就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

利用者目線からすると、保育士は誰でもできる仕事に映るのは仕方ない気がする

ホリエモンが「保育士の仕事は誰でもできる。だから、給料が上がらないんだ」というツイートをして、炎上というか、ちょっとした騒動になりましたが、これについては各所から反論がきています。保育士の仕事内容についてよく知っている人ほど、ホリエモンのこの意見には賛同できないという見方なのでしょう。しかし、保育士の仕事は「誰でもできる」という部分に、私はある程度の正しさを感じるのです。なぜか?というと、問題は保育士の仕事内容そのものよりも、利用者のニーズの問題です。ホリエモンのツイートに反論をしている人は、保育士の仕事は単なる子どもの面倒を見るだけではないから、誰でもできる仕事ではないという意見なのではないか?と思うのですが、保育士の誰でもできない部分に関しては、そもそもニーズがどれだけあるのか?が非常に疑問なのです。つまり、仮に保育士が単なる子守しかできない職業だったとして、その場合に保育園を利用する人がいなくなるのか?って話なのです。間違いなくいなくならないと思います。その辺の普通の親ができることと何ら変わらないことしか保育士がしてくれないとしても、保育園の利用者は相変わらず大量に存在すると思います。それは自分が子供の面倒を見られない間に、それをやってくれる人がいるだけで貴重だからです。

 

その辺の親には難しい、保育士ならではの専門性というのは間違いなく存在すると思う。しかし、その専門性の部分が保育士から消えたら、保育士への需要はなくなるのかと言えば、なくならないだろうし、相変わらず利用者は大勢いるだろう。そうなると、保育士の専門性の部分は、保育園の利用者から見るとそこまで重要な要素ではない可能性もある。実際、保育園を利用しないで自分で子育てをしている家庭も多くあるわけですが、そういう家庭は保育士が面倒を見ているわけではないから、間違いなく保育の専門性はない人間が子守をしていることになる。その現状はじゃあそんなに問題なのか?という話になります。保育士と比べて相対的に専門性が劣る人たちが子守をしている現状に、社会は一切警鐘を鳴らさない。保育士自身も、保育士でもない人間が子供の世話をすることは問題だ!と発信したということを、一切聞いたことがない。つまり、保育士と比べて専門性が劣る人が子供の面倒を見ることは「問題ない」というのが、社会の認識ということになる。そうなると、尚更保育士の専門性の部分にどれだけの意味があるのか?掴みづらくなってきてしまうのです。しかし、障がいを持っている子などの場合もあるので、全く不要とは言えないだろうし、そういう子供の場合にはその点に関して専門性のある人に面倒を見てもらった方が良いかもしれないと考え、保育園を利用するということもあるだろう。だから、専門性の部分が全くいらないと、全ての利用者が思っているなんて言うつもりはない。

 

しかし、マジョリティの部分で言えば、多くの利用者にとっては、保育士の専門性の部分があっても、なくてもそんなに変わらないという認識なのではないだろうか?というのが、私の推測も含めた考えです。だからこそ、保育園のニーズの多くは共働きなどの世帯(自分たちが子供の面倒を見る余裕がない人たち)になるのではないか?と推測されます。逆に共働きじゃない世帯は保育園に預ける割合が極端に下がるとなると、保育園を利用する動機の1番はやはりそこになると推測できるのです。実際に保育園に預けないで、専門性を持たない普通の人間が子供の世話を平気でしているケースは山ほどあるわけだし、保育の専門性がない人じゃないと、子供の面倒を見てはいけない、見るべきではないという認識の人はほぼ世の中にいないと思います。保育士の専門性の部分に期待をしている人が多く世の中にいるということを証明するには、片働き世帯などの親自身で子供の面倒を見る余裕のある家庭でも、高い割合で保育園を利用しているというデータが必要なのではないか?と思います。共働きの人たちが割合として非常に高いというならば、そして片働き世帯になると利用者ががくんと減るとなると、彼らの利用の動機は「自分が対応できないときに、子供の世話をしてくれること」という部分が特に大きいと推測されます。だから、何が問題か?というと、保育士になるために必要な能力というか、素養の部分に関して、実は需要がそこまでないものまで国家資格として要求されているのではないか?ということがあります。つまり、国が保育士に求めている部分と国民(利用者)が求めている部分に大きな認識の差があるのではないか?ということなのです。

 

利用者からすると、子供の面倒を見てくれる部分が確保さえされていればそれでよくて、その部分さえ確保されていれば保育士という職業が成り立つ程度に需要が存在してしまうとなると、それ以外の部分は大して必要ないという評価になってしまい、少なくとも利用者目線からすると、保育士は誰でもできる仕事と見えてしまうのは、仕方ない気がするのです。ホリエモンも間違いなく利用者目線で見ている部分もあると思うので。ただ、ホリエモンの言う、誰でもできる仕事だから給料が上がらないというのは、個人的にはあまり妥当性がないと思っている。誰でもできる仕事というのが仮に正しいとしても、それは=給料が上がらない理由にそこまでなるだろうか?保育士の供給数が多すぎる場合には給料が下がりやすいことはあるかもしれないが、現実的には供給不足と言われているレベルであると。だから、ホリエモンの言う保育士の給料が上がらない理由は、あまり妥当性がないようにも見える。

 

現実的な理由としては補助金が少ないこと、利用者の所得が少ない傾向にあるので、保育園の収入がそもそも少ないことなどが挙げられるだろうか?誰でもできる仕事であるならば、保育士の給料が上がらない理由にはなる可能性はあるものの、それは誰でもできる仕事だから、保育士になろうとする人がたくさんいた場合の話なのですが、現実は保育士が足りないと言われているくらいなので、この理由はそこまで大きくないのだろうと思う。実際は国家試験とかがあって、ハードルが高いので、保育士に簡単になれるわけじゃない。だから、保育士は誰でもなれるわけではないが、実際に利用者が求めている部分は誰でもできる仕事の割合が非常に高い。これが現実的な答えな気がするのです。しかし、見方を変えるとホリエモンの言っていることも妥当性があるように見えてくる。それは結局、保育士の競争相手は誰なのか?という問題なのです。保育士の競争相手は他の保育園や保育士だけではない。もっと重要なのが一般市民、言ってしまえば素人です。素人が競争相手になっているのです。保育士は例えば子守に関しても1人当たりの面倒をみないといけない子供の人数が多いから、それに対応しないといけない部分において、専門性を有しているという見方もできなくはないだろう。しかし、その専門性は保育士にしか必要ないと言えるものなのです。なぜか?というと、親自身や子を産んだ親の親(子供から見たらおじいちゃん、おばあちゃん)、または近所の親しい人たちなどの素人がこの面倒を見るという場合には、1人あたりで5人も10人も、それ以上も1度に子の面倒を見ないといけないという機会がまずありえないから。1人で5人、10人、それ以上の子の面倒を同時に見ないといけないというのは、保育士ならではの事情であって、その部分に対応できて初めて、それ以外の素人の人たちと対等になれるわけです。

