就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

エントリーシートで入社後の抱負や目標や夢の書き方で、やってみたい仕事だけでは足りない!

就活のエントリーシートなどでは入社した後のことを聞かれることが多いです。例えば、入社したらやってみたい仕事などです。入社後の夢は何か?みたいな聞かれ方をする場合もあります。エントリーシートで入社後の夢なんて聞かれても困るという人もいると思いますけど、やりたい仕事とか、やってみたいことという表現の場合もありますし、もっと抽象的な表現で入社後の抱負や入社後の目標といった言い方も場合もあります。こういった質問はエントリーシートでは定番となっていますけど、入社後の豊富などを聞かれたなんて答えたら良いのか?というのは難しいかもしれません。エントリーシートでやってみたい仕事を聞かれたら、それはかなり具体的な聞き方なので答えやすいかもしれませんけど、エントリーシートで入社後の抱負などを聞かれても、答える内容がよく分からない人もいると思います。入社後の目標みたいな聞かれ方をしたときには、それはやってみたい仕事を聞かれたときと考え方は基本的に同じだと思います。入社後の目標などの表現はより範囲が広いような感覚になると思いますが、結局のところは入社したらやってみたい仕事が1番無難だと思います。問題は答え方ですね。この質問はある程度企業研究がちゃんとできているか?という部分も見られている可能性もあります。だから、そういう意味では結構評価対象になりがちな質問だと思うので、真剣に考えていかないといけません。エントリーシートなどで入社後の目標などを聞かれたときにはやりたい仕事を書くのが良いのですが、そのやりたい仕事をどう書くか?というポイントについて考えてみましょう。

 

就活のエントリーシートでのやってみたい仕事のような質問の答え方は、特定の仕事に関してやりたい気持ちを答えるわけですが、その気持ちだけでは足りないと思います。エントリーシートで入社後に実現したいことは願望だけ書いても評価されないということなのです。別に付け加えていくべきことがあると思うのです。それはその仕事をあなたがしていくうえで、その会社にもたらすことができるメリットです。やってみたい仕事は誰にでもあると思いますけど、やってみたい仕事だからやらせてみるとは言えないでしょう。本人の希望と適性などを考慮して、総合的に決めることなので、やりたいことをそのままやらせられるとは言えません。ましてや上司から見て明らかにその仕事に適性を感じられないと思ったならば、やらせることはないと思うのです。つまり、就活で入社後の抱負などを聞かれたときには、やってみたい仕事を話しても良いのですが、あなたがその仕事を選んだ理由を、しかもその会社にメリットがあるような形で説明していくことが必要になるのです。やってみたい仕事を答えるだけではなくて、それを私がやるとこんな良いことがありますよ?ということを付け加えると、会社としても魅力的に思えてくるのではないでしょうか?就活での入社後の目標といったことを答えるときにはそこまで答えられると周りと差がつくのではないでしょうか?そういう意味では、自分が本当にやりたい仕事をそのまま答えるよりは、企業に対して貢献しやすいもの、アピールできる部分が思い浮かぶ仕事をエントリーシートの入社後に実現したいこと、やってみたい仕事として話してみると良いかもしれません。

 

エントリーシートで入社後の抱負としてやってみたい仕事をアピールするときには、自分がその仕事をやることでメリットがあることを、自分にはその仕事をやるべき適性があるということを自己PRの要領で紹介していくことが重要になります。入社後との夢として語るのではないというところがポイントです。エントリーシートで入社後の夢として聞かれたとしても、夢を語って終わりではなく、自分にはこんな力があるから、自分がその仕事を行うことで、会社に利益をもたらすことができますよ。だから、私は入社後こういったことをやってみたいのです。という答え方にしないといけません。入社後にやってみたい仕事をただ話すだけの就活生が基本的に多いと思います。エントリーシートでも、面接でも同じですけど、夢だけ話しても差がつきません。自分がその仕事に必要な能力を備えている、適性があるから任してほしいと言えば、より大きなアピールになると言えます。やっぱり人事としてもやりたいとだけ言っている人よりも、自分には必要な能力や適性があるとちゃんと言えている人の方が、実際にその人に任せたくなるでしょうし、採用意欲もわくと思いますから。だから、ちゃんと根拠を添えて、自己PRの要領で、入社後の夢というか、入社後にやってみたいことを考えていくと良いのです。同じことをまた言いますが、入社後に実現したいことはいろいろとあると思いますけど、受かるためには本気で入社後に実現したいことを選ぶのではなくて、実現するにあたって、自分の持っている能力が生かせそうなもの、よりアピールができるものを選んだ方が、結果的に評価されやすく、エントリーシートの通過率も上がると思います。そういったことが特に必要になるので、覚えておいてほしいと思います。

 

エントリーシートというのはいろいろな項目があって、全てを埋めるだけでも一苦労だと思いますけど、そもそも何を書いたらいいのか?迷うような項目は特に困るという印象化もしれません。この入社後の目標に関してはその1つだと思うのですが、入社する前に入社後のことを聞かれても困るという人は結構いると思います。エントリーシートで入社後の夢とか、入社後に実現したいことなどを聞かれたときには、こういった形で答えると良いと思いますが、1つ覚えておいてほしいのは就活で聞かれることはほぼ志望動機と自己PRだけです。今回の質問の答え方も自己PRみたいなものであって、結局は就活の面接やエントリーシートというのは、どんな項目や質問であっても、自分のアピールをすることを心掛けるということが重要なのです。だから、どんな質問に対しても、自分のアピールをするということを念頭に置いて答えを考えていく必要があると言えます。したがって、就職活動を行っていくうえではこういった意識を持っておくと上手くいく可能性は高いのではないか?と思います。エントリーシートでは入社後にやってみたいことはいろいろあるでしょうけど、入社後にやってみたいことをそのまま書くと標準レベルの回答になってしまうと思いますから。

 

