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就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

セルフレジのメリットは大きい?評判が良い現状を見ると普及して人間の職を奪うのは確実か?

働くことへの意識

マクドナルドにタッチパネル式のセルフレジが導入されているところがあるらしいが、軒並み評判らしい。私はそういったセルフレジというシステムを使ったことはないが、セルフレジなんてシステムずっと前から実は存在していたのです。例えば、地域によってはほとんど見ないかもしれないけど、無人で野菜を売っているようなところがあるわけですよ。野菜の直売所なんだけど、いわゆる店員というか、監視をする人がいないようなケースで、完全に購入者の善意に期待をしてそういう場を設けているようなケースがあって、あれもセルフレジの1つの形態になるでしょう。あとはコインロッカーとかがそうだね。あれは完全にセルフで、誰か店員が応対する間もなく、コインロッカーの支払いを利用が出来るシステムになっている。それがそれ以外の場でもどんどん普及していくという流れになるでしょう。ひろゆき氏とかも言っているけど、今後働くものの賃金が上がるということはまず考えられないとされている。世の中では最低賃金をを上げろというデモや企業が給料を上げないことに対する不満を述べている人もいるが、その願いはなかなか叶わない気がします。

 

言ってしまえば、企業にとって賃金をメリットがもはや存在しなくなっている部分がある。企業にとって賃金を上げるメリットがあるとすればなんだろうか?実はほとんどない気がする。強いて言うならば、賃金を上げれば従業員がやる気を出してくれて、仕事の能率や成果が上がるかもしれないということ。これも確実に起きるか?は分からないし、最大の問題は、上がった給料や時給に慣れてしまえば、いずれモチベーションは下がってしまう(元に戻る)ということなのです。時給や給料が上がった直後は嬉しさが半端ないかもしれないからやる気に満ちているかもしれないが、人間っていうのは慣れると感動を感じなくなる生き物で、長期的な効果は期待しづらいと思う。そうなると、企業が賃金を上げるメリットは今はほとんどない。昔は高い給料や時給で釣って、優秀な人たちを採用することできれば、それがメリットになっていたのだが、現代ではそのメリットはなくなってきているのだ。その理由はやはりロボットの存在で、ひろゆき氏が言っていたのは、ロボットは人間みたいに文句を言わないし、24時間働き続けられるし、人間よりコストかからない(場合もある)し、ということで、人間を雇わないでロボットを使っていくのは当然みたいな話をしていた。

 

つまり、ロボットを使うという切り札を企業が手に入れてしまった時点で、元々企業の方が労働者に対して立場が強かったわけだが、それが一層強気に出られるようになってしまったのだ。「お前ら文句言うなら、ロボットに切り替えてやるからな!」という切り札を使える企業は、時代が進むごとに増えていくでしょう。セルフレジは今後コンビニ、スーパー、ファミレス、ファストフード店などでどんどん普及していくと思うので、給料が上がるどころか、そもそも職がないという現象も増える可能性がある。企業が賃金を上げるメリットがないどころか、人間を雇うメリットがなくなることは恐らく必至ではないか?と思います。レジ業務っていうのは従事している人間の割合は相当高い職種になると思うのだが、それが機械に置き換わるというのは、大変な事態ですよ。先ほど挙げたマクドナルドのセルフレジはかなり評判みたいなので、利用する側にとってセルフレジのメリットが大きければ、そらどんどん普及してしまう気がします。

 

マクドナルドのセルフレジのデメリットとしてはクレジットカードに対応していないらしいので、そこが現時点での改善点か?と思われるが、恐らく消費者にとっての便利なセルフレジへとどんどん進化していけるのではないか?と思われるから、セルフレジの評判は非常に高いものになっていくのではないか?と思います。マクドナルドの話をすれば、店内の従業員ってほとんどいらなくなるのではないか?と思われる。結局、商品を作る仕事も最終的には機械のみでOKな時代もくるんじゃないか?と思うし、1つの店舗のマクドナルドで必要な人間の従業員というのはそんなに多くないんじゃないか?と思います。セルフレジは人間の雇用に対する脅威の1つでしかない。10年後や20年後になくなる職業について議論されたりすることもあるが、それらの議論の中で出てくる仕事が本当になくなるか?は分からないし、案外生き残るものもあるんじゃないか?と思う。そのときがこないと、具体的にどの職業がなくなるか?生き残るか?は分からないが、一定割合の職業はどうしても消えるだろうという予想はほぼ当たるんじゃないかな?と私は思っています。そのときに起きているのは人間が働けなくなる恐怖なのか?人間が働かなくても良いという安堵なのか?どちらの空気が世界で漂っているのか?は分からないけど、人間が働かなくても生きていける仕組みは絶対に必要だと思います。それが国民を守る義務を負っているであろう政府の責務だと思います。

 

 

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集団面接や集団討論においてうなずく必要性はある?相槌は身振り手振りの一環として必要かもしれない

集団討論を進めていくときには事前にポイントを頭に入れて臨んでいくことになると思いますが、集団討論は集団面接と似ている部分も多くあると思います。その1つが自分以外にも発言する人がいるので、その人の話をきちんと聞いておかないといけないということです。で、集団討論などではうなずきをしてきちんと聞いているアピールをした方が良いのか?気になる人もいると思いますが、個人的な考えを述べるとした方が良いと思います。演技でも何でも良いと思いますけど、評価にかかわる部分で言うならば、集団討論ではうなずく必要性は大きいかと思うのです。集団討論などでうなずきが必要な理由としては、結局は聞き手の気分の問題です。演技だろうが、なんだろうが、自分が話しているときに他の人が注目してくれて、うなずいてくれているというのは気分が良いというか、安心感があると思います。つまり、無関心っていうのは気分がよくないですよね。ちゃんと聞いてくれているというのは安心感があると思います。で、話している人以外がちゃんと話している人の話を聞いてますよ?というのをどうやって表現するか?というと、その人の方向を向いて適度にうなずくという行為をするということになります。

