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異常な同調圧力はいじめやハラスメントに近い?協調性がない松本人志の言動の問題点

同調圧力って日本固有のものみたいに思われるかもしれないが、恐らく海外にもあるでしょう。でも、日本に住んでいる私からすると、日本の同調圧力はいろいろな闇を感じますね。同調圧力っていじめに近い気がするんですよね。同調圧力って何が問題か?っていうと、圧力をかける側が絶対的に自分が正しいって思いこんでいる部分なんですよ。私は「この世に正しいも間違いもない」というのが、ある意味座右の銘みたいな感じで生きているので、世の中でどれだけ支持されている価値観やどれだけ邪悪とされている考え方などもどちらも支持しないし、どちらも否定しない。それも1つの考えや意見だよねと、個人的に賛同する、しないにかかわらず、とりあえず1つの意見として尊重する姿勢を見せる。でも、それとは真逆なのが同調圧力になるわけだが、同調圧力を身近に感じた例が最近あって、それがテレビ番組なんですよ。日本テレビの「ダウンタウンガキの使いあらへんで!」という有名な番組があって、その中に比較的最近始まったシリーズものの企画で「スマホなしで待ち合わせ」というものがあります。これは個人的には面白い企画だなと思ってみているのですが、この企画は松本人志氏の同調圧力が酷いなと同時に感じるのです。

 

企画のルールについて説明すると、番組レギュラー出演者である浜田雅功松本人志遠藤章造田中直樹山崎邦正(敬称略)の5人がバラバラの状態から、都内にあるお店、施設、名所などのお題に沿って、ここだ!と思う場所に集まる企画で、5人全員が揃ったところがゴールになります。例えば、「ユニクロ」というお題が実際にありましたが、その場合には松本人志山崎邦正田中直樹が渋谷の道玄坂ユニクロ浜田雅功は銀座、遠藤章造は新宿という感じでそれぞれ向かったということになりました。そうやって5人全員が同じ場所に揃うまで繰り返していくことになりますが、個人的にはこの企画は面白い。面白いが、企画の趣旨というか、ルールの部分を勘違いしている人間が何人かいて、その代表格が松本人志なのだ。この企画になると、なぜか松本人志がリーダー格みたいな感じで振る舞い、さも自分が選択した場所は間違いではない!ここに来ない方がおかしいのだ!アピールを毎回している。毎回松本人志の異常な同調圧力が垣間見えるのもある意味面白さの1つになるかもしれないが、正直他のメンバーもうざいと思っているでしょうね。例えば、「ガキの使いでよくロケに使った場所」というお題では、松本、遠藤、山崎が同じ場所に集まったのだが、その3人は3人いることで強気になるわけですよね。1人でいる浜田は「お前は数の力で押し切ろうとしているだけだ」と文句を言っているシーンもあるのだが、松本は「数の力で押し切るゲームやし」と反論する。

 

浜田によると、「よくロケをした」と書かれているのに、3人が選んだ場所は1回しかロケに使っていない場所だという。「よく」という部分を読み飛ばしているということで、浜田は「文章を読む力がないなあ・・・」と嘆いていたが、確かにこの場合には浜田の言い分の方が正しいようにも感じる。プロセスとしておかしなケースが明らかにあるのに、そういうときまっで松本は正しい選択をしたと思っているのだ。3人集まっているから。ただ、これって数学や算数でいうところの答えはあってたけど、解き方はおかしいというような状況に近い気がしますけどね。つまり、数の力で押し切るゲームだと松本は主張しているが、文章を読む力がない人間が3人もたまたまいたからこそ、3人集まれただけであって、そもそもその3人が選んだ場所は企画のルールからすると適当とは言えないはずなのだ。しかし、なぜか3人は3人いるために強気になれるし、特に松本は自分の判断を絶対に正しいと思い込んでいる。これが同調圧力のタチが悪いところなのだ。しかも、松本の同調圧力の問題点は、数は正義という主張をしておきながら、自分が少数派になったときまで、他のメンバーに文句を言っているシーンがあることだ。数が多いほうが正義ならば、自分が少数派になったときには自分は間違いだと素直に認めないと筋が通らないはずだ。この点からも松本の言動はおかしい、矛盾が生じているとなる。

 

本来、この企画ではどこを選ぶか?どうかはメンバーそれぞれの考え方や価値観に依存し、正解や不正解はない。あくまでも5人集まることが目的なのだから、5人が集まれるような努力をすべきとなるはずなのだ。つまり、想像力や協調性が大切なのであって、松本のようなタイプは1番この企画に向いていないと思う。番組では田中が問題児扱いされているが(他のメンバーと同じ場所になることが極めて少ないため)、松本は田中のことを問題児扱いするだけで終わっている。企画の成功のためには価値観が1番それている人間にこそ合わせるべきだろう。二人三脚で足が速いほうが全力で飛ばしたら、2人とも転ぶだろう。この場合、足が速いほうが遅いほうに合わせないと二人三脚は上手く走れないのだが、松本に田中に対する態度は、まさに足が速いほうが足の遅いほうを見捨てて全力で走り、そして転んでいる状況に似ていると思う。田中以外の4人が比較的同じような価値観や考え方をしているならば、その4人が田中に合わせる努力をした方が良いと思うし、それが5人そろうための最短ルートになると思うのだ。しかし、松本は田中の選んだ場所を否定するシーンがあるだけで、自分は正しいの一点張りなのだ。

 

再度言うが、この企画において選んだ場所に正解、不正解は存在しない。単純に松本と田中の価値観がズレているというだけなのだ。つまり、ズレている価値観を合わせようとしないといけないのがこの企画の趣旨なのだから、松本のような否定ばかりで合わせようとしない姿勢は1番問題児だろうと思う。もちろん、田中にもそういう姿勢は必要だし、田中が他のメンバーと価値観が違うから足を引っ張っているようにも見えるのは事実だろう。しかし、他のメンバーと意見が合わないシーンは松本にも少なからずあるし、足を引っ張る人間といかにして出会うか?が重要なのだから、田中の思考を理解するところから始めないと、事態は解決しない。田中の思考はおかしいと否定してばかりいると、偶然出会う以外で揃うことがあまり期待できないことになり、結果的に5人が揃うまでに時間がかかる。全員揃うことが目的ではあるが、「数が正義」を主張すると、結果的に5人揃うのが遅くなることに彼らは気づいていないのだろう。これは個人戦ではなくてチーム戦だということを理解しているのか?と思えてくる。番組を見ている人は田中がこの企画の問題児に思えてくるかもしれないですけど、私は松本も同じくらい問題だと思いますけどね。

 

