就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

アフリカ等の貧しい国より日本に生まれる方が不幸になる確率は各段に上がる

日本に生まれたらめちゃくちゃ不幸だと、私は思っています。アフリカとかにはさ、現代でも戦時中と同じような暮らし、それ以下の暮らしを強いられている人がいると思うのです。でも、そっちの方が不幸とは私は思えない。そして、たまたまネットサーフィンをしていたら、気になるツイートを見つけたので取り上げたい。

 

申し訳ないけど、この人は本当に短絡的な考え方しかできないんだなと思う。ある人が幸せか?不幸か?ってことが、何をもって決まるのか?を全く理解していない。日本を基準にして、貧しい国を語ることほど馬鹿な行為はないですよ。かつてあの林修氏も同じことやってたけどね。このブログでも取り上げましたが。日本で暮らしている人の生活水準を基準にするから、超貧しい国が不幸に見えるってだけなのよ。日本での暮らしを知らない人が、いきなり超絶貧乏な国に生まれた状況を想像できないの?って思うがね。逆に言えば、日本に生まれた人は、超貧乏な国で生まれて、そこでずっと生活をするという状況を想像できないから、日本の方が幸せなんて思っちゃうのよ。超貧乏な国で生まれてそこで生活をしていくという想像力が欠如している。例えば、ツイートで言われているような、身体を売らないと生きていけないってのは、それが当たり前ではない日本人から見たら酷い状況に見えるってだけなの。それが当たり前か?どうかは分からないが、割と頻繁に行われているような国の場合、日本人が感じる苦痛よりも間違いなく小さいです。それにそもそも労働って超苦痛じゃないですか?でも、日本人って大人になるとみんなやるじゃないですか?死ぬかもしれないのに。これって働くことが当然の社会だからですよね?みんなやってるからですよね?労働なんて私からすれば正気の沙汰には思えないけど、みんなやってるからそれが当たり前という風潮になってしまっている。

 

何で働かないといけないの?と、私は子供の頃からずっと思っていたし、働かないといけない社会はマジでゴミだと思っている。働かないと社会が成立しないという理由を説明するだけで、働かないといけない理由をまともに説明している人を見たことがない。当然、憲法に書いてあるからは理由にならない。憲法は国民に義務は課さないから。でも、みんな奴隷のように世間の風潮に従っているわけですよ。私から見れば、身体を売ることよりも悲惨な状況に見えますけどね。それに肉体労働だって、身体を売っているに近いと思うけど。どっちも苦痛でしょ。私は基本的に労働はできる限りしないように努めているが。そして、本題に入るけど、人が不幸を感じる場面っていうのは、多くの場合、周りと比べて自分が劣っていると感じているときなんですよ。日本みたいな格差社会は、この原因がかなり生まれやすい。逆に国民の多くが貧しいような国は、自分も貧しいけど、みんな貧しいから、周りと比べて自分が劣っているという実感が生まれづらい。つまり、劣等感を感じる瞬間が、日本より間違いなく少ない。実際、日本の自殺率って、こういう貧しい国よりも普通に高いらしいですね。この状況で、日本に生まれるのが幸せ???

 

日本を基準にすれば、確かにアフリカなどの一部の国に生まれたら悲惨だよねとか、思う人はいるかもしれないが、それは日本に生まれて、そこで生きてきたという経験をすでにしてしまったからだ。明らかに利便性が高い、経済的に豊かである国での生活を経験したケースにおいて、日本と超貧しい国での生活を比較することは何の意味があるんですか?比較をするならば、最初から超貧しい国に生まれた状況で比較をしないといけないが、それは日本人にはできない。日本にすでに住んでしまっているから。日本の利便性を知らないような人が超貧しい国で生まれたら、いま私たちが抱いているような気持ちにはなりません。日本人は日本の当たり前を知ってしまっているから。超貧しい国にはその国の当たり前でがあり、そこでの比較が中心になるのだから、日本のような利便性の部分は発想としては乏しいだろう。年収300万円の人が比較をするのはせいぜい1000万円くらいまでの人であって、年収何億とかの人と比較なんかほとんどしないでしょ。人は身近な人と比べるのであって、雲の上の存在のような人とは比べないのよ。で、社会の底辺と思われるような人を基準にした場合、生活水準が自分よりも上の人の数というのは、日本と超貧しい国のうち、どっちが多いですか?と言えば、日本になるわけだよ。格差社会だから。超貧しい国ってのは言ってしまえば、日本人から見ればみんな底辺みたいな状態だから。自分よりも良い暮らしをしている人間はごく少数に限られる。でも、日本の場合、底辺の人からすれば自分よりも良い暮らしをしている人は大量にいる。貧乏な国の方が、他人との比較が劣等感につながらず、不幸な気持ちを抱えづらいのよ。

 

そもそも貧乏ってなんで不幸だと思うの?って疑問があります。貧乏は不幸である。金持ちと比べてって考える人が多いと思うけど、何でか?って理由は説明できます?欲しいものをたくさん買えるから?それは貧乏人との差ではないよね。買えるもの自体が変わるだけで、貧乏人も好きなものは買えますよ。貧乏人は欲しいものをガマンしないといけないときがあるかもしれないが、金持ちが我慢しない瞬間はないの?例えば、高級ブランドの財布が欲しいけど買えない貧乏人がいる一方で、豪華客船が買えない金持ちもいるわけ。どっちが不幸ですか?と言えば、一緒でしょ。自分の所得水準に応じて、欲しいものって変わるわけですよ。年収300万円の人が豪華客船を買おうなんて発想になると思います?ありえないですよね。豪華客船じゃなくてもいいよ。もっと値段を下げて豪邸とかでも良い。普通のリーマンやっている人はたいていそんなものを欲しがりません。欲しいという発想になりません。せいぜい買えるなら越したことはないかもしれない程度でしょう。最初から無理ってあきらめてるから、それを買えないことに不幸を感じません。自分がファンである芸能人と結婚できないことにものすごい不幸を感じる人って、ほとんどいないでしょ?それと同じです。だから、それぞれの所得水準に応じて、自分の頭の中で欲しいものは変化し、当然我慢をしないといけないもの、お金を貯めないと買えないものが生まれるわけです。その構造は全く一緒なの。だから、この場合、どっちが不幸か?と言えば、基本的に一緒です。金持ちが幸せで、貧乏人が不幸っていうのは、社会のステレオタイプに従うだけで、何も考えられない人が勝手に思ってしまうことです。

