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就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

2017年以降の難関私立大学は合格者減少の措置により、合格の難易度がぐんと上がってしまう

大学生活、教育問題 受験勉強、大学の選び方

2017年の大学受験も終わって、いよいよ来年へのスタートの時期になってきたのかもしれませんが、今年の大学入試は私立大学ですごい騒動があったみたいですね。それは何か?っていうと、一部の大学で合格者数が前年までと比べて一気に減少したという現象が起きたのです。早慶上智、MARCH、関関同立などの難関大学の難易度が今後一気に上がることが予想されます。これらの大学のうち、どれだけの大学で起きたのか?は知りませんが、定員を大幅に超える合格者を出した大学は補助金が減らされるという措置を受けるため、それを回避するために合格者数を前年までと比べてかなり減らした大学が結構あるようです。そういった事態を受けて、補助金を減らすぞという脅しにも思える措置を講じた文部科学省を恨む受験生の声が多くあったみたいです。私に言わせれば、今年の受験生はやっぱり運がなかったなと思います。実力とは関係ない部分で志望大学に受かる確率が下がってしまった人もいるわけですからね。去年までなら受かっていたが、今年だから受からなかったって人がかなりいると思います。ちなみに私の出身大学でも合格者数が結構減ったみたいです。

 

調べてみたら、私の出身大学の出身学部の入試では前年度と比べて150人弱くらい合格者数が減ったみたいです。これって結構大きな数字ですよね。学部全体で一般入試の合格者数が800人くらいなのかな?その150人弱となると、ボーダーが10点くらい上がりそうな気がする。未だに覚えているけど、私がその大学学部に受かったときの合格最低点が63%くらいだったかな?で、私は自己採点したら素点で7割くらいとれていたんだと思うけど、それで受かったんですよ。でも、今年掲示板を覗いたら7割後半で補欠みたいな書き込みがあって、ちょっと待てよ・・・そこまで難易度が上がっているの!?と思いました。当時と入試問題のレベルが違う可能性もあるけど、私が確認したところでは去年までの合格最低点は私が受けた当時とあまり変わってなかったから、今年一気にボーダーが上がってしまったということになります。問題のレベルもそこまで極端には変わらないだろうし、7割後半とっても受からないならば、私なんか余裕で落ちているという話であり、生まれた時代が良かったのかな?とも思えてくる。

 

恐らくこの傾向は来年度以降も続くんでしょうね。だから、いつまでか?は分からないけど、私立大学の一部の大学は去年から難易度が一気に上がるという現象が今後も続くことになるのでしょう。バブルの頃に就職活動をしていた人は楽に内定が取れたみたいな話を昔の人がしているときもあるけど、受験においてはバブル期は今より難しかったと思います。逆にバブル期以降から去年までの方が、バブル期と比べて難関大学とかも入りやすかったと思いますよ。しかし、難関大学へ入る難しさはバブル期の頃に戻ってしまった感じなのでしょうか?それでいて就職活動も難しい時代ですから、今の若い人たちって本当に苦労が多い時代です。大学が合格者数を絞ったとしても、受かる人は受かっているという話も聞きます。それは事実として間違ってないんだけど、受験生からしたら去年までなら受かっていたかもしれないというのもまた事実なのです。だから、文科省を恨むのが正当か?どうかはともかくとして、納得いかない気持ちになるのはすごい理解できますよ。そもそも文科省がそういった措置を講じた理由が、地方の大学に優秀な学生を入れたいみたいなものらしいのですが、この理由に納得いかないでしょう。

 

文科省がこういう措置を講じた結果、地方の大学は活性化するかもしれないですよ。でも、それって本来ならば都市部の入りたい大学に入れた学生が、不本意な気持ちで地方の大学に入るということを意味しているわけです。文科省の狙い通り、都市部の大学を狙っていた優秀な学生が地方の大学に入ったとしても、文科省と地方の大学は良かったとなるかもしれないが、学生本人からしたら何のメリットも感じられない可能性があります。結果的に地方の大学に入って良かったと思えるケースもあるかもしれませんけど、そんなケースの方が少ない気がするのです。大学側が自主的に入れないようにしたというなら、まだ納得いくかもしれないが、起きたのはそういう状況ではないですからね。国と地方の大学のために、学生が巻き込まれてしまった感が残る措置だったなと感じます。

 

地方の大学を活性化させるという意図は良いとしても、やり方が無理矢理すぎないか?と思うんですよね。少子化を改善するために、結婚と出産を法律で義務化するようなやり方に思えてきます。地方の大学に学生を増やしたいならば、地方の大学の魅力を増すなど、地方の大学に入りたい学生を増やす措置を講じるべきだと思うのですが、やり方が建設的に思えないのです。結局、こういう措置によってもそんなに地方の大学に学生は増えないと思いますよ。正直言って、文科省の目論みは短絡的と言わざるを得ないです。都市部の大学に入りづらくなれば、地方に流れるだろうは、そうそう起きる現象ではないと思います。地方の大学が活性化しないのは、活性化しない理由があるからじゃないですか?いろいろな理由で都市部を選ぶんですよね。学生を地方に動員させようとするよりも、地方をなぜ学生は選ばないのか?という、根本的な問題を解決するのが先じゃないですか?