 

というのも、すでに話したように保育士に子を預けないで、親自身が面倒を見たり、親の親や近所の人たちに面倒を見てもらうという、素人に任せるということは普通に起きていることであって、そういうことをしている人たちは、保育士のような人以外でも子育てが務まるという認識になっている。そして、彼らは1人あたり多くの子供を1度に面倒を見ないといけないという事態になることはないので、保育士が有している1度に多数の子供をちゃんと見守るという専門性を有している必要性がない。つまり、その点における専門性を持っている保育士とそれを持っていない素人が対等に位置しているという現状があるからこそ、保育士ではなくて、そういう素人で子育てをやっている家庭が多くあるわけだ。つまり、素人でも子育ては成り立つと考えている家庭が多くある時点で、利用者目線からすると、保育士は誰でもできる仕事というか、保育士に預けなくても、別の人でも何の問題もないと思っている人が多くいることになるわけです。

 

つまり、保育士の給料を増やすには、保育園の収入を増やすのも1つの策で、保育園の収入を増やすには、多くの人たちに保育園を利用してもらうことが必要で、そのためには親自身が自ら子育てをする、おじいちゃんやおばあちゃん、または近所の人に預けるということではなく、保育士に子供を預けるという行動をとってもらう必要がある。そのためには何が必要か?というと、子育ては誰にでもできるのではなく、保育士に任せた方が良いという認識を世間に根付かせないといけない。そうなると、世間が抱えている「誰でも、自分でも、あの人でもできそう」みたいな感覚を変えてやらないといけない。保育士に対して自分たちが望んでいることは、別の人に頼んだ場合でも十分成り立つという世間の感覚を変えられれば、子供の面倒を自分で見られない、または子供の面倒を頼める人が周りにいないという人以外でも、保育園を利用する人が増え、保育士1人当たりの負担も増える可能性はあるが、結果的に保育士の給料が上がる方向には向かいやすいということが言えるのではないか?と思います。その点から言うと、ホリエモンの言う保育士の仕事は誰でもできる(と世間から思われている)ことが、保育士の給料が上がらない理由というのは、一概に間違っていないかな?という気がしてくるのです。

 

実際、ホリエモンはツイートが話題になった後に、「誰でも(やろうとしたら大抵の人は)出来る(大変かもしれない)仕事だから希少性が低く(コンビニバイトなどと同様に)給料が上がらない構造になっている」と加えてツイートをしているようで、素人でも担えてしまう、代えが利く時点で、確かに彼の言う「やろうと思えば誰でもできる」、「希少性が低い」という点は満たしてしまっているのが現状だと思うのです。彼のツイートは細かい部分を端折って発言しているので、結局真意というか、なぜそう言えるのか?の部分が全く伝わっていないだけだと思います。保育士ではなく、一般の素人が子育ての多くをになっているという現状やその現状に異を唱えない世間の反応を見ていると、世間としては子育てを担うのは誰でも(保育士以外でも)構わない=保育士のやっている仕事は他の人でもできる=保育士の仕事は誰でもできる仕事と捉えていると、評価せざるを得ないのです。

 

虚構のアベノミクス――株価は上がったが、給料は上がらない

虚構のアベノミクス――株価は上がったが、給料は上がらない

 

 

あわせて読みたい記事

教師の将来性は安泰ではない?安定してるは幻想でいずれなくなる仕事か?

教員という公務員でもあるので安定しているというイメージを持つ人は多くいます。しかし、私は将来的には教員のような職業はほぼなくなると思っています。その将来というのが一体いつになるのか?というのが断言できないが、教師は将来性では安泰というイメージはいずれなくなるでしょう。教員は安定してるとは無縁の時代が来る可能性があります。というのも、将来的に教師はなくなる仕事の1つだと思う。人工知能や機械が普及しても教員はなくならない仕事だという意見もあります。私が教員が将来性が安泰ではない、いずれなくなる仕事だと思う理由は、人工知能が直接関係しているわけではない。間接的には関係しているかもしれないが。私が教員がなくなる仕事の1つだと考えた理由は、需要がなくなるから。教育への需要ですね。もっと分かりやすく言うと、学校への需要が今後どんどん減っていくと思う。つまり、学校に通わせようとする親が減るので、学校への需要が減り、当然そこで働く教師の必要性がどんどん減る。つまり、人工知能の台頭とは関係ないところで、教師などの職業はどんどん衰退するのではないか?と思っています。でも、これは教師だけではない。塾講師や家庭教師などの教育関係者全般の話です。教育への需要がなくなると書いたが、子供に教育を受けさせる意味が今後どんどんなくなるのです。

 

以前、ホリエモンと「朝まで生テレビ」の人工知能の回でお馴染みの落合陽一氏が対談をしていて、両者とも今自分が子供に戻ったら絶対に学校に通いたくないし、子供を学校に通わせたくないと語っていた。ホリエモンは、自身が幼いころから学校に通いたくないと思っていたみたいだが、落合氏はまさに今子供がいて、学校に通わせることについて奥さんと揉めたらしい。結局、通わせているみたいだけど、子供を騙しているみたいで辛いみたいなことを言っていたのです。対談を聞く限りでは、2人に共通する信念は、学校に通う意味がないどころか、学校は子どもを不幸にしている場所だという認識みたいですね。今までは学校に通う意味は一応あったと思う。それは学歴社会が機能していたから。だから、学歴をつけるため。という名目のもと、学校で何を学ぶか?ではなく、学校を卒業したという証明を得ることに意味があったのです。一定の学歴がないと生きるのが厳しい時代だったんだけど、これからは学歴があっても生きるのが厳しい時代になりそう。そこで人工知能の話が出てくるのだが、すでに言われていることでは、100%近いホワイトカラーの仕事が今後なくなる可能性があると言われている。ホワイトカラーの仕事は容易に人工知能に代替されてしまうのだ。代替可能性があるから、全部が代替されるのか?と言えば、どうなるか?は分からないがある程度の割合は一定の年月をかけて代替されることになるだろう。つまり、親目線からするとね、今までは正社員になるために子供を学校に行かせて学歴をつけさせる意味は一応あったが、学歴をつけてもそもそも正社員とかの枠がものすごく狭くなるわけ。今までとは比べ物にならないほど狭くなる。または枠それ自体もかなり待遇面ではよくないと思うんですよね。

 

