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ノーベル賞を受賞することの何がすごいのか?を説明できる人って多分いない

以前、イチロー氏が国民栄誉賞を15年ぶり3度目の辞退をして話題になったが、当然だろうね。あんなもん貰って何が嬉しいって言うのよ?(笑)それとほぼ同じような話になるが、ノーベル賞って何がすごいんでしょう?っていう質問をしたら、何て答えるのか?私はすごい気になっていて、以前この質問をしたことがあるのです。ちょうどいい機会があって、「国公立大学が私立大学よりも優れているところって何?」みたいな話をしていたときに、たまたまノーベル賞受賞者の数を国公立大学の優越する部分として挙げている人がいたから、私はその人に「ノーベル賞って、何がすごいの?w」と質問をしてみたのですよ。そしたら、明らかにうろたえている感じがしました。まさかこんなことを聞かれるとは思わなかったのでしょう。ちょっと時間を空けて「世界中にノーベル賞をすごいと思っている人がたくさんいるからなんだよ」と答えた。すると、私は「じゃあ、その世界中の彼らはなぜノーベル賞をすごいと思っているんですか?w」とさらに質問をしたら、今度はダメだったね。回答が来ませんでした。こんなもんだと思いますよ。冷静になればわかると思いますが、ノーベル賞っていうのは、この賞それ自体に価値はありません。これはノーベル賞だけではなく、国民栄誉賞芥川賞とか、賞とされるものは全部そうだし、世界遺産などの記号として扱えるものは全て同様の性質を持っています。賞ってのは記号ですから、価値の有無には関係ないのですよ。

 

何でも良いけど、例えばプロ野球でシーズン200本安打を打った人に赤いTシャツがプレゼントされるとします。この場合、200本安打が研究成果とか、ノーベル賞が与えられる成果物であり、赤いTシャツがノーベル賞それ自体に当たりますが、今回の例でいうと、赤いTシャツは200本安打を打った証としての記号なんです。要するに、プロ野球ファンは赤いTシャツをもらったことにすげー!ってならないわけでしょ?あるときからシーズンで安打を10本しか打たなかった人にも赤いTシャツを送ることになりましたとなって、10本しか打たなかった人が赤いTシャツを貰って、すげー!って思えないのだとしたら、それは赤いTシャツに何の価値もないってことなんです。すごいって思う対象は200本安打を打ったことでしょう?そういうことなんです。だって、赤いTシャツなんてユニクロで買えますから。そんなに欲しいならすぐに手に入りますよ。記号に価値があるのではなく、記号を与えられた対象物に価値があるのです。赤いTシャツも、ノーベル賞も、それを与えられたからすごいのではなく、その成果物が存在している時点ですごいと言えるのです。ノーベル賞が授与されて、その成果物の中身には何の変化もないわけでしょ?変化がないならば、ノーベル賞それ自体には価値は0なのよ。

 

ノーベル賞を凄いと感じている人が世界中にいるというのは私もそのように感じる。しかし、彼らはノーベル賞それ自体に価値を見出したうえですごいと感じているのか?と言えば、そうではない。言ってしまえば、何も考えていないのだ。すごい賞という雰囲気にのまれて、思考停止に陥っている。つまり、無意識のうちにすごい賞なんだと思っている民衆は大量にいるが、彼らはなぜそれがすごいと言えるんだろう?なんて考えないわけですよ。つまり、本来はすごいと言える理由があるからすごいと言えるはずなのだが、彼らにはこのすごいという理由がないのに、すごいと感じているという、本来ならばありえないプロセスが生じているということです。すごいと言える理由がないのに、すごいと感じている人っていうのは、論理的に考えるというよりは、感性で動く人間という言い方もできるだろうが、根拠がないのに、物事を断定するようなタイプの人に近い。個人的には問題だと思っている。ノーベル賞があんなに騒がれるのは、ある団体がそもそも原因になっているのです。それがマスコミです。

 