エントリーシートではいろいろな記入項目があって、それら1つ1つに対応していかないといけない難しさがありますけど、エントリーシートを書く前に、受かるコツを知っておくと、通過率が格段に上がる可能性があります。したがって、就活でエントリーシートを書く前には以下のような本で、通過率を上げられるような評価されるためのポイントを知っておきましょう。本書はエントリーシートの実例を用いて、実際にエントリーシートを精査する立場である人事のコメントを用いて、企業が求めるものを仕上げるコツを解説しています。特にどんな平凡な内容でも、人事が読んだときに思わず採用したくなるようなエントリーシートの内容の流れ、入れるべきキーワードなどを抑えていくことができるので、これからエントリーシートを書いていくときに、なんとなく書いて出している人は通過率が一気に上がる可能性があります。実際にエントリーシートを読んでいる立場である人事の監修が入っているので、魅力的な内容にしていくためのポイントが確実に理解できて、実践できると思います。エントリーシートが通過しないと就活は始まりませんし、先の選考に進めないので、いかに通過率を上げるか?どうやって評価されるようなものに仕上げるか?を考える必要があります。本書を読めばそのテクニックが掴めて、少しでもエントリーシートの通過率が上がり、内定を取れる可能性も上がる可能性がありますから、良かったら参考にしてみてください。

 

内定勝者 私たちはこう言った!  こう書いた!  合格実例集&セオリー2019 エントリーシート編

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横綱の品格にうるさい相撲協会に品格が備わっているとは思えない

最近の相撲では本当にこの話題が多い。「横綱の品格」という言葉がいろいろな箇所から出てくる。最近、矢面に立たされているのは白鵬だが、白鵬の取り組みに対する態度とかを指して「横綱の品格として問題がある」的な発言が相撲協会からなされることが多い。白鵬の取り組み方の態度に対しては、いろいろな見方があるだろうが、それを「品格」という言葉で表現するのは、私は相撲協会の言いたいことが全く分からないということになる。つまりは白鵬の態度が相撲協会から見て気に食わないものであったということは推測できるものの、具体的何がどう問題なのか?という部分は何も伝わってこないのだ。「品格」なんてアバウトな言葉で誤魔化すから、そういうことになる。頭の良い人間だったら、何がどう問題なのか?をちゃんと説明すると思うのだが、品格に欠けているとか、そういうことしか言わないのだ彼らは。つまり、これって小学生が喧嘩で「バカ」とか言っているのと変わらない。大人ならば、なぜバカと言えるのか?という部分をちゃんと説明すべきだし、品格に欠けているという言葉を使うならば、なぜそれが品格に欠けるのか?具体的な言葉で理由を説明すべきでしょう。もっと言えば、横綱の品格の定義を明確にしろ。ということになる。

 

横綱の品格とは何か?〜ある相撲好き武道家の考え | From Akira Masuda,空手武道通信からのお知らせ | IBMA 極真会館増田道場」のサイトに書いてあったことを引用したいと思う。

 

>さて、これから大相撲の横綱の品格とはどのようなものなのかを明確にしていきたい。でなければ、品格という尺度により人を批判する時、どのようにはみ出しているか、理解できない。そして、当事者は一体何を批判しているのだろうと思ってしまうだろう。もしかすると、モンゴル人の白鵬には、そのはみ出している部分が理解できていないのかもしれない。問題は、白鳳の数々の横綱らしくないと言われる行動が、確信犯的な行動であるかどうかである。もしかすると、モンゴル人の白鵬にとっては自然なあり方なのかもしれない。

全ては、大相撲関係者が、外部から示された横綱の品格というものを理解していないということの証明のように思えてくる。おそらく、大相撲協会横綱の不祥事を処理する際、品格という抽象的な言葉で、無理に体裁を整えようとしたことから、話がややこしくなってきている。

(中略)

また今回の問題で、大衆の大相撲を見る眼に、私は国民の民度を見る思いである。やはり品格という言葉が抽象的すぎる。それを関係者(親方)が理解していない。例えば、それが戦いの作法を指すのか。それとも言動を指すのか。それとも両方を指すのか。それを明確にルール化するしかないだろう。

 

相撲協会の問題な言動としては、アバウトで、人によって捉え方が変わるような言葉を使用して、相手を否定していることなのだ。品格という言葉の明確な定義はない。横綱の品格に関しては、これまたアバウトな定義がいくつかあるらしいのだが、これを見ても結局どういう行動が当てはまるのか?は判断できない。法律自体は存在するが、その法律が何を言っているのか?常人にはさっぱり理解できないような状況で生活をしていたら、ある日逮捕されてしまった(知らない間に法律に違反していた)という状況と同じである。こんな理不尽なことがあるか?つまり、横綱の品格という言葉がはっきり明確になっていないがために、その横綱の品格とやらに背く行動をとってしまうのだ。基準がはっきりしなければ、無意識の横綱の品格に欠ける行動をとってしまうのは仕方ない。つまり、横綱の品格に欠けた言動が問題ならば、その原因の根本は相撲協会にあるでしょう?ということなのです。あなた方が基準を明確にしないからこそ、横綱の品格に欠ける言動が生まれやすくなってしまうのですよ?ということです。つまり、問題の根本の原因が自分たちにあるにもかかわらず、人のせいにしているのが相撲協会になるわけです。そんな彼らに品格はあると言えるのでしょうか?

 

相撲協会にそこまで思考が働く人間がいないのが問題であって、横綱の品格に欠ける言動を生み出しているのは彼らなのだから、まずは相撲協会をなんとかしろよ!とファンは批判をすべきなのだ。そもそも品格にうるさい時点で、私は昨今起きた女子高生の黒髪強要問題と同じ匂いを感じる。あの問題の根本は、特定の価値観しか認めないということもあるが、それとは別に学校としての体面を保つためという部分があったと言われている。つまり、黒髪以外の生徒が通う学校という部分が、周囲の評判を落とすと考えられたというのだ。それ自体は確かにと思えないわけではない。髪の毛の色で人を判断するような国民が多いと言われたら、その通りだろうなと思えてくる。つまり、周りのご機嫌取りをするために、黒髪を強要するような主体が出てくるような状況と横綱の品格を求める相撲協会の状況は私は同じだと思っている。結局はファンがそういう横綱を求めている(品格に反する横綱を否定する)ということになるだろう。つまり、ここで言うファンはさっきの例で言えば、髪色で人間を判断する近隣住民ということになる。相撲協会側は当然ながら相撲の、力士の評判に関してはかなり敏感だろうし、評判が落ちないように配慮するのは当然かもしれないが、やっていることは私は黒髪強要と同じだと思っています。自分たちの体面を気にするあまり、周囲のご機嫌とりに奔走していると思うからだ。相撲ファンの全員がそういう目線で横綱を見ているとは思わないし、白鵬の態度がそんなに問題だろうか?または横綱の品格にそんなに厳しくなる必要あるの?相撲協会側に疑問を感じているファンもいるとは思っている。