そうなると、学歴をつけて就職を目指してもまともな人生なんか送れないじゃん!って考える親が増えそうな気がするのです。すでに就職した先にどれだけ良い人生が待っているのか?について疑問を感じている人はいると思うんだけど、とりあえずきつい仕事を頑張っていれば生きられるだけの賃金を得られているから、今は就職を目指す人は多くいるわけです。でも、今後は正社員と非正規の格差とかではなくて、職に就けるか?どうかの格差がやってくると思うのです。しかも、職に就けた人も待遇は今より下がるだろうと予測される。枠が狭まっても職を求める人が変わらず多くいるならばそうなるでしょう。そして、機械におおよその仕事を奪われ、職に就けない人がどんどん増える可能性がある。そんな未来予測のもとでは、今まで当然だった学校を卒業する意味がほぼなくなる。学歴があればなんとかなった生き方が、学歴をつけてもどうにもならなくなるならば、学校に通わせる意味がない。学費や時間を別の何か使った方が効率的だと考える親がどんどん増えるだろうと予測するのです。その結果、学校への需要が減少し、教師は職業として必要性を失っていく。教師は決して安泰ではない。将来性はどうなるか?分からない。というのが、私の予測です。教師は安定しているイメージがあるかもしれないが、教師を含めて教育関係者全般は今後不安定どころか、社会から仕事そのものがなくなる時代になるかもしれないのです。

 

ただ、学歴以外にも学校の役割はあると考える人もいると思うんですけど、結局学校の在り方そのものが変わらない限りは、いわゆる勉強を教えること以外にも価値を見出せる親は減ると思う。例えば、学校ではいわゆる「しつけ」などを教えることがあって、それも学校の役割の1つだと考える人もいると思いますが、結局「しつけ」っていうのも「社会適合者」になるために必要なことであって、これからの時代は社会適合者では生きられない時代になると思うのです。というか、すでになっています。つまり、学校で教師から教わる他者との協調性とか、不和を起こさないでみたいな部分というのは、メリットにも思えるかもしれないけど、それがそもそもの教育の問題だと思うのです。他の人と協調して生きましょうという教育があるからこそ、みんな同じような職を選び、同じような生き方を望む人が増えると思うのです。そして、他の人と同じじゃない部分に劣等感や不安を感じ、不幸になっていく。この悪循環が存在していると思います。結局、今の教育を続けている限り、みんな会社で雇われて正社員を目指すという生き方を志向しがちで、みんながみんな同じ市場で仕事を奪い合えば、雇用する側としては希望者が多いわけだから、待遇を悪くしても働いてくれる人がいて、ブラック企業が蔓延しやすいよね。という話になってしまうのです。労働市場の需要と供給の問題で説明できます。

 

今すでに存在するブラック企業の問題も元をたどれば、学校教育がきっかけになっている面はあると思うし、今の学校教育が続く限り、同じ生き方、同じ職業に就く人ばかりを増やし、職が少なくなる社会に対応できない人を増やすだけだと思うのです。そういうところに正のようなものを感じてしまう子ども、大人を増やすだけだと思うのです。つまり、他者と強調しようなんて価値観を持っていると、それだけで不幸になりかねない世の中にこれからなるわけです。まあ、すでになってきているんだけど。だからこそ、これからは社会不適合者がもてはやされると思います。他人と違う生き方に安心感を覚えるような時代になるんじゃないかな?学校に通ってしつけの名目で、協調性などを身に付ける必要性がなくなり、その点からも学校への需要は低下するだろうと思っています。人工知能が台頭する時代では、100人が100人とも違う仕事をしているというのが理想なのです。現実的にはベーシックインカムがいずれ導入されると思うので、仕事に就けない人がいても、そこまで深刻な問題にはならないだろうと思っていますが、最低限の生活が保障されていて、仕事に簡単に就けない世の中になると、学歴をつけることの意味はかなり減退すると思います。あとは学歴ってステータスの意味合いもあると思いますけど、こぞって受験戦争に参加する人たちが減るわけだから、有名大学に受かる難易度も一気に下がりますし、有名大学の肩書を持っていることの意味も薄れます。より受かる難易度が低いと、有名大学に受かっても全然すごいことにならないわけだから。だから、私立の学校は有名な高校や大学を含めて、経営が危うくなる場合もあるかもしれない。そういう点からも学校に通う人、または塾や家庭教師を利用する人が減る一因になると思うのです。

 

人工知能が台頭しても教員などの職業はなくなる仕事ではない、将来性は安泰だという見方をしている人もいるが、人工知能の台頭が直接の原因で廃れるとは、私も思わないです。ただ、人工知能が人間の多くの職を奪うことが原因となって、最終的には教師の職業がなくなるかもしれないということは、私はありえるのではないか?と予想しています。結局、今の時代にも言えることですけど、みんなと同じ生き方をすればするだけ、労働市場の需要と供給の関係から、人は幸せになりづらいわけで、それは人工知能が台頭するとより一層加速します。今でも、人工知能が台頭してからでも、学校に通うことで社会人ならば当然みたいな価値観や考え方を植え付けられてしまう生き方はあまり相応しくないと思っています。それに多くが気付いたとき、社会にそういう考え方が普及したとき、それがいつになるか?は分からないが、教師などの職業はなくなる仕事と言えるか?は分からないが、数としては減るでしょう。教師は人間じゃないとできないことがあるという意見もあるけれども、その人間じゃないとできない部分に関して需要がなくなれば話は別ですから。教師は安定してると認識している人もいるかもしれないが、将来性は分からないし、安泰ではないという認識の方が良いのではないか?と思います。すでにホリエモンや落合陽一氏などの影響力のある人が、学校に子供を通わせたくないといっていたり、学校は子どもを不幸にする場所だと言っているような時代なので、少しずつそういう価値観が広まっていきそうな気がします。学校に通う生き方、みんながしている当たり前の生き方は「安心感」というメリットを与えるが、その安心感は実は問題だらけの生き方における錯覚を生み出す機能も持っていて、だからこそ問題だらけの働き方が一向に変わらない(そこから離脱できない)のではないか?その錯覚に気付く人が恐らくどんどん増えるんじゃないかな?