 

 

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就活で友達や周りからどう思われている?どんな人間?友達から見た自分の答え方は?

就職活動

就活では自分を客観視できているか?という部分を面接で聞かれることがあります。それは例えば、友達からどう思われているか?とか、そういう質問になっているケースもあります。友達から見た自分はどういう人間か?というのは就活のよくある質問になるでしょう。友達から見て自分がどう思われているか?というのは、想像しかできませんけど、そこは想像力を働かせて考えるしかないでしょう。就活において友達から見た自分の質問にどう答えたとしても、正解がどうであるとか、そういうことはなかなか分かりません。面接官からも判断はできないでしょう。答えた内容とその根拠に整合性があれば、ある程度は良いと思います。そして、面接官から見たその人の印象とその人が答えた友達から見た自分についてよほどズレていなければ良いと思いますから、客観的に自分を見られるか?でしょう。自分はどういう人間か?を客観的に分析する必要があるということなのです。自分はどんな人間か?ということを客観的に考えるというのは本当に難しいと思います。そんな機会もなかなかないでしょうから。就活で始めて自分はどんな人間か?を考えたという人もいるでしょう。

 

自分の性格をどう考えるか?というのは聞き方はちょっと違いますけど、自己PRに近い考え方で良いと思います。就活では自己PRと志望動機しか聞かれないということが言われますが、この質問も聞き方を変えた自己PRの質問でしょう。就活では友達からどう思われているか?という質問はよく聞かれると思いますけど、答え方のポイントとしては意識すべきなのは自己PRでしょう。自己PRの質問として答える意識でいると思うんですよね。自己PRは主観的に答える質問になりますけど、就活で周りからどんな人と言われるか?周りからどう思われているか?という質問に答えるときには、やや客観的な回答になるということで、自己PRとの違いはそこになると思います。自己PRもエピソードなどを交えるので、客観的な側面を入れていかないといけないんですけど、周りからどう思われているか?という質問をするということは、より客観的に、周りからの評価を見たいということなのかな?と思います。とはいっても、完全に客観的な評価にはならないと思いますけどね。答え方にちょっと違いはありますが、これは考え方としては自己PRを考えるつもりで内容を作っていくと良いでしょう。そして、ポイントは構成の仕方になります。

 

就活において周りからどう思われているか?を考えるときには、結局それがアピールにつながる内容である必要があります。こういう質問を受けてマイナスのことを話す人はまずいないと思いますけど、できるだけプラス要素が含まれた内容にすると良いです。就活において友達から思われているか?みたいな質問をされたら、それが自己PRのような会社での仕事に生きる内容にした方が良いです。だから、例えば、友達は自分のことを笑顔が素敵と言ってくれるというのではなくて、笑顔が素敵で周りが和やかになり、それによってチームワークが深まったみたいな内容にしていくと良いのではないでしょうか?ポイントはただの長所で終わるのではなくて、自己PRのような内容になることが重要なのです。就活で周りからどう思われているか?といったことを聞かれたら、それがどのような内容であっても、結果的に仕事に通じるような内容である方が、人事からの評価も高くなるのではないでしょうか?面接やエントリーシートを通じてこういう質問がされる可能性がありますけど、就活で友達からどう思われているか?といった質問は割と定番な印象です。したがって、前もって準備をしておいた方が良い質問のように思います。

 

就活で友達から見た自分という方向性の質問をされるときもあれば、周りからどう思われているか?といった、感じで質問をされる可能性があります。周りからどういう風に思われているか?というときには、より範囲が広いと言えると思いますけど、友達から見た自分というときには、範囲がかなり限られていると言えます。どっちが多いのか?は分かりませんが、2通りの聞き方があるという意味では、それを予想しておかないといけません。就活では周りからどんな人に思われているか?という聞き方をしていますけど、結局周りからの評価を直接聞きたいと思っているわけではない気がします。聞き方はそうなっているけど、周りからの評価を直接聞いている意図はあまりない気がします。そもそも周りからの評価がどこまで当てになるのか?というと、どこまで当てになるか?は分かりません。したがって、就活において周りからどんな人と思われているか?または友達から見た自分について聞かれたときには主観的な部分をある程度含んでいてもしょうがないですし、構わないと思います。

 

就活で内定を取るということは非常に難しいですが、内定を取れるか?取れないか?を分けるポイントの1つには情報の差があると思います。例えば、人事がどういう学生を欲しがっているのか?採用したいと思っているのか?について知ることができれば、それは内定を取るために必要な情報と言えるでしょうし、内定が取れる確率が上がりそうですよね。特に以下の本にはそういった情報が多く載っていると思います。例えば、人事がどういう学生を欲しいと考えているのか?どういう学生はいらないと考えているのか?を本音で語ってくれている箇所があるのですが、ここはかなり参考になると思います。こういった部分を読んで、対策をすれば人事から見て望ましい学生に見えやすくなるわけですから、それだけ自分を採用したいと思ってくれる確率が上がるでしょう。それ以外にも本書は早期内定を取るために必要なコツなど、多くの情報を載せてくれていますから、内定を取りたい人にとっては参考になる部分が大きいのではないでしょうか?