これは数で優越性を競うゲームではない。5人そろうのが目的なのだから、そこを勘違いしている人がメンバーにもいるだろうし、視聴者にもいると思う。主観による多数から見ておかしなところに行く人間がいたとしても、その人にむしろ合わせようとする姿勢が大切なのだ。むしろ、松本のように多数派が正義だを貫くと、協調性が発揮されないとなる。これが世の中の同調圧力における問題点とも言える。松本の姿勢は同調圧力を強いるだけで、協調性の姿勢がまるでない。俺は毎回正しい場所を選んでいるのだから、お前らが早く来い!という感じなのです。でも、そこが正しいという根拠はむちゃくちゃ主観なわけです。この企画は協調性が1番大切なのに、松本にはその気配がまるでない。異常な同調圧力を発揮するだけで、毎回酷いなと思いつつも、その苦言こそがこの企画の面白いところでもあるのかもしれないが。番組を見ている限り、はっきり言って他のメンバーにもそこまで協調性があるとは思えないが、1番他のメンバーに苦言を呈しているのが松本だと感じる。バラエティ番組だからまだ良いけど、これが学校や会社ならばいじめになるだろう。同調圧力はいじめと大差ないと個人的には思っているけど、こういう松本みたいなタイプは世の中に多くいるでしょう。で、そういう人たちが同調圧力を作っていると。同調圧力はいじめであるとともに、一種のハラスメントでもあると思う。リアルだと飲み会やカラオケなどへの同調圧力があるかな?こういったものが苦手な人はいるはずだし、それへの同調圧力をハラスメントのように感じている人は日々いるはず。同調圧力の何が問題か?というと、ガキの使いスマホなしで待ち合わせの企画でみられるようなシーンが稀ではないということ。日常的な光景だということなのですよ。

 

同調圧力が異常にあると、ある意味協調性が発揮されない。協調性が発揮されないと仕事などにおけるチームワークが発揮されない。結構なマイナス部分が大きいのですが、同調圧力はなくならないでしょう。それは同調圧力自体を否定すると、自分が過去行ってきたことを否定することになる。そういう人が多くなってしまうからです。何らかの同調圧力を強いてきた自覚がある人は五万といると思いますが、それを否定すると、自分が失敗を犯したということを認めることになりますからね。だから、同調圧力は間違っているということを認める人が少ないし、今後も残り続けるでしょう。同調圧力は共感する人間が多くいるからこそ、それが同調圧力として残り続けるわけだが、そういう意味でいうと、松本みたいなタイプは珍しい。彼は仮に1人になっても自分が常に正しいアピールをやめないですからね。ぶれないんですよ。自己を貫くのみで他に合わせようとする気配がない。そこはある意味すごいなと思うなというところでもあるんですけど、同調圧力に共感する人間がいるのもまた事実でしょう。飲み会やカラオケなどへの同調圧力に共感している人間は多くいるだろうし、それがいじめに近いような感じ方をしている人がいても、分からないわけだ。同調圧力がいじめに思える人がいても、それを強いる側はそんな認識にならないですからね。私は日ごろから他人とかかわることがかなり少ないからその被害には遭っていないけど、サラリーマンをやっていたら飲み会への同調圧力はハラスメントみたいで堪えるでしょうね。会社にもよるだろうけど。同調圧力は異常とも思える面を発揮するケースもあるが、協調性をもっと持たせればいい結果になるのに。と思わずにはいられない。数の暴力ともいうべき部分になると思うが、多数派は常に正義という前提はこの世にはないと思うし、それこそが同調圧力はおかしいだろうと言える1番の根拠だと思うのです。それを言っても、同調圧力を強いる側の人間には通じないでしょうけどね。

 

 

同調圧力にだまされない変わり者が社会を変える。

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遅刻をしない方法はないのにイライラ、怒る人は非現実的?謝らない人の方が自然か?

遅刻をするということは私たちにとって「悪いこと」として捉えられていますが、遅刻をすると怒る人はいっぱいいますよね。でも、遅刻をして怒る人もいれば、怒らない人もいます。例えば、ブロガーのイケダハヤト氏は自身のブログ「誰かの遅刻・ドタキャンを怒る人は、仕事ができない : まだ東京で消耗してるの?」で以下のように述べています。

 

>少なくとも、突然のキャンセルやブッチなんてものは、怒るほどの話ではありません。怒らないのが普通で、怒る方がおかしいのです。そのくらいでブチギレるとか、どんだけ人間として偏狭なんですか。 と、いう意見に対して、「仕事の上では絶対に欠席してはいけない重要なMTGもある!」という批判もあるでしょう。これは一見正しい感じもします。 が、誰だって欠席する可能性はあるわけですから、「絶対に欠席してはいけない重要なMTG」なんてものをやらざるを得ない時点で、その仕事はどこか無理があるのです。 出社途中で事故にあったらどうするんでしょう?たかがMTGの遅刻や欠席ひとつで潰れるような会社、事業は、所詮その程度の持続可能性しかなかったということです。その遅刻や欠席がなかったとしても、どこかのタイミングで潰れていたことでしょう。

(中略)

そうです、たかが遅刻や欠席で怒るというのは、そもそも時間の使い方が下手なんです。 もしも重要人物がミーティングに来なければ、そういう時間をどう過ごすかを考えればいいだけです。ぼくは今日(12/9)の夜に家入さんと対談予定ですが、来なければ来なかったで、家入さんのメルマガ編集者のインタビューを実施する予定です(なんと定刻にいらっしゃいました!)。誰かが欠席したくらいなら、なんとでも工夫できます。 根底にあるのは、「遅刻・欠席は悪いことだ」というよくわからん「空気」なんでしょうね。それがあるために、みんな多少のミスで謝ることになる。本当は仕方な地ことなのに。これはなんとも不健全です。 そういう空気をぶち破るためにも、多くの人が「私は遅刻、ブッチ大歓迎です」というスタンスを示すことが大切だと思います。共感する方はぜひブログやツイッターで意思表明してみてください。多分、あなたの人生はもっと有意義になりますよ。他人のミスに怒り狂うなど、実にくだらない話なのですから。

 

イケダハヤト氏の意見としては、遅刻は常にする可能性があるのだから、その想定をそいておけば良いという話なのでしょう。つまり、想定さえしておけば、遅刻によって迷惑を被ることはないし、損害も少ないって話なんでしょうね。だから、遅刻で怒らないし、怒る必要もないという理屈でしょう。言っていることは筋が通っていると思います。まず問題なのは遅刻は100%避ける方法が存在しないということです。遅刻を100パー避けられる方法があるならばそれを実践しない方が悪いと言えるかもしれないが、そんな方法がないならば遅刻をするなと言っている方が非現実的なわけですよ。100%避ける方法がないのに、絶対に遅刻をするなっていうのは、人間に対して死ぬなと言っているのに等しいわけだ。あと、イケダハヤト氏は大切なことを言っている。それは遅刻を怒る人というのは、その想定ができていないということなのです。

 