 

集団討論では身振り手振りはそんなにいらないと思います。やってはいけないわけではないですが、あえてやらないといけないものではないと思います。しかし、集団討論での身振り手振りの中で特に重要とも言えるのが相槌になると思います。集団討論での相槌は唯一必要な身振り手振りとも言えるかもしれません。集団討論も集団面接も身振り手振りはそこまで必要ではないと思います。自然に出る分に関しては良いのかな?と思いますけど、基本的にコミュニケーションに必要なモノではないと思いますから、やらないといけないとは思わない方が良いと思います。意識的にやると変な感じになることもありますから。意識的にやった方が良いとしたら集団面接や集団討論では相槌でしょう。相槌は意識的にやらないと全くできないような人は、それがもしかしたらマイナスになるかもしれません。相槌を打っているか?どうかを面接官や審査している人がチェックしているか?どうかは分かりませんけど、すでに話したようにきちんと他人の話を聞いていて、話し手に対して安心感を与えているか?どうかは非常に重要と言えます。そこが評価対象になっているか?どうかは分かりませんが、少なくともマイナスにはならないでしょう。プラスになるか?プラマイ0ということはあっても。相槌は結構打っている人が多いと思うのです。

 

相槌っていうのは面接官も割と使っているケースが多いです。相槌を打たない面接官もいますけど。相槌は相手にとってメリットをもたらすものなので、基本的には自分のためになるものではないと思います。話し手に対して、こちらはちゃんと聞いているという意思表示になるものですから、相手に安心感を与える効果のあるモノです。しかし、就職活動になると、集団討論や集団面接で相槌を打つことは自分にもメリットをもたらすことがあるわけですね。それは審査している第3者がいるからです。第3者から就活生への評価になることもあるため、集団面接や集団討論でうなずくことは重要になるのです。話してのためにやるうなずきが自分のためにもなるというのが集団面接や集団討論なので、やっておいて損はそないと思うので、やっておきましょう。ただし、注意点としては過剰にならないようにしてほしいと思います。わざとらしくならないようにするということですね。こういうところに注意してもらうと良いのではないか?と思います。ある意味、演技をするわけですよね。

 

ある意味、集団討論に関しては協調性が非常に重要と言われている面もあります。したがって、グループ全体でチームワークを発揮しないといけないという見方もできます。集団討論で協調性を発揮するというのはいろいろなやり方ができますけど、他者が話しているときに気持ちよく話せるような環境を用意するというのも、1つの協調性になるでしょう。それをグループ全員がお互いにやり合えばチームワークとしては最高でしょうし、そういったところを人事もチェックしている可能性があります。集団面接では協調性やチームワークという点はそこまで重要ではないかもしれませんが、集団討論は相槌を打つというケースなどを含めて、そこが重要視されると思います。したがって、そこを意識しておくとなればやるべきことも自ずと見えてくるのではないでしょうか?こういった理由により、集団討論では特に相槌が重要になると思います。集団面接や集団討論でのうなずきなどは身振り手振りの1つの形態になると思いますが、自然にやっていく分に関しては評価されるか?どうかは分かりませんが、少なくともやらないよりはマシだと思います。

 

集団討論や集団面接は就職活動の中でも特殊な部分を持った選考になると思います。そういった選考の対策をするときには以下の本がおすすめだと思います。集団討論や修右断面説に特化した本は少ないのですが、こちらは2つとも掲載しており、役立つ可能性があります。本書は集団討論や集団面接が個人面接などの他の選考とは明らかに違い、特殊な選考方法なので、事前に対策をしておかないと受かるのは難しいということを解説したうえで、集団面接や集団討論で良い結果を残すための具体的な対策の仕方を解説しているのですが、本番を迎えるにあたって前日までにやっておくべきことや本番当日の待合室での振舞い方のポイントなど、かなり細かいところまで教えてくれるのが特徴です。集団面接や集団討論は結構頻繁に行われる選考になると思いますから、就活生ならばこういったものを読んでおくと、より通過率が上がる可能性があります。こういった選考は自分で経験して慣れることで上手くなっていく面もありますけど、事前に必要な知識やコツを身につけておくと、その慣れるスピードがより早くなる可能性もありますから、良かったら参考にしてみてください。

 

集団面接・集団討論完全対策マニュアル

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中学校の英語教師にTOEICで730とる実力なんて本当に必要なのか?

大学生活、教育問題

京都府の中学の英語教師にTOEICを受けさせたところ、中学校で英語を教えるのに必要とされている730点に届かなかった人が続出したらしい。これはひどい!というのが世間の反応らしいが、私はいろいろな意味でいたって冷静だ。それはマズイの?くらいの感覚でしかない。そもそも730点というスコアはどこから出てきた基準なのか?妥当なのか?もよく分からないけど、英語力を測るのにTOEICを用いている時点で、私は疑問なわけだが。TOEICというのはそもそも英語力を正確に測れる試験とは思えない。というのも、TOEICは慣れが非常に大切な試験で、慣れてさえいれば高得点も出やすいが、初回だと英語力があっても得点は伸びない。私も受けたことがあるけど、初回のときにはとにかく過去問とかもほぼ何もやっていない状態で受けたんだけど、まず時間が全然足りない!全問解き終わりません。私は19歳のときに初めて受けました。19歳というのは、私の人生の中で1番英語ができたときだと思います。なぜならば大学受験で英語を勉強した直後だからだ。