早期内定のトリセツ 就活探偵団が突撃取材

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高卒は就職に不利、受からないは間違い?就職できない確率は大卒の方が高い場合も

就職活動

高卒は就職に不利なのか?というと、そんなことないんじゃね?というのが意見です。結局、何と比べて不利か?っていう比較の問題にもなるけど、例えば大卒と比べて高卒が就職に不利か?というと、不利だと思う人は多いんじゃないですか?だから、大学に進学する人が増えている気がします。しかし、本当に高卒って大卒と比べて不利なんですかね?就職率だけ見れば高卒の方が高いです。でも、就職先の企業のレベルとか、あとは生涯賃金の部分まで見ると大卒の方が上であることも多いかな?って感じがする。そういう部分まで考慮すると、大学に行ってから就職することも間違いないではないだろうが、それは全ての人に当てはまるわけではない。今回は就職のしやすさだけに限って話すが、その点にだけに絞るならば高卒は就職に不安を感じる必要性はそこまでないのではないか?と思います。高卒の人が就職できないということもないですし、仮に高卒で就職できない人がいても、その人が大卒になったからといって就職できるか?というと、そうとも言えないと思います。

 

高卒と大卒を比べたときに、人事はこの2パターンをどう見るか?という話です。人事は高卒と大卒という2つのパターンでしか見ない。ということはないでしょう。これはケースバイケースですけど、少なくとも大卒に関しては2パターンに分かれると思う。使える大卒と使えない大卒という風に、大卒の人間は2つに分かれてしまいます。高卒の場合は見方が複数のパターンに分かれることは少ないかもしれないが、大卒は一食丹に見られることはまずないと思います。つまり、高卒、使える大卒、使えない大卒の3つのパターンが存在するってことです。この3つをランク付けすると、おおよそ使える大卒>>>高卒≧使えない大卒になるのではないでしょうか?これは私の推測の部分も含むので正確ではないかもしれないが、人事から使えない大卒と見られてしまった場合、高卒と比べて4つ歳をとっているせいで、高卒よりも下に見られてしまう可能性があるのです。基本的に同じ能力であれば若い人が欲しいわけです。そして、就活においては年齢を重ねると、より高い能力を見られるわけだ。初任給が高くなるから。つまり、大卒は高卒と比べて4歳分高いハードルを要求されているに等しい。その4歳分のハードルのせいで大卒でも就職できない人が出てくるのです。逆に4歳分ハードルが低い高卒は就職できない可能性がそれだけ下がります。求められる能力がそれだけ低くて済むので。

 

こうやって見ると、一概に高卒が就職に不利とは言えないでしょう。大学に進学した結果、自分が人事から見て使える大卒になれたときには高卒と比べて大卒は就職に有利になりますが、4年間でそうなれなかった場合には、実は高卒よりも就職できない状況を自ら作ってしまったことにもなるのです。高卒も就職においていいところがあるわけです。だから、結局大学に進学することが就職に有利になるか?どうかはケースバイケースであり、絶対そうなるわけではない。それは就職率という結果でも表れているが。高卒が就職に不安を覚える必要性は少ないと思います。だから、就職のことを考えて、安易に大学に進学するのはあまりおすすめしない。そのときには4年間を通じて、自分が使える大卒として見られる自信があるか?そういう人材になれるか?その見極めが大事になるのです。就職のしやすさのことだけを考えるならば、大学に進学することはリスクがあります。最近は奨学金の問題のこともあるし、高卒で就職活動しておいた方が良かったと言えるパターンがいくつも存在していると思うのです。高卒でも就職ではいいところがあるので、それを忘れないでほしいと思います。ただ、先ほども言ったけど就職をした後のことまで考えるならば大卒の方が有利と言える面はあるので、結局どっちもどっちかもしれない。

 

生涯賃金でいえば、平均して数千万円くらいは違うらしい。でも、それは生涯同じ会社に勤めた場合の話みたいなので、今の時代にはあまり当てはまらない事実かもしれないです。それに大卒でも、高卒でも非正規雇用の割合は今後どんどん増えていくとされているので、益々高卒と大卒の生涯賃金の差は少なくなると思います。そうなると、大学に行ってから就職を目指すメリットも少なくなってくるのかな?と思います。高卒は就職では受からないと思い込んでいる人もいるかもしれないが、そんなことはないですし、就職後のことを考えても大卒との差は縮小傾向にある気がします。大学に進学する理由は就職のためだけではないだろうが、就職という基準を1つ持ってくるならば、高卒の方が大卒よりも不利ということは必ずしも言えないです。大企業への就職可能性で言えばさすがに大卒かもしれないが、でも特定の工業高校とかは大手自動車メーカーとかにもすごい就職しているケースがあるみたいで、高校によるのかな?という気もしてきます。高卒が就職に不安を覚えても、それは大卒も似た状況だと思うんですよ。大卒だからと就職活動に安心して臨める人は少ないと思います。みんな不安なんです。高卒で就職というのは不安がつきまとうかもしれませんが、大卒だろうがなんだろうが、就職には困る可能性がある時代なので、高卒でも大卒でも就職できる、できないの問題はその人によるとしか言いようがないと思います。

 

キミは就職できるか?―マニュアル就活では就職できない

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羽田秀吉はコナンの正体を知ってる?考察すべきは養子になった過去と宮本由美との恋の進展?