遅刻に対して怒らない人はその想定ができているから怒らないということなのでしょう。遅刻をして怒られるケースがあるとしたら、相手の時間を無駄にしたから。というのが理由だと思うのです。でも、すでに説明したように遅刻しない方法っていうのはないわけです。遅刻しないために努力する方法はありますけど、100回に5回遅刻していたのが3回に減るとか、そのレベルの努力しかできないと思うのです。たまたま100回注遅刻が0回でした。ってときがあるかもしれないが、それを全員が達成するのは無理です。したがって、イケダハヤト氏は仕事ができる、できないとい見方をしているけれども、遅刻をしない人なんかいないという当たり前の想定があるならば、遅刻をされて困ることなんか起きないということが言えるわけです。その想定がないからこそ、遅刻する人がいるために時間を無駄にしてしまう。当たり前に起きるかもしれないことへの想定がないような人を、イケダ氏は仕事ができないと言っているわけだが、仕事ができるか?どうかの別はともかくとして、遅刻するかもしれないリスクは誰もが常に持っているのだから、遅刻をたまにするくらい良いじゃないか?と、寛容になれる社会の方が望ましいという見方もできなくはない。とは思います。

 

待ち合わせの相手が遅刻してくるかもしれないという想定があるならば本当に相手が遅刻してきたならば、その間にスマホでゲームでもやっておこうとか、株価でもチェックしておこうかとか、読書でもしておこうかとか、その空いた時間を有意義に使える可能性を考えておけば済む話になりますから、怒る理由はなくなります。遅刻をする人に対してイライラする人は多分多いだろうし、私も多分イライラしてた瞬間があったと思うが、このイケダ氏のエントリーを見ると、正直感化された感じになる。私は今まで遅刻してくる人に対してイライラする派の人間だったと思うが、これを読んでこれからはそういう想定をして、時間を無駄にしなければ良いんだ!イライラする必要なんかなかったんだ!と思えるようになったんですね。実際、遅刻する人に対して怒る人がいるのは気持ちとしては分かるが、これも結局幼いころからの洗脳教育によるものなんでしょう。「人に迷惑をかけてはいけない」という教えを忠実に守っている人がいるからこそなのです。

 

人は迷惑をかけないで生きることは不可能だという、当たり前の原点に立ち返ると、イケダ氏の言っていることは正しいと、私には感じられるわけです。遅刻しない方法がない以上は、遅刻をして怒られることは何だか違和感を覚える。1度や2度遅刻するのはしょうがない気がする。仮に100回中100回遅刻するような人間がいたとしても、そういう想定さえあれば誰も困らないわけだから、社会の中にそういう想定がないということ、遅刻してくるかもしれない人の存在をあらかじめ認めて、準備している人たちがあまりに少ないという部分が改善されれば、遅刻をして怒る人はほとんどいなくなるだろうと思う。今回は遅刻に関してだけで欠席に関しては特に述べていないが、遅刻をして怒る人が現状では多いだろうし、遅刻をすると怒られるケースはほとんどだろう。そして、遅刻をして謝らない人なんかがいれば相当叩かれそうな気がするけど、遅刻に対するネガティブなイメージは、実際のところそんな悪いことではないんじゃね?とも思えてくる。

 

遅刻を怒るならば、じゃあ100%遅刻しない方法を是非教えてもらいたいが、そんなものを提示できる人はいない。遅刻は誰もがリスクとして持っている。だから、どうしても迷惑をかけてしまうかもしれないことなのであって、当然のように迷惑がかかると想定できるものならば、あらかじめそれはしょうがないことだ。と寛容になれる社会の方が生きやすい気がしますけどね。だから、遅刻をしても謝らない人だらけになるのが、私の中では理想ですよ。そして、その態度に対して誰も怒らない状態があったならば、無茶苦茶寛容な社会の出来上がりだということになるが、遅刻は誰もが常にやってしまう可能性があるならば、それが良いんじゃない?と思います。遅刻をしても謝らない人がいると、イライラする人も多いだろうし、絶対に叩かれると思うけど、遅刻を防ぐ方法がないのだからしょうがないと見なす方が適切な気がしますし、遅刻をされて困るケースというのは、防ぎようがあるので、そっちの努力をした方が賢明なんじゃないですかね?遅刻に対して怒るとその時間もまた余計にかかるじゃないですか?やっぱり遅刻を悪いこととして捉えない社会の方が効率的な気がするのです。

 

遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成

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学力低下の何が悪い?何が問題?実態は問題視する風潮ばかりだがプラスの要素もある

親の年収が高いほど子供の学力は伸びやすいというようなことが言われています。これは事実なのか?というと、データ上は事実だと思います。データ上はということは、因果関係はよく分かっていない可能性があるということです。つまり、たまたまそうなっているだけという可能性もありますが、データ上そうなっているということは、強い相関関係はあるということなのでしょう。私はこういったものを見るたびに、学力が低いことってそんなに悪いことなのか?と思います。頭が良いこと、学力が高いことはそれはそれでメリットがあるでしょう。でも、学力が低いことは学力が高いことと比べてそんなに劣っていることなのでしょうか?学力低下が叫ばれている中、何が悪いのか?よく分からない面もあるわけです。学力が高くなるには、勉強をしないといけない。勉強をするための意識付けや環境を用意するために、親の年収が高い方が有利というのはあるのかもしれない。でも、結局は本人がやらないといけないことなので、努力が必要になります。つまり、学力が高い人は勉強をするという努力をしているはず。別の見方をすると、勉強をするために多大な時間を使っているわけです。

 

じゃあ、学力が低いとしても、その学力が高い人が勉強をしている間に別の何か有意義なことに時間を使っていれば良いんじゃ?とも思います。勉強を時間をかけてやって学力が上がりました。それ自体、本人にとってどんなメリットがあるか?っていうと、良い大学に入れましたとか、良い就職先が見つかりましたとか、いろいろあると思いますけど、同じようなメリットって勉強をしなくても達成できるんじゃないですか?学校で習うような勉強はしないでもという意味ですが、例えば、学校に通わないで、経営のための専門学校とかがあって、そこに幼少期から通って、起業をするための基礎から学び始めれば、その人は経営に関してはかなり長けた人間になれると思う。でも、学校には行っていないから学力は低いままとなってしまう。しかし、そういう人が悪いか?っていうと、そんなことはないはず。学力低下が起きていても、仮にそう実態があるならば、別に良いんじゃないか?と思うわけですよ。学力低下は何が悪いか?っていうと、学力が低いことだけを見ている気がするのです。学力という1つの基準のみに固執すると、それが高い、低いで優劣がはっきりするので、学力は低いことが問題だとされてしまうのです。

 