 

そのときのスコアは530点くらいだったかな?私よりも英語ができると思われる同じ大学の知り合いが受けたら470くらいって言ってた。私が合格した大学は英語がそれなりに難しいと言われている大学なのだが、現実はそんなもんですよ。私もその知り合いも一般入試で合格している。知り合いはどうか?知らないけど、私がスコアが伸びなかった原因ははっきりしている。時間が足りないから。もっと言うと、TOEICという試験に全く慣れていなかったからだ。センター試験の英語も同じです。センター試験の英語についても、私なんか最初にマーク模試(センター試験の形式の模試)を受けたときには、同じように全く時間が足りず、とてもじゃないが全問は解き終われない状況でした。結果はあまり覚えていないけど、本当に酷い点数だったと思いますよ。それを1年くらいかけて勉強してそれなりの点数とれるようになったわけだ。それは学力が上がったからというのあるけど、やはり慣れが大きかったと思います。解き方の戦略などをちゃんと考えて対策を立てましたからね。TOEICも同じように戦略をちゃんと立てて勉強をして慣れていけばスコアは200とか、300くらいは普通に上がると思います。それこそ英語の実力がどうであれ、テクニックの部分である程度カバーできる試験なのだ。なぜならば問題は比較的簡単だから。

 

したがって、TOEICのスコアで英語の能力を測るやり方自体に私は非常に疑問だし、そもそもTOEICみたいな問題が解ける能力が教師に備わっていないといけないという見方が、今の英語教育の問題点な気がするんですよね。私たちが日本語を話すときに、正確な日本語を話しているか?というとそうではないですよ。結構間違ってますよ。間違っているけど意思疎通はできます。英語というのも所詮はコミュニケーションのツールなわけで、最終目標は意思疎通ができるか?なんですよね。ある有名な番組で「出川イングリッシュ」という言葉が生まれたらしいが、ネット見たんだけど、出川哲朗氏の英語に対する姿勢は素晴らしいといろいろな人が褒めているんですよね。出川氏の英語ははっきり言って中学レベルにも達していないと思う。文法なんて概念は存在しない。ほとんど単語の羅列で、ときにはジェスチャーを用いての会話しか出来ないが、ちゃんと最終的には彼の言っていることは分かってもらえる。逆に英語がペラペラな別の人が会話をしようとすると、会話はちゃんとできているが、言いたいことが伝わっていないことがあるのだ。さっき言った番組では、英語を駆使してアメリカ人に対して、あるクイズの答えを教えてもらって、それを答えるという企画があるのだが、出川氏は中学レベル以下の英語力でも答えをちゃんと聞きだして見事正解、しかし英語がペラペラなタレントが挑戦すると、そもそも立ち止まって話を聞いてくれるまでに時間がかかる。そして、なんとか答えを聞きだすも不正解というシーンがよくあるのだが、これが現実なんだなーと思いました。

 

別の話になると、ホリエモンセンター試験の英語の問題形式に苦言を呈していて、文法問題とかやめて、長文問題をもっと増やした方が良いですよ。と言っていた。ホリエモンによると、センター試験の英語の問題では10問くらいの4択の文法問題があるのだが、4択のいずれの選択肢を入れても、ちゃんと通じると言うのだ。それには隣で聞いていたマーティー・フリードマン氏も頷いていたが、現実はそんなもんだと思う。言語って良い意味であいまいで良いと思うんですよね。そんな完璧さを求めても、その完璧さを披露する機会って日常ではなかなかありえないと思う。それは日本語において1番実感できる気がする。TOEICの問題も全てがそうというつもりはないけど、似たような部分があると思うのです。問題が解けることと英語を教えられる実力を持っているということが、どこまで=になるか?は結構疑問だ。さっきも言ったけど、そもそも730点ないと中学校の英語を教えられる能力がないという基準自体も合っているのか?どうかよく分からない。現実は、そんなスコアにと届かない人でも中学生に対して塾とかで英語を教えている大学生とかもいると思いますよ。彼らがどこまで満足した授業ができるのか?は分からないが、中学レベルを教えるのに、730点が必要という1つの基準自体が、基準にTOEICを用いること自体が果たして適当なのか?そこから個人的には分からない部分だけど、TOEICを基準に考えているってことは、今の英語教育はTOEICのような問題を解けるような英語を教えようとしているということだろうか?それって受験英語に近い気がするけど、社会で必要な英語力とはまたちょっと違う気もしてくるのは、私やホリエモンだけが思っていることかもしれない。

 

 

TOEICはテクニックだ!

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知識偏重の入試で何が悪い?常識を捨てなければ知識偏重の教育からは抜け出せない!

受験勉強、大学の選び方 大学生活、教育問題

センター試験は2020年で終了し、それ以降は新たな大学入試の試験が導入されるらしいが、その頃には全問マークはやめて知識偏重から抜け出すための仕組みに変わるとされている。とはいっても、とりあえず記述問題が出るのは国語と数学のみらしい。その後どうなってくのか?分からないが、当分は国語と数学に記述問題が出るので、それが新しい試験の目玉になるのだろうか?数学のことはよく分からないが、国語の記述問題というのはなんとなく想像がつく。記述模試では国語でも記述問題が出るし、私立大学でも記述問題が出ることはあるから、ああいった感じになるのではないか?と思うが、そもそもの大前提として知識偏重って悪いことなんだろうか?という疑問があります。知識偏重の定義もよく分からないが。新たな試験は記述問題が出るから、そこが知識偏重から抜け出すための違いになるのかもしれないが、国語ってそもそも知識問題ってほとんどないと思うんですよね。現在のマーク式のセンター試験であっても、知識問題は全くないわけではないが、読解問題がメインの中ではほとんどが知識問題ではないように見える。見えるというだけで、ある種知識問題にもなっているわけだが。