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名探偵コナンに突如登場した新キャラ羽田秀吉は警視庁の婦警である宮本由美の元カレであることが分かっています。宮本由美は羽田秀吉の本当の正体(職業)を知らなかったようですが、実は彼は有名な棋士だったのです。FBIの赤井秀一とは兄弟であるとされており、推理力も作中の中ではかなり上の方に位置すると思われますが、今のところ組織関連での登場はありません。羽田秀吉の初登場は「現場の隣人は元カレ」の回だったと思いますが、その後も宮本由美とほぼセットで羽田秀吉は登場しています。赤井秀一の方は組織とかなりかかわっている人間のようですが、羽田秀吉の方は宮本由美との恋を楽しみながら、将棋に勤しんでいるという毎日を送っており、兄弟でも生きている境遇が全く違うという状況です。羽田秀吉は同じ兄弟でも赤井秀一ではなく、世良真純の方とよく連絡をとっているみたいです。その世良も組織関連の話ではほとんど接点がないので、今後どうなるのかな?という感じです。赤井秀一のほうは間違いなく組織関連の話で絡んでくるキャラだと思いますけど、羽田秀吉はどうなんでしょうか?羽田浩司絡みの話になると少しは接点が出てくるかもしれません。個人的には羽田秀吉と赤井秀一が絡むシーンや組織と絡むシーンも見てみたいですがね。

 

そして、羽田秀吉はコナンの正体に気付いているのか?ということに関してですが、ただの小学生ではないことくらいには気付いていると思われますが、工藤新一であることはにはまだ気付いていないと思います。世良真純は恐らくコナンの正体には気付いているでしょうけど、羽田秀吉はコナンの正体は知らないでしょう。以前、世良に送ったメールで「魔法使いにはもう会えたのか?」という文面がありましたが、この文面から見ると、魔法使いはコナンのことでしょうけど、魔法使いという言葉を使っているのは羽田秀吉自身なので、羽田秀吉はコナンの正体を知っている可能性は少ないと見ています。魔法使いという言葉を使っているのが羽田自身による選択なのか?世良が羽田秀吉にそう聞かせていたから、その言葉を使っているのか?は不明なものの、江戸川コナン=工藤新一ということを知っているような感じには、個人的には感じません。羽田秀吉の正体を宮本由美が気付いていないということもありますし、コナンについても正体は気付かれていないものと思われます。というか、赤井秀一と違って、羽田秀吉はそういったところは恐らく気になっていないと思います。

 

羽田秀吉が組織関連の話で出てくる可能性は今後も低いかもしれません。羽田浩司とのつながりで多少は出てくる気がしますが、羽田秀吉はそもそも組織の存在に気付いていないのではないか?と思いますから。羽田浩司と羽田秀吉の関係は原作ではすでに進んでいるようなので知っている人もいると思いますが、羽田浩司が巻き込まれた事件などについて羽田秀吉がどこまで知っているのか?は気になるところです。羽田秀吉は初登場の回から、結構能天気キャラっぽさも垣間見えているので、組織関連では恐らくあまり登場しないと思われます。羽田秀吉の今後に関する考察としては、恐らく宮本由美とのラブコメが中心になるのではないでしょうか?警視庁内の婦警からもいくつもカップルが生まれそうですし、その中の1組になりそうな気がします。そういった登場の仕方が中心なのではないか?というのが、私の羽田秀吉に関する考察ですけど、赤井秀一世良真純と一緒に登場するシーンを見てみたいですね。この3人っていつも別々にしか登場してないですからね。兄弟3人が揃うシーンがほぼないですよね。見た記憶もないです。今後いつかそういうシーンが登場してほしいなと思うのです。

 

赤井秀一はそれ自体として、沖矢昴としても今後も登場シーンが恐らくあるでしょう。それに赤井は組織関連でも間違いなくかかわってくると思います。羽田秀吉は宮本由美とのラブコメが中心になりそうですし、組織関連の話に出てくるようなキャラじゃないんですよね。基本的にはコミカルな感じで、棋士のときや推理をしているときはちょっと真面目っぽくなるけど、概ね少年のような、いい意味で子供っぽさを雰囲気を持っているときもあります。ただ、作中だと世良真純と現在進行形で交流が多いのは兄貴2人のうち、赤井秀一ではなくて羽田秀吉の方みたいですね。よくメールのやりとりをしているみたいですし。というか、世良本人は赤井はすでに死んでいると思っているみたいですし、赤井秀一が沖や昴と同一人物だということはまだ知らないでしょう。そもそも世良は沖矢昴と会ったことあったっけな?ミステリートレインの回で気絶している世良を客席に沖矢昴が抱きかかえて運んでいったシーンはあった気がするが、世良は沖矢のことを認識してはいなかったでしょう。したがって、世良は赤井の方に心酔しているかもしれないが、現在は羽田秀吉とよく交流があるみたいですね。