でも、学力が低くてもほかの分野で学力が高いことで勝てば良いんじゃないですか?って見方もできると思うんですよね。むしろ、そういう人を増やす政策をやるべきだと思うのです。みんなが学力を高めようとして、良い大学を目指して、良い会社を目指してなんて人生を送っていたら、ライバルが多すぎるんですよ。だから、そこから漏れる人が出てくる。それに、みんながみんなサラリーマンを目指せば、以前別の記事でも説明したけど、企業にとっては選べる人が多くいるから、条件を下げやすくなり、働く人たちの待遇は下がる。だから、サラリーマンになる人が減ることは、良いことでもあると思うんですよね。さっき挙げた学力は低いが経営の才能があるような人を起業家にしていければ、その人は学力が低いことが何の問題にもならないし、起業家が増えれば、サラリーマンが減るし、起業する人たちによって会社が増えて、労働市場の需給のバランスが、労働者側に有利になっていく。Win-Winな関係になりやすいのです。だから、ある意味学力が低い人が生まれるのは悪くないと思う。勉強以外で活躍する人を育てるには、他が勉強をしている間に別の何かをしていないといけないと思うのです。つまり、学力をある程度捨てないといけない。学校にも通いながら別の才能を育てられる人もいるが、そういう人だけに絞ると現状のようになり、起業家はあまり出てこない。リスクのある生き方かもしれないが、学力を高めようとする生き方も十分リスクはあると思うのです。

 

だから、そういう人を増やす環境を作るためには、学力が低いことの何が問題?と開き直れる社会が必要だと思う。学力低下の実態はすでに存在するようだが、問題は彼らが単に学力が低いだけというところにある。つまり、学力が低いとされている子たちは勉強をしてしまっているわけです。勉強をしていて学力が低いってことは、時間を勉強に対して大きく割いているのに花開いていない(今のところはね)ということなのです。それってホリエモンも似たようなことを言っていたんだけど、勉強に向いていない人が含まれている可能性が大いにあるわけだ。実は向いていないんだけど、みんなやっているし、やらないといけないものと子供自身や親が思い込んでいて、不向きなことに時間を費やしていて、結果が出ないみたいなことが普通にいろいろな家庭で起きているのではないか?と思います。人間はどうしても向き不向きが絶対にあるのだから、勉強に向いていない人が出るのはしょうがないと思います。こういった状況を打開するには、それぞれの家庭が考え方を変えるとかいうのは無理です。意識がそうはならない。だから、社会が変わらないと厳しいと思う。

 

勉強をすることや学校に通うことは、みんながみんなやることではなくて、向いている人だけやりましょうよと。習い事の1つみたいな感じで、水泳をやる子もいれば、そろばんを習う子もいるし、スポーツチームに入る子もいるしという感じで、その中の1つの選択肢として学校に通う子がいるような状態で良いと思うんですけどね。学校という存在が悪いというつもりはないが、学校はみんなが通って当たり前という風潮が、なんか非効率な状態を作り出している気がするのです。学校に通う子が減れば学力低下は益々進むだろうが、学力は低くても違った形で社会に貢献できる人が増えるんじゃないか?と思いますよ。学力低下の実態はすでに存在していると言われるが、それを悪いと捉える風潮があると、社会全体の非効率を進めそうな気がします。学力低下が起きて何が問題か?というと、いろいろな反論があると思うんですけど、それは別の記事で回答したいと思います。学力低下は社会全体から見ると問題という風潮になりがちだが、一人一人の個人の目線から見ると、学力低下が必ずしも問題とは言えない部分があると思うのです。学力低下は何が悪いのか?について、1から討論するような機会があっても面白いのかもしれないですね。学校に行かない子や学力が低い子が増えた方が、実は社会全体にとってプラスになることもあるではないか?と思います。

 

 

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頭のいい人の特徴や共通点、考え方などを考えること自体が頭がいい人がすることではない?

「頭が良い人ってどんな人」か?って考える時ときがあるような気がします。例えば、頭の良い人の特徴って何?とか、そういったことを考える瞬間があるのではないでしょうか?そういったことを考えてみたことが私にもある。芸能人で、この人って頭良いよねみたいな記述を見ることがあるのだが、特定の人に関して、私はその人をむしろ頭が悪い人だと思ったことがある。しかし、それは当然なのだ。人は人のどこを見るか?によって、印象が違うわけで、見る場所によって頭がよく思えたり、悪く思えたりすることがあるのです。だから、1人の人間について、頭が良いのか?悪いのか?を論じること自体、頭が悪い人がやることなのかもしれないです。1人の人間について、頭が良いと感じる部分、頭が悪いと感じる部分の両方があって当然だと思うのです。それに頭のいい人の特徴や共通点といったときに、どういう基準でそれを選ぶのか?というのは、その人の主観でしかないから、頭が良いか?どうかを議論することで、何らかの1つの答えが出るわけではない。

 

単にその答えに共感できるか?どうかの違いでしかない。しかし、私はこのブログで何度も出しているが、西村博之氏は非常に頭が良いと私は感じている。私がなぜ彼を頭が良いと感じているか?というと、ちゃんと物事を論理的に考えて発言できるからだ。これができない大人は非常に多い。感情論しか言わない人間はとても多いと感じるからこそ、彼もたまに結構アバウトなことを言うんだけど、割合としてみれば少ないし、論理的に筋を通して発言しようとする姿勢が見えて、頭が良いっていうか、個人的に彼の意見は同調する、しないにかかわらず、聞いていて気持ちが良い。例えば、彼は以前、死刑囚の麻原彰晃氏のことを天才だと発言したことがあるし、彼のような天才は死刑に処さないで、サンプルとして研究対象にした方が良いと発言したことがあります。なぜ彼が麻原氏を天才だと評したのか?というと、あれだけ多くの信者を集めて洗脳することができたから。としているのだが、確かに一般的な価値観で信者(賛同者)で多く集めるのは簡単かもしれないが、麻原氏の場合は一般的な価値観から言えば相容れないような、真逆の価値観であれだけの信者を獲得したのだから、並大抵の人間ではできない。

 

そういった部分を含めて、西村氏は彼を天才と評し、そういう天才は殺してしまうのではなく、研究対象として残しておいた方が良いのではないか?と発言したのだと思う。一般的な感覚からいうと、この西村氏の発言は大いに非難を浴びるだろう。しかし、彼の言っていることは私は賛同するか?どうかはともかく、言っていることの筋は通っていると感じる。少なくとも感情論ではない。そうした方が日本にとってメリットが大きいと感じるからこそ、彼はそういう発言をしたのだ。しかし、当然ながら彼の発言は賛同を得づらいだろう。少なくとも、麻原氏を特別扱いし、死刑に処さないことは法律に違反するのではないか?ということ。だから、現実的にやろうとしてもできない可能性が高いわけだ。でも、反対する余地があるとしたら、そこくらいだと思うのですよ。三審制の日本の司法制度では、上告したうえで死刑が確定した場合には、それ以上の審理は原則としてできない。だから、麻原氏は死刑執行されるしかないというのが、現状のところになる。だから、無理なんだという意見は論理的に導き出された意見であり、全然理解できる範囲だろう。

 

しかし、恐らく西村氏の意見に賛同しない人の反論意見はそういうものではないだろう。実際、反論意見の一部を見たことがあるが、死刑囚を生かしておくとは何事だ!?みたいな、ああ、やっぱりwみたいな意見もあったし、こういう発言をする人がいると、やっぱり西村氏みたいな頭の人が際立つよねって話になる。頭のいいひとの特徴とか、共通点というのは単なる意見の1つでしかない。しかし、その意見の1つとして言わせてもらえれば、私が考える頭のいい人というのは、論理的に矛盾なく、根拠を持たせて意見を組み立てられる人だと思っています。それに当てはまるのが、ぱっと思いつく限りだと西村博之氏だということになる。彼に討論で勝てる人間はそうはいない。