 

それに他の教科に関しても答え方が知識問題っぽいだけであって、別に考える力を必要としていないわけではないと思う。ただし、すでに定まっている解答を導き出すためという意味では知識問題とも言えると思いますけどね。考える力の種類は科目ごとに違ったりもするが、センター試験に代わる達成度テストが目的としている思考力、判断力、表現力はマーク式のセンター試験であっても十分見られるはずだと思っているし、それが知識偏重ならば、新たに導入される記述問題も知識偏重に違いないと思う。知識偏重の何がいけないんだ?という気持ちも個人的にはあるが、そもそも現時点のセンター試験が知識偏重か?というとそうは思えない。知識をもとにしてある程度考えないと解けない問題になっているケースはあると思うし、そもそも論を言えば、受験勉強自体が考える力を養う場として大いに機能していると思っている。受験勉強のやり方は人それぞれ違う。予備校に通うか?否か?もそうだが、まず志望校が違うから、そこを決める段階から考えるはず。そして、志望校を決める理由は何だろうか?志望校が決まったら受ける学部学科は?入試方式は?選ぶ科目は?勉強の進め方は?使う参考書は?など、受験勉強の中であらゆる決断や判断を下す機会があるはずで、それによって運命は変わる可能性があります。

 

思考力や判断力がないと受験勉強は勝てない。受験勉強で結果を残した人はいわゆる考える力が、その点に関しては備わっていると見て良いと思う。すでに思考力の実験は終わっているのではないか?と思います。さらに言うと、記述式の問題が出ることで採点が公平に行われないことへの懸念があります。国語の現代文の問題って、マーク式の今ですら物議を醸すことがよくあると思うのですが、それが記述式になったらどうなる?ここで問題なのは、明らかに採点者の予想の範疇を超える解答がくるようなことがあるということです。そういったときに常識的に考えておかしいから×とかする人が出てくる気がする。しかし、そんなことをやっていたらそれって知識偏重の入試と何が違うんだ?となる。考える力が全く必要ではないわけではないから、知識偏重とは言えないかもしれないが、それはマーク式の問題も同じだ。そして、常識を基準に採点する採点者がいるならば、その点においては知識偏重になってしまっているのだ。だって、常識っていうのもある種知識なわけですよね。例えば、「建国記念の日はいつだ?」と聞いて、『知らない」と答えた人がいたら、「そんなことも知らないのか?常識だぞ?」と返ってくるかもしれない。この場合、建国記念の日を知らないことがおかしいということを「常識」を基準に論じているわけだ。つまり、常識が基準になるってことは、定まっているものでなければいけない。1cmの長さが人によって違っていては困るように、常識というのもみんなでほぼ同じ感覚を共有しているものという前提があるのだろう。そして、建国記念の日は何月何日か?を知っていて当然だ!それは常識だ!となるのでしょう。答えが定まっているからこそ、それを常識だ!と言えるわけです。答えが定まっていなければ、人によって違うならば、それを常識だなんて言えないのです。つまり、常識という言葉を使った時点で、それはある種共有された答えが存在する知識になっているのです。それって教科書に書いてあったから。という知識と何ら変わらないと思う。教科書に書いてあったことに照らしてという作業も、常識に照らしてという作業も変わらないわけです。常識の範囲内から解答を拾ってこないといけないという制限が仮につくならば、それは知識をもとにして解答を練るのと変わらないのだ。見られるのはせいぜい表現力くらいだと思います。そういった常識を基準に採点をするとなれば、それは私たちに備わっている知識を前提に採点することになり、それがまさに知識偏重と言わざるを得ないと思うのです。

 

例えば、小説の問題とかで、Aという登場人物のすごい不機嫌そうな描写があったとする。そこに傍線が引かれていて、「このときAの気持ちはどうだったか?」というような問題が記述式で出たとする。このときに受験生の中には「実はAは嬉しい感情を抱いていた」という回答をしたら、常識的に考えたら×になりそうだ。不機嫌そうな描写あった時点で、私たちの多くは悲しいとか、イライラしているとか、そういったマイナスの感情を想像するからだ。しかし、その根拠は何か?っていうと、常識とかになってしまう。別に常識は根拠にはなりえても証拠にはなりえない。今はツンデレという描写もあるし、外見的にはそうは見えなくても、内心はプラスの感情を抱いているケースがないなんて言えない。しかし、アンケートをとれば、マイナスの感情を抱いているに違いないと考える人が多数派だろうし、採点者もそういった観点から採点をするのではないか?しかし、なぜそう言えるのか?は常識を根拠にするしかない。でも、すでに述べたように常識は証拠にはならない。常識というのは「その可能性が高いのではないか?」と推測するための材料になるだけであって、本当にその可能性が高いのか?も分からない。

 

そして、さっき言ったように常識というのは私たちの感覚の中にある知識と変わらないのだ。多くが共有しているであろう知識なのだ。江戸幕府初代将軍は誰?と同じように、この表情をしているときの人間の感情は嬉しい?悲しい?というのも、それを答えるときに用いられるのは知識なのだ。江戸幕府の将軍のときには学校で習ったとか、教科書に書いてあったとかになるが、この表情をしているときの人間の感情に関しては、今までの自分の経験則によるものだろう。つまり、この表情をしているときにはこういう感情を抱いているというある種の記号によって結び付けられた解答が、今までの人生を通じて導き出せてしまうのです。そして、それが高確率で当たっているだろうと誰もが思えたならば、それは立派な知識になると思います。その知識をどこから習うか?の違いあれど、すでに頭にインプットされた自分の持っている知識によって答えている事実は変わらないと思う。これは数学とかにも同じようなことが言えるかもしれないけど、国語とかに記述問題を導入したとしても、採点者の意識が変わらない限りは、結局知識偏重からは抜け出せないだろう。答えがある程度の範囲に収まってしまうというのは、知識を用いて答える問題の特性だと思う。思考力、判断力、表現力を問うならば、もはや正解なんてものを設定すべきではない。つまり、点数をつけるべきではないし、入試でやるべきではないと思う。それは小学校の道徳の時間みたいに、大学入学後に成績とは関係ない授業の一環としてやるべきことではないのか?