 

赤井秀一は世良や羽田秀吉とはほとんど作中ではかかわりがないので、コナンやその他FBIのメンバー、そして安室透との絡みがとても多いように感じます。したがって、羽田秀吉と世良真純が登場するシーンと赤井秀一が登場するシーンは温度差が違うでしょうね。世良に関して言えばホテルの部屋で匿っているメアリーという謎の中学生くらいの少女の件があるので、組織関連の話で少しは出てくるのではないか?と思いますけど、世良も羽田秀吉と同じでコナンの正体には気付いている。羽田秀吉以上にコナンの正体を知っていると言える人物でしょうから。羽田秀吉については考察をするほどの伏線は今のところないと思うので、謎が多い人物という感じではないですけど、羽田秀吉は羽田家に養子として迎えられたみたいなので、その辺の昔話というか、作中での時間軸では描かれていない話が非常に気になるところですけどね。羽田秀吉に関して考察する部分があるとすればそこでしょうか?元カレ扱いだった宮本由美も羽田秀吉と上手くいっているみたいですし。現在の話よりも過去の話の方が気になるキャラクターですね。

 

 

 

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「不特定多数が出入りするコンビニに有害図書は不適切」という意見は破綻している

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コンビニに成人向け雑誌が置かれていることについて批判の声が一部であるようです。コンビニは不特定多数が出入りお店という認識になっているみたいだから、そういう批判があるのは自然かもしれないが、私に言わせれば、そういう批判は破綻していると言わざるを得ない。コンビニにおける成人向け雑誌については行政が介入し始めている例もあるようで、個人的にはそんなことをする必要がどこにある?と思うのだが。私がなぜコンビニそういう本を置いておくことを問題視する人の主張が破綻していると感じるのか?について書いていきます。彼らの意見はコンビニは不特定多数が出入りするお店だから、そういうお店に有害図書が並んでいるのは相応しくない。という理屈なのでしょう。多くの人間はこの意見をそこまで不自然には思わないかもしれないが、私はある部分にすごい違和感を覚える。それは「不特定多数」という単語です。この単語は全員が使っているわけではないが、私が見たところでは結構見るワードだった気がします。コンビニは現状として確かに不特定多数が出入りしているお店かもしれない。しかし、そもそもこの意見はコンビニ=不特定多数が出入りするお店という前提条件がなければいけない。

 

ここでいう前提条件というのは、実際そうなっているという結果論の話ではなく、定義としてそうなっているか?の問題になります。つまり、コンビニは定義として不特定多数が出入りするようなお店だという確固たるものが存在しているならば、この意見は真っ当かもしれないが、現実に起きているのは不特定多数が利用しているのだろうという結果論による推測の域でしょう。そして、問題はここなのです。例えば、成人向けグッズのみを販売しているお店が実際あるわけですが、そういうお店はなぜ批判されないのでしょうか?それはそういうお店に不特定多数が出入りしないからでしょう。じゃあ、何でそういうお店が不特定多数の人が出入りしないのでしょうか?それは扱っている商品がアレだからですよね。つまり多くの人の認識では、お店で売られている商品によって、不特定多数が利用するのか?しないのか?が分かれるということになります。じゃあ、コンビニはどうなのでしょうか?ああいった本があると不特定多数が出入りするコンビニおいては相応しくないという意見を言っている時点で、ああいった本が置いてあるお店は不特定多数が出入りしづらいと言っているのと同じですよね?それは=コンビニはもはや不特定多数が出入りするお店じゃないという認識になっていることになると思うのです。

 

つまり、成人向けグッズを扱っているお店はそういうものを扱っているのだから、不特定多数が出入りするお店ではもはやないという認識に多くがなっている。それは扱っているものが多くにとって不適切と考えられているものだから。だから、一部の人しか立ち寄らない。しかし、有害図書という言い方をしているけれども、そういう本だって多くにとって不適切なものと考えられているというのは一緒でしょう。ならば、そんなものを扱っているコンビニは、成人向けグッズを扱っているお店と同じで不特定多数が出入りするようなお店ではない。という認識になるのが正しいのではないでしょうか?何で先ほどのお店は批判されないで、コンビニは批判されるのか?が分からないのです。同じようなものを扱っていながら、一方は不特定多数が出入りできなくても問題ないのに、一方は問題だみたいな認識になるのか?が分からないのです。

 

多くの人はコンビニがまず不特定多数が利用するお店だという認識が存在していると思いますけど、そこがおかしいと思うのですよ。コンビニを不特定多数が出入りするようなお店にしないといけない義務がまずない。特定の層だけを取り入れるようなお店にしたって良いと思うんですよ。例えば、カップラーメンだけしか販売しないとか、特定の層の人間のみをターゲットにしたって良いわけじゃないですか?(あまりに商品に偏りがある場合には、そのお店をコンビニと呼ぶことが問題視される場合もあるかもしれないが)それはお店の経営方針の自由ですよね。多くのコンビニは扱っている商品が幅広く、日用品や食品が多いから、結果的に不特定多数が利用しているという状況が起きているだけであって、コンビニは不特定多数が利用できるお店にしないといけないというルールはないと思うので、有害図書があって、不特定多数が利用できない状況が生じても、それが=問題とはならないと思いますよ。不特定多数が利用できないじゃん!という批判は、じゃあ不特定多数が利用しなければ良いじゃん!という反論で返せてしまうのです。