 

 

あわせて読みたい記事

差別を批判している人も、その主張自体が差別になることに気付かないという現実

 

以前、フジテレビの番組でLGBTをいじる内容のバラエティ番組を放送したところ、それが炎上し、フジテレビの社長が謝罪をすることになった。その騒動の余波は外野で未だに続いている。特にこのウーマンラッシュアワー村本大輔氏のツイートは「他にも差別されている人がいるからって、お前らだけが文句言うな!我慢しろ!はおかしい!」といった批判をしている人が特に多い。しかし、このツイートの真意は別のところにあるのではないか?と考えている人の意見も見つかる。それは「差別されている人たちは他にも多くいるのに、なぜ特定の層の人たちだけ被害者面するのか?他の差別には声を挙げないで、なぜ特定の差別だけに批判をするのか?ということを村本さんは言いたかったのでは?」という解釈をしている人もいる。私はなるほど。と思ったと同時に、これっていつも私が考えていることと同じだなと、直感的に思った。村本氏の真意は分からないが、後者の意見で言っているならば、私は支持する。というのも、差別を批判する人たちが1番差別しているという事実に多くは気付いていないからだ。

 

つまり、差別を批判するということは、差別が悪いことだと思っているはずで、だったら、差別全体として声を挙げれば良いことなのだ。でも、多くの人は「人種差別」や「学歴差別」、「性差別」など、特定の差別を取り上げて、それのみ論じるようなことをする。ってことはどういうことになる?特定の差別はダメと言っているが、逆にそれ以外の差別は容認しているものがあるってことでしょう?差別全部がダメと思っているならば「〇〇差別」じゃなくて、最初から「差別」と言えば良いんですよ。でも、そういう表現を使わないってことは、差別全体が悪いと思っているわけじゃないことになります。つまり、中には容認すべき差別があるってことであって、それ自体がもう差別的な考え方なんです。それに気付いていない人がかなり多くいるはず。差別を批判している人も、結局差別的な態度には変わりないよね。っていう結論になります。

 

あと、駒崎氏の批判も正直よく分からない。特に前半部分に関しては。学歴や職業等が本当に選択できるものか?っていうのも疑問だが、選択できるものとできないものを別に考える意味とは何だろうか?その根拠が全く書かれていないので、結局この部分に関しては駒崎氏の感想ということになるだろう。つまり、正しいか?どうかは別問題だということ。私は本人に選択の余地があるか?どうかで、非難されても良いもの、悪いものを分けるのはおかしいと思っているのですよ。だって、本人に選択の余地がないもので批判されていることなんて山ほどあるからです。その代表例は思想です。LGBTを悪く言う思想もその1つだが、社会的に許容されない思想っていうのが間違いなくあるはずで、そういう思想っていうのは本能的に脳内に惹起されるものであって、LGBTの問題と同様に、本人の努力や匙加減ではどうにもできない問題だと思うんです。あとはその本能的な思想を外部に表明するか?どうかの問題で、例えばある人が本能的に「人を殺してみたい」と思ったとします。そういう思想を外部に表明したら、基本的に叩かれます。LGBTに関しても、同性愛が生理的に無理って人もいるわけですよね。これも本能的な問題で、努力や匙加減ではどうにもならない気がする。で、それを外部に表明したら、今のご時世だと叩かれるのではないか?でも、LGBTを外部に表明しても叩かれないならば、あれ?って話になるんですよ。

 

つまり、LGBTが何らかのことで批判されたり、不快な思いをさせられたりすることは、山ほどあるうちの1つであって、他の山ほどの中にはLGBTに対するそういう問題とは違った反応をする場合が大いにある。LGBTが批判されたら、今のご時世ではその批判自体が批判されそうだが、先ほどの人を殺してみたいという思想は、多くから批判されるだろうが、その批判に対して誰も異を唱えないということになるだろう。つまり、駒崎氏、そして駒崎氏のツイートを支持している人は「私は人を殺してみたい」と言っている人に対して、「そうだよな。1度くらい人を殺してみたいと思う人だっているよな」と、肯定しないといけないというか、差別してはいけない、思想それ自体は尊重しなければならないのだ。駒崎氏やそれ以外の人が選択できる余地があるか?ないか?で、差別の妥当性を論じるならば、こういうことになる。駒崎氏も結局、先ほど書いたように、差別を訴えている人間という側面と差別をする人間という側面の2つを抱えているということになり、彼は差別を批判しているのか?是認しているのか?分からないということになる。

 

結局、LGBTに対して不快感を持っている人がいれば、LGBTとして生きたいという人もいる。どっちも自分の利益を優先する行為であって、ある種間違ってはいないと思う。何が問題か?っていうと、こういうケースというのは、世間の風潮によってどっちが正しい、どっちが間違っているという風に固定化されてしまうことだ。どっちも自分の利益を優先する行為にもかかわらず、どっちかの肩を持ってしまうということ。これ自体が私は1番の間違いだと思う。LGBTとして生きるのも自由だし、それに不快感を持つのも自由だろう。お互いが自分と相手はどっちも正しいんだ。ということを認め合いながら生きるのが、私の考える正しい社会だと思うのだ。ただ、それは実現されそうにない。自分の利益を主張するということは、批判に対して批判をするのも自由だろうし、その連鎖は止められない、止めないといけないという理由も見いだせないからだ。私自身はLGBTに対して何の偏見も不快感もない。というか、私は多様性が尊重される社会を理想としているので、むしろLGBTのような少数派の出現は大歓迎だ。ただ、私のような人間ばかりではないので、そういう人たちも社会を構成する一部の層として是認すべきなのではないか?それも含めて多様性(LGBTも多様性の一部だが、LGBTを批判する人も多様性の一部である)が尊重される社会と言えるのではないか?と思う。理想の社会を目指しながら、自分にとって常に理想の社会は訪れないということも必要な考えではないかな?と思えてくる。ただ、そういう態度をになるためには、人間が言葉を話すということをやめない(自分の意見を表明する機会を生じさせてはいけない)と無理な気がしてくるが。

 

生物多様性とは何か (岩波新書)

生物多様性とは何か (岩波新書)

 

 

あわせて読みたい記事

文教大学の偏差値は中堅?キャンパスの立地条件や評判は?学生の口コミと就職実績や就職支援の魅力など

文教大学というのは大学自体の知名度はそこまでないかもしれませんが、大学自体の評判は良いと思います。芸能人の卒業生とかがほとんどいないと思いますし、スポーツとかも有名ではないので、どうしても大学自体を知らないという人もいるのではないか?と思います。しかし、文教大学について知らない人でも魅力を知ると入りたい人が増えるかもしれません。文教大学の偏差値は学部にもよりますけど、50を超えている学部がほとんどでしょう。国際学部とかはそこそこ高いですし、偏差値だけで言えば日東駒専くらいはあるのではないでしょうか?だから、文教大学は大学の自体の難易度は普通以上にありますし、簡単な大学ではないと思うのです。したがって、文教大学に入りたい人はそれなりに勉強をしないといけないと思いますけど、その前に文教大学の評判について調べておくと良いでしょう。文教大学はなかなか知名度が高くないので、イメージが沸かない人もいると思います。したがって、どういう大学なのか?というのを在学生や卒業生の口コミを参考にしておくと良いと思うのです。文教大学の口コミはそれなりに多く専用サイトに載っていますから。探し方が分からない人のためにここでも少し載せておきます。例えば、どんなものがあるのでしょうか?それについて見ていきましょう。

 