 

常識を盾にされると、当然だが思考力も制限される。しかし、社会に出てから通用するために、活躍するための人間を育成するには常識の殻に閉じこもっていては無理だ。イノベーションを作り出すのはいつも非常識だし、ノーベル賞を受賞するような研究成果だって、みんなができないようなことを、やろうとしない方法などに目を向けることも重要だと思う。数日前に書いた人工知能に人間が滅ぼされるという記事の中でも、常識の範囲内でしか物事を考えていないと、それが人工知能に人間がとって代わられるきっかけになってしまうと述べた。これは若新雄純氏が言っていたことになるが、ある中学校の入学試験の問題で、「登山をするときに必要なモノは何か答えなさい」というのが出たらしい。非常にざっくりとした入試問題だが、彼はそれを答える人間によって本当に様々な解答が出るだろうということに、この入試問題の意義を見出しているらしい。

 

答える人によって、登山に必要なものの種類や数は全然違うことが予想されるが、若新氏は「私ならヘリで頂上まで行きますね(笑)」と答えていたが、それに対して自分で「でも、ヘリで頂上まで行ってしまうのって登山って言えるのかな?」なんて問題提起をしていた。ヘリコプターで頂上まで行く方法は、登山としてはあまりに非常識な手段と言える。しかし、現実的に可能な方法ならば、この入試問題の問いへの解答としては相応しくないとは言えないはずだ。若新氏の言うように、登山の定義から考え直さないといけないような、厄介な問題だということも言えるかもしれないが、お金さえあれば、時間も手間も1番かからないのはヘリだろう。この問題は何らかの条件は課されていないので、本来ならばヘリコプターと答えた人にも一定の点数はあげないといけないと思うが、今の大人たちが採点をすると、ヘリを使うなんて突飛な方法を想定していないとなれば、こういう回答は×になる可能性も否めない。結局、そこが解決されない限りは記述式の問題の導入は反対だ。マーク式でも当てはまることかもしれないけどね。知識が無ければそれを元にして考える力も生まれないという意味では知識はすごい大事で、知識偏重は私は悪いとは思わないが、常識に囚われる国民が多ければ多いほど、どういう取り組みをしても、知識偏重の大学受験からは抜け出せないと思っています。こういった入試問題でヘリを使うという方法を提示した子にもちゃんと点数をあげられるような仕組みにならなければ、常識の範囲内で考えるという、もはや知識と変わらないような回答しか練れない子を増やすだけなのだと思います。

 

 

世界のエリートが学んできた 「自分で考える力」の授業

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人工知能が人間を超えると言える理由!人間不要と判断され、人類を人間を滅ぼす未来は来るのか?

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人工知能が行き着く先はどうなのか?いろいろな職業がなくなるのではないか?といったことが議論されていますが、そんな話で済めば良いといった事態が待っているかもしれないのです。人工知能の問題でよく議論されるのは、私たちの仕事の問題です。人工知能があると人間が不要になる分野が多いとも言われています。しかし、それは非常に身近なもののため、多くの人にとって関心があると思うのですが、身近ではない人間不要という問題も人工知能においては議論されているのです。それが人間を超えるということです。人工知能が優れたものとなった結果、人間がその動作を抑制できず、人間が駆逐されて、滅ぶ可能性も指摘されています。ドラゴンボールが好きな人、詳しい人は見たことがあると思いますけど、ドラゴンボールZのセル編において、人造人間17号と18号が登場するシーンがあります。彼らは生みの親であるドクターゲロ(人造人間20号)を快く思っていませんでした。そして、ドクターゲロが万が一に備えて自分たちを破壊する仕組みを体内に作っており、そのリモコンを持っていることを知っていたのです。

 

その結果、17号と18号は何をしたのか?というと、従順にドクターゲロに従う振りをして、隙を見つけてリモコンを奪い、ドクターゲロを破壊しました。まさに機械が人間を超えた瞬間かな?と思います。人工知能が人間を滅ぼすシーンは以前はフィクションの中だけでした。明らかに戦闘力においても生みの親であるドクターゲロを、人造人間17号と18号が超えてしまったと言えるでしょう。それが招いた結果なのです。人造人間17号と18号は厳密に言えば人間をベースに作られたのですが。これが現実世界でも起きるかもしれないと懸念されています。人工知能が賢くなりすぎて、そして武力を備えた場合には、人間が同じような目に遭わない保証はありません。人間と人工知能にはある大きな違いがあります。それによって人間の知能を人工知能が超えるということが起き得ます。人工知能が人間を超えることが起きる原因は、まさに現代社会で問題とされているあの部分なのです。それは何か?っていうとマインドの部分なんです。人間は失敗を恐れます。でも、人工知能には感情がないという前提ならば失敗を恐れません。人間が生きる社会は失敗をすると叱責されます。または常識から外れたことを行おうとすると批判されやすいです。そういった部分が人間のおかれた状況の最大の弱みです。一方で、機械は失敗を恐れないというか、機械が仮に失敗をしてもその責任は生みの親である人間にいくでしょう。人工知能には何のリスクもないのです。