 

そもそも不特定多数が利用するという前提で話しているならば、不特定多数の人たちの需要を満たすように商品が置かれるのが当然であり、不特定多数の需要の中には、特定の人間からしたら価値観的に相容れないものが存在するのは当たり前な気がします。不特定多数が利用するお店だからこそ、そういう状況になっているのであって、そういう状況が望ましくないというのであれば、やはり不特定多数が利用できるお店という前提条件を覆さないといけないと思いますよ。コンビニに置いてあるもので望ましくないと誰かが考えているものは、有害図書だけではないでしょう。酒やタバコやその他いろいろなものが、ぞれぞれの人間によって置くべきではないと考えられている可能性があります。それを全部置くべきではないと結論付けたら、もはやコンビニに置けるものがほとんどなくなる。不特定多数が利用するお店ならば、尚更いろいろな人たちが利用する現状を踏まえて、そのために置かれている商品の存在を認めるべきだと思います。特定の層にとって望ましい商品しか置くな!と言うのであれば、その意見はもはやコンビニが不特定多数が利用するという彼らの前提条件から、著しく乖離してしまっていると思います。

 

実際、そういう本が置かれている状態でも不特定多数が利用しているわけだから、多くの人はそんなことはどうでも良いと思っているのでしょうね。私もどうでも良いと思っています。私はコンビニに入ると真っ先に奥の飲み物のコーナーに行くので、雑誌が置いてあるコーナーは毎回見向きもしないです。そもそも有害図書がコンビニ置かれるのが問題だとする理由が、子供や女性の目に触れるから。ということならば、コンビニの入り口に表示でもしておけば良いんじゃないでしょうか?このお店はそういう本を置いてあります。という表示でもしておけば、そういう本を問題と考える人、利用がしづらいと考えている人は入らないでしょう。一部の行政は本をフィルムで覆ったり対策をしているようだけど、そんなことまでする必要がない。コンビニが客足を途絶えさせないために自らやるのならば結構だが、行政が仮に対策をするのであれば、お店の入り口に表示をするなど、影響がより少ない手段をとれば良いのに、何でいきなり本自体に直接影響力を行使しようとするのか?そういう本が置いてあることが原因で別にコンビニを利用できなくても、スーパーがあるのだから良いと思うんですよね。あとはネットスーパーもあるし。おまけに利用がしづらいというのも物理的な問題ではなくて、精神的な問題だと思うので、行政が乗り出すほどとは到底思えないのですよ。

 

 

コンビニ人間

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ベーシックインカムがあればいじめで悩む子供も救えるかもしれない

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学校でのいじめの問題って過去にも今にもなくなっていないと思うんですけど、今後もなくなるとは思えないし、なくそうとしても無理だと思う。私はきれいごとを言うつもりもないし、現実的な話しかしないけど、いじめを根絶するのは無理で、対策をしてどこまで効果があるか?は分からないと思う。私はいじめをなくすのは無理なので、いじめに遭ったときにどう対処できるか?の方がよっぽど現実的で、結局学校に通わない選択肢をとるのが1番だと思っています。いじめに遭っている子からしたら、学校に脅威があるわけじゃないですか?その脅威は学校から取り除かれることは難しいです。つまり、道を歩いていたら殺人犯に指名手配犯にばったり会ってしまったときに、何をするのが最善か?っていうと、逃げることだと思うんですよね。その指名手配犯に向かっていくなんてことはまずしないだろうし、誰もすすめないでしょう。したがって、脅威から逃げるっていうのは、最善の策になると思うのです。いわゆる不登校って形になるけど、それこそが最善の策だと思います。

 

しかし、現実的には不登校になるということは容易ではない。学校もすすめないだろうし、親もできればそれは避けてほしいと思っているケースもありそう。不登校というと、イメージがよくないということもあれば、小学校でも、中学校でも、それ以上でもそうだけど、学校に通っていない事実は将来に響くだだろうという予測が働くわけですよね。その懸念がある限り、学校に通わないのが仮に最善だと思えても、その策をとるのがあまり現実的ではないというか、リスクがあるんじゃないか?ということになります。端的に言ってしまえば、仕事を得られないんじゃないか?生きられないんじゃないか?って話なんですが、ここでベーシックインカムの意義が出てくるわけです。ベーシックインカムがあれば、仕事を得られなくても困らない社会が存在することになります。収入が確保されるので、一応生きられるということはある。言ってしまえば、将来の心配をする必要がその点に関してはなくなるということです。ベーシックインカムがあれば、ブラック企業に勤めていてもすぐに辞められるという指摘もあるように、脅威から逃げやすくなります。それは学校でのいじめも同じだと思うのです。

 