文教大学のキャンパスについてはどうか?というと、2つのキャンパスがあって、埼玉県の越谷市と神奈川県の茅ヶ崎市にあるようです。どちらも都心ではないので、キャンパスの立地条件としてはあまり便利という感じはしませんけど、どちらがメインキャンパスなのか?というと、よく分かりません。同じくらいの学部がそれぞれで学んでいるようなので。でも、都会には近くないですけど、落ち着いた雰囲気で勉強ができそうな点は文教大学の魅力の1つになりそうです。どちらのキャンパスでも集中できる環境があるのではないでしょうか?文教大学のキャンパスというのは通いやすい人は通いやすそうですが、都内に住んでいる人からするとちょっと遠く感じる場合もあるかもしれません。文教大学の注意点としては、学部によってどちらのキャンパスに通うか?が異なってくるので、そこはチェックしておいてください。ちなみに情報学部、国際学部、健康栄養学部、経営学部は湘南キャンパスで、教育学部人間科学部、文学部は越谷キャンパスになるみたいです。旗の台キャンパスもあるのですが、こちらは付属高校とかの生徒が通うみたいですね。高校の方がはっきり言って立地条件良いなという感じですね。

 

文教大学の学生の口コミを見ると、越谷キャンパスは徒歩10分くらいで立地条件についてはそれなりに良いと評価している人もいますけど、それとは別にキャンパスの周りに何もないという感想を持っている人がいます。越谷市なのでなんとなく想像がつくかもしれないですけど、越谷キャンパスの周辺には遊ぶようなところがないみたいなので、そのあたりはやや不便に感じることがあるようなのです。したがって、文教大学の学生の口コミでは、越谷キャンパスの方は立地条件においては、周辺の環境においてやや不満があるという感じでしょうか?一方、湘南キャンパスの方はどうか?というと、こちらは駅から徒歩だとちょっときついようなので、バスを使うことになるのではないでしょうか?バスも時間帯によってはかなり混んでいるようなので、バスを使わないといけないという環境にある湘南キャンパスもやや不便と言えるかもしれません。こちらも周辺はあまり栄えていないようですけど、自然があって綺麗という声もあります。学生によっては過ごしやすさを感じられるかもしれません。でも、実際の評判は自分でオープンキャンパスに行くとより実感できると思います。文教大学のキャンパスの評判は参考程度に見ておくとして、自分でもキャンパスを見に行ってみると良いでしょう。それ以外の文教大学の学生の口コミはどうでしょうか?

 

文教大学の評判としては就職サポートという点が挙げられます。これはキャンパスによっても内容が異なる可能性はありますけど、かなり手厚いと感じている人もいます。メールの書き方、面接の練習などをやってくれるみたいなので、就職活動における自分のスキルを上げるのに役立つ可能性があります。そして、学内の合同説明会も頻繁に開催され、かなりの会社と出会うことができるとされています。つまり、いろいろな機会を利用して就職活動における自分にとってのチャンスが広がる可能性があるということではないでしょうか?ただ、こういったことが利用できても、自分から積極的に利用していかないといけないので、そういった姿勢も必要になるのではないでしょうか?したがって、文教大学の就職支援を活用しながら就職活動を行うことができれば、少しでも良い結果が出る可能性がありますけど、やはり自分で積極的に文教大学の就職支援を利用していく気持ちは必要でしょう。こういったところが文教大学の評判になると思います。受験前に知っておくと良いと思います。そして、文教大学の就職実績はどうなっているのでしょうか?それについても確認をしていくべきでしょう。

 

文教大学の就職先については学部学科ごとに一例が載っています。大手企業から中小企業の名前もあって、結構参考になる部分もあるかもしれません。文教大学の場合には学歴フィルターにひっかかるか?微妙なところなのですが、大手企業に就職できる可能性もあるということになります。文教大学の就職実績は教育学部に関しては民間企業ではないケースも多いので、教育学部志望の人は特にホームページの就職先の一覧を見ておくと良いかもしれません。文教大学の就職支援に関しても、教育学部とそれ以外の学部は中身が違う可能性がありますから、そこは細かく見ておかないといけないのです。文教大学の就職実績に関する評価はそれぞれの受験生がしてもらいたいと思いますが、就職先などのデータはもう少し欲しかったなという印象もあります。あとは就職率も公開されていれば良かったかな?と思います。ただ、就職支援に関してはそれなりのモノが期待できるのではないか?と思うので、そこは文教大学の魅力と言えるでしょう。文教大学の就職の評判については学生の口コミなどを検索して調べてもらうのも良いと思いますが、自分でも調べておきましょう。文教大学は偏差値は中堅大学で、知名度はそんなにありませんが、教育学部を中心に非常に評判は良いと思います。したがって、文教大学に入りたい人は過去問などを解いて、合格に必要な点数がとれるか?チャレンジしてみましょう。そして、苦手な分野やできない箇所を重点的に対策していき、少しでも点数が上がるように努力していきましょう。

 

 

文教大学 (2018年版大学入試シリーズ)

文教大学 (2018年版大学入試シリーズ)

 

 

あわせて読みたい記事

犯罪被害に遭った人への同情する、しない人の境界線とその少数派を批判する人の心理

アメリカのラスベガスで起きた銃乱射事件が思わぬ波紋を呼んでいる。それが「コメント:信じられないコメント:私はラスベガス乱射事件の犠牲者に全く同情などしていません」に載っていた記事で、ある人物が殺された人たちに対して「同情しない」という発言をしたところ、盛大に叩かれまくっている。詳細は以下になる。

 

>先ず、名前はヘイリー・ゲフトマン・ゴールド、彼女はCBS(民放テレビ局)で法律専務職員として働いています。上記はフェイスブックから既に削除されたようですが、これを読んだ人々は激怒しました。特に問題になったのは下線を引いた部分です。ヘイリーさんは、ラスベガスで犠牲となった人々に同情できないと言っているのです。 私は犠牲となった人たちに、全く同情などしていない。なぜなら、カントリー音楽ファンのほとんどは、拳銃に狂った共和党支持者だからだ。 正常な人間が言える言葉ではありません。偏見的なヘイリーさんは、カントリー音楽ファンのほとんどは共和党支持者であると決め込み、まるで犠牲者たちを嘲笑っているようです。

 

この「同情しない」という部分の是非についても言いたいことはあるが、問題はこの文章を書いた筆者なんですよ。この筆者は「犠牲者をあざ笑っているようです」と書いているが、う~ん・・・なぜそういう解釈になるのかな?というのが、個人的な感想です。この発言をした本人は、殺された人たちには同情しない。なぜならば殺された人たちは銃社会を容認している共和党支持者だから。と捉えられると思うのだが、この発言から読み取れることは2つある。まず殺された人たちに同情していないということ。もう1つはこの人が銃社会を支持している人たちに対して何らかの不快感や嫌悪感を持っているだろうと推測されることです。そもそもこの人の見方(今回犠牲になった人たちの多くは銃社会に賛成している人たち)が正しいのか?という点が問題としてはあるわけだが、同情しないってことは、同情できない理由があるってことだと思うのです。それが何なのか?ってことです。私なりに考えてみると、この人は銃社会に反対の立場で、それに賛成している人たちを憎んでいる、またはよく思っていないということが1つある。もう1つは銃社会に賛成しているのだから、結果的に銃によって殺されることが起きる(殺される確率が上がる)のは仕方ない。というのがもう1つ。つまり、この人が同情しない、または同情できないと考えた理由はこの2つのどちらかではないか?と思います。