 

その結果、どうなるか?人工知能は常に新しい可能性を探求できるため、常に最新鋭の力を身につけられるが、人間は失敗を恐れて新しいことにチャレンジしづらいです。つまり、同じレベルがいつまでも維持されたり、一定の範囲内でしか物事を考えられなかったり、行動したりできないのです。人工知能が人類を滅ぼすまでいくか?どうかは分からないけれども、多くの人間は人工知能にとって代わられてしまうでしょう。人工知能のようなものの考え方をしている人間、常識にとらわれないで失敗を恐れないで新しいことにチャレンジできるような人間じゃないと、人工知能に太刀打ちできないのです。人工知能が世界を支配するときには人間は不要になります。全員が不要になるか?は分からないが、人工知能から見たときに人間の存在が非効率、または悪でしかないと判断したときには人間を滅ぼしにかかることもあるでしょう。人工知能が人間を滅ぼすことが漫画の世界だけではないと、十分に想像できるようになってしまったのです。人間が作り出した人工知能が人間を滅ぼすとしたら、何て滑稽な光景なんだろうとも思えますが、人間は感情があるから、いきなり使えない人間や邪魔な人間を滅ぼしたりはしないでしょうが、感情が備わっていない人工知能だとしたら、完全に効率性のみで判断されて、そこに容赦という概念はない。真っ先に切られるだろう。

 

人間社会は失敗を許さない社会と言われており、新しいことにチャレンジすることが難しい。リスクをとりづらい環境にある。その隙に人工知能は失敗を繰り返しながら、新しいことから学ぶ姿勢を止めない。どんどん人工知能と人間の知的レベルの差がついてくるということは、若新雄純氏などが語っていたのだが、そこがある種の人間社会の欠点になる。人工知能という存在がなければ、そこは欠点とは言えないかもしれないし、むしろ利点と評価する人間もいるのではないか?と思います。しかし、人工知能の存在を想定したうえでは明らかに欠点になる。人工知能が人類を滅ぼすなんて時代が仮にあったとしても、当分先だろうと思えるが、人工知能の議論においては、仕事がなくなるとか、そんな問題では済まない可能性も考えないといけないのかもしれない。それこそ上司にこびへつらうように、人工知能に人間不要と考えられないようにこびへつらうときが来るかもしれない。人工知能が人間を滅ぼすことに恐怖を覚えながら生きるような時代がくるかもしれない。人工知能が人間を超えるということがいかに恐ろしいか?を考えると、人工知能をそこまで普及すべきか?とか、どうやってコントロールすべきか?とか、そこまで考える必要まであるのではないでしょうか?あなたは人工知能が人類を滅ぼす瞬間を想像できるでしょうか?これは本当にフィクションの中だけの話だけだと言えるでしょうか?

 

人工知能は人間を超えるか (角川EPUB選書)
 

 

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ブラック企業から逃れられてもブラック国家から逃れられないと意味ない

働くことへの意識

ブラック企業で働いていると、そこから逃れたいと思うことは多々あるだろう。今の労働が非常にきついと、辞めたいと思っている人は後を絶たないと思うのだが、辞めたところで解決になるか?というと、ならない可能性もある。というのも、きつい労働から逃れたところで、労働から逃れられるわけではないからだ。世の中にはきつい労働は悪だという価値観もあるが、きつくない労働も悪だという価値観もあるらしい。最近、見たのは「8時間労働」に対する否定意見で、8時間でさえも長すぎるという意見だ。1日8時間で済むようなところも稀だと思うが、仮に8時間労働が常態化している会社であっても、長いと感じる人はいるはず。私も多分8時間ですらきついと感じるでしょう。往復の通勤時間や出社の準備時間などを含めると10時間は軽く越えることになるだろう。そして、当然だが社会人の多くは仕事を中心の生活になる。つまり、仕事がまずあって、その仕事がないときに他のことをするという考え方になってしまうのだ。仕事というのは、夜勤を除いてはどこの会社もほとんど決まった時間帯の範囲内で行われるものだから、時間帯としての選択の余地は少ない。

 

そうなると、8時間労働だとしても、仕事中心の生活にならざるをえない。そういった現状を見て、数日前に話題になった「社会人って破綻してない?」みたいな意見が出てくるわけです。実際、8時間労働だったとしても、就寝、食事、風呂、買い物など生活に必要な時間をかければ、その日1日自分のために使える時間って実はほとんどないというケースもあるみたいだ。こういう状況を見ると、何のために生きているのか?の問いに対する答えとして、働くために生きているんじゃ?と思えるような状況が容易に想像されてしまう。仕事に振り回されて、自分の好きなことに時間を使うことが難しい。それが8時間労働ですら起きているという。8時間労働は長時間労働よりはマシだというだけであって、8時間労働ですら不満が多く出てくる状況なわけだ。結局、ブラック企業から逃れることができても、ブラック国家からは逃れられないのだ。働くということから逃れられない以上は、ブラック企業から逃れることの意味は実は薄れる。労働に関して言えば長時間労働だけが問題ではないのだから、8時間労働であっても結局何らかの問題には遭遇する可能性もある。

 

