる。だから、世間は子供の人生がどうなっても知ったこっちゃないって態度なんですよ。私は子供を親の都合で不幸にして良いわけがないと考えていますし、私は子供の幸せのために生きたくないので、子供を欲しくない理由というのが生まれるということです。今のところ、子供を産みたくないとか、欲しくない人の割合は少数派らしい。ネットで調べたデータによると、「子供は欲しくない」と考えている男女は独身の30代で4割、同じく40代以上で5割らしい。つまり、結婚とは別に子供を産みたくないと考えている割合は結構高いです。ただ、独身限定なので、日本全体で言えばやはり少数派だろう。子供は欲しくないと考える心理というのは、人それぞれ違うのだろうが、経済的な理由が大きいのかな?私みたいに子供がかわいそうだからという理由も一部ではありそうだけど、そんなに多数派って感じはしない。子供を産みたくないとか、欲しくないという考えはおかしいというか、少数派という状況では異端児扱いされやすいだろうね。

 

反出生主義の考え方についても、恐らく頭おかしいと言われるだろう。私は反出生主義の考え方自体は反論が不可能なので、基本的に肯定していますが。恐らく多くの人もこういう考え方は反論が厳しいと思うが、それでも子供を産むというのは世間の常識になっているから、子供を産みたくないという考え方はおかしいという扱いになってしまうのです。数の暴力によって一蹴されるのです。今後は子供を産みたくないけど結婚するって人は増えそうな気はします。子供はいらないが結婚だけはするってケースも増えると思います。そして、子供はいらないし、結婚もしたくないという人も増えると思うのです。従来の結婚して子供を産むという割合はどんどん低くなるでしょう。子供を産みたくないという心理が世間で共有されてきた結果だと思います。昔はそういう考え方は相当ヤバい奴扱いされたと思うのです。常識こそが正義だと思っているような国民性ですからね。数の暴力は昔の方が酷かったでしょう。世の中にいろいろな人たちが増えてきた、多様性の側面が見えてきたというのが大きいです。例えばLGBTとかは顕著ですけど、常識の枠外にあるような人たちが増えてきたことで、多様性に寛容な社会が徐々に作られてきたと思っています。だから、子供は欲しくないという心理状況に関しても理解する人は徐々に増えてきているはずです。

 

話はちょっと戻るけど、結局責任の取りようがないというのが大きいわけです。子供が生まれてきた結果、どのような人生を歩むのか?産む時点で予想ができません。そして、子供は少なからず不幸になります。その程度や頻度は人によって違うが、確実に不幸なケースを何度も経験していくことになるでしょう。それが絶対に揺るがないので、その不幸なケースを許容できるか?どうかの問題になってきます。人はそれくらい我慢しろ的な見方をすることも多く、特定の不幸は不可抗力のように扱うわけだが、その子供がそれを我慢しないといけない理由はない。例えば、働きたくない人はたくさんいるが、それは働くことが大きな苦痛になるからだが、当然社会の多数派の人たちは働かない人はおかしいという見方をするのです。でも、働きたくない理由が存在するのは事実だし、その人が働かないといけない理由は存在しません。「働かないといけない社会で生きないといけないならば生まれてきたくなかった」と言われてしまえばそれまでです。これは覆しようがありません。そして、生まれてきたくなかったという気持ちを現実にしてやることもできません。親は子供がそういう気持ちを持っても、たいていは子供が甘えているだけとか、わがままを言っているだけと、都合のいいように考えて、自分の犯したミスを認めようとしない。そういう人間が多いからこそ、子供を産むことが全世界的に当たり前になっているのです。そういう状況を考えると、子供を産みたくないと思っている人って結構まともなんじゃないか?と思えてきます。

 