 

結局、同調圧力的な問題に収束すると思っているが、特定の価値観が強要されている現状は大相撲界でも一緒だと思っている。白鵬の言動の何が問題なのか?と言えば、感情論になりがちな部分も多いと思うのだが、いろいろな力士がいるという状況をどうも肯定できない人たちがいるのだろう。特定の型にはまった力士じゃないとダメで、多様な力士の存在を認めないわけだから、私が大嫌いな同調圧力の側面がここでもやや見受けられると感じてしまう。こういう側面においても、私は相撲協会に品格があるとは思えない。相撲ファンのご機嫌とりなのか?相撲協会の独断の判断なのか?は定かではないけど、どっちにしても特定の価値観に縛られ、特定の価値観を強要する姿勢は、ある種の差別的な行為になるのだが、相撲協会が差別を是認するならば良いんだけど、彼らが差別を大っぴらに肯定するとは思えないので、そんな言動の矛盾を抱える相撲協会に真の品格があるとは思えないのだ。また、あるサイトには取り組中にブーイングをする客に品格が備わってないだろうという指摘もあり、そういう客に対して何の指導もしない相撲協会側を暗に批判しているケースもあった。お金を使ってくれる客側を批判することなんかできないんだろうが、そうやって自分たちの事情を最優先して批判の対象を選別しているだけでも、十分差別的な状況だと言える。相撲協会側は横綱の品格にうるさく言う前に、自分たちの品格について考えてみたらどうなんだろう?と思う。

 

 

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ロンハー、クレしん、銀魂以上に子どもに見せたくない番組、教育上よくない番組がある

子どもに見せたくない番組やアニメというのがあるらしいです。有名なところだとロンドンハーツとかですか。私も小学生の頃は見てた気がするが、最近は全然見ていない。テレビ自体を見る頻度が下がってきているというのもあるが。アニメだとクレヨンしんちゃん銀魂あたりが挙がるらしい。銀魂は見たことがないので、何が子供に見せたくないアニメと捉えられているのか?は分からないが、クレヨンしんちゃんは面白いだろうと思うがね。ただ、こういう教育上よくない番組みたいなランキングがあると、だいたい上位にくる番組は決まっている。そして、その理由は結局のところイメージによるところが多い気がする。私は最近あるテレビ番組を見て、この番組ってある意味教育上よくないよなーと思ったものがあった。それが「林先生の初耳学」というものだ。私はこの番組自体を否定しているわけではなく、この番組で先日取り上げた1つの回が問題だと思っている。それは見た人もいるかもしれないが、男女でTシャツの脱ぎ方が違う理由は何か?というものです。そういえば、男女で脱ぎ方が違うかもね?と私も思ったけど、男性は首の後ろを引っ張って脱ぐケースが多く、女性はTシャツの裾の部分を腕をクロスさせて掴み、そこを上に引き上げて脱ぐケースが多いらしい。言われてみれば、確かにイメージですね。

 

そして、その理由は何なのか?林先生の回答は「女性はメイクをしているので、そのメイクがTシャツにつかないようにしているのでは?」だったが、スタジオからは「いやいや、女性の脱ぎ方でもメイクはつくでしょう(笑)」と、ほとんど賛同してもらえず、結果としても不正解という状況だった。個人的には林先生の目の付け所は悪くないと思っている。それは男女でなぜ差があるか?ではなく、女性がなぜああいうやり方でTシャツを脱ぐのか?という点に着目している点です。男性の脱ぎ方と比べて、女性の脱ぎ方の方が面倒そうな手順が入っていて、より手間がかかっている気がするのだが、すると女性がそのTシャツの着脱の方法をとる理由があるはずで女性に何らかの事情があるために、女性は男性を違う着脱方法になっているのではないか?と考えるのが自然な気がするのだ。つまり、回答のポイントとしては女性にしかない何かを答えるのが良い気がする。そういう意味では、不正解ではあったが、林先生の回答は方向性としては良いと私は思っている。で、結局何が正解なのか?というと、番組上では、男性と女性のTシャツのシルエットが違うため、女性のものは身体のラインが出やすい作りになっているから。と解説されていた。この解説を見て、へー、そうなんだ!と思った人も多くいたに違いない。

 

しかし、私は「は???」って感じでしたよ。なんでそれが理由になるの???と思って、全く腑に落ちない。これって、要は男女でのTシャツのデザインが異なるということを紹介しただけなのです。それが=男女のTシャツの脱ぎ方の違いを説明できる理由になるか?は全然別問題なのです。だって、女性がそれを理由に、こういう脱ぎ方を選択しているとは限らないでしょう?実際、女性の中にも男性と同じような脱ぎ方をしている人がそこそこいるみたいなのです。つまり、女性のTシャツは男性ものよりも身体にフィットしやすいデザインになっているから、男性と同じ着脱方法では脱ぎづらいと、だから両手をクロスして裾を上に引っ張り上げていくやり方になっているんだ。というのが番組が考えた理由なのだろうが、女性もののTシャツを着ている女性の中に、そういう着脱方法をしていない人が普通にいる時点で、この説は崩壊しているのだ。だって、女性もののTシャツを着ている人が、男性の脱ぎ方をしても脱ぎづらさをそこまで感じていない人がいるってことになるから。女性もののTシャツは男性ものよりも脱ぎづらいという傾向が確実にあるということが言えないと、この説は成立しない。だから、男性と同じ脱ぎ方をしている人がいるという話になるし、実際両手をクロスして着脱する方法をとっている女性が、頭の中で「首元を引っ張って脱ぐやり方では脱ぎづらいな。両手をクロス手裾を引っ張って・・・お!これなら脱ぎやすいな!」という思考を経た結果、その脱ぎ方にたどり着いたとは、正直思えない。そういう思考のプロセスを経た結果、そういう脱ぎ方になっているならば、女性が実際にTシャツのデザインの男女差を意識した結果、その着脱方法にしているということになるので、この説は正しいと言える余地は残るが、私は無意識にやっているだけで、そんなことまで考えて導き出された脱ぎ方とは思えないので、これは理由になっていないと思うのです。

 