ブラック企業の問題がそもそもなぜ出てくるか?と言えば、辞めることが簡単にできないということを良いことに、経営者や上司が社員をこき使うことが常態化しているからだろう。つまり、辞めたら生きていけなくなる可能性があるという弱みを利用されて、きつい労働をせざるを得ない状況が生じているのだ。でも、それって実は国もやっているよね?って話です。国がやっているのは生きたいなら働けという政策であって、工夫次第では働かないでも生きてけるのかもしれないが、困難なケースも多々あるだろうし、事実上働かない人は生きていけないという風潮は存在していると思います。国にとっても働く人がいなくなると困るという事情はあるだろう。だから、生活の保障は万が一のときを除いて特にはしない。生きたいのならば働かないといけないという現状を作り出している張本人だ。つまり、ブラック企業がほとんどの場合で問題視されるが、私はブラック国家の方を問題視すべきだと思いますけどね。ブラック国家っていうのは日本だけじゃない。世界中の資本主義国のおおよそが当てはまる。実は、北朝鮮はそういう状況ではないらしい。ベーシックインカムではないが、生活の保証自体はこっちの方が進んでいるという。だから、人によっては日本よりも北朝鮮の方が生きやすいと感じるケースもあるかもしれないのです。

 

ブラック企業がなぜ生まれるか?といえば、ブラック国家があるからなんです。働かないと生きていけない状況があるからこそを利用したのがブラック企業なわけじゃないですか?働かなくても生きてけるならば、ブラック企業は生まれていないか?ブラック企業の存在がほとんど問題視されていないはずなのだ。好きでブラック企業で働く分には何も問題ない。だから、嫌なら好きに辞められる状況があるならば、ブラック企業で苦しむ人が出なかったのだ。昨今、ベーシックインカムの議論がいろいろなところで進められているし、世界中で実験を行う国まで増えてきている。日本においてもいずれは導入がされそうな予感もするが、ベーシックインカムがあれば事実上働かないでも生きていくことは可能になるが、私はそれが自然だと思う。働かないで生きられる社会があるべき社会だと思っている。ベーシックインカムに賛成する論者はいくらでもいるけど、恐らく私がベーシックインカムに賛成する理由は、他の論者とは毛色が違うと思う。私はベーシックインカムに賛成する理由は、前にも書いた記憶もあるけど、結局年金制度を批判している人たちを理由のメカニズムは同じなんですよ。

 

年金制度がなぜ批判されるか?っていうと、事実上利用する、しないの選択権が無いからだと思います。将来的に損をするかもしれないゲームに参加する、しないの選択権が各人に自由に与えられていたならば、誰も批判しなかったでしょ?そして、そんな状況があれば恐らく年金制度は破綻する。でも、誰もが強制参加だからここまで不満が爆発しているという状況だと思うのです。保険料の徴収が強制だから、損するかもしれないゲームに参加したくないと文句を言う人が出てくるわけ。未納者も多いみたいだし。結局、そこなんですよ。人生というゲームに参加する自由もわたしたちにはないわけじゃないですか?強制参加ですよね?そして、先人が作ったルールに振り回されながら生きるしかない。「生きたいなら働かないといけない」といルールもその1つですよ。そして、20歳を越えたら年金保険料を払って負ける可能性の高いゲームに参加しないといけないというのも、また1つの先人が作った人生というゲームの中のルールだ。明らかにおかしいと言える部分もある。強制参加をさせるのであれば、参加させられる人たちの自由意思が働いていないわけだから、そこに文句を言える余地が生まれますよね?だから、同じく強制参加の年金制度に文句を言っている人たちは正当な行為をしていると思う。

 

人生という名のゲームに参加して国の発展のための道具に使われているという面はどう考えても否定できないと思うが、そうやって各人の意思表示によらず勝手に国に利用される現状があるならば、当然見返りを要求する権利はあって然るべきだ。それが最低限の生活の保証になる。どこまでの要求をしてもいいか?というのは判断が難しいが、あくまでも最低ここまでは要求しても良いだろうというレベルがあるとすれば、それは最低限の生活保障になると私は思う。つまり、国の発展のために私たちは勝手に利用されるだろう。勝手に利用するというのは、国の都合によるものなのだけど、だったらこっちの都合も聞いてよ?っていうのは理屈で考えたらおかしくないと思うんですよ。しかし、強制的に働かされている国民の自由な要求というのは基本的には聞かれない。民意がよほど大きくなれば国が検討することもあるだろうが、今のところ、強制的に働かされている現状をおかしいと感じている国民はそれほど多くないのだろうから、民意になりづらい。しかし、理屈で考えたら今常識的に世界で起きていることは、おかしいと断言できるほどのことだと思うので、それが継続される限りは私はそういう国はブラック国家と呼ばざるを得ないと思います。だって、ブラック企業が使っている手口と変わらないんだもん。

 

この国に召喚された時点で本人の自由意志は働いていない。そして、自殺は犯罪とされ、生きるしか選択肢がない。だから、本来は働く、働かないにかかわらず生きるために必要なお金を要求する。これは全くおかしいとは思えない。働かせるならば尚更だが、働かない人間に対してもBIのような最低生活費を渡す仕組みがあって当然だと私は考えるのだ。逆にこの世に生まれる、生まれないの自由のない人間が、自由意志によらずに生まれてきて、大人になれば命を削りながら働くことを当然のように考える思想の方が理解できないのだ。大人になったら命を削りながら働く現実を事前に知ったうえで、自分からこの世に飛び出してくる人間は勝手に働いて生きるべきと言えるかもしれないが、人間はそうじゃない。親と国の意思によって私たちは生まれてきて、大人になると命を削りながら働くことを余儀なくされる。変な話ですよ。メリットやデメリットなどを事前に考慮して、自分でその道を選択できないのに、勝手に選択された状態で、苦痛を与えられることが当然になってしまっているのだ。しかも、それは人間の生き死ににかかわる問題であるのにかかわらず。それが当然とされている風潮は全く理解できないし、それを当然と考えている国家はブラックだと思っている。世界中でベーシックインカムが生まれたとき、私はその国をブラック国家とは恐らく扱わないだろう。