なぜ子供を産みたくないのか?欲しくないのか?私の場合には子供を不幸にすることがほぼ不可避であり、それが自分の中では許容できないからだ。言ってしまえば、人間の致死率は100%なので、死という不幸に対する恐怖心を誰もが絶対に感じるわけだが、この不幸はえげつないと思います。私は無理だね。自分の意志でそういう不幸を背負う人間をこの世に作り出すというのは、許容できそうにない。社会状況は今後どんどん悪くなっていくと思う。その代わり、平均寿命は伸びると思うから、それってどういうことか?というと、不幸を感じる回数は今後多くなっていくということです。未来の展望をすると、子供はいらないという心理はより強くなります。そして、子供は欲しくないという割合はそういう部分も踏まえてさらに伸びるでしょう。世の中の欺瞞は今後少しずつ明らかにされていくのだと思います。経済的な理由で子供はいらないと考えているような家庭が実際割合としては高いのだろうが、経済状況は今後悪化の一途をたどるだけでしょうから、普通に考えたら子供は欲しくないと考える割合は高まるでしょうから。子供はかわいそうと思う人は産まないし、そう思わない人は産むような社会にいずれなるかもしれません。

 

社会が今後良くなっていく、幸せを感じられる人が増えていくということは私は考えづらいです。科学が進歩してしまい、人が不幸を感じる余地が大きくなってしまったのです。特に医療はでかいと思います。人間が少しでも長生きしたいという欲望を持ってしまったがゆえに、平均寿命はどんどん伸びてきており、今後もまだ伸びるでしょう。平均寿命が伸びまくった世界で、私たちはどのように生きるのでしょう?寿命が伸びるってことは、必要なお金が増えることを意味するが、それをどうやって用意するのか?社会保障はどうなるのか?そういった状況でまだ平和を唱えている人間がいるのか?とも思えてきますよ。日本だけではないが、世界的に人類の未来は明るいとは決して言えないと思う。そういった流れで、子供はいらないという心理を持つ人、実際に子供を産みたくないと考える人の割合は間違いなく高くなると思う。どのレベルまでいくか?は分からないが、人類は確実に不幸を感じやすい未来を歩んでいるのです。

 

最後に反出生主義についてネットで調べてたら面白いツイートを見つけたのですが、それが以下のものです。

 

「生まれない世界の方が苦しまない証明ができない」と言うならば、生まれない世界ではそもそも苦しみという概念(感覚)が存在するか?どうかも絶対に証明できないんですけどwwwこのツイートが妥当性を帯びるには、生まれない世界で苦しむ人がいるかもしれないという事実を現実ものとして説明しないといけないが、そのためには生まれない世界(つまり私たちの意識がない世界)で、苦痛の感覚が存在することをまずこの人が証明すべきなんですよ。それが証明できてから、ようやく生まれてない世界で苦痛はあるのか?ないのか?の話に進むわけですな。生まれてない世界でも苦痛の概念があると断言できるならば、その生まれてない世界でも苦痛を感じる人、感じない人がいるから、それは生まれてきた人と同じでしょ?というのは筋が通っていると思うが。ただ、概念が存在しなければ、その概念の有無を議論する段階に移行できないわけですから。生まれてない世界での苦痛の可能性を反論の根拠にするならば、生まれてない世界が存在することをまず証明てくれないと。

 

というか、それ以前に生まれてない世界って概念が意味わからない。生まれてない世界の人ってどういう状態なの?胎児とかなら分かるんだけど、人間の個体とは認められないような人たちまで含むわけ?生まれてない世界の人ってどういう概念???これが一番の謎なのよ。胎児はこれから生まれてくる人になるから、生まれてない世界に存在する個体かもしれない。ただ、胎児以前となると、実態が全くない存在で、そんな人たちが存在する証明も必要だと思うんですけど、できるわけないよね?仮にそういう生まれてない人というのがいるとしても、生まれてない世界で苦痛があるとしたら、意識がない状態でも苦痛があるってこと?じゃあ、例えば火葬とかどうなんの?って思うんだけど。死んだ人間には苦痛を感じないという前提のもと、火葬は行われているわけだが、死んだ人間が苦痛を感じない証明も、生きている人間には体感したことがないから証明できないでしょ?つまり、意識がない人間も苦痛を感じるかもしれないって主張をするならば、この人はもっといろいろなところで主張すべきことがあるように思うのですが。この人はまず日本から火葬の慣習を消すのが先だと思うのだがな(笑)まあ、土葬であっても苦痛は感じるでしょうけど。こういった火葬の話は一例であって、他にも同じようなケースは山ほどあると思いますが。

 

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心の底から平和を願っている人間って、世の中に1人もいないと思うんだよ