 

実際は貧乏だと劣等感を感じやすいから、自分を不幸だと思う人が多くいるという現実があるだけ。でも、それは本質を見ていないだけだと思う。貧乏を不幸だと思う人って、貧乏であることのデメリットと金持ちであることのメリットしか見てないんじゃ?って思うのです。貧乏のメリットとか、金持ちのデメリットも考えたら?って思いますけど。金持ちって、努力家で向上心があるから金持ちになれたと思うんだけど、私は以前「「向上心のないやつはばかだ」は人を、社会をマイナスに導く思想 - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」の記事で書いたように、向上心は悪だと思っているのです。つまり、向上心がある時点で不幸だと思っています。西村博之氏が過去に同じような話をしていて、上を見ることは不幸につながりやすいという話題を出したときに、「オリンピックの銀メダリストって、悔しくて泣いてるのよwww世界2位なのにwww」って、笑いながら以前話してたことがあるけど、この言葉って上を見ることがいかに不幸か?ってのがよく分かるよね。悔しくて泣くってのは、成績に不満があるからだよね。不満を感じている状態は精神的には不幸なわけで、向上心がある人は永遠に上を見続けるのだろうから、一生不満を持って上を目指さないといけないってことよ。これ一生不幸な状況なわけでしょう。金持ちが貧乏人よりも幸せだと断定している人って、うわべだけ、外見しか見られない人なんだなって思いますね。

 

例えば、日本陸上の短距離界をけん引してきた末續慎吾氏は、現役時代には大会で1位を獲ることが何度もあったみたいだが、それが当たり前になると、日本記録を出さないといけないプレッシャーにずっと悩まされていたらしいね。1位を獲っても、記録がイマイチだと会場からため息ばっかり聴こえて、それでかなり病んだということをテレビで言っていた。向上心っていうのは、周りも他人に害悪を与えるものということ。記録を出そうと奔走したのは、自分自身にも向上心があったからだろうが。ただ、自分が向上心を持つと、自分が不幸になるが、他人に向上心を強要すると、単純に迷惑行為になりますよね。向上心がいかに悪か?が分かるでしょう。トップレベルの選手ですらこれなのよ。つまり、金持ちだろうが、トップレベルのアスリートだろうが、向上心を持っている人間は不幸になりやすい体質ってわけ。

 

私は学生時代、そこそこ足が速い方だったけど、それは学校の中での話であり、末續氏と比べたら大人と子供以上のレベルの差があったに違いないと思う。でも、私は体育祭のリレーで活躍したりして楽しかった記憶しかない。しかし、私は陸上をその後も続けるということはしなかった(野球が1番好きなスポーツだったから)し、高校以降は何の部活にすら入っていない。つまり、足をさらに速くしたいとか、もっと活躍したいという向上心を私は持っていなかった。でも、彼はオリンピックや世界陸上に出られるほどの努力をし、実際に活躍をしたのに、最終的に病んでしまった。明らかに向上心が彼の方が強かったし、結果的により高いレベルまでいくことができたが、彼の方がどう見ても不幸になってしまってるのよ。一方で私はいい思い出だけが残った。

 

さらに私は通っていたスイミングスクールの大会で1位を獲り、金メダルを子供の頃に貰って満足したことがあるが、オリンピックの水泳で銀メダルを獲った人はめちゃくちゃ悔しいはずですよね。そういう人はスイミングスクールとかのレベルだったら、ダントツで1位をとれるはずなのよ。そこでやめておけば良かったのに、オリンピックを目指すという向上心を持ってしまったがゆえに、悔しくて泣いてしまうという、不満たらたらの状況を生んでしまうわけだよね。こんな例はいくらでも見出せると思う。向上心が相対的に少ないだろう(偏見かもしれないが)と思われる貧乏人はその点においてメリットはちゃんとある。つまり、不満を感じづらい体質なのだから、メリットをあるという理解すれば、貧乏であることを不幸と思う必要はないってこと。実際、私はこの真理に気付いて以降、向上心をガチで捨てた。そのおかげで、不満やストレスを感じづらい体質になれたと言えるだろう。お金を稼ぐことにも今ではほぼ興味がない。

 

人が幸せ、不幸を感じるのは主観だけれども、その主観は相対的な比較で決まる傾向にある。冒頭のツイートをした人は、恐らく相対的な見方ができない人なんだと思われる。絶対的な見方しかできないのだろう。「100点満点のテストでの80点は高いか?低いか?」という質問をして、「高い」または「低い」と答える人がいたら、その人はまさに絶対的なものの見方が完全に癖としてついてしまっている人だと言えるだろう。この場合の正解は「比較対象による」だ。70点と比べたら高いけど、90点と比べたら低いわけ。相対的なモノの見方ができる人はこう答えるはずだ。そして、相対的なモノの見方ができない人が、経済的に豊かで格差が激しい日本のような国の方が、アフリカのような格差が小さい貧乏な国よりも生まれて幸せであると答えてしまうのだろう。

 

続・ニホンという滅び行く国に生まれた若い君たちへ―16歳から始める思考者になるための社会学―

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ニホンという滅び行く国に生まれた若い君たちへ

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不老不死はありえない!実現不可能!と言える理由と実現したらヤバそうな雰囲気を感じる点について

人間が夢見ている、あのフリーザも夢見ていたのが不老不死だ。不老不死が実現したら世の中はどうなるのか?というのは非常に興味深いが。私は不老不死はありえないと思っている。前回の記事で、鳶が鷹を生むという実例が現実的にありえないと回答した東大生が13%もいたことに衝撃を受けたということを書いたが、今回はマジでありえないと思っている。人間が死ぬことはあり得ないのか?と言えば、常識で言えばありえないが、不老不死が存在すればあり得ることになる。しかし、不老不死はあり得るのか?と言えば、私の考えだと、少なくとも人間が「不老不死はありえる」と断言できることはありえないと思っています。言っていることがよく分からないかもしれないけど、そもそも不老不死って確かめられるものですか?どうやって確認するんですか?って問題があるのです。

 