 

彼は話し方とかを見ても頭のいい人だなーという雰囲を個人的に感じている。上手く説明できないけど、就活の面接とかで彼のような話し方ができれば受かる可能性はかなり高いのではないか?と思います。頭のいい人の考え方ができると論破されることがまずない。意見を通しやすくなるし、ビジネスの場でも説得力が増す話し方ができて、活躍する機会が増えるのではないか?と思う。頭のいい人の考え方というのは、訓練しないとできないものだと思う。本能的に考え方というのは勝手に脳で行われていて、感情的になるか?論理的になるか?が決まると思うんですよね。いい人の特徴や共通点というのは、人それぞれ違うものだろうし、違って良いものだと思う。頭のいい人の話し方や考え方というのも単なる1つの価値観だろうが、少なくともこういった答えのない問いに対して意見ではなく、正解だと思って1つの回答を導き出す人がいるかもしれないけど、それは少なくとも間違っていると思う。

 

 

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フライドポテトを学生気分と否定する上司のコミュニケーション能力と思考力は問題だろう

スレ主は上司から、「研修後に配属先の部署が決まり、GW後に飲みに連れて行く」と言われていた。本心では乗り気ではなかったが、これも付き合いだと割り切って参加した。

タイトルには飲み会とあるが、実際は上司と2人だけだったようだ。ここでフライドポテトを頼んだところ、上司から「いつまで学生気分なんだ」とキレられ、刺身の盛り合わせや漬物を注文させられたという。

スレ主は心境をこう綴った。

「俺が食いたいポテト、ピザ等は食えなかった」

「なんか上司の武勇伝とかそんな話ばっかでクソつまんなかった。家帰ってゲームやってた方が100倍マシだったよ」

スレ主の体験に対しては、「話聞いてるだけでめんどくせえ」など、同情が集まった。

「フライドポテトで切れるとか意味わからんな」

「たかだか居酒屋かなんかの飲み物食い物でキレる奴って頭の回路腐ってんだろうなぁ……」

(中略)

一方で、キレる上司は悪いとしつつも、「一応念のためにポテトにします、とか言うべきだったのでは……?」など、スレ主の対応への批判も出ている。

飲み会ではたまに「無礼講」と言われることがある。だがそれは「好き勝手してもいい」ということではなく、肩肘張らずに和やかに飲みましょう、くらいの意味である。

スレ主に対して、 「社長室でくつろぎなさいで靴下脱がんだろ?いちいち子供のように指図してくれってのは、まさに学生気分なのよ」 と諭す人もいた。また、大人数の酒席であればいいが、上司と2人だけの席のため余計にまずかったのでは、という指摘もある。

 

これは昨日ネットで話題になった、上司フライドポテト事件「上司との飲みでフライドポテトを注文したら「いつまで学生気分なんだ」と怒られた 一体何がいけなかった? | キャリコネニュース」に関する引用だが、本当にこの上司は勘弁してくれよというのが個人的感想だ。何を勘弁してほしいか?というと、人に学生気分と言っておきながら、この上司の思考力はどうなっているんだ!?と。そもそもフライドポテトを社会人が注文すること=学生気分=NG行為って誰が決めたの?どこに書いてあるの?これ自体が、この上司が勝手に作った理屈であり、そもそもフライドポテトを社会人が注文する=学生気分という前提は、上司の勝手な感想であり、正しいことではないんですよね。つまり、前提条件が正しいわけではないので、それ以降の主張は全く正しくならないのだ。学生気分だという根拠がどこにもなくて、上司が勝手に学生気分だと思っているというだけの話である。ただの感想を前提にされて、フライドポテトの注文を否定するのは、意味が分からない。否定する理由になってないのだ。この上司の思考力は、他人を否定できるものではないと思うけどねー。

 

まだ「オレはフライドポテトを注文するような人間は嫌いなんだ」という理由で否定された方がマシですよ。これもただの感想に過ぎないけど、これは、これ以上に詳しく説明のしようがない。嫌いなものは嫌いなんだからということでしかない。しかし、学生気分だから。を理由にすると、なぜフライドポテトを社会人が食べると学生気分と言えるのか?そもそも学生気分の何がいけないのか?までちゃんと説明してもらわないと筋が通らない。嫌いなものは嫌いだ。だから、ダメなんだという理由ならば、個人的には合点がいくが、学生気分だからダメなんだと言われても全く納得がいかないというか、なぜダメなのか?が全く伝わらない。この上司は学生気分を悪い意味でしか捉えていなくて、そこで思考停止していると思われるが、学生気分って言葉は否定の材料にはならないだろう。そもそも学生気分という言葉はあまりにも曖昧すぎる。学生気分って具体的に何なのか?私にはよく分からない。刺身や漬物が学生気分じゃなくて、フライドポテトが学生気分だと断言できる根拠を是非教えてほしい。

 

そして、そもそも注文しないでほしいメニューがあるならば、「好きなものを注文しろ」なんて言うべきではない。この上司はコミュニケーション能力においても難点があるだろう。部下の方も空気が読めなかったという評価はできなくはないかもしれないが、そもそも注文してほしくない料理があるのに、それを事前に伝えないで、何でも注文をしろと部下に伝えるメリットは一体何なんだ?どこにメリットがあるんだ?私に言わせれば、この上司は逆切れでしかない。何で伝えたいことの真意をあえて隠すのか?全く理解ができない。「子供のように指図してもらうことは学生気分」とか、ワケのわからないことを書いている人もいるようだが、指摘をしてもらう状況があってはダメならば、指摘をしてもらわないと適切に部下が判断できないかもしれない状況をあえて招いた(招かない選択肢もとれたのに)上司の側はどうなるんだ?この部下が子供なら、その上司はどうなる?適切に伝えてさえいればそれで済んだのに、勘違いを起こすかもしれない状況をあえて招く側の意図は何なんだ?そこに何の意味がある?どんな必要性があるのか?