一応、平和を望んでいる人間というのは、世界の中で言えば多数派だと思われる。ただ、それって平和を望んでいるというのが本音ではないような気がする。正確に言えば、今のところは彼らは平和を望んでいるが、状況が変われば彼らは平和を望まなくなるだろうと私は確信しているからだ。結論を先に言うと、世界中で平和を望んでいる人の多くは、平和な社会を実現すること自体が目的ではないと思う。それは平和な社会を手段として使い、自己にとって都合のいい社会を作るのが目的だと思います。逆に言えば、都合が悪いときには平和な状況とは真逆の行動を多くがするだろうし、実際にしていると思います。私の考えでは、平和を望む人間の心の底にあるのは「自己にとって都合のいい社会の実現」であり、それを「平和な社会」と言い換えているだけなんだと思う。「自分たちにとって有利な社会こそが理想」なんてストレートに言うと、単なる自己中に映る(別に自己中が悪いとは私は思わないが、一般的には悪いイメージがあるため)からだろう。

 

現実に起きたこととして、日本の話題になるけど、日本が中国と戦争をしていたとき、日本人の多くは満州を侵略することを肯定していたと言われている。満州には希望があるとか、満州を侵略することで、貧しい生活から抜け出せるという思いがあったんだろうね。ただ、もちろん現代的な価値観から言えば、当時の日本がやっていたことは強盗とも言える行為である。その強盗を日本人の多くが肯定していた、容認していたとされているのだ。多くといっても割合はもちろん分からないけど。ただ、貧しさからの脱却というメリットがあるからそういう強盗を容認していたわけで、当然ながら他国に強盗に押し入るというのは平和を乱す行為だろう。そんな行為でも、自分たちに都合がいいからこそ賛成していたわけです。現代の日本人も、それ以外の国の人たちも状況によっては、多数が平和を乱す側に回ると思いますよ。彼らは混沌と平和、どっちが自己にとって有利か?という損得で判断をしているのであって、別に絶対的に平和な社会を望んでいるとは思えない。彼らにとって平和な社会は目的ではなく、手段なのだから。

 

それに平和な社会を望んでいる人たちが、平和を乱す行為を一切していないとは思えないのよね。平和を乱す行為というのは、たいていの場合、犯罪とかが挙げられる。しかし、犯罪って概念は社会の多数派や国にとって都合のいい線引きによって決まっているので、その行為の中身が犯罪と同様に悪質だと思われても、犯罪にならないケースは多々ある。例えばタバコというのは世界中で容認されている存在だが、タバコが世界から消えれば火災も大分消えるだろうねと思うわけですよ。火災の発生は当然ながら平和な状態ではないだろうし、でもタバコを吸う人は多くいて、国もそれを容認する場合が多い。つまり、タバコが火災の発生の増加に貢献しているならば、タバコを吸う人たちとそれを容認する人たちは、まさに平和を乱す要素をこの世に生んでいる。他にも例はあるけど、結局タバコは明らかに平和を乱す存在となっているが、タバコを吸うという行為は平和を乱しているとは一般的には見なされないと思う。となると、平和という概念なんて、ほとんど意味がないですよね。特定の層にとって有利な概念として存在しているので、多分私が考えている平和と世界で願われている平和は違うのだろうな(笑)と思っています。

 

私は真の意味での平和という概念を、「平和」という言葉から連想するが、世界の人たちは何度も言っているように、「自己に都合のいい社会」という意味で「平和」という言葉をとらえているのだろうと思う。前にもこのブログで書いたけど、「自立」って言葉も、都合のいいように解釈されやすい。辞書で自立の意味を調べると、自立をしている人間というのは1人たりともいないのだが、ニートは親に頼っているから自立していないが、自分でお金を稼いで生きている人は自立しているみたいな雰囲気が実際あるわけです。会社で働かせてもらえないとお金を稼げない=生きられない時点で、辞書で引くときの自立の意味には該当していないのだが、そういう人間はニートや実家暮らしの人間らにマウントをとるために自立していると言い張る。世間は「自立」という言葉を都合のいいように使っている。「平和」って言葉も多分同じだと思う。文字通りの意味ではなく、自分たちにとって有利な解釈をしているのだろう。彼らが願っているのは、真の意味で言うところの平和ではなく、自己に都合のいい社会って結論になりますわな。

 