不老不死が存在すると言えるためには、不老不死の人間が1人は最低いないといけないことになる。では、その1人をどうやって見つけるの?ということ。これが難しいというか、実現不可能だと思うのです。不老不死の定義は歳もとらない(老けない)し、死なないという定義で考えていきたいと思うが、不老はまだ証明できるかもしれないね。しかし、不死は無理でしょう。どうやって、存在を確認するの?要するに、不老不死っていうのは、死なないという条件が必要なわけ。つまり、この先絶対に死なないという条件を満たした人がいて初めて、不老不死が存在したと言えるわけだ。そろそろ私の言いたいことが分かってきたんじゃないかな?死んだら不老不死じゃないって言えるけど、不老不死と言えるためには、ある人間がこの先ずっと死なないという条件を満たす必要があるってことは、リアルタイムでは不老不死の状態にある人を見分けることは不可能ってことだ。例えば、200年間生きている人がいたとしても、その人がこの先死なない保証はない。200年間も生きているってことは、不老不死なんじゃないの?っていう予測はできますけど、単に寿命が超長い人という可能性がありますよね。人類の平均寿命っていうのはどんどん伸びてきているわけです。

 

そういった中では、平均寿命が超長い人が中にはいても不思議じゃないときもくるかもしれない。つまり、200年間生きている人がいても、その人が今後も生き続ける保証がない以上、そういう人ですら不老不死とは言えないわけだ。だから、不老不死は無理というか、人間が不老不死の状態を確認することは無理なんです。不老不死が実現不可能か?というと、確率が0ではないけど、不老不死が実現した状態を人間は確認はできません。つまり、人間から見れば不老不死は実現不可能な状態に見えるわけです。実現していると断言できる状況がありえないわけだから。不老不死が実現したらとか以前に、平均寿命がかなり伸びたらどうなるのか?という点がまず気になります。人類はそういう方向に進んでますよね。医学の進歩を止めない以上は、そういう方向に進むことになる。

 

私の考えでは不老不死は実現不可能というか、自分自身で不老不死であると思える状況はありえないし、周りの人間が特定の人間を不老不死だと断定できることもありえないとなります。技術レベルとして、不老不死が可能なのか?については、私は全く知らない(笑)文系の人間なんで興味もないです。ただ、不老不死が実現可能か?どうかを問わず、人類が「不老不死がついに実現しました!」と言っている姿は想像できないし、あるはずがないと思っている。逆にそんなことを言っている人がいたとしたら、例の13%の東大生と同じレベルの頭なのねと思うしかない。不老不死が無理か?どうかは知らないが、世間の共通認識として、不老不死が実現したと言える世界が存在することはあり得ないと思うので、人類にとって不老不死はありえないという認識でずっとい続けるのではないだろうか?不老不死が実現したらそれこそ、マイナス面の方がなんとなく大きい気がするんですよね。不老不死の技術が完成した!って騒いでも、実際に不老不死が現実に存在するようになるか?は確認できないので、不老不死が実現したら世の中はどうなる?なんて考えること自体がおかしいのかもしれませんが。

 

不老不死

不老不死

 

 

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成蹊大学経営学部の偏差値や難易度は?倍率の予想や評判はどうなるのか?

成蹊大学というと、少人数教育で、東京都武蔵野市の吉祥寺にキャンパスがある大学というイメージの人も多いかもしれません。学部は確かに少ないのです。文学部、法学部、経済学部、理工学部というのが今まででした。しかし、今度新しく経営学部ができることになったのです。経済学部の経済経営学科が分化して経営学部になったのですが、立教大学もそんな経緯で経営学部が誕生したと記憶しています。あっちの経営学部は早慶並に偏差値が上がっていますが。成蹊大学の経済学部は元々経済経営学科があったのですが、その経営部分が経営学部(総合経営学科)となり、経済部分が経済数理学科と現代経済学科に変わりました。ちょっとややこしいですけど、経営学部の誕生とともに経済学部の学科再編も行われたのです。そういった部分が成蹊大学の偏差値にも影響しており、特に経済学部と経営学部の偏差値は注目でしょう。

 

成蹊大学の経済学部と経営学部の偏差値や難易度は?

成蹊大学の偏差値は全体的にMARCH下位レベルに相当しており、難易度は高いです。経済学部に関して言えば、河合塾の偏差値で経済数理学科、現代経済学科ともに57.5となっています。経営学部の総合経営学科は60.0で、新学部ですけどかなり難易度が高くなっているのです。成蹊大学経営学部のレベルはかなり高いと言えるのです。いずれも個別日程3科目の偏差値になります。成蹊大学からついに60.0が出たというのは大きいです。57.5は今まで多くありましたけど、ついに60.0の大台突破ということで、成蹊大学経営学部の難易度は学内でもかなり高いということになります。私大難化の波に乗って、成蹊大学も難しくなってきているのです。成蹊大学の経済学部と経営学部の偏差値はこういった感じですから、難易度は高いということで、MARCHの下位レベルに匹敵するという前提で対策をしていきましょう。

 

成蹊大学経営学部に関しては難易度もそうですけど、評判がどうなるか?は気になります。一般的な社会科学系の学部なので、それなりに人気になると思います。変わった学部名ではないですし、一定の人気は維持して、倍率も高くなると思います。ちなみに成蹊大学の経済学部の倍率を見てみると、3科目のA方式で言えば7~8倍です。E方式という2科目の全学部入試でも6倍程度あります。成蹊大学経営学部の倍率はそれに近い数字になるのではないか?と予測しています。学部の系統は経済に近いので、経営学部の倍率もそういった感じで高いでしょう。偏差値に関して、予想の数字がすでに高いわけですから、倍率もそれなりだと成蹊大学経営学部の難易度はとんでもない状況になりかねません。成蹊大学経営学部の評判なども気になりますが、しばらく経ってみないとそういったところは掴みづらいと言えるかもしれないです。成蹊大学経営学部の難易度に関しては、今のところは偏差値しかないものの、倍率もそれなりに高いだろうということは予測しておきましょう。

 

成蹊大学経営学部の評判はどうなる?