不登校=悪いみたいなイメージがあるかもしれませんが、不登校は悪くないと思います。というか、多くが学校に通っている理由(親が学校に通わせる理由)は将来のことを考えて仲間はずれにならないためというのは大きいのではないか?と思います。最低でも高校まではそういう雰囲気がある気がするのです。でも、将来への懸念がなくなれば、学校に通う理由は大分減少するでしょう。学校は将来のために行くだけではないのだが、学校に通う、通わないで将来への影響がそれほどないのであれば、通わない子供、通わせない親は増えると思いますよ。そう考えるとベーシックインカムのメリットってすごい大きいと思います。社会問題の多くを改善できる可能性があります。そもそも学校なんて必要ないという論者もいるし、個人的にも学校に通う理由が、将来への影響を考えて仲間外れないならないためとか、そういったものならば、みんなが通わないという方法でも仲間外れないならないことを実現できるので、そっちの方が効率的なんですよね。学校に通うべき理由が、個人的にはそんなにたいそうなものがないと感じているので、学校に通わなくても良いと思える人たちが増えるならば、それは意味があることなんじゃないか?と思います。

 

ベーシックインカムのメリットというのは仕事や収入の面において導入の意義が問われ始めていますけど、波及効果としてはそれだけには留まらないでしょう。いじめに遭っている子が学校から逃げることで、問題が全て解決するとは言えないかもしれないが、親や学校が逃げていいと教えることで、問題が大きくなる前にどうにかできる可能性があります。逃げることは悪いことみたいなイメージもあるかもしれませんが、基本的には人間は逃げますから。不利なこと、できないこと、脅威となるものからは逃げます。私も逃げてばかりです。逃げるという表現が悪いのかもしれないが、合理的な行動をとっているに過ぎないと思っています。だから、不登校を逃げと表現するのが妥当か?は分からないけど、不登校になることにも合理性はありますし、それはべ~しくインカムが実現した社会ならば尚更です。不登校になることのダメージが少ない社会が実現していれば、学校に脅威がある場合には、不登校になることはある程度合理的と言えるでしょう。脅威から逃げられる策があれば、人生において生き方そのものが大きく変わる可能性があると思います。

 

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

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自己責任を押し付ける行為は人のせいにする無責任?人を追い詰める嫌いなワードに感じることもある

その他の話題

「自己責任」って言葉がいろいろな場面で見られるが、自己責任という言葉の定義ははっきりしない。自己責任という言葉が嫌いという人もいると思いますが、結構曖昧な使われ方で、それぞれが自己責任だと思ったとき使っているという印象です。自己責任という言葉は、定義がはっきりしないからこそ、結構いろいろなシーンで使われやすいし、使うことが容易い。しかし、自己責任という言葉の濫用はそれこそ責任逃れという状況がもたらすことがある。誰かが「自己責任」という言葉を使ったときというのは、責任はお前にあるんだ!という言葉を放ったに等しいわけで、それを別の捉え方をすると、それを言った本人や社会の側には責任はないんだ!という言い方にも聞こえる。それが正しいか?どうかはケースバイケースだろうが、自己責任という言葉は自分たちが責任を負いたくないからこそ、使われる可能性もある言葉とも言えます。

 

イケダハヤト氏が「自己責任とは「他人のせい」にすることではなく「自分のせい」にすること : まだ東京で消耗してるの?」のエントリーで以下のことを言っています。

 

>自己責任とは何か。さまざまな考え方があるテーマですが、ぼくはひとつ、自己責任という言葉は「他人のせい」にするのではなく、「自分のせい」にするときにこそ、使うべき言葉だと考えています。 たとえば、ホームレス状態に陥った人を、「お前が今の状況に陥ったのは自己責任だ!」と語る。 ひきこもり状態にある人を、「ひきこもりになったのは自己責任だ!税金で助けるなんてもってのほかだ!」と主張する。 仕事で失敗した部下を、「お前が失敗したのはお前の責任だ!」と罵る。 「自己責任」を他人になすりつけるとき、その人はまさにその「自己責任」から逃れていることに気がつかなければなりません。平たく言えば「他人のせい」にしているというわけです。 「他人のせい」にすることが高じていけば、人々の断絶は深まり、困窮状態は悪化していくばかりです。「他人のせい」を極めていった結果、社会が不安定になり、貧困、犯罪、疫病が蔓延したとき、もはやそれは「他人のせい」にできなくなるでしょう。 極論ですが、世界は「縁」で結ばれているものですから、厳密にいえば「他人のせい」なんてものはないわけです。あの人の苦労や失敗の原因は、実は自分にもある。完全に無関係でいることなんて、できないわけです。世界の関係性に気づかず「わたしはあの人と一切の関係がない」と無責任を決め込むのは、鈍感な態度ともいえます。

 