 

このどちらの理由だとしても、犠牲になった人をあざ笑っているとは思えないのです。バカにしている感じはしない。仮に銃社会に反対の立場だから、賛成の人たちを憎んでいるとしても、同情しないという気持ちは=あざ笑うにはならないでしょう。悲しい気持ちにはならないってだけだと思うのです。そして、銃があれば銃によって殺される人が増えるのは当たり前的な意味合いからこの発言をしたとしても、それは単なる事実を述べただけなので、あざ笑うという気持ちとは無縁な気がするのです。だから、この発言を犠牲になった人たちへの侮辱みたいに捉えるのは、おかしい気がするのです。こういう事件って世界中の多くが犠牲になった人たちに同情している現状があると思うから、同情しないという気持ちを持った人は間違いなく少数派だと思うのです。だから、叩かれてるんだなと私は判断しました。世間の空気ですね。全ての原因は。傍から見れば、特定の思想は許さん!っていう感じにも見える。実際、同情しないというか、このニュースに興味ないって人は大勢いると思います。でも、それを公言すると叩かれるのが予想がつくから、多分言わないだけだと思う。実際、このコメントを書いた人も結局削除したいみたいだが、批判されて削除するくらいならば、最初から書かなければいいのに。とは思う。

 

ただ、この人が同情できない理由っていうのは、恐らくあるのだろう。だって、私たちだって、例えば連続殺人犯が殺されました。って聞いたら同情しないでしょう。それはそういう人間を快く思っていないから。逆にそういう人間が殺されて同情するなんて発言したら、それはそれで叩かれますよね。おい!そんな凶悪な人間に同情するなんておかしい!っていう人が多くいると思う。でも、今回殺された人たちが本当に銃社会を支持している人たちならば、彼らは銃社会に反対している人にとって脅威なわけじゃないですか?それって、そういう人が殺されたケースというのは、連続殺人犯が殺された人たちと全く同じに見えるって人がいても不思議ではないのです。だって、銃社会が存続すれば自分がその被害に遭う可能性は高まるとも考えられるわけですよ。だからこそ、銃社会に反対するわけでしょう?ならば、理屈は全く同じですよね。私が言いたいのは同情しないという気持ちが正しいとかではなくて、今回のケースで同情しないという気持ちは、連続殺人犯が殺されたときに世間がするであろう同情しない気持ちと矛盾しないということなのです。矛盾しないことを言ったのに叩かれるのはなぜだろう?という気持ちになったということです。

 

結局、人間の気持ちっていうのは立場によって変わるものなのです。金持ちは貧困層には目もくれず利益をどんどん伸ばしていきたいと思う(そうじゃない人もいると思いますが)だろうし、貧困の人は金持ちの人たちから俺たちに再分配しろ!と思うだろうし、それが当たり前というか、自然じゃないですか?何らかの事情で快く思っていない人間、または層が犯罪被害に遭ったときに同情できないという気持ちは、本能に近い部分であって、人間誰しもが抱えている気持ちだと思うし、紛争地に出向いた人が実際に殺されたら、あんなところに行く方が悪いという発言をしている人も多くいたし、家を施錠しないで出かけて、その間に空き巣に遭ったら、その家主が責められて世間から同情されないだろう。同じ犯罪被害に遭うというケースでも同情される、されないが分かれるのはともかく、分かれた中で少数派は常におかしい的な見方をされるのが今の世界のトレンドみたい。結局多数決で良い、悪いが決められるのが世界なんだなー。と、こういうニュースを見て、こっちの方が私は悲しい気持ちになる。

 

そして、こういう事件が起きると、銃社会それ自体への批判は強まる。でも、利権もあるのだろうから、銃はアメリカから消えないだろう。オバマ大統領時代には、銃社会への規制を試みたことがあったが、成功しなかった。規制へ反発する人の中には「銃を持った悪い奴に対抗するには銃を持つしかない」という理屈を言っている人もいた。この理屈は一見正しいように思えるかもしれないが、銃を持った悪い奴がそもそも出てこない状況にすれば、日本と同じような状況が生まれるのでは?と思うのだが。それが可能か?って話もあるのだが、自衛のための銃を所持しているとしても、その銃の所持によって、新たな犯罪が生まれるというのは当然に予想できるものであって、銃を所持しなければいけない事情があるのは理解するが、銃を持たない側からすれば、どんな事情があるとしても、銃を持った人間は自分にとって脅威になるのは間違いないのだ。だから、銃社会に反対の立場からすると、自衛のために銃を所持している人間ですら許せないと思っている人間も確実にいるのではないか?また、自衛のためといえども銃を所持する人間がいるから、銃社会は終わらない(彼らが銃社会を、銃による犯罪を助長している)という見方もあるかもしれない。会社の言いなりで、違法労働だと分かっていても働き続ける人間がいるから、ブラック企業はなくならないという批判をしている人人と同じでしょうね。銃がある中で生きるということが当たり前になってしまった以上、この状況を変えることは難しいと思う。だから、銃社会に反対する人は、アメリカを捨てるしかないだろう。アメリカを変えようとするのではなく、銃のない生きやすい国を選んだ方が、私は賢明ではないか?と思います。

 

銃社会アメリカのディレンマ

銃社会アメリカのディレンマ

 

 

あわせて読みたい記事

マズイ給食の文句や食べ残しは給食が存続する限りなくなりません

>神奈川県の一部の中学校で給食が大量に食べ残されていることが分かり、波紋を呼んでいます。 問題の中学校では、以前から生徒の間で「冷めていておいしくない」「味が薄い」といった味に対する不満が出ていたそうです。

2017年9月23日に放送された『新・情報7daysニュースキャスター』(TBS系)では、この問題を特集。番組MCを務めるビートたけしさんが、厳しい言葉で持論を展開しました。

脱脂粉乳コッペパンなどが主だった昔の給食に比べ、大きく変わった現代の給食事情。たけしさんは次のようにコメントしています。 「幸せですねぇ。昔は、お弁当持ってきても、人にみせられない子がいっぱいいてね…からかわれるから」 「それを考えりゃ、これは国民の税金(補助)で払われているんでしょ。ガタガタ抜かすんじゃねぇっていいたいよ。黙って食べろコノヤローってね」

生徒達がおいしさを求めるのも理解できます。しかし、まずいからという理由だけで食べ残す行為は決して褒められたものではありません。 食べ物を大切に扱わない生徒たちの姿勢に、たけしさんは苦言を呈したのでしょう。 ネット上では、たけしさんの意見に賛成する声が多く寄せられていますが、同じくらい批判的な声も上がっています。