成蹊大学経営学部の学部の内容に関しては、「総合経営学科 学び方とカリキュラム|2020年4月、新しい経済学部と経営学部が誕生します|成蹊大学」に概要が載っています。

 

経営学の3つの基本領域を体系的に学ぶ

経営学の基本的な領域として「戦略とマーケティング」、「組織と人間」、「ファイナンスと会計」の3つの領域を想定し、それぞれの領域ごとに基礎から応用まで体系的に科目を配置しています。これら領域間の科目選択の自由度を高く設定していますので、学生の興味や将来の計画に応じて、3つの領域を均等の比重で学ぶことも、また、いずれかの領域を重点的に学ぶことも可能です。

 

語学科目と情報関連科目を豊富に設置したカリキュラム

現代の企業経営に不可欠な語学力を中心としたグローバルな能力と、情報機器も使い、企画・調査、分析、プレゼンテーションなどの情報処理能力を身に付けられる科目を豊富に配置しています。さらに、総合経営学科では、経営学専門科目と学際科目の連携を想定した科目も配置し、経営学専門科目と学際科目を有機的に関連付けることができます。

 

実務的・実践的科目の充実で現代に必要な経営学を修得

実務経験の蓄積からスタートした経営学は今や科学的な学問として発展しています。しかし、それに伴い、企業経営の実務とかけ離れた抽象論になる危険性もあります。そこで、総合経営学科では、現代経営学の理論を補完する実務的・実践的な科目を多く配置しています。理論的科目と実践的科目が「車の両輪」となることで、今日の職業人に必要な能力や知識を修得できます。

 

これを読む感じでは、一般的な経営学部という学びです。総合経営学科なので、経営学科と考えていいのではないか?と思います。経済学部については経済数理学科と現代経済学科で、恐らく学ぶ内容が結構違いがありそうですから、しっかりとその違いを認識しておかないといけませんけど、成蹊大学経営学部に関しては多くが想像している通りだと思います。しかし、実際の授業科目を調べると、経済の範囲の授業もあるようで、マクロ経済やミクロ経済も履修できるようになっているようです。履修の仕組みがあるので、そこも知っておいた方が良いとは思うものの、経済の領域に関しても学べるのが成蹊大学経営学部なのでしょう。あとは法律や商業系の授業もあるので、結構幅広いです。そういった意味では卒業後、会社で働くときに生きる知識が経営学以外の分野でも身につくのではないか?と思います。経営学全般とそれに付随する分野を学べるので、成蹊大学経営学部の評判としては良い感じになると思います。実際に学ぶ人が出て、卒業生などが出てくれば大分状況は分かりやすくなると思いますけどね。成蹊大学経営学部のレベルはそれなりに高く、もはや難関大学と言える状況なので、しっかりと対策をして受けてほしいですが、過去問などの情報があまりない中で対策をしないといけないのは大変だと思います。全員が同じ状況なので、とにかく頑張っていきましょう。

 

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水曜日のダウンタウンを視聴して東大生の頭の悪さをガチで目の当たりにした件

7月24日放送の「水曜日のダウンタウン」で、「鳶が鷹を生むにも限界がある説」というのを放送していた。今回は学歴版ということらしいので、東大生にインタビューをし、両親の学歴を調査していたのだが、その中で東大生に「現実的に鳶が鷹を生むことはありえるか?」という質問をしていたらしい。その結果も同時に番組内で報告されていたが、なんと87%がありえると回答!私は驚愕でしたよ。13%の人はありえないって言っているわけ。こいつらマジでバカ!?(笑)と、心の中で嘲笑したのは言うまでもない。「ありえない」という言葉の意味を理解しているのだろうか?ありえないという言葉は、一例たりとも存在しないということだ。過去も現在も、そして未来もだ。つまり、一例でも存在してしまったらアウトなわけ。一例でもあれば良いと一例すらもあってはいけない。さて、どっちが確率が高いと思う?そんな判断力もない人が1割強いたということだ。

 

ただ、私が仮に番組にインタビューを受けた側だったら、「そんなもの鳶と鷹との定義によるでしょ」とでも回答する可能性もある。鳶と鷹の例を無茶苦茶極端に設定したら、一例たりともありえないって状況はありえなくはないかもしれない(それでも一例くらいはどこかにあるだろうと思うが)のです。番組では、鳶を中卒以下、鷹を東大生にしているみたいだから、個人的には常識の範囲内だと思う。で、当然番組としても常識の範囲内で鳶が鷹を生むことは現実的にあり得るか?を聞いたと思うのだが、その回答があり得ないと回答したという人たちがいたことに愕然とした。別に東大生だからではない。東大生が頭が良いと思ったことは1度もない。申し訳ないけど。私は学歴と頭の良さはほとんど関係ないと思っているのですよ。学校の勉強、受験勉強ができることと頭が良いことは別だと思っているのです。正しくものを捉えて、論理的に考えられる人が、私は頭が良い人だと思っているので、東大生の中にいるかもしれないけど、大半は日本人にありがちな感情論で決める人たちだと思っている。今回の東大生の検証を見る限り、「あり得る」と回答した人はともかくとしても、「あり得ない」と回答した人は、私に言わせれば、とんでもない頭してんなwwwという感想しか出てこない。

 

例えて言うならば「人間が死ぬわけがない」という主張に等しいかな?と思う。それこそあり得ない話なんだけど。実際、番組では両親のどっちかだったかな?が中卒の東大生女子がインタビューに答えていたけど、これを鳶が鷹を生むという例に合致するか?どうかは人によって意見が違うだろう。しかし、仮に両親が小卒とかであっても、日本中、いや世界中探せばどこかにいる、いた、またはこれから出てくるだろうと思う。「人間が死なないなんてありえない」という話は過去や現在だけの話ではなく、これからも同じなわけでしょ?だから、「ありえない」という部分は未来も含めて考えていいわけですよ。不老不死の可能性を含めるならば、未来においてはあり得ないとは言えないかもしれないが、現在と過去においては少なくともありえない。まあ、その不老不死についても私はありえないと断言できますがね。次の記事でその真意を書きたいと思います。こういった状況で一例たりともありえないと回答した人たちの思考力が理解できないのよね。ただ、番組がこんな質問をいちいちしているということは、番組としては「あり得ない」と回答する人が一定割合出るだろうという予測なんだろうね。制作側としても同じような頭のレベルだったということになるだろう。

 