 

そもそもこの人も上司と同じタイプの人間で、子供のように指図してもらわないといけない人は学生気分だという根拠がまるでない。なぜそういう状況が学生気分と言えるのか?そして、学生気分の何がダメなのか?指図をしてもらわないと判断ができないことをダメと言っているようだが、指図をしてもらわないと分からないことって世の中に山ほどあると思うんだけど、その状況の中で指図をしない方が悪いと言えない根拠はどこにあるんだろう?そういった部分の理由が全く書かれていないので、この意見はただの感想ということになる。私に言わせれば、この上司とこの意見を言っている2人の思考力は、もはや学生気分どころじゃないだろう・・・と思いますけどね。だって、ただの感想ならば小学生でも言えますからね?大人ならば、もっと論理的に根拠を持たせてて意見を言ってもらいたいです。この人は、この上司と思考のタイプが全く同じと言えるし、だからこそ上司を擁護しているのだろうという見方もできるだろうけど。指図をしておけば、何の問題も起きなかったのに、そんな状況を未然に防ぐことができたのに、それをあえて惹起させておいた側を全く責めない姿勢の方がよっぽど私は問題だと思いますけどね。そして、「社長室でくつろいでと言われたら靴下(ry」という部分に関して言及しておくと、考え方がおかしい。社長室で靴下を脱いだらいけないみたいに思っているかもしれないが、それもこの人の感想になっていまう。社長室で靴下を脱いではいけないという前提条件が違う。社長室で靴下を脱いでくつろいじゃいけない理由がどこにある?別にそういう態度をとったっていいんですよ。社長に嫌われたくないと思うならば、そういう態度はとらない方が良いというだけであって、別に社長室で靴下を脱いじゃいけない理由は存在しない。

 

だから、この部下も上司に気に入られたいならば、今後は媚び諂って刺身や漬物を頼めば良いというだけの話なんですよ。つまり、社長室の例はフライドポテトを上司の前で頼んではいけないことの根拠や例示にはならないんだよ。そういう態度をとった方が上司との関係においては賢明ですよ。ということの根拠にはなったとしても、上司の目の前でフライドポテトを頼んではいけない理由の根拠にはなっていない。社長室で靴下を脱いだら捕まるわけじゃないですからね?社長室では靴下を脱ぐべきではないという感想を持っている人がいるというだけの話であって、それは=正解ではなくて、1つの意見ですから。そこを勘違いしている人がいるのも、なんだかなー。という感じです。だから、いけないことか?どうかも分からないことを勝手にいけないことだと思い込んでいるのです。社長室で靴下を脱いでくつろいではいけない理由も、上司の目の前でフライドポテトを頼んではいけない理由も、学生気分という曖昧な、何とでもとれるような否定の仕方しかできないわけですから、根拠はほぼない。で、それの何がいけないの?と問われて、感想以外の反論が返ってくるとは思えない。個人の感想でしかないものを、まるで客観的事実のように否定しようとするタイプの人間は、実は多くいると思うが、この2人はまさにそのタイプだと思いますね。

 

クラッシャー上司 平気で部下を追い詰める人たち (PHP新書)

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食品ロスは何が問題?なぜ増える?その原因と減らすには取り組みとして何をすべきなのか?

「食品ロス」という言葉が最近よくニュースで聞かれる気がする。しかし、その議論の中心は廃棄されるものや食べ残しを減らそうとする動きであって、そもそも食品ロスの何が問題?という部分は全く議論されない。食品ロスを減らすには?どういった取り組みをすればいいのか?という議論がほとんどです。食品ロスがなぜ増えるのか?という議論があるのだから、多くの人にとっては食品ロスはいけないことであり、議論なんてするまでもないという思考になっている可能性もある。本当に食品ロスは何が問題なんだろうか?今回はその根本から考えていきたい。ここで取り上げる食品ロスは、主に廃棄と食べ残しの2つであるが、この2つのうち食べ残しに関しては、私は問題がないと思っている。というのも、ケースにもよるけど食べ残しというのは、イメージで問題にされている面が大きい気がします。たとえば、ご飯を食べていて、3分の1くらいを残したところでおなか一杯になってきた。でも、残したらもったいないということで食べる人がいますね。しかし、このおなか一杯の人が無理やり食べた残り3分の1のご飯というのは一体の何の役割を果たしているでしょうか?何の効果があるでしょうか?そこが問題なのです。

 

私たちって、胃の中に収めればもったいなくないが、ゴミ箱に捨てられたらもったいないという、すごい極端な二分の価値観があると思うんですけど、これは正しくないと思うんですよね。もうおなか一杯の状態で、無理に食品を口に入れるということは、この人はこの時点では食事は欲していないわけです。つまり、食事を欲していない人が食事を摂ったわけですよね。これってもったいなくないですか?つまり、国が金持ちだけに現金を配るみたいな、十分お金を持っている人が国からお金をまた与えられるという、よくわからない政策をやっている状態なのです。お腹いっぱいの人がご飯をあえて食べるというのは、お金持ちの人に国がお金を配る状態とあまり変わらない気がします。おなか一杯の人が時間が経過して、またおなかが空いてきたというときに、さっき残しておいた3分の1のご飯を食べたならば、この人は食事を欲している状態で、食事をしたので意味があると言えると思うのです。それは先ほどの例でいえば、貧困家庭にお金を配ることになるので、まだ意味があると言えると思うのです。だから、残した食事というのはとりあえず口に入れれば良いとか、もったいなくないとか、そうではないと思うんですよ。問題は、その食事が私たちに何の効果をもたらしたか?役割を果たしてくれたか?だと思うのです。おなか一杯の人が食べ残しをしないために、無理に口に入れたところで、苦痛を味わっているだけであって、食事が果たす意味ってものすごく小さい気がするのです。

 

だから、先ほど言ったみたいにおなかがすでに一杯で食べ残しをしそうという状況ならば、おなかが空くまで待てばいいとなると思うんですけど、そのときには廃棄の問題が出てくるわけです。つまり、おなかが一杯なので、ある食事量を食べ残し、それを別の機会にとっておくとなると、次の食事をするタイミングでは、作る量は少なくて済みます。さっき食べ残した分があるから。そうなると、例えばファミレスでのケースを話すと、Aさんが昼食時にB店でCというメニューを注文し、食べていたがおなか一杯になってしまい、食べ切れなかった。しかし、夕食の時間まで経過したら、食べられるようになってそれを店内で食べて帰りました。家に帰ったAさんが予定した食事よりも少ない料理を作り、それを食べてもうおなか一杯です。という状態になりますけど、こういうケースがあると、Aさんは当初予定していた夕食の食材のうち、一部を使わなくて済むので、万々歳!と思うかもしれないけど、こういうケースがあると、賞味期限が切れてしまって、明日まで持たないから捨てるしかないという状態が生まれる可能性があるのです。つまり、食べ残しを減らそうとする動きは、廃棄を生む可能性があるということになります。お腹がいっぱいの状態で無理に食べ残しをしないために口に入れる行為も、お腹が空くまで待ってから食べ残しを再度食べるという行為も、結局そんなに意味がある行為ではない可能性もあるのです。

 