つまり、番組が用意した回答は、理由になっているように見えるかもしれないが、理由になっていない。それが理由である可能性が残るに過ぎないのだ。そういう意味では、林先生の回答と同レベルということになる。実際、じゃあ男性が身体にフィットした服を着ないのか?と言えば、着ますよね。私は細身の体で、どちらかというとある程度タイトな洋服が好きなので、サイズ的に体のラインがもろに出る服を着たこともあるけど、そのときに両手をクロスさせて脱ごうなんて思ったことはない。私は首の後ろを引っ張って脱ぐか、袖を引っ張って片腕をまず洋服の中に入れてから首を引っ張って脱ぐか?のどちらかのパターンしかない。実際、加圧トレーニングとかに使うTシャツは、女性ものの普通のTシャツと比べても圧倒的にタイトだと思うが、それを着ている男性が両手をクロスさせて脱いでいるシーンというのを見た記憶もないし、そういう脱ぎ方をするという想像もできない。つまり、番組が用意した回答はいくらでも反論ができるものであって、これをまるで正解みたいに扱うのはおかしいと思うのです。それが理由として成立する根拠が何もまるでないのに、勝手にそう思っちゃっているだけ。そして、それを子供から大人まで見て、へーって思っている人もいると思うけど、これは教育上よくないなと思うわけです。なぜならば、間違った知識を植え付けるから。つまり、理由になっていないものを理由だと勘違いさせることになるのです。子供に見せたくない番組やアニメということになれば、私はこういう類のものを挙げると思います。そういうことの弊害は実際に起きていると思う。

 

話はかなり逸れるけど、ベーシックインカムの話になると、絶対に出てくるのが財源問題なのですよ。ベーシックインカムの反対の人もいると思うんだけど、その理由の1つに「財源が確保できるとは思えない」っていうものがあります。これが反対理由だって人がいるんだけど、これもまさに理由になっていないケースの1つだ。財源がないだろうというのは、そもそもベーシックインカムに反対の理由になっていない。なぜならば、財源があるか?どうかというのは、ベーシックインカムが成立するか?を問う要素だからだ。つまり、これはベーシックインカムの可否の理由にはなるが、賛成や反対の理由にはならない。ベーシックインカムに賛成か?反対か?というのは、ベーシックインカムが成立するとしたらあなたは実現してほしいか?ほしくないか?を問う話であって、財源の問題は賛成か?反対か?とは別次元の話になってしまう。ベーシックインカムが成立するか?という問題がまず最初にあり、それが解決されたうえで、改めて賛成か?反対か?という問題が生じるのだ。だから、ベーシックインカムなんて実現できるわけがないという主張をするときの理由としては適当だが、ベーシックインカムに反対するときの理由にはならないと私は思っている。

 

子供に見せたくない番組やアニメという観点において、私はちょっと違う理由で見ているけど、ロンドンハーツやクレしん銀魂などはエンターテイメント性に関しての番組であって、面白いか?面白くないか?を争う内容だから、正直どうでも良いと思っている。しかし、大人になるまでの過程において、思考力や起こっていることの実態に関して、いかに正確に把握する能力というのにもろに悪影響を与える番組がこういったものになると私は思っている。先ほども言ったけど、林先生の初耳学という番組を否定しているわけではなく、そういう理由になっていないものを理由として説明してしまうような番組を否定しているので、他にも該当する番組はあるだろうし、当該番組の他の回はそんなに問題がないと言える可能性もある。教育上よくない番組として、林先生の初耳学で扱う内容な内容は絶対に挙がらないでしょうね。ああいう番組は雑学として、人の知識など役に立つと思っている人が多いと思うから。ただ、私に言わせれば間違った知識や思考力を植え付ける諸悪の根源になりかねないと思っているので、場合によってはああいう番組は子供に見せたくない番組やアニメの筆頭になると思っています。

 

林先生が驚く初耳学! (1)

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立教大学経営学部の偏差値が早慶並み!評判や倍率も高いがボーダーラインなどはどうか?

MARCHレベルの大学の中には早慶レベルに匹敵する学部を持った大学もあります。従来は中央大学法学部というのがそれに近かったと思いますけど、中央大学法学部は近年はその偏差値を下げてきています。法学部人気が落ちていると言われている部分もあれば、中央大学全体の人気も下がってきているとされていますが、その中でMARCHレベルというよりは早慶レベルに近い存在として君臨しているのは立教大学経営学部です。経営学部を擁する大学の中では1番の偏差値の高さではないでしょうか?それだけ立教大学経営学部の評判の良さというのが関係しているのだと思うのです。ここ数年で立教大学経営学部の偏差値はとんでもなく上昇してきています。立教大学は長く看板学部がないと言われてきており、経営学部も看板学部とは言われていませんが、立教大学経営学部は学内でも特に偏差値の伸びが著しいため、立教大学の中では人気も高まっており、倍率もかなり高くなってきている状況があります。河合塾で偏差値を調べると、立教大学経営学部の全学部日程の経営学科は67.5です。私立大学の偏差値が70.0まで(2.5刻み)しかないことを考えるとかなり高いことが分かります。個別日程の方でも、経営学科と国際経営学科が65.0となっており、早慶の下位学部レベルの偏差値になっています。どちらの学科も学生の評判は良いと思います。偏差値は時期によっても多少変わりますけど、MARCHの中では早慶に匹敵する難易度になっているのが立教大学経営学部で偏差値も非常に高いですし、人気も高い学部として存在しているというのは受験生も知っておくと良いと思います。本当に近年は難しくなっていますからね。

 

立教大学経営学部がどうしてここまで偏差値が高くなってきたのか?その原因は分かりかねますけど、倍率を見ると本当に人気になっているのが分かります。元々経営学部の中では、立教大学経営学部の評判が良かったという点はありそうです。他の大学にはあまり見られない国際経営学科を設置している点は大きいと思います。国際系の学部が人気の昨今では、経営学部に国際経営学科があるという部分は評判の1つの要因になっていると思うのです。立教大学経営学部の倍率に関しては全学部日程も高いですけど、個別日程の方がかなり高いです。立教大学経営学部の個別日程の倍率は経営学科が15.0倍、国際経営学科が13.0倍です。これは2017年度の入試結果になりますが、こんな高い倍率はほとんどないです。個別日程は募集人数が多いので、10倍を超えることもそうはないと思うのですが、立教大学経営学部の倍率は立教大学の中でもかなり高い数字になっているので、こういったところを見ても看板学部と言える存在になってきているのです。ただ、立教大学は他の文系学部に関しても倍率はそれなりに高いです。ここ数年で大学全体の倍率が上がってきているのが顕著なのが立教大学青山学院大学なのです。この2つは元々人気の大学ですけど、MARCHの中では倍率の上昇が著しいです。私が受験生の頃と比べたらどの学部も難易度が上がっているなという印象です。立教大学経営学部はどちらかというと、国際経営学科の方が人気が高いと思うのです。特に女子学生は、国際系の学部学科への関心が高いようなので、立教大学経営学部も国際経営学科の方が多少難易度は高いのではないか?と思います。河合塾の偏差値は2.5刻みなので、かなりアバウトですから同じくらいですけど、別の偏差値を調べれば、立教大学経営学部は国際経営学科の方が難しいという状況になっている可能性もあります。