基本的に私は学歴と頭の良さは比例しないと思っていて、私から見て頭が良いなと感じる人はほぼいない。今までの人生で2,3人くらいだと思う。東大出身者をいろいろな番組で見ることあるけど、知識は確かにあると感じる。しかし、ものの考え方に関しては人並みだなって印象の人ばかりですね。物事の本質をとらえる力がないのでは?と思うのですよ。東大出身のタレントがよくテレビに出ていますけど、よくこんなことを言えるなwと思うようなことをズバズバ言ってしまう。それは世の中的にはそういう理解力がもはや普通なので、自分が一般的な理解力であることを認識し、おかしいとは疑問を持たないのでしょう。多数派だから、みんなと同じだから正しい考え方なんてことはないのですよ。元をたどればそういうことになるわけですけど、東大を出ても考える力は身につかないのかな?と思いました。東大で勉強を教えている人たちも同じだからってことかもしれない。頭が良い人っていう基準で言えば、私から見れば日本人ではほとんどいないと思います。

 

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反出生主義は正しい?頭おかしい?正直言って私は反論できないのが現状である

「反出生主義」という言葉がありますね。人類の歴史や今の状況を見ると、反出生主義に共感する人は少ないだろうが、結構的を射たこと言ってるなという気がするんですよね。私は反出生主義に反論できないのです。反出生主義の意見としては、だいたい共通しているんだろうけど、親の意思で子供を産むと子供が不幸になったときの状況が理不尽すぎる、取り返しがつかないということなのでしょう。それに対して、不幸になるか?どうかは産んでみないと分からないという意見もあります。それに対して、不幸になる人間が1人でも生まれて良いのか?という反論もあります。実際、1人くらいなら殺される人間が出ても良いのか?(それによって得する人間がいる)というと、そりゃ世間は容認しないわけですよ。自分が不幸になったら、それが少数か?どうかは関係ないわけですから。ここに反出生主義に反論できない余地が生まれてしまいます。自分が不幸になることを肯定できる人間はまずいない。その数が少数だと社会は相手をしないというだけの話であって。つまり、多数にとってはそういう不幸なケースが出てしまったとしても、少数であればスルーしたっていいだろ!って気持ちかもしれないが、少数ならいい理由は存在しません。じゃあ、あなただけの全財産をみんなで分けましょう!ってなっても、同意する人間はほぼいないわけですから。これはまさに特定の人間が不幸になって、それによって多くが得をするケースですが。

 

つまり、産んでみないと分からないって理由は、簡単に論破できそうです。あなたが不幸になることを許容できないのに、子供を不幸にするかもしれない状況を許容するわけですからね。自己中な人間にありがちな思想とも言えますがね。実際、私は反出生主義に反論できないのです。むしろ正しいとすら思えてきます。ネット上を見ると、反出生主義を正しいと考えている人は思いのほかいるのかな?という感じです。反出生主義は頭おかしいと罵る声もあるのだが、たいていは感情論です。反出生主義の意見の方が論理性が感じられるという気がしてきます。例えば、「反出生主義に反論ができない。正しい考えとしか思えない件 - 山田ユウキの頭の中」のページには以下のことが書かれているのです。

 

>仮にAさんという人がいたとしましょう。

Aさんが目隠しをされて、ジェットコースターに乗せられたとします。

ジェットコースターといえば好き嫌いがハッキリ分かれるアトラクション。

遊園地に行ったら必ず乗るという人もいれば、死んでも乗りたくないという人もいる。

Aさんがジェットコースター好きだったら「楽しい思いができて良かったー」と思えますが、嫌いな人だったら「なんてことしやがる」って思いますよね。

 

ミスマッチを防ぐためには単純に「目隠しをせずにこれからジェットコースターに乗せるけどいい?」と聞けばいいわけです。

しかし、出生に関しては子供に選択権がない。

選択権がない人に対して無理矢理どちらかの選択を強制するのはどうなの?

 

ドラマなんかでは「産んでくれなんて頼んだ覚えはない!」というセリフをよく聞きますが、冷静に考えたらこれ、反論できなくないですか?

少なくとも自分が親だったとしたら反論できない。

 

反出生主義という考えが生まれる理由、反出生主義に賛成する人が生まれる理由の根本はここなんでしょうね。人をマイナスに導くかもしれないことを、本人の許可なく勝手に行う。それによって、実際に不幸になる人が出てくる。ジェットコースターのケースでは事前に許可をとることは可能だが、子供を産む場合にはそれができない。つまり、産むという選択肢は無許可で行うしかないというのが現実である。このケースでは慰謝料を払うとかで解決できるかもしれないが、出産に関しては、じゃあ子供が生まれてくることを望まなかったことが後で明らかになったときに、解決方法がありません。親に責任とれと言っても、とりようがないですし、親はどうせとらないでしょう?自分のとんでもないミスを認めることができないと思いますよ。仮に残りの人生を全て子供の言うとおりに生きろなんて言われても、絶対に許容しない。1人の人間の人生を苦痛に満たしておきながら、親は結局何もしないのよ。不幸になるか?どうかは産んでみないと分からないと言うならば、産んでみて不幸になったらちゃんと責任をとるべきなんですよ。子どもの苦痛を少しでも和らげるために親が一生かけて償うべきなんですよ。例えば親が働いてお金を稼いで、そのお金は親の娯楽には1円たりとも使えず、全て子供にいくような状況が実現するならばまだ許容する余地はある。親が残りの人生全て子供のわがままに付き合うことを許容すると言うならば、産んでみないと分からないって意見も多少は肯定できるかもしれない。

 

実際、親もわがままなので、そんなことは絶対にやらない。つまり、自分が犯したとんでもないミスの責任は絶対にとらない。したがって、そういう親がいる以上、反出生主義はより正しい状況になります。だって、まともな親ってほとんどいないでしょうから。子供が自分の意思で生まれていない以上、子供が結果的に不幸になるのは自己責任ではないんですよ。どれだけ子供が無能で、わがままで、怠け者であっても。「無能で、わがままで、怠け者の自分が苦労しないといけないと事前にわかっていたら、自分は生まれてきたくなかった」と言われてしまえば、それまでです。その意思表示は現実的にはできないわけだが、意志表示ができない中で産んでしまうからこそ、こういうことを言われてしまうのだ。親のミスですよね。実際、子供が自分の意思で生まれてくる、こないの選択ができる中で、勝手に生まれてきて、無能で、わがままで、怠け者で苦労したならばあなたが悪いでおしまい。自己責任なんですよ。