だから、私は「平和」という考えに何の興味もないですね。平和が訪れることは人類が存在する限りはありえないとも思っているし、平和はむしろ異常だと思っているので、争いが少なからずある状態がやはり自然だと思う。それに争いから平和が実現するということもなくはないよね。と思うのだ。さっきの例で言えば、日本が中国に強盗をすることによって、国内の不満が鎮まれば、日本国内はより平和な状態になった可能性はあります。それは現代でも同じでしょう。例は何でもいいけど、子供が親に金をせびって、親が渡さない、それに切れて子供が親を殺すなんて事件はあると思うのだが、この場合、親は子供にお金を渡した方がまだ平和だったわけです。金をせびるというのが平和を乱す行為か?は微妙かもしれないけど、この場合平和を乱すということにしておこう。それを容認した方が結果的に平和に近づくかもしれない。この先何度も金をせびられるかもしれないが、殺人事件が起きるよりはマシと言えると思うのだ。で、この場合は金をせびるという行為が平和を乱す行為だと認定する、つまり世間が悪だと考えるならば、平和に近づくのは100パー無理だってことだと思います。

 

東京喰種の考察をして、この世に正義と悪が共存する状況はありえないと悟った - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」の記事でも書いたけど、私は平和を実現する方法があるならば、平和を望む側が既得権益を手放す、譲歩するしかないと思っている。金を子供に渡すというのも、既得権益の放棄に違いない。でも、これは基本的にみんなやりたがらないわけです。平和を乱す側に譲歩して、「あなたたちが望むことはなんですか?」とたずねて、法制度などを改良し、それを少しでも実現してあげる。誘拐犯に身代金を渡すような状況に近いかもしれないけど、それしかないと思います。平和を願うならば、それこそテロに屈することを良しとした方が合理的なわけです。テロに屈することを絶対的な悪だと思っているバカな首相がいる限りは絶対に無理だろうけどね。現実は平和を望む側がそれをほとんどやらないので、平和を乱さすことしか選択肢がない、他に自分たちが得をする選択肢がないと思っている人たちが数多く発生することになる。だから、平和はやってきません。

 

ただ、すでに話したように、世の中が考えている平和というのは、真の平和の概念では恐らくないので、私にとってそれが得か?どうかは分からない。だから、私は平和な社会に問答無用で賛成することができない。世間の考える都合のいい社会という意味での平和な社会でも、そっちの方が今のところ、私にとってはまだ得なのかな?とは思わないでもないが。でも、今後日本の社会状況がどんどん悪化すると、平和とは真逆の行動をとる人は絶対に増えるはずだ。そのときになれば、多くが願っているのは平和な社会というよりは、自己にとって都合のいい社会であることが白日の下にさらされるのではないか?と思います。心の底から、本当に平和な社会の実現を願っていると言える人は、私の頭では1人も想像ができない。実際はいるかもしれないけど、誤差の範囲内くらいの人数かな?と思っています。

 

「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム

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京都府立大学と関関同立のレベルはどっちが上で頭いい?イメージや雰囲気の違いと就職の比較

京都府立大学というと、関西における名門大学の1つと言えるでしょう。しかし、関西以外の地域ではあまり馴染みがないのではないか?と思います。国公立大学はどうしても私立大学と比べると地味ですから、一部を除いてはなかなか知名度がないのです。京大や阪大、あと神戸大などはともかくとしても、京都府立大学というのは一般的な知名度が関西を除いてはあまりないのではないか?と思います。ただ、京都府立大学は普通に難しいです。ただ、そのレベルを表現するときに私立大学と比較した方が分かりやすいと思うので、京都府立大学関関同立を比較していきたいと思います。京都府立大学は十分に頭いいと思われますけど、ピンとこない人がいると思うので。

 