 

国際経営学科のみならず、経営学科も難しいので、立教大学経営学部に入りたい人はこの倍率の中で合格を勝ち取っていかないといけないと言えます。倍率が個別日程でも10倍を超えている状況なので、募集人数がそこまで多くないですし、合格者もあまり多くは出せないので、立教大学経営学部はそれだけ倍率が上がりやすいということが言えますけど、ライバルがかなり多く、河合塾の偏差値で65.0くらいの数字が必要な場合があるということは立教大学経営学部の難易度は相当なレベルなので、早慶に受かるほどの実力が必要ということになります。65.0という偏差値は早稲田や慶應でも下位~中位学部くらいのレベルになるので、以下に立教大学経営学部の偏差値が高いか?ということになります。センター利用入試でも受けられるので、そのボーダーラインを紹介しておきたいと思います。立教大学経営学部のセンター利用のボーダーラインは何割か?というと、3科目と4科目がありますけど、どちらの学科もそれぞれの必要な得点率は同じです。3科目が86%で、4科目が88%となっています。かなり高い数字であることには変わりありませんが、偏差値ほどの得点率は必要ないということです。3科目を例にしても、MARCHには立教大学経営学部よりも偏差値が低い大学学部でセンター利用のボーダーラインが高いところがありますから。中には9割程度必要というところもあるので、そこと比べたらまだ立教大学経営学部の難易度はセンター利用では易しいと言えるかもしれません。

 

とはいっても、8割台後半が必要なので、かなり難易度が高いのですが。立教大学経営学部に入りたい人はセンター利用のボーダーラインも知っておくと良いです。センター利用入試で受けたい人は立教大学経営学部のボーダーラインが何割か?というのは知っておくと良いです。ボーダーラインが何割か?というのは、その年の倍率にも変わるので、この数字をとっても絶対に受かるとは言えませんが、このあたりの得点率が必要なので知っておきましょう。あとは一般入試とセンター利用入試の受験科目についても知っておきましょう。立教大学経営学部のボーダーラインにおいては、一般入試のボーダーラインも重要です。こちらは合格最低点という意味でも重要ですけど、そこも確認をしておいてほしいと思います。一般入試の方の合格最低点は立教大学では公開されていないので、立教大学経営学部の合格最低点も分からないということになります。だから、立教大学は受験生は対策がしづらいのです。立教大学経営学部はMARCHの中の経営学部でも評判がかなり良いんでしょうね。ここまでの偏差値の高さになるとは数年前までには思えませんでした。立教大学には看板学部が存在しないと言われていますが、偏差値や人気を見れば経営学部が立教大学の看板学部で良い気がしてきます。立教大学どの学部でも偏差値が高くても難しいですけど、立教大学経営学部の偏差値は特に高く、レベルは相当となっているのは立教大学に入りたい人は知っておくと良いと思います。すでに話したように倍率も高いですし、合格最低点なども問題のレベルに関しては高いと思いますけど、難易度は早慶の下位~中位学部くらいに相当すると思いますから、本当に立教大学経営学部の難易度やレベルは高くて、受かるには大変だと思いますけど、学部の評判なども調べておいてほしいです。特に経営学科と国際経営学科の違いなどについて、大学のホームページや学生の口コミなどを見ておいて、それで立教大学経営学部の評判といったもので、魅力を実感してもらうと良いと思います。

 

 

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裁判官「生活保護受給者はパソコンは借りれば良い!買う必要はない」←え???

生活保護受給者のパソコンを購入は「自立更生の出費」にあたるか。 自治体による生活保護費の返還請求をめぐる訴訟で、東京地裁は「パソコンは知人に借りることができる」として、自立更生の費用とは認めない判決を出しました。  これを受けて『ニコ論壇時評』では小飼弾氏と山路達也氏が、生活保護の資金使途確に規定することの是非や、日本の租税体系の問題点・ベーシックインカムの仕組みについて言及しました。  

 

 山路:意味がわかんないですけどね。今はスマホとかパソコンがなかったら何もそういうことできないんじゃないかなって。仕事を探すにしても、学ぶにしても。

小飼: 裁判所の人たちは違うのでしょうね。

山路:「生活保護でパソコンを買うとダメだ」みたいなことができて、それは「知人からパソコンって借りられるでしょ?」みたいなことが判決文に書いてあったんですよね。

小飼:要は人のお金の使い方に細かくケチをつけてるんですよ。細かくケチつけない方がいろいろな使われ方をするんですよ。だから僕は生活保護でパソコンを買うというのは、極めてお金を有効活用してくれたということで、納税者としては支持しかないですね。

山路:パソコンを買って、それで遊ぶもよし、仕事を見つけてやるでもよし。

小飼:そうそう、だからアプリを作って一発当てたら、また富が生まれるわけじゃないですか。

山路:もらった範囲内で身を縮ませて暮らしてても全然消費は伸びないわけですもんね。生活保護だと自動車も認められないんですかね。

小飼:そういった意味で、いちいちあれはいい、あれはだめという余計な手間をかけさせるでしょ? 何のための生活保護なんですか。黙って金を渡して、放っておけばいいじゃないですか?