食べ残しをするタイミングを完全に予測できれば、使われなかった食材が廃棄される可能性を見越して、少な目に材料を買っておこうか?とかできますけど、食べ残しを完全に予測できないというのが問題だと思うのです。だから、食べ残しが一定の確率で発生するし、食べ残しを防ごうとして時間を空けて食べた結果、使われなかった食材が廃棄されるといったことが起きてしまうのではないでしょうか?だから、食品ロスの何が問題か?っていうと、食品がロスされること以前に、私たちの食べ方の問題があると思うのです。食べ方というか、食事の作り方ですか。食品ロスはなぜ起こるのか?原因は何か?っていうときには、結局まとめて作るのが問題なんです。かなり極端な例を挙げると、ご飯を炊くときに茶碗一杯になるように計算して炊くと全部食べ切れなくて、食べ残しになる可能性は上がります。しかし、ご飯粒を1つずつ炊いて食べれば、お腹いっぱいのところでストップすればいいので、食べ残しは100%生まれないしょう。つまり、食品ロスを減らすにはこういった取り組みをすれば、簡単に根絶できますよ。でも、こんなことやらないでしょう?あまりにも面倒すぎるからです。

 

ファミレスが食材などをまとめて仕入れるのも同じ理由で、お客さんがどれだけくるか?その料理がどれだけ注文されるか?を完全に読めないからですよね。お客さんから注文が入って、そのメニューに必要な材料をそのときに初めて取り寄せて、それから作り始めるなんてやり方をすれば、ファミレスでも食品ロスは廃棄においてはなくなりますよ。でも、むちゃくちゃ時間がかかるからやってられない。だから、多めに仕入れて、廃棄が出てもしょうがないという体制をとっているわけなんですよね。つまり、食品ロスは私たちの利便性という部分と密接に関係していると思うののです。だから、食品ロスを減らすにはその利便性を一部捨てないといけない可能性もあります。食品ロスがなぜ増えるか?の原因は、私たちが利便性を追い求めているからという部分もあると思いますよ。仮に自給自足の生活を国民全員がするようになれば、食品ロスはだいぶ減ると思いますが、そんな全員が農民みたいな状況は受け入れられないでしょうから、食品ロスはどうあがいても根絶は無理ですよ。無理というのもあるし、そもそも現在行われている取り組みに関しては、先ほど言ったように、必ずしも意味がある取り組みか?どうかは分からないと思います。

 

そして、食品ロスはそもそも何が問題か?について議論したいと思います。食品ロスって問題なんですか?食品が仮に石油みたいに埋蔵量に限界があるものならば、確かに食べられない捨てられてしまうのはもったいない気がしますが、食べ物ってそういう性質ではないと思うのです。いくらでも作り出せる性質だと思うんですよね。たとえば、水がそうでしょう。水は今後なくなるものですか?といったら、まずなくならないでしょう。水がなくなるときというのは想像できないと思います。実際に100%とは言わないが、99.9%以上の確率でなくならないでしょう。天候によっては水不足くらいは起きるかもしれないですけど、それも一時的な問題であって、未来永劫にわたって水がなくなるというのはまず考えられない。食べ物が今後なくなりづらいということを考えると食品ロスがどこまで問題か?ていうのは個人的にはよく分からないんですよね。震災とかで特定の地域に食べ物が不足するみたいなことが実際にあったので、まったく問題ないとは言わないが、でもそれが問題ってことになると、私たちの普段の生活ってすごい食べ物をもったいなく消費してません?私たちって食事をするときにはおなか一杯まで食べるじゃないですか?そういう人が多いと思うんです。でも、そんなことをする必要ってあります?生命を維持するのに必要な量を摂ったら、後は食べる必要性は本当はないんです。でも、おなか一杯まで食べるのは、満足度を高めるためでしょう。つまり、その満足度を高めるための部分の食事って本来そんなに必要じゃないんですよね。それをしなくても生きていけますから。

 

つまり、食べ物が不足するかもしれないのだから、食べ物を廃棄したり、食べ残しをしたりするのはもったいないという意見が仮に正しいとすると、おなか一杯まで食べるという行為もあえてする必要性がないのだから、じゃあ食べ物が不足するときに備えてとっておくとかした方がいいのでは?と思うんですよ。だから、保存が利くものだけを生産して、それ以外は生産しないとか、そういった体制にすれば、最低限のものを食べて、残ったものはいざというときのためにとっておくみたいなことってできますよね。食品ロスが問題と言える余地があるとすれば、先ほど言ったように食べ物が不足するようなケースがあるから。くらいしか、私は思いつかないんですけど、おなか一杯まで食べるという行為は本来そんなに必要ではない量の食べ物を摂っているという見方もできると思うので、食べ物が不足するような状況を食品ロスの問題点として捉えるならば、私たちの当たり前の食事の摂り方も問題だと思うんですよね。

 

この思想というのも、さっき言ったような、胃の中に入れてしまえばもったいなくないという価値観から生まれていると思うんでうよね。つまり、胃の中に入っているのだから、おなか一杯まで食べる行為はもったいなくないんだ。という理屈なのではないでしょうか?でも、食べものが全然ない国の人たちから見たら、おなか一杯まで食べる光景はもったいなく映るでしょう。彼らは食べ物を食べるときには、おなか一杯まで食べるなんて行為は絶対にしないはず。次はいつ食べ物が手に入るのか?分からないのだから、できるだけとっておくと思いますよ。私に言わせれば、食品ロスの何が問題?というのは、かなり限られたシーンでのみだと思うんですけど、それが問題となるならば、そもそも私たちの普段の食事の摂り方も問題じゃないか?と思うんですよ。おなか一杯まで食べるというのは、満足感を与えているのだから、食事がちゃんと役割を果たしているという意味では、意味がある行為と評価できなくはない。でも、満足感が理由になってしまうと、食品ロスがなぜ増えるのか?の原因を探ったときにも、結局満足感が起因していると思うのです。先ほど言ったように、手間がかからないことと引き換えに廃棄とかは起きているわけですから、手間がかからないことは満足感の一種なので、じゃあおなか一杯まで食べることがOKなのに、食品ロスはなぜ問題になるのか?がよく分からないのです。結局のところ、利便性や手間がかからないという満足感を捨てるということをしないと、食品ロスは解決しないでしょう。その勇気が国民にあるか?が議論の焦点じゃないですか?

 

フードバンクという挑戦――貧困と飽食のあいだで (岩波現代文庫)
 

 

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金持ちになるには、お金持ちになる方法は他人やお金に稼いでもらうという発想が必要

お金持ちになりたいならば、自分で働いてはいけない。というのが私の考えです。自分で働くってことは、資本が自分になってしまいます。自分という存在は動ける範囲、使える時間、持っている知識や経験などに限界があります。したがって、稼げる金額はたかが知れているとなる気がするのです。お金持ちになりたいならば、自分以外のものに働いてもらう必要があります。自分以外のものって何か?っていうと、1つは他人です。会社の経営者は最たる例で、彼らは従業員という他人を使って、自分1人では生み出せない利益を出しているケースが多くあるでしょう。アフィリエイトとかもそうかな?あとはお金に働いてもらうという考えもあります。お金に働いてもらう最たる例としては、投資があるでしょうか?投資に手を出すのは・・・と考えている人も多いでしょう。でも、お金に働いてもらうということは、恐らく1番やりやすいと言えるのではないか?と思います。

 