■否定派

昔の基準を、現代に押し付けるのは違うと思う。「昔はこうだった…」って苦労を語る人いますよね。同じつらさを経験しなきゃいけないのでしょうか。「おいしい」というのは、食べることを楽しむ上で必要なこと。このままだと、食事の楽しみを知らない子になってしまうのでは。

■賛成派

異物混入は論外ですが、生命や自然に対する感謝の気持ちを育てるためにも、食べ残しはすべきではないと思います。給食に何を求めているのだろう。生徒達は、レストランか何かと勘違いしてるんじゃないのかな。食べ物を粗末にするのは、最低です。逆に、どれだけまずいのか気になってきます。

 

「まずい」と給食を食べ残す生徒にビートたけしが持論「幸せですねぇ」 - ライブドアニュース」からの引用をさせてもらったが、ビートたけし氏の言っていることって、ブラック企業の上司とかが使う典型例のセリフだろうな。はっきり言って、昔と比べてマシだったら、我慢して食べろって意味が分からないんだが。文句を言ってはいけない理由がどこにもないのだ。部下が「労働時間が長すぎます・・・」という不満を口にした場合、上司が「お前な、世の中に過労死している人だっているんだぞ?お前は生きてるんだからそれよりマシだろ?」という理屈も通ることになる。典型的な日本をブラック社会に導く足の引っ張り合いの言動なのに。他者や昔との比較を持ち出して、我慢を強いるというのは、現状を錯覚させるだけだと思うけどね。そもそも今の給食が昔と比べてマシか?っていうと、私は必ずしもそうは思えませんけどね。私は小学校が給食だったのだが、ほぼ毎日出る牛乳が大嫌いで、今でも飲まない。多分、この先一生牛乳は飲まないと思う。それくらい嫌いだった。でも、昔ってミルメークってあったんでしょう?今もあるのか?は分からないが、私の学校ではミルメークなんてなくて、牛乳をそのまま飲まないといけなかった。だから、毎日が牛乳との格闘でした。ミルメークがあれば、そんな思いしないでも済んだのでしょう。そもそもミルメークは全国的に導入されたわけではないみたいだが、昔の方が率は高かったんじゃないかな?そうなると、私にとっては昔の給食の方が良かったと言える可能性があることになる。ビートたけし氏の今の給食は昔よりも優れている的な発言は必ずしも適当ではない。人によるということになる。

 

昔と、または他国と比べる人っていると思うんだけど、こういう比較を使って論じる人って、林修先生とかも発展途上国と比べて日本は勉強できる環境が整っていて恵まれているとか言っていたけど、なんの意味もないと思うんですけどね。年収50万円の家庭よりも、年収100万円の家庭はマシなんだから、文句言うなって言っているようなものなんだけど、そら文句言うに決まっているでしょう。という話なのよ。比較なんて意味がないと思うんですよ。こういうケースでは、給食に対する味がどの程度なのか?という絶対的な視点が重要で、相対的な比較なんか意味がない。今の給食がマズイならば、昔の給食はさらにマズかったというだけ。そのさらにマズかった給食が、マズイ給食に多少進化したとしても、なんの解決にもなっていないという話なのです。給食が進化しているとしても、普段の家庭での食事も進化しているはずで、普段食べている食事と給食との落差という観点については、昔も今も一緒だと思います。だから、普段の食事と比べたときの給食の味に対する満足度は、今も昔も一緒だろうと。だから、昔と今を比べることに意味なんかないし、昔と今を比べたところで、今の方が優れているとは言えないのだ。ビートたけし氏の言っていることは、はっきり言って何の理屈も通っていない感情論でしかないのだ。

 

それに税金で払われていたら何なのだ?そもそも子供たちが給食を欲しているという前提はないのだよ。弁当が良いとか、他の食事が良いとか思っていても、画一的な給食を食べないといけないのだ。他にも選択肢があるのに、子供たちが進んで給食を選んでいるならば、文句を言うな(文句を言うならば他の選択肢を選べ)という理屈は通るだろうが、最初から給食しか選択肢がない中で、給食がマズくても文句言うなって・・・ここは刑務所ですか?学校の中での子供たちの食事情って、ビートたけし氏の理屈によると、完全に刑務所と同じなんですけど?ビートたけし氏の理屈が通るためには、選択肢が他にもある中で、子供たちが進んで給食を選んでいるという前提がないといけないのだ。それにこの発言に関しては「税金が使われているのにマズイものを作る方が問題」という辛辣な意見もあったし、ネットの意見をいろいろと散見したけど、ビートたけし氏を支持する意見はあまりないね。

 

記事でも書かれているけど、食べ物を粗末にするのがいけないという前提ならば、食べ残しが起きやすい「給食」というシステムへの批判がなぜ起きないのか?私は不思議でしょうがない。画一的な食事を全員に対して行うわけだから、好き嫌いが生まれやすくなり、そりゃ食べ残しが起きやすいに決まっているだろう。食べ残しがダメならば、好き嫌いで残すなというのではなく、給食を強制するな!という意見の方がかなりマシだと思う。給食を選んでも良いが、給食以外にも食べたいものを各自家から持ってくるとかで良いだろう。そうすれば、圧倒的に食べ残しは減ると思います。食べ残しがダメならば、食べたいものを食べさせるというのが1番なのに、なぜ今の給食のシステムがそのまま残らないといけないかのような議論にしかならないのだろう?給食以外でも栄養のバランスはとれるだろうし、サプリメントもあるからね。キラキラネームの批判のときに、名づけをする親を批判するよりも、名づけの仕方のルールを変えるべきという批判の方がよっぽど建設的という意見と同じなわけだ。キラキラネームを根絶したいならば、ルールをそのものを変えれば完全に消えますよ。でも、根本のルールはそのままで親を批判するだけだから、永遠にキラキラネームは残りますよね。という話なのです。

 

だから、食べ残しがもったいない、ダメというならば、根本的な給食というシステムを変えるべきなのに、食べ残しをする子供を批判してどうするの?子供が給食を食べないといけない理由本来は存在しない。各家庭で食べさせたいものを選んで食べさせてはいけない理由なんかないのだ。でも、旧態依然の合理性の乏しいシステムがいまだに残っているからこそ、食べ残しが生まれるのだ。だから、給食を廃止しろとは言わないが、給食を選ばない家庭や子供を認めるべきなのだ。私が親だったら、給食制度の学校に子供は絶対に通わせたくない。というか、学校に通わせたくないけど。学校という場所は非常に非効率で、その傾向は今後も強まると思う。学校に通って普通の生き方を身に付けさせるような教育は、どんどん有効性が低くなると思う。すでにその兆候は表れているが、サラリーマンやOLという職業はどんどん枠が狭まる。つまり、雇われることを前提とした生き方ではまともな給料が得られなくなる。