山路:そこのところで妬み嫉みが発生して足を引っ張ろうと......、つまり働かないのにお金をもらえているっていう、そこに妬みが発生するんですよね。

小飼:そうそう、人を妬んだり嫉んだりやっている暇があったら、自分のお金の使い方を考えればいいじゃん。妬み嫉みをしている人たちというのは、そういうお金もないのか。(以下略)

 

「生活保護受給者のパソコン購入」納税者として支持できる? できない? 「自立更生の出費」の許容範囲とは | ニコニコニュース」の記事に書いてあったことになるが、やっぱり裁判官ってのもAIに代替された方が良いな。と思わずにはいられない。考え方がずれているというか、それに何の意味があるの?と、言わざるを得ないようなものの解釈しかできない人間が裁判官になっているという、非常に恐ろしい現実を実感する瞬間です。パソコンを買うために生活保護費を増額してくれという要求に対して、「パソコンなら借りることができるだろ」という判決はまだ理解できなくはないのだが、これは与えられた金額の範囲内でパソコンを買おうとしているわけでしょう?そこに対してパソコンは誰かから借りれば良いとする意味ってなんかあるの???誰かから借りれば良いってことになると、生活保護受給者が欲しているもののほとんどはそれで解決するんじゃないの?と思うと同時に、パソコンを買うのがダメと言われたら、そのお金も別の何かに使われるだけだと思うんだけど、その別の何かとパソコンで、別の何かの方が使い方として優れているという根拠でもあるのだろうか?全く理解ができない。

 

そもそもパソコンは借りれば良いと言っても、貸してくれる相手なんかいる?私は絶対に貸したくないけど。パソコンって、基本的に家族とかですらも勝手に使われたくないという思いがあるのではないか?と思うのだが。この記事のコメント欄には「ネカフェじゃないんだから貸すわけねーだろ」と言っていたが、まさにその通りだと思う。じゃあ、この裁判官に頼めば貸してくれるのかな?貸してくれるところ、人なんていないと思うのだが。ネカフェに行って使えば良いという理屈だとしても、ネカフェに通うという行為をする以上はランニングコストがかかりっぱなしですからね。パソコンの利用頻度にもよるが、人によってはパソコンを買うよりも圧倒的に高くつきますよ。長期的に見たら。結局、パソコンがそれなりに高価なものだから。という部分も入っているのかもしれないが、それは単価が高いだけでしょう。パソコンって1回買ったら当分買わないのだから、長期的に見たらそうでもないですよ。私は1個前に使っていたパソコンは5万円くらいで買ったと思うけど、3年以上は使ったと思う。5万円で36ヶ月だと、1ヶ月あたり1400~1500円くらいかな?ちょっと雑な計算だけど、これくらいの出費なら全然問題ないだろう。生活保護受給者のうち、文化的な使い方として、これくらいの出費を毎月している人はほぼ全員だと思うのだが。毎月5万円を使っているわけではないのだから。この金額で、かつ職探しや趣味そのものがカバーできる代物を買ってはいけないという発想が理解できないのだが。

 

これからの時代(今もそうかもしれないけど)は情報弱者は厳しいと思うんですよね。情報の持つ価値っていうのが、本当に高くなっている。そして、情報を得る手段としてインターネットは欠かせない。スマホでも良いけど、私はパソコンの方が圧倒的に使いやすいので、パソコンしかほぼ使っていない。裁判官はパソコンの有用性に気付いていないだけではないのかな?と思う。パソコンを借りれば良いと言われも、貸してくれという勇気を持つだけでも相当だと思いますけどね。現実的に貸してくれる相手がいるか?どうかという問題もあるが、それをお願いする勇気を私であれば持てません。絶対に嫌な顔されるもん。裁判官の判決はあまりにも非現実的かつ意味のないものにしか思えないのだが、この裁判官だけの問題ではないけど、裁判官の出す判決や判旨に関して、納得のいかないものは多いですよ。AIにしてどこまで解決するか?分からないけど、人間の裁判官の限界はとうに見えている気がしてくる。この裁判官とできれば話をしてみたいですね。その意図なんなのか?合理性はなんなのか?という部分を聞いてみたい。

 

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「子供を4人以上産んだら表彰する」という案を提示した山東昭子議員が批判されている。批判の内容を見たけど、よく分からないこと言ってるな(笑)という感じで、この人が批判されないといけない理由はよく分からない。このアイデアに関する妥当性はあまり感じないが、これって要は少子化対策のための部分も少なからず意図に含まれての発言なのではないか?と思う。本人は仕事だけではなくて、主婦としての評価を高めたいとは言っているが。それが実際功を奏するか?どうかは分からないが、確かに少子化対策になる可能性はあるだろう。私は少子化対策に全く興味はないが。あと、主婦としての評価を高める必要性はよく分からないけど。ただ、「「4人以上産んだ女性表彰」自民党山東氏の発言が大炎上 ナチス「母親十字章」やソ連「母親英雄」思い出す人も | キャリコネニュース | Page 2」の記事で引用させてもらうが、批判もくるし、炎上したみたいな状況らしいね。しかし、相変わらず批判は感情的なものばかり。「だったら何?」と容易に反論ができそうな批判しかできないのか?と疑問に思うわけだが、こういう人間がコメンテーターの第一人者になってしまっているのが、今の日本の苦しいところ。

 

>教育評論家の尾木直樹氏は自身のブログでこの発言を取り上げ、

「子ども産まなくても結婚しなくても、みんなが幸せ感じる社会築きたい。政治家はその先頭に立つのが責務ではないでしょうか?【4人子ども産んだら厚労省から表彰】なんて【発想だけでも】批判されるべきじゃないでしょうか?」(句読点は編集部)と批判。

 

そもそもこの山東議員の発想が、みんなが幸せに感じる社会ではない。と言いたいならば、尾木氏が言う「みんなが幸せに感じる社会」なんてありえない。というか、普通に考えて「みんなが幸せに感じる」なんて理想論を、マジマジを発言するところが教育者としておかしいと思うのだが。そんなものを追い求めても実現するわけがない。世界平和とかを願っている立場の人かもしれないけど、無理に決まっているだろう。そもそも現時点でも結婚している人としていない人では税制の優遇の度合いが違っている。その時点で、結婚をしていない人、できない人などは不遇を感じることになるわけで、国の仕組み自体がみんな幸せになれるようにはなっていない。差別は常にいろいろな場面で見受けられる。それを全てなくすことができると思っているの?またはなくすことが正しいと思っているの?何らかの差別が常に存在するのが世の中で、それは尾木氏自身も仕方がないと思っている面もあるだろうと思う。その現状を仮に肯定するならば、どこから「みんなが幸せに感じる社会」なんて言葉が出てくるんだろうか?それを本気で願っているって、子供が将来はウルトラマンになりたいと言い出すくらいの非現実的なことを言っているのだ。逆に尾木氏が既婚者と未婚者の税制上の優遇に対して何も言及しないならば、何でこれは批判をするの?と逆に疑問なわけだが。