 

ただ、子供の意思が尊重されない場合には、子供にとっては運の問題がかかわってくる。もちろん、産んでくれてありがとうと思えるケースもあるはずなのだが、何で産んだんだ!というケースも間違いなく確率的に存在してしまう。前者の場合には、とりあえず問題は起きなくてよかったとなるが、後者は大問題なんですよね。例えば、飲酒運転を取り締まる理由としては、事故を越さないためなのだが、飲酒運転をしても事故が起こる可能性は100パーじゃない。でも、規制をするわけですよね。それって1件でも起きたら一応問題って考えが根底にあると思うんですよ。でも、子供の産む、産まないの話になると、産んでみないと分からないじゃない?とか、都合のいいこといってくるんだなwって印象しかないですね。産んでみないと分からないってのは、個別のケースであって、全体で言えば、不幸になる子供はほぼ確実に生まれます。飲酒運転も同じだろうけどね。「僕が飲酒運転をしたって、事故を起こすとは限らないでしょ?」と言えてしまうわけですな。でも、全体で見たら事故は起きますよね。飲酒運転と子供を産む、産まないは違うだろ!って反論がありそうですけど、どこがどう違うのか?なぜごっちゃにしてはいけないのか?に関して、論理的に反論できそうな人が浮かびませんね。彼らは違いは説明するんだけど、その違いが結論を変える違いになる理由を説明できないのよ。違いがあっても、結論が同じで良いケースもあるわけだからね。万引きと殺人は明らかに違いがあるが、犯罪という結論は同じにしても問題ないわけよ。どっちも犯罪ですよね?は正しいわけです。

 

そういう感じで、反出生主義は頭おかしいと思っている人もいるようだけど、頭おかしいしか言えないんだったら、やっぱりこれが限界なんだなって感じがします。私は反出生主義の人間ではないが、少なくとも反出生主義の意見に反論できない。正しいと認めざるを得ん。少なくとも反出生主義が間違っていると思ったことは1度もないね。人間は生まれたら絶対に確実に不幸になりますからね。幸福な状況もあるのだろうが、その両面を体感して、生まれてきてよかったと思えるのか?は人によって違う。そして、生まれてきた子供の中で、生まれてきたくなかったと思われた場合、冒頭でも書いたけど、100パー親の責任である。でも、親は責任をとれないし、とろうともしない。そこを詰められてしまうんだろうなと思うのです。あとは反出生主義を突き詰めると、人類が最終的に滅亡するわけだが、不幸を感じる人がいなくなるというのも反出生主義の根拠になっているみたい。確かに子供を産み続ければ、不幸になる人は一定割合が生まれ続け、それが未来永劫続くことになる。でも、人類が滅亡すれば、不幸は消える。今親をしている人で、子供を産めない人が苦しむという発想もあるようだが、彼らが苦しんでも、それ以降苦しむ人が消えるのだから、結果的に苦しむ人の総数は減るから問題ないという意見もあるようだ。そもそも特定の誰かを不幸にするかもしれない望みが許容されるべきなのか?って観点もあるが。泥棒とかが完全に性質としては同じであると。その分幸福になれたはずの人間も減るが、飲酒運転を規制すると、飲酒運転をしたい人間の総数も減ってしまうので同じですよね。

 

私は一応中立のつもりでいたのだが、いろいろな意見を聞いても、反出生主義の人の方が納得感が生まれやすいのです。逆に反出生主義を批判する人、頭おかしいとする意見はぐっとくるものがない。要するに、彼らは頭おかしいしか言えない。なぜ反出生主義は頭おかしいのか?理由を説明する能力、つまり論理的思考能力が欠如しているように見える。そら子供を自由に産んでも良いというのが世間の常識だから、その常識こそが正しいと思って疑わない人間が多くいて、いきなりその常識がおかしいと言われても、今更価値観を変えられないから、とりあえず罵詈雑言を言っているという人が多い感じがするのだ。私は反論ができないので、反出生主義を正しいと認めざるを得ないというのが現状です。私は反出生主義の人間が増えることで、困ることは想像できないので、この話題ははっきり言って無関心です。反出生主義に賛成の人はあまりいないようなので、仮に反出生主義の人たちが完全に論破した状態があっても、子供を産み育てる人はいなくならないでしょう。ある意味議論するだけ無駄なのかもしれないが、自分が子供を不幸にするかもしれないと事前に予測し、子供を産み育てる人は減る可能性はある。反出生主義の意見が増えれば増えるだけ社会は変わる可能性がある。それが良い方向か?悪い方向か?というのは、人によって感じ方が違うだろう。反出生主義に賛成の人がどれだけ多くいても、不幸な人が生まれる社会構造は変わらないというのは、多分正しいんだと思います。

 

人類滅亡小説

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明星大学の偏差値や難易度と評判は高い?倍率や合格最低点について

明星大学に入りたいと思っている人、もしくは受験先の1つにする可能性があるという人は、いかにして明星大学に受かるか?ということを考えていかないといけません。明星大学の偏差値に関しては全体的に高いとは言えないくらいの数値かもしれませんが、教育学部に関しては難易度が高いです。明星大学では教育学部の難易度が高くて、それ以外の学部では多少易しい状況になっていると言えるので、受験する学部を決めるうえでそういった偏差値はしっかりと理解しておいた方が良いでしょう。明星大学の学部別の偏差値についてまずは理解をしておきましょう。明星大学に入りたいと思っている人、受ける可能性がある人はまずは全体の難易度を把握しておいてほしいのです。そのうえで明星大学の評判などについても簡単に紹介していきたいと思います。

 

明星大学の学部別の偏差値はどれくらいか?