 

サラリーマンやOLになるには第一に学歴が必要だが、そういった職業に就けなくなる人が増えるならば、学歴を身に付けさせる意味はなくなり、学校に通う意味もそれだけ乏しくなる。ホリエモンとかも言っているけど、私はこれからの世の中は学歴社会とは正反対の個の実力社会が到来すると思っている。大卒の人は学校に約15年間時間を捧げるわけだが、その間に別の何かをやっている人の方が人生における成功率は高くなりそうな気がします。今はみんなが正社員を目指しているみたいだけど、みんなと違う生き方をしないと生き残れない世の中がそのうちやってくるんじゃないかな?だから、給食が嫌いならば食べなくていいし、コンビニ弁当でも買って食べていれば良いと思っている。もっと言えば、学校なんか行かなくて良いと思っている。学校に通うことで幸せを実感できる人はこれからどんどん少なくなりますよ。

 

 

給食で死ぬ!!―いじめ・非行・暴力が給食を変えたらなくなり、優秀校になった長野・真田町の奇跡!!

給食で死ぬ!!―いじめ・非行・暴力が給食を変えたらなくなり、優秀校になった長野・真田町の奇跡!!

 

 

あわせて読みたい記事

同調圧力よりも実は困った存在の「同調欲求」に人々は悩んでいる

同調圧力という言葉があって、これに惑わされている人、困っている人は多くいると思います。このブログでも同調圧力については何度か批判してきたが、同調圧力以外にも人間には困った問題がある。それが「同調欲求」だ。この「同調欲求」というのは、私が勝手に作った造語だと思っていたんだけど、検索してみると同じ言葉を使っている人がちらほらいる。私は「同調欲求」と「同調羨望」で迷ったんだけど、前者の方がしっくりくるかな?と思ったのだが、同じようなことを考えている人が他にもいたようだ。この同調欲求というのは何か?というと、他の人と同じでいたいという欲求のことだ。同調圧力は他の人と同じようにしろ!という他者からの圧力になるが、同調欲求は他の人と同じでいたい、自ら思うことであり、実はこっちの方が厄介だったりする。同調圧力は、本人にとって同調したいという思いがない場合が多いので、無視することもやろうと思えばできるわけ。しかし、同調欲求の方は、同調したいと自ら思っているため、その欲求を無視しづらい。同調したいと思っている時点で、同調することが幸せなのだから、同調できないこと、または同調したい気持ちを無理やり抑えることは、その人にとって望ましくない結果なのだ。

 

例えば、すごい身近な例で言えば、結婚をしたいという女性がいたとする。結婚をなぜしたいか?と言えば、理由は人によっていろいろあると思うんだけど、友達とか、周りが結婚していく様子を見ると、自分もそうなりたい。自分だけが結婚できないのは嫌だ。という気持ちから、結婚したいという意思を持っている人もいるのではないでしょうか?このケースの場合、結婚したい理由は同調欲求に近いと思う。つまり、仲間外れになるのがいやなのではないか?結婚=勝ち組、結婚できない=負け組みたいな構図が世間の中に勝手にできあがっているというのは、正直あると思う。その部分でいうと、結婚できない人は負け組だよねとか、可哀想だよねみたいな雰囲気は私も感じているし、他にも感じている人はいるのではないか?私の場合は、別に負け組とか、可哀想とか思われたとしてもどうでも良いと思っているから、結婚に全く興味ないんだけど、そういう周りの目を気にしてしまう人は絶対にいるはずで、そういう人は同調欲求に苛まれてしまう。そして、自分が結婚できないで歳をとり続けるほど、その本人のショックは大きくなる。そもそも結婚=幸せという価値観もどうかと思うけど、こういう同調欲求というのは、非常に厄介なものなのです。

 

なぜならば、同調欲求を持ってしまう人は、いろいろなことに同調欲求を感じてしまうからだ。結婚というのは1つの例であって、例を挙げようと思えば無限にあるだろう。平均年収よりも収入が少ないとか、結婚はしているが子供がいないとか、友達が少ないとか、休日家で過ごしてばかりだとか、一般的な目安と比べて自分が違うという認識、平均を下回っているみたいな認識というのは、どんどん連鎖していきやすいと思う。つまり、同調欲求というのは、1つ持ってしまうと、そこからいくらでも生まれてきやすいもので、いろいろな要素に対して自分は他の人と同じか?どうかを気にしてしまう。そういう性質があるんじゃないか?と思えてくるのです。仮に本当にそうだとすると、同調欲求というのは非常に困る存在になるのです。仮に結婚をできない人が結婚できたとしても、次は子供が人並みに欲しいとか、また同調欲求が生まれてくる可能性がある。つまり、同調欲求は1つ解決しても、また次のものが生まれてくるという繰り返しであり、それに永遠に悩み続けるのではないか?ということ。それを根本から解決する方法があるとすれば、他人と同じことに安心感を抱かないこと。

 

 

同調欲求の根本原因は安心感なわけです。なぜか他の人と同じだと安心感が生まれるみたいなところはあるわけだが、安心感は生まれるかもしれないけど、それが幸せなことか?どうかは別だと思うのです。1番分かりやすい例はサラリーマンかな?サラリーマンになれればとりあえず安心という人はいるかもしれないが、サラリーマンという人たちはものすごく数が多いから、労働市場での需要と供給のバランスを考えたときには、給料が上がる余地が少ない。雇いたいという人数に対して、働きたいという数が少なければ、給料などの条件が上がるが、逆のことが起きると給料などの条件は下がる。他の人と同じ働き方ができているという安心感はあるかもしれないが、みんなと一緒の働き方をしているから、給料が上がらない、足元みられて違法労働を押し付けられるとか、いろいろな問題が起きやすいと言える。安心感と引き換えに起きるデメリットはものすごくでかい。

 

同調欲求がなければ、安心感よりも別の視点から職を選んでいる人は増えたかもしれないし、そうなればサラリーマンになる人も、そうじゃない人も共にいい結果が生まれる可能性もある。同調欲求というのは、それを抱いている本人にとっても悩みを与えてしまう存在ともいえるが、同調欲求を抱える人たちが大勢増えることで、なんだろうな?一種の不健全というか、あまり望ましくない状況を社会全体にもたらすという、別の力も含んでいるのではないか?と思う。東京への一極集中が問題視されたりするわけだけど、それと同じようなことかな?と思うのです。何かに偏って集中するそれ自体が好ましくない事態をもたらしているのではないか?と思います。同調欲求を気にしないで生きられる人は少ないかもしれないが、他人の生き方とかに良い意味で無関心の人は、それはそれで幸せになりやすい要素の1つかな?とも思えるのです。そういう人が増えれば、社会全体も良い方向に向かう可能性もあります。

 

マズローの心理学

マズローの心理学

 

 

あわせて読みたい記事