 

>人事コンサルタント常見陽平氏もブログで 「国民を産む機械くらいにしか思っていないのか。子供を授かることのできない夫婦の苦しみを理解しているのか。そもそも、結婚・出産・育児というライフイベントのあり方が変化していることをわかっているのか。本人に問いただしたい」

 

「子供を授かることのできない夫婦の苦しみを理解しないといけない理由」がどこにある?そんなことを言いだしたら、不登校の子供のために学校の皆勤賞禁止、親が忙しい、または親がいない子のために授業参観禁止、結婚できない人のために結婚式禁止、お酒飲めない人のために飲み会禁止など、いくらでも同じような発想が思い浮かぶのだが、何らかのイベントや施策により、誰かが傷つくことは当たり前に行われている。その中で、この特定のケースだけ持ってくる意味が分からない。他はどうなの?他は何で良いの?常見陽平氏の日ごろの行動が誰かを傷つけることも普通にあると思うのだが。そんなことすらも分からないの?と、私は相当な疑問を感じる。子供を授かることができない夫婦に配慮しないといけないならば、他にも配慮すべき問題はいくらでもある。常見氏が言う「子供を授かることができない夫婦の苦しみを理解しないといけない」が正しさを持ちうるには、それら全てに配慮している人、言及する人している人だけであって、常見氏の言っていることはそういう人だけ口にできる言葉だと思うのだが。

 

>多産の女性を表彰する動きは、極めて全体主義的でもある。ナチスドイツでは1938年、子どもをたくさん産んだ女性への勲章として「母親十字章」が制定され、4人以上から人数に応じて銅、銀、金章を送られている。

ソ連も1944年に、10人以上出産した女性を表彰する「母親英雄」制度を設けていた。その後廃止されたものの、人口減少に歯止めをかけるため、プーチン大統領は、子どもの多い家庭を表彰する制度として2008年から同様の制度を運営し始めた。山東氏の発言から「ナチスの母親十字章と同じ発想じゃんヤバすぎ」「母親英雄かな?」と思い起こす人もいるようだ。

 

こういうところで「ナチス」って言葉を出してくるあたりが、この記事の筆者、またはその他の論者の頭のマズイところ。こういう人って、ナチスってイメージに先導されて、そういう危ない組織がやっていたことと同じことをやろうとしているという発想から、山東議員の考えた案もヤバいことなんだ?と、勝手に脳内で決めつけている気がするのだ。ナチスがやっていたら何なんの?って話なんですよ。山東議員のアイデアの問題点を主張するならば、ナチスを持ってくる必要はほぼない。しかし、あえてナチスを引き合いに出すってことは、ナチスがやっていたことと同じことをやろうとしているんだぜ?という真意が読み取れる。それはつまり、ナチスがヤバい組織で、そのヤバい組織が考えたことと同じことをやろうとしているのだから、山東議員はヤバい人間なんだ。という考え方が滲んで見えてくるのだ。しかし、ナチスと同じことをやっていたら何かマズイんだろうか?と思う。ナチスはかつて失業者対策として高速道路の建設とかを行ったわけだが、それによって失業者は大幅に減少したという実績もある。失業者対策なんていうのは、現代においても各国の政治家がやっていることだし、失業者対策が必要だと感じている一般の国民も多くいるだろう。そういったことがある中で、ナチスと同じ発想になる人間はヤバイいんだ。という考えが正しいならば、失業者対策を肯定している人間もヤバイってことになりますけど?現代のほとんどの人間の頭がヤバイってことになってしまうのです。

 

問題点があるとすれば、それはナチスがやっていた、やっていないはもはや関係ない。山東議員の発言から読み取れる部分に関して、問題点を指摘すれば良いのだが、ナチスを引き合いに出すと、こういう反論をされてしまうのだ。私自身は仕事をしている以外の場面での主婦が評価される、されないの問題はどうでも良いと思っている。というのも、それを言い出したら、じゃあ何でニートは表彰されないの?という話になるからだ。ニートだって社会貢献してますからね。ニートは働かないという選択によって、労働市場の需要と供給の関係において、労働者優位に状況を作っているわけです。彼らがみんな働きだしたら、需要は一定のままなのに、供給だけが増えて雇用者優位に状況になりますから、労働条件はどんどん厳しくなるし、失業者も増える可能性がある。つまり、ニートが働きだすと日本のブラック労働がより深刻になります。さらにニートは親のすねかじりとかをして、労働以外の手段で生きていけるわけだから、労働に頼らないでもお金を得る手段を持っていることになります。世の中には親のすねをかじれない人もいて、そういう人は労働をする以外でお金を得られないわけだから、ニートがみんな働きだすと、そういう人が働ける可能性を下げ、お金を得る手段が狭まる。結果、彼らは犯罪に手を出さざるを得なくなり、治安が悪くなる。そういう状況を回避する動きに徹しているのがニートなわけですからね。ニートの社会貢献の度合いはめちゃくちゃ大きいんですよ。だから、ニートを表彰するとかの案も同時に出すならば、私は山東議員の案に賛成できなくはないが、主婦だけを対象にするならば、要はこの山東議員も視野が狭いんだなと、私としては評価せざるを得ない。

 

 

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反論するとき説得力のある話し方を身に付ける必要性や意味はないと言える

私たちが誰かと議論したりするとき、相手の反論を聞いて「説得力ないな~」と思うようなことがあるのではないでしょうか?説得力というのは、相手に対して反論するときに必要不可欠な要素みたいな感じで言われているし、私も今までそう思ってきました。でも、相手に自分の主張を通すときに、反論するときに説得力を必要とする意味が分からなくなってきたのです。説得力は一体何のために必要なのでしょうか?相手から「あなたの言っていることは説得力がない」と反論されたときでも、それの何がいけないのだろうか?と、私は考えるようになってきたのです。例えば、先日ロンドンブーツ1号2号の田村淳氏が青山学院大学を受験することを決めたそうです。それは政治家になるための準備なのでは?とも言われています。本人にその意思があるのか?は分かりませんけど、仮にそうだとうすると大卒という肩書、ある程度の有名大学であることの肩書がないと政治家にはなれない、当選できないという思いがあるということになるのでしょう。でも、大卒の政治家じゃないといけない理由なんかないし、大卒の政治家は高卒の政治家よりも優れていると言えるのか?も疑問です。政治家に必要な素養を大学で学ぶことができるという意味では、無関係ではないとしても、大学で学ぶことなんて大学に入らないでも個人で勉強できると思うんですよ。文系ならば尚更です。