明星大学の偏差値を学部別にチェックしていくと分かりやすいと思います。明星大学の偏差値は河合塾における偏差値では、教育学部が抜けており、52.5~55.0となっています。そして、心理学部が50.0で、経済学部と経営学部が45.0~47.5となっています。人文学部が40.0~42.5であり、文系学部はこんな感じです。理系学部については、理工学部が35.0~37.5で、デザイン学部が37.5で、情報学部が37.5~40.0となっています。文系学部では教育学部の難易度が高いです。心理学部もやや難しいです。こうして見ると、明星大学は学部の数が多く、それぞれで難易度が違うということが分かります。明星大学の偏差値では教育学部が抜けており、割と高い難易度になっているのです。しかし、それ以外の学部に関してもそんなに簡単というわけではなく、偏差値はそこそこあるので、しっかりと認識しておきましょう。こういった偏差値を見ると、明星大学での入りやすい学部も検討しやすいです。文系で受かりやすい学部があるとすれば人文学部でしょう。特に福祉実践学科は特に偏差値が低いです。

 

理系はあまり学部ごとの偏差値の差はないですけど、文系学部に関してはそこそこさがあるので、明星大学の入りやすい学部が存在するということです。学科や入試方式ごとに少し違いはありますけど、受かりやすい学部を受けるということも1つの戦法として知っておくと良いかもしれないです。明星大学に受かりたい人は受験する学部を決めないといけませんが、受かりやすい学部というのも手ということです。明星大学の難易度を調べる際には偏差値を比較するということも重要ではありますけど、後は倍率も気になると思います。近年は私大難化により、多くの首都圏の私立大学の倍率が上がってきています。したがって、明星大学の倍率にも影響している可能性があります。したがって、明星大学の倍率の傾向をここでも簡単に紹介していきたいと思います。

 

明星大学の倍率や合格最低点はどうなっている?

明星大学の倍率について簡単に紹介していきます。一般入試の倍率に関してのみ扱いますが、一般入試の個別日程としては前期と中期があります。A方式とされているものになります。こちらの倍率に関しては、理系はそこまで高くはありません。いずれの学部も3倍前後となっています。しかし、文系に関しては非常に倍率が高いです。学部学科ごとに差があり、低いところでも5倍程度はあります。高いと10倍を超えています。年度によって、変化が割とあるので、参考程度に明星大学の倍率を考えておきましょう。偏差値は必ずしも高いわけではないですけど、明星大学の難易度はそれなりに高いと思います。人文学部の人間社会学科、教育学部経営学部、心理学部あたりは10倍を超えている年もあります。それ以外でも5倍強くらいはあるので、全体的に倍率は高いのです。ちなみに明星大学の合格最低点はどうなっているのか?というと、明星大学では合格最低点は非公開になっているようです。したがって、入試のボーダーラインの数字は不明なのです。合格最低点が公開されていない大学は非常に多いので、そんなに珍しいことではありませんが。センター利用入試のボーダーラインは文系学部は心理学部と教育学部が65~75%くらいです。それ以外が60~70%くらいです。理系は50~60%の間くらいとなっています。こういった明星大学のボーダーラインも変動しやすいと言えますが。

 

明星大学のキャンパスの学生の評判は?

明星大学のキャンパスの雰囲気とか、立地条件をしっておいてほしいと思います。アクセスとしては多摩モノレール中央大学・明星大学駅から直結、または京王線多摩動物公園駅から徒歩8分となっています。都心にキャンパスがあるわけではないので、そこの評判が気になります。たま、多摩モノレールを使うと駅からすぐなので、雨の日などは便利ですし、その点は明星大学の学生の評判も高いです。ただ、周辺にあまりお店などがなく、遊ぶ場所、買い物をする場所がないという点が口コミでも不満として伝わってきます。そういった立地条件なので、勉強には向いているかもしれませんが、キャンパスライフとして微妙と感じている人もいるようです。キャンパスの周辺の雰囲気などは実際に行ってみると分かりやすいでしょう。キャンパス内はとてもきれいな雰囲気で、明星大学の学生の評判も良いです。コンビニやカフェがあり、食堂は2つあるということで、かなり利便性が高いようです。映画の撮影に使われることもあるような場所みたいで、施設は充実していますし、キャンパス内は広いです。明星大学のキャンパスの雰囲気に関しては、かなり評判は良いので、明星大学に入りたい人で気になる方は自分でも見学に行ってみると良いと思います。

 

 

明星大学 (2020年版大学入試シリーズ)

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政治家に必要な資質や能力は揚げ足取りに屈しない、媚びを売らないリーダーシップの有無

日本の政治家、いや世界の政治家もそうだけど、なんか頼りないな・・・と思うことが多い。結局、リーダーシップをとれる政治家がほぼいない。結局は国民に媚びへつらうことしかしない人が目立つせいか、個人的にはすごいイライラする。政治家に必要な資質というと、私は1つは論理的に物事を考えられる人で、もう1つはそれを国民の顔色を窺わず実行できる人だと思っているんだけど、この2つを満たした政治家はほとんどいない、過去にもほぼいなかったのではないか?と思う。政治家のこういう資質を満たす状況というのは、選挙がある以上は実現しないだろうとも思っているが。何で私がこんなことを考えたのか?というと、政治家のスキャンダルのニュースを見るたびに、こんな揚げ足取りみたいなことしてどうするの?と半ば呆れることが多くあるからなのです。政治家の暴言や失言で最近もまたにぎわっているみたいだが、相変わらず表面的な部分で判断する人が多いんだなーと感じずにはいられない。以前も記事で書いたけど、政治家の失言や暴言とされているものは多くは、単なるイメージでそう判断しているだけであって、ちゃんと本質的な部分を見ていない。と国民を批判していたのが西村博之氏だ。彼はある政治家が発した「東北でよかった」という言葉への国民の反発に対して、字面だけを見て批判している人は本質的な部分を考えていない、これは筋の通ったことしか言っていない。と国民の側を批判したのだ。

 