お金持ちになる方法を探している人はこの2つのうちのどちらかを実践するか?両方兼ね備えたものを実践すると良いでしょう。お金持ちになるにはとにかく自分が働いてはいけないのです。以前、ホリエモンが「自動車を現金で買う奴は馬鹿」ということを言ったことがあるようです。ネットで検索すると見つかります。え?なんで?ローンを組むより、それを買うことができる現金があるなら、ローンじゃなくて現金で買った方が得じゃない?と多くは思うでしょう。私も最初はそう思った。しかし。この発言を聞いて10秒経ったくらいで、ホリエモンの言わんとしていることが分かったのです。彼の真意は私の予想通りだったが、彼によると自動車のローンの金利は今すごい安いと。その状況で現金で買うのではなくて、ローンで自動車を買い、持っている現金を投資に回せということなのです。これはさっき出した「他人に稼いでもらう」と「お金に稼いでもらう」という2つを兼ね備えた例に近いかもしれない。ローンっていうのは、自分のお金ではないのです。借金をするということだから、他人のお金を一時的に使わせてもらうという解釈になります。つまり、自動車を買うならばローンで買うということは、他人のお金で手に入れられて、かつ自分のお金を投資に回せるということで、ホリエモンの言っていることは非常に合理的なのです。

 

しかし、この意見に関しては、理屈は分かるが、その投資に回した方で絶対に成功できるとは限らないということを言う人もいます。一般的にはこの意見は正しいものと扱われる気がします。しかし、その一般的な意見を言っている人たちの多くは、恐らく投資をやっていないと思う。これはアフィリエイトとかにも言えるんだけど、やっていない人ほど、「どうせうまくいかない」ということを言うような傾向がある気がするんですよね。でも、やってみたら案外こんなものか。と思うこともあるんじゃないか?って思うのです。私も投資はそんなに積極的にはやっていないので、偉そうなことは言えないが、世の中には100%ではないが、限りなくそれに近い形で成功すると思える投資があると思う。私はそれにちょっと手を出している。別に情報商材を売るつもりではないので安心して聞いてほしいが、私がやっている投資の手法は、そもそもライバルがほとんどいないので、結構楽にやっている面もあるが、今の世の中で存在している投資の中で言うと、不動産投資は成功確率は相当高い方になると思います。失敗する可能性は0ではないが、稀な方なんじゃないかと。あくまでも成功法則に裏付けされたやり方を実践したらの話ですが。でも、不動産投資ってみんなやらないじゃないですか?それは大金を使うためにリスクが怖いっていうのもあれば、不動産投資を始めるだけの資金がないから。って事情もあるかもしれない。

 

でも、少なくとも資金の問題に関しては、金利が安いので意外と簡単に借りられるケースが多い。普通のサラリーマンが1億円くらい投資用物件の購入費用として借りているという例もあるし、意外と借りられるものなんです。で、不動産投資は利回りが非常に高い、5~10%くらいは平均してありそうな気がする。不動産投資はまさに他人のお金を使った稼ぐケースなんですよ。本来なら持っていない自分のお金以外のお金を使って稼ぐ。しかも、自分が直接動く必要はあまりなく、借り手が勝手に収入を発生させてくれるので、不労所得に近い。まさにお金持ちになるには?の条件をかなり満たした方法なんです。不動産投資は場合によっては自分が不動産に住むことを考えると、意外とリスクが小さいんですよね。あとは信頼のおける不動産会社の人に仲介に入ってもらって、物件の選び方などをレクチャーしてもらえれば成功確率はどんどん上がると思う。リスクが0ではないので、絶対にやるべきなんて言い方はしないが、不動産投資をやっている人間とやらない人間の資産格差っていうのは、これからは出てきそうな気がします。

 

実際、フジテレビのバイキングという番組で、不動産投資で成功した人が出演していて、その成功への道のりというか、具体的な戦略を解説していたことがあるのだが、その話を聞いていた番組出演者のの坂上忍氏は「理屈では分かるけど、その勇気を持てるか?だよね!」と唸っていた。彼曰く、不動産投資で成功していた人の話は、理屈のうえでは成功できる確率がかなり高いと感じたが、そんなことよりもそんな大金を投資に回せる勇気を持てるのが1番すごいと感じたというのだ。実際、億単位のお金を動かすことにもなることあるし、そんな勇気を簡単に持てるか?というと難しいかもしれない。でも、この話って別の見方をすると、その勇気さえ持てればほぼ成功するってこと?みたいな話にも聞こえてくる。私は不動産投資に関してはそこまで詳しいわけではないので、説得力のある話はできないし、別に不動産投資を勧めるつもりもない。やるときは是非自己責任でやってもらいたいが、不動産投資を極めた人間からすると、失敗するという考えはほとんどんかったような言い方に、私は感じられた。成功者からすると、何でみんなやらないの?くらいに思っているのかもしれないです。投資をやっている人とやっていない人の温度差の問題っていうのは1つあると思うんですよ。

 

つまり、ホリエモンの意見に対して、簡単に成功する投資があるならみんなやっているよ。絶対にリスクが大きいでしょう。という意見は一般論としてはあるが、その一般論が確実に正しいか?どうかは別だと思うんですよね。アフィリエイトとかだって、やってない人が大半だと思うが、やってもどうせ稼げないということを思っている人は結構いると思いますし、私はその見方はあまり正しくないと、自分で実践して思いました。やってみると成功する人って結構いると思うし、やらないともったいないくらいに私は思っているんですけど。ホリエモンの言っていることが100%正しいとは言うつもりはないが、でも多くの人は先入観で可能性をすごい狭めているっていうのはあると思うんですよね。やれば成功する人は結構いるのに、みんなやらない。お金持ちになりたいと思うならば、常識を捨てるって大事じゃないですか?常識的に働いていたら、会社に雇用されて働くという形になると思うし、その働き方を続けていてもお金持ちになりたいという夢が叶いそうにないというのは、多くが感じていることだと思うんですよ。ってことは、お金持ちになるには?働き方から常識を捨てないといけない。そのうえでお金の稼ぎ方に関して、いろいろな常識や先入観を取っ払ってやる必要があるのではないでしょうか?常識の通りに動くってことは、みんなと同じやり方をすることになってしまうので、それだとライバルが無茶苦茶多いってことですから、条件的に厳しいのです。

 

お金持ちになる方法というのが確実にあるなら、みんなやっているという常識はみんな持っている。その中で、実際にその方法とやらを信じて行動する人はある意味非常識というか、少数派だと思うんですよ。彼らの全員が成功しているとは言わないが、成功している人の多くは彼らのような人と違う行動をする人間、非常識な人間なのです。私も非常に非常識な方法で投資をやっているが、非常識な方法だけにライバルが全然いない。だから、今のところ成功している。お金持ちになるにはすでに説明したように、自分が働いてはいけない(他人やお金に働いてもらう)ということ、そして常識にとらわれないことという2つの発想が必要だと思います。それを突き詰めていけば、いずれお金持ちになれるかもしれないのです。

 

改訂版 金持ち父さん 貧乏父さん:アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学 (単行本)

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