京都府立大学の学部ごとの偏差値を関関同立と比較

河合塾の偏差値を使って、京都府立大学のレベルを調べていきたいと思います。京都府立大学の偏差値は文学部が52.5~70となっていますが、概ね60.0~62,5くらいに集中してます。そして、公共政策学部が55.0~57.5となっています。ここまで文系の学部です。とりあえずここでは公立大学と私立大学を単純比較してみますが、京都府立大学の文学部は関関同立の上位レベルです。つまり、同志社大学と同じくらいということです。文学部はセンター試験が3教科の学科がほとんどなので、割と単純比較がしやすい学部です。ただ、公共政策学部はセンター試験が5教科6科目とかが多いので、その分を考慮すると実質もう少し偏差値が高くなるかもしれないです。そうなると関関同立の中位から上位レベルの間くらいでしょうか?つまり、立命館大学関西学院大学関西大学の上位学部くらいの偏差値がありそうです。京都府立大学関関同立はどっちが上か?という比較では、学部ごとに差があると言えるでしょう。

 

つまり、文系学部においては、京都府立大学のレベルは概ね関関同立の上位レベルに位置するのではないか?と思います。普通に頭いいでしょう。同志社大学関関同立の中でもちょっと抜けた存在ですが、その同志社大学京都府立大学は同じくらいのレベルな気がします。ただ、理系に関しては生命環境学部が52.5~55.0であり、同志社大学の理系学部とは差があります。センター試験が5教科7科目必要なのであれなのですが。ただ、それ以外の関関同立の理系学部と比較すると、割と近い偏差値です。そういう意味では、少なくとも文系に関しては関関同立の平均よりは上なわけだから、京都府立大学関関同立ではどっちが上か?というと、京都府立大学になるのでしょう。関西では同志社大学のレベルなので、京都府立大学は頭いいと言って良いと思います。人によっては京都府立大学の方が同志社よりも上だと思っている人もいると思いますし、こういう比較はその人次第の部分もありますから、参考程度に聞いておいてほしいです。ただ、京都府立大学関関同立ではイメージという部分でかなり差があるでしょう。すでに話したように、私立大学と比べて公立大学は地味な雰囲気になりやすいです。だから、関関同立と比較したときの京都府立大学のイメージや雰囲気は大きな違いがあると思います。就職などの面でも京都府立大学関関同立で違いが気になると思いますから、その点について考えていきましょう。

 

京都府立大学関関同立のイメージや就職の違いは?

京都府立大学関関同立は偏差値やレベルで比較すると、ある程度近いでしょう。難易度に関しては関西ではかなり高く、どちらも頭いいと言える、高学歴と言えそうな大学名だと思います。厳密に言えば、京都府立大学同志社大学に近いレベルだと思いますから、京都府立大学関関同立はどっちが上か?というと、前者になります。しかし、明らかに知名度が違うのです。関東の人間でも関関同立は知っていますし、同志社大学立命館大学関西学院大学関西大学の各大学も知っている人が多いでしょう。しかし、京都府立大学に関しては話題になかなか出てきません。MARCHとの比較で関関同立は話題に出やすいですが、どうしても京都府立大学は話の中に出てこないので、知名度に違いがあると言えるのです。京都府立大学関関同立ではその点におけるイメージが違います。あとは関関同立は華やかで賑やかな雰囲気があります。どの大学も学生の数が多いのです。公立大学である京都府立大学に関しては、学部の数が少ないですから、イメージや雰囲気としてはそこが異なっています。どっちがいいか?は人それぞれ異なっていますから、自分で判断するしかありませんが。

 

知名度とそういったキャンパス内の雰囲気はどうしても違いがあります。キャンパスの立地による雰囲気の違いもあると思いますが。そして、京都府立大学関関同立は就職においてはどうなのか?違いがあるのか?というと、イメージとしては関関同立では同志社大学が抜けているというイメージがあり、関関同立の中でも同志社大学とそれ以外では人事の評価が変わるはずです。ただ、偏差値やレベル自体は同志社寄りである京都府立大学は、人事もそういった評価になると思われます。したがって、同志社大学京都府立大学であれば評価はあまり変わらないかもしれませんが、立命館大学関西学院大学関西大学であれば京都府立大学の方が就職のときの評価は高くなる可能性があります。ただ、立命館大学関西学院大学関西大学はOB、OGの数が京都府立大学と比べてもかなり多いので、そこが有利に働く可能性はあります。ただ、大学の評価としては京都府立大学の方が上でしょう。京都府立大学関関同立はどっちがいいか?については、就職を考慮したら前者になると思います。しかし、同志社大学京都府立大学の比較ならば同じくらいだと言えます。それ以外の関関同立との比較ならば京都府立大学の方が上かな?と思います。

 

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