 

だから、政治家になるために大卒になる必要なんかないと思いますが、投票する国民がそうは思ってくれないという事情があるのかもしれない。つまり、仮にそうだとすると国民は大卒の人間じゃないと政治家に相応しくないと判断しているということになります。これが今回私が挙げている説得力なんていらない。という核心に近い部分になるのです。大卒の政治家が高卒の政治家よりも有能だとは言えないが、イメージでそう判断する人がいると思う。それはまさに説得力を求めている人になると思うのです。説得力のある話し方ができないと、主張をするときに欠陥があるみたいな見方をされるが、その必要はないと思います。例えば、ある人がおすすめのダイエットを紹介してきました。でも、その人が太っていたとしたら、「お前が紹介するダイエット方法なんて説得力ないだろ」って言われると思うのです。確かに説得力はないかもしれない。しかし、その太っている人が紹介するダイエットが効果がないなんて証拠はどこにもないのです。そもそもその人がそのダイエット方法を試してみたのか?分からないし、試したとしてもその人には合わなかった(他の人は合うかもしれない)など、いろいろな可能性があると思うのです。このケースでは説得力の有無は重要ではないのです。その太っている人から紹介されたダイエット方法が、自分にとって効果があるのか?ないのか?を考えるところが重要なのです。基準はその太っている人ではなくて、自分じゃないといけないはずなのに、なぜか太っている人を基準にしてしまうのはおかしい気がします。効果の有無を紹介した人の要素のみで判断してしまう。これが説得力の有無に頼りすぎるところの問題点なのです。

 

別の例を挙げると、学歴が微妙な人が家庭教師をやっていて、「そんな微妙な学歴の人が家庭教師をやって人の勉強を教えるとか、説得力なさすぎる」とか言われることもあるかもしれない。でも、その人は例えば古典がめちゃくちゃ得意で、他の現代文、英語、社会科などは苦手なせいで良い大学には入れなかった。でも、古典だけ教える分には何の問題もないでしょう?みたいなパターンがあると思うのです。つまり、見た目の学歴は微妙でも、ピンポイントの勉強についてはかなり有能と言える面があるかもしれないですし、そもそも自分がやることと人に教えることは違うわけですから、この場合の学歴と勉強を教える能力は必ずしも関係あるとは言えないという話になります。だから、見た目の学歴だけを見ると家庭教師をやる人間としては説得力がないのはそうかもしれないが、その人が勉強を教えることに関しておかしいと言えない余地も存在しているはずなのです。本来はそういう細かいところまで見て判断すべきところを、かなり大きな部分しか見ていないで判断をするケースというのがあるのではないか?と思います。説得力を身に付けるべきと考えるということは、細かいところまで考えを巡らせられない、つまり見た目のイメージで判断してしまうということと同義な気がします。

 

だから、説得力を増す方法を考えるというのは、議論において一般的な手段としては有効かもしれないが、すでに説明したようなことを話してしまえば、いちいち説得力を増す方法を考える必要なんかないと思います。いらないですもん。説得力のある話し方ができないこと、説得力のない人みたいなレッテルを貼られてもどうでも良いと思います。説得力の有無と、その主張の妥当性はそんなにリンクしませんから。だから、先ほどのケースで言えば、学歴が微妙な人が家庭教師をやっていることに関して、そんな奴が言っても説得力なんてない!と反論されても、こうこうこういうケースでは学歴が微妙な人でも勉強を教える意味はあるという言い方ができる場合があるわけですから、簡単に論破できると思います。ダイエットのケースも同じですね。特定の人は効果がないかもしれないが、それは別に全員じゃない。また、そもそも怠惰が理由であるダイエット方法を実践できなかったから痩せられなかったかもしれないので、勤勉な人が続けられればダイエットは成功できるかもしれないし、方法論に誤りはないが、実践する人にちょっと問題があるパターンでは効果はないが、実践する人が勤勉ならば効果が出るかもしれないって予測は普通に働くと思うのです。いろいろな可能性が考えられる中で、ただ1つのサンプルのみを参考に全てを判断してしまうのはもったいないと思います。

 

それに私たちは無意識のうちに説得力のないこと言っている機会が多いと思いますよ。プロ野球選手でもない人間が、プロ野球選手のプレーに文句を言ったりするケースもあると思いますが、これは正直言って説得力はないと思います。そうだとしても、その素人の意見が全く的外れか?どうかは別ですよね。ちゃんと中身を精査してみたら、良いこと言ってるんじゃないの?みたいに思えることはあるはずで、見た目のイメージだけで判断したら素人の意見なんか役に立たないと一蹴されそうだが、見た目に惑わされないような、誰が言ったか?は関係ないと考えられる、全ての意見に耳を傾けられるような人が精査すれば、的を射たこと言っているじゃないか!と評価してくれる場合もあるのではないでしょうか?大事なのは意見の中身がどうか?であって、誰が言ったか?ではないと思います。以前、政治家の中田宏氏がネットの匿名の意見は信用できない。と言っていた記憶があるけど、これも完全にイメージで判断しているパターンでしょう。匿名か?顕名か?は関係ありません。匿名の人が言った意見を信用できないと思っているならば、その人が名を明かせば一気に信用できるようになるんですか?意味が分からないのですが。信用の有無はその意見の根拠とか、そういったところに見出すべきであって、匿名か?どうかは本来何の関係もないと思います。だから、説得力のある話し方を身に付けるとか、そういうことは必要ないと思う。説得力にこだわる必要がないのです。

 

説得力がないと反論されても、説得力にこだわる人間は、見た目のイメージだけで判断してしまう、物事の本質を見られない人間だ。とでも、言っておけば良いんじゃないですか?説得力は相手の事情じゃなくて、自分の事情なんですよね。相手の言っていることの真実性や確かな能力を備えているか?といったことよりも、自分が相手をどう感じるか?思うか?という感覚の問題なので、そんなところを重要視してもしょうがない気がするのです。説得力の有無なんか気にしている人間は、本質的な部分で人やモノを判断する機会を逸失するわけです。もったいないじゃないですか?だから、「説得力」という言葉を使っている人がいても、何だかよく分からないことを言っているなーと思うことにしています。

 

 

究極の説得力 ~人を育てる人の教科書~

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