自己責任を使う人は一種の責任逃れをしている可能性もあると。それが自己責任という言葉を嫌いな人の気持ちでしょうか。これは私の持論になりますけど、自己責任だけを貫けるシーンというのは、ものすごく少ないように思いますけどね。多くの場合は自己にも責任はあるが、他にも責任があるだろうと言えるようなケースになると思います。にもかかわらず、どうも日本人は(いや、世界の人もそうか?)責任を1人に、または少数に決めたがる傾向にあります。それは自己責任を追及する人もそうだが、責任をとって辞めるようなケースも同様です。会社のトップが辞任をするなんてことがよくあるが、特定の人間にだけ責任を求めて、それ以外に少なからず原因をもたらしているであろう人は責任をとらなくて良い、またはとらせないようにする、そういう風潮がある気がします。部下が明らかにミスをしているのに、その部下をかばって、「いやいや、責任は私にあります!部下は悪くありません!」と謝るようなシーンがあると思うんですけど、こういう上司を見て、良い上司だなー。と思う人もいるかもしれないが、会社からすれば最悪な上司でしょう。部下がミスをしているならば、そのミスを追及させないと、そのミスが永遠に葬られてしまい、その会社はまたミスをします。この流れを止められないのです。つまり、自己責任論もそうだが、誰か1人がまとめて責任を被るようなやり方も間違っていると思う。

 

「誰かのせいにする」ことをよくないものとして捉える風潮があるからこそ、こういう上司が生まれるんだろうけど、誰かのせいにするのは悪くないと思いますよ。それが本当にその人を責められる余地があるならば、誰かのせいにすべきでしょう。何らかのミスや失敗の原因の一端を担っている人間がいるならば、その人の責任を追及するのは間違っていないと思います。誰かのせいにすべきときがあるんですよ。自己責任に関しても誰かを追い詰める効果がある気がするけど、誰かのせいにしてはいけないという風潮も誰かを追い詰めていますよね。ただ、誰かのせいにしてはいけないと言いながら、自己責任論を追及している人がいたら、その人は間違いなく誰かのせいにしているわけですが。どっちやねん!って話ですよ。人のせいにするのはよくない風潮と自己責任を追及する風潮が両方存在しているって、それ自体が矛盾だと思うんですよね。貧困とかの問題で自己責任って出てきますよね。ここで私なりの自己責任の定義を考えたいのですが、私は自らの匙加減で100%避けられたことを避けないで起きたことに関しては自己責任が通用すると思っています。

 

だから、貧困に関してはは自己責任は通用しないと思っています。100%避ける方法がないからです。100%避ける方法がないってことは、それを避けられない人が多少なりともいるのはしょうがないという解釈になるので、貧困になるのは致し方ないという論理になるでしょう。自己責任を押し付けても良いというシーンはそういう限られたときだけだと思うんですよ。100%避けられたようなときだけとなると、自己責任を押し付けられるのはあまりないと思うのですが、じゃあ貧困が誰の責任か?といえば国でしょうね。自己責任論が言われているシーンがよくあると思いますけど、私はそのほとんどは自己責任を押し付けるのは妥当ではないと思っています。マジで自己責任論は人を追い詰めますからね。自己責任というのはあなたが悪いのだから、誰も助ける必要も庇う必要もないという姿勢にも思えてくるため、人を追い詰める傾向にあると思います。自己責任というのは自分や社会には責任がないという無責任という言葉と同義ではないか?と考えている人もいるようですけど、そういうにも解釈にもなるかもしれない。結局は責任を誰に押し付けるか?というときに自己責任が出てくるのだから、原因として含まれる人間に対して責任を押し付けるのは間違っていないでしょう。しかし、それを見当外れの人間に押し付けると、その自己責任が無責任になることもある。それは逆に自分には非がないのに、自己責任だと感じて自分が責任を引き受けるケースも含まれます。それも無責任だと言えるでしょう。責任の正確な所在を明らかにして、改善ポイントを分析しなければ社会も、会社も、人も成長できません。

 

責任を押し付けることや人のせいにすることは一概に間違っているとは思わないが、見当外れの自己責任や見当外れで人を庇うことは社会にとってプラスとは思えないのです。自己責任を押し付ける風潮が全部のケースで悪いわけではないが、誰に責任の所在が本当はあると考えるべきなのか?の検討が行われる前にイメージで、自己責任だと論じる人間がいると思うんですよ。貧困は自己責任だと論じるケースがあれば、それはそれに該当すると思います。貧困を確実に避ける方法もなければ、貧困を生み出す社会システムになっていることを踏まえれば、どうあがいても貧困が生まれる原因は社会の仕組みを作っている側に存在していると思いますから。自己責任は人を追い詰めることで嫌いだとする人も多い中で、自己責任を積極的に使う人もいるし、いろいろな人がいる世の中なわけですけど、少なくとも日本の中でおかしいと思うのは自己責任論と人のせいにするな論がごっちゃになっているところですよね。人のせいにしてはいけないならば、自己責任という言葉はもっと慎まれて良いのでは?と思いますが。私の中では自己責任を押し付けられるケースはあまり多くないと考えているので、人のせいにしてはいけない風潮があるのに、社会が責任を負わないで自己に押し付ける風潮はさっぱり理解ができないわけです。それが本当の無責任なんじゃないか?と。自己責任を押し付けることができる以外で自己責任を使うと、それは無責任を含んだワードに変貌するということだと思います。

 

 

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