 

 

ブラック国家ニッポンを撃つ

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最近話題になったいわゆる商標権ビジネス、トロールビジネスと呼ばれる問題だが、私が疑問なのはなぜエイベックスは今頃になっても例のワードを商標権登録していなかったのか?そこが謎だ。実際、この問題に関与している弁理士はエイベックスに対して同じようなことを言ってみたいなのだが、結局流行ってから商標権を出願しようとすると、どうしても早い者勝ちになるのが今の制度でありリスクがある。当然、エイベックス以外にも利益目的で商標権を獲得しようとする人間がいたならば、数でいえば負ける確率の方が高くなる場合もある。私はエイベックスのミスだと思っていますよ。流行ってから商標権をとろうとすれば、遅れをとるというのは過去の歴史から見ても分かりそうな気がするんですけどね。結局、私は転売ビジネスと変わらないと思っています。欲しいと思う人が現れるのが確実と判断できる状況で、それを買っておいて後から売れば利益が出るのはほぼ確実であり、それと仕組み自体はそう変わるものではないと思っています。

 

 

ただ、転売ビジネスは感情的に許さない人間が多数いるということで、こういった商標権をめぐるビジネスにおいても予想通り批判は殺到しているらしいが、弁理士本人は顔出しもしているし、恐らく何とも思っていない可能性も高いと思うが。私自身、こういったトロールビジネスに関しての是非を述べるとすれば、これが合法なやり方なのであれば、単に狡猾というだけであって、いちいち非難する気もないが、ワタシの感想としてはこんなやり方をする人が出てくるのは当然に予想できるのだから、エイベックスの対応が遅すぎた。ただ、それだけだと思っています。今回の騒動の発端はエイベックスのミスだと思っています。付け込まれる余地を作ってしまったというだけだというのが、率直な感想です。私はそもそも商標権って概念自体への理解があまりしづらいのですよね。そもそもね。商標権っていう概念がなければ、誰もが自由にいろんなワードを使えるわけだし、今回の騒動もなかったわけだ。

 

商標権が何のために存在しているのか?と言えば、ブランドの保護や消費者保護があるらしい。特に後者の方が大きいのかな?つまり、似たような名称などが乱立すると、消費者が同じ会社のものなのか?そうじゃないのか?の区別がつきづらく、不利益があるだろうという前提のもと、商標権というものは存在しているらしい。目的自体は良いとしても、だからといって商標権ってそんなに必要なの?と思えてくる。結局、商標権ってブランド信仰を強めるわけじゃないですか?消費者保護という目的は確かにあっても、それって本当に消費者保護になっている?って気もしてくるのです。だって、特定のブランドのみを保護するということになってしまうと、良いものと悪いものが区別されるってことになりますよね。しかも、その良いもの、悪いものの区別というのはイメージによるものも大きいわけです。良いものと悪いものが区別されるというのは、それはそれは素晴らしいって感じかもしれませんが、そうやって区分けがされた結果、何が生まれるかというと、特定のブランドへの信仰だと思います。つまり、今まで良い商品を作ってきたのだから、このブランドは信頼できるはずだという気持ちが生まれますよね。商品で買うのではなく、ブランドで買う人を大量を生むことになる。現実的にそういう状況は世界中で生まれていると思いますが。その結果、商品購入やサービス利用の動機として特定のブランドだからという割合がかなり増えてくると思うんですよ。つまり、ろくな商品やサービスじゃないのに、好きなブランドだからという理由で買ったり、利用する人が増えます。

 

逆に同じようなブランド名がいろいろな会社から出てきて、乱立している状態ってどうですか?どれが信頼できるか?なんて分からないじゃないですか?つまり、商品1つ1つの良し悪しをちゃんと見比べて買ったり、利用するようになると思うんですよね。それに対する手間が増えるなどの不都合も考えられるわけですけど。でも、結果的にろくな商品やサービスじゃないものをつかまされる可能性が減りそうなのは後者な気がしてきます。実際、私はソニーのパソコンを使っているんですけど、ソニーのパソコンを買うときにソニーの会社自体の評判や製品の評判とか調べないんですよね。でも、私が聞いたことのない会社のパソコンを買おうとするならば、多分その会社から製品それ自体の評判をちゃんと調べてから買おうとすると思います。商標権がなかった世界で起きるのは後者じゃないですか?商標権という存在は、消費者がより良いものを手にしようとする努力をするのを阻害している気がするんですよね。結果、消費者保護になっていると言えるのか?ということです。

 

というのは、商標権があることのデメリットと呼べるものであって、商標権があることのメリットもあるので、その結果商標権というものは一応存在しているということになります。ただ、商標権を認めたうえでの話になると、先ほど消費者保護の観点からいえば、企業名だけに限定しても良いんじゃね?みたいな気もしてきますよね。だって、商品名とか全く同じでも企業名が見分けられれば、消費者は区別できるわけです。おまけに、今回みたいな騒動は起きなかったわけですよね。エイベックスとビイベックスという2つの企業がPPAPというのを商標登録したというときに、企業名が違っていれば、世間で話題になったPPAPはどっちのものか?ああ、エイベックスのものだって分かるじゃないですか?消費者は見分けられますからね。それでブランド保護も同時にできると思うんですよ。だから、商標権を認める範囲を限定したりしていれば、そもそもPPAPが横取りされるなんて事態も起きませんでしたと。そして、逆に言うとPPAPという言葉は誰もがビジネスで利用しようとすればできますよ。ということになります。しかし、企業名が区別できるので、ピコ太郎さんのPPAPはエイベックスが商標登録したものと区別できますよね。ということになります。

 

 

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