その後も同じようなことがあって、天理市の市長が東京への出張中にあるサービスを利用したことが明らかになり、それが波紋を呼んだ。それは出張期間中ではあるものの、もちろん仕事中に利用したわけではなく、仕事をしている時間外で利用したものだろう。ホテルにいたときみたいだから自動的にそうなると思う。しかし、この行為は実際に国民に批判されたわけだ。なぜか?一言で言えば「(彼らに言わせれば)イメージが悪いから」だろう。自腹かつ、違法行為は一切なかったという前提であるにもかかわらず、それを批判する国民がいたのだ。信頼が低下するとか、とってつけたような言い方をしていたけど、要は俺の、私の気に障る行為をするな!という言い方なんだろう。ちなみに不貞行為に当たるか?どうかに関しては、違法行為がなかったという前提ならば、絶対に当たらないとは言えないものの、判例上は当たらない可能性も十分ありそう。というか、正確に言うと不貞行為の範囲をどこまで捉えるべきなのか?は人によって違うため、市長の奥さんとかが訴えて裁判にならない限りは、結論は出なさそう。違法行為はなかったという言い方が、じゃあどこまであったの?という部分を全く明らかにさせないため、この状況では不貞行為に当たる可能性は何とも言えない。仮に不貞行為があったとして、その部分を責めるならばまだ納得できなくはないかな?という感じでしょうか。ただ、多くの批判の理由は当然不貞行為ではない。まあ、不貞行為があったから即市長を辞めろとか、そういう結論は支持できないが。

 

この一件に関しては、市長を擁護する声も多数あったが、市長は謝罪会見まで行った。こういう市長は個人的には政治家に向いていないと、私は思っている。こういう国民に媚びへつらう姿勢が丸出しの人は、私の感覚だと政治家に向いていない。単なる揚げ足取りというか、揚げ足取りにもなっていない。揚げ足取りはちょっとした失敗を責め立てるという定義みたいだが、市長のやったことは失敗ですらないですから。客観的に見て、何1つ問題点を挙げることができないのだ。にもかかわらず、何で市長は謝るの???こういう政治家がいると、どういうことが起きるか?というと、国民のレベルに合わせないといけなくなるのだ。別に国民の全員がそのレベルというわけではないが、多数派という意味ではそのレベルに合わせないといけないと感じるだろう。当然、国民が怒ることに対していちいち謝っている政治家というのは、国民のご機嫌を窺う形で、政治を行わないといけなくなる。つまり、国民の思考レベルの許容範囲を常に考えて行動しないといけない。別の言い方をすると、国民の思考レベルを超えた政策などはできない、やりづらくなるのだ。

 

したがって、有能な政治家がいたとしても、国民に媚びへつらう姿勢が続く限り、そういう政治家は必要な資質を満たしていないと、私は感じる。その有能さは発揮されづらい。宝の持ち腐れとなる。もはや有能であることの意味がないということ。昔は政治はエリート集団だけが担っていた。だから、一般市民は選挙に参加できなかった。それは政治はエリートに任せていればいいという考えがあったからであって、国民は政治家から下に見られていたのだ。そういう見方は当時も、現代でも反発の対象になるだろうけど、当時のそういう考えが、あながち間違いじゃないかもしれないと思えてきてしまうのです。今回の天理市の市長が有能か?は分からないけど、少なくともとあるサービスを利用することによって、それ以降の仕事に身が入る、集中できるとか、メリットを挙げようと思えば普通に挙げられるわけで、結局市長の行為を批判する理由ってほぼないと思うんですよ。違法性が特になく、かつそのサービスを利用することで、その後の仕事に何の支障も出ないという時点で、批判できる余地なんかほぼないと思うんですよね。出張期間中でも、期間外の違いによる影響もほぼないと思うので、結局、咎める理由がないのに、咎めている国民がいるっていうのは、私は全く理解ができないです。なんの合理性があるのか?イメージが悪くなるとか、信用が落ちるとか、言う人いるわけだけど、何で市長が利用するとイメージが悪くなるのか?さっぱりなんですけど。

 

イメージが悪くなるとか、信用が落ちると言っている時点で、そのサービスに従事している人たちを完全に侮辱しているけど、そういう他人を平気で侮辱する国民がいる方が、その自治体のイメージが悪くなると思うんですけどね。おまけに違法性もないことをした人を、悪く言っている時点でかなり偏見を持っているとも判断できると思う。そういうブーメランに気付かないで発言しているのが国民であって、そのレベルに合わせようとしているのが政治家なんですよ。これで自治体や国が良くなるのでしょうかね?国民のレベルに合わせていたら、いつまで経っても変わらないと思うのですが。だから、そういう政治家じゃなくて、きちんと国民を黙らせるマジレスができる人、国民を教育できる人が政治家をまずやるべきだと思います。政治家に必要な能力という面で、きちんと論理的に考えられる人、つまり道筋を示して、こうこうこういうことになるから、こういう結果になるということが言える人。そして、もう1つ正しい信念を貫ける人が必要だと思います。そういう人が必ずしも良い結果を生むとは思わないが、媚びを売るだけの政治家よりは大分マシだと個人的には思っている。現実的にそんな人いるのか?と言えば、ほとんどいないかもしれない。ホリエモン西村博之氏は間違いなく媚びは売らないだろうから、彼らくらいかな?

 

これも以前別の記事で書いたけど、会社の事業とかにクレームを入れる人が増えると、斬新なアイデアにあふれた事業が生まれづらくなり、他社の後追いしかできなくなる。その結果、同じような事業しかできないから、利益を出す余地が長時間労働やコストの切り詰めに向かい、日本はどんどんブラック企業が増えるという仕組みを説明したのだが、これと同じだと思う。その批判は、一体何の意味があるのか?何をどう良くすることにつながるのか?を考えて批判している人が一体どれだけいるのか?と思うのです。プロセスや結果の部分まで考えずに、衝動的に感情の赴くままに文句を言う人たちがいて、それに合わせるように非合理的な判断を下すのが今の企業や政治家になっている。この状況が続く限り、日本はどんどんブラック社会になっていくと思います。政治家に必要な資質というのは人によっていろいろな意見があるだろうが、私はすでに挙げた部分がまず必要だと思う。それ以外にも必要な資質というのはあるかもしれないが、最低限を挙げるならばまずここだと思う。イメージで判断しないで、本質的な部分をちゃんと考えられるか?どうかリーダーシップを発揮して、国民のレベルではなく、自分のレベルで政治を行える人、それが政治家に必要な能力だと、私は考えています。マスコミもこんな揚げ足取りみたいな報道いなければいいのにと思うけど、マスコミもこの報道をすれば、こういう反応が返ってくるに違いないと思ってやっているんだろうし、国民のレベルを理解してのことなんでしょうね。マスコミがやってるのもたいては政治家の揚げ足取りだけどね。そうならば、ある意味マスコミは頭が良いと思いますよ。人のプライベートをいちいち晒すのは個人的には好きではないが。

 

 

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