マスコミが報道するから騒ぎになるのです。逆に言えば、マスコミが毎年のノーベル賞受賞者の方法を一切やめたら、世間の9割9分はノーベル賞に対して何の関心も持たないと思うのですよ。たまたまつけたテレビでやっていた、たまたまネットニュースで、新聞で見たとか、そういう理由で受賞者のこととか、ノーベル賞の存在それ自体を知る人が多いと思うのだが、結局冒頭で言っていた「世界中すごいと思っている人が多いから」って理由も、結局はマスコミが報道してくれるから起きることであり、ノーベル賞の力ではないということが分かる。例えば、去年か、おととしか忘れたけど、お正月にやっている芸能人格付けチェックという番組で、出演者の1人であるYOSHIKIさんが結果発表までに、待機部屋に用意された大量のお菓子を食べているシーンが映し出されていて、視聴者の多くがそのお菓子が気になったようで、番組終了後からそのお菓子が大量に購入されたみたいなニュースがあったんですよ。何でこのお菓子は大量に売れたのか?そのお菓子に価値があったからですか?注文時点では価値の有無なんか判断のしようがないですよね。だって、視聴者は食べたことがないんだもん。それにそのお菓子はその時点で初めて知ったと思います。しかも、YOSHIKIさんは「お腹が空いていたから食べた」と後に語っており、すごい美味しかったと感じていたか?は不明です。つまり、注文した人は有名人が美味しそうに食べている映像を見て、それで自分も食べたくなったというのが正直なところだと思うのだが、これって美味しいことが確定したわけでもないのに、大量に売れたわけだから、価値の有無で判断したのではなく、マスコミが特定のお菓子を美味しそうに映し出した、その映像を全国の人が観た結果、多くの人が食べたくなった。ただ、それだけだと思うのですよ。CMと一緒なのよね。

 

実際、映し出されたお菓子が別のものであっても、恐らく同じように大量に注文されたでしょうし。視聴者にとってはそれが何か?は関係なく、注目してしまうものであればなんでも良かったのでしょう。そして、大量の人が購入したからといって、それで価値が高くなるわけじゃない。だって、そもそも価値が高いとされているものの中には高級品もあるし、そういうものは大量に注文されませんから。一部の人しか買えませんよ。だから、多くの人がすごいと思ってくれたとしても、だから何?としか言いようがないのです。話は戻るけど、普通に考えたらノーベル賞を受賞しても、何の変化もないわけじゃないですか?そして、これは西村博之氏が言っていたことなんだけど、承認欲求を持っている人を疑問視して、「周りに認められたい、評価されたい人っているけど、認められたり、評価されても自分自身に何の変化もないじゃん?(笑)」っていうことを言っていたのですよ。評価された結果、昇進して給料が上がるとか、具体的なメリットのある変化が訪れる場合はともかくとしても、そうじゃない単に褒められることとか、共感されることとか、何の意味があるの?(笑)みたいな感じで言っていたことがあるのです。

 

ノーベル賞もそれを受賞しても研究成果とかの中身に特に変化はないですよね?強いて挙げるならば、それによって特定の研修者、研究内容などの成果が世界中に知れ渡るということがあるから、それが嬉しい!とか、自分が有名人になって喜ばしい!というのは理解できる。しかし、それはすでに話したように、マスコミの力です。ノーベル賞の力ではないのです。ノーベル賞を受賞していないが、人類にとってメリットのある研究成果などをノーベル賞のときと同様に、大々的に報道すれば、ある程度は注目されると思いますよ。つまり、マスコミのさじ加減が重要なのです。受賞の有無は一切関係ないのです。その変化を生じさせない賞になぜ価値を見出すのでしょうか?ノーベル賞の権威はマスコミが存在しなければ、0に近いです。マスコミがこの世に存在しなければ、ノーベル賞という存在を知らない人が世の中に大量にいたはずですからね。

 

結局、周りの人間によって価値が決まるわけであり、ノーベル賞それ自体の価値があるか?と言われれば、価値は特にないです。競馬のドバイワールドカップとかは顕著だけど、昔と比べると価値が落ちてきているって言われているのですが、それはアメリカの強い馬が出てこなくなってきたから。とされている。つまり、これは非常に分かりやすい例だけど、参加する側の状況が価値を決めているってことです。レースそれ自体ではなく。日本のジャパンカップや香港の国際招待競走なども同様で、昔は海外の強い馬がたくさんきていたが、最近はいずれも地元の馬が強くなりすぎて、勝てなくなったために海外の強い馬が遠征しなくなってきた。よって、これらのレースも価値は下がってきたと言われているが、魅力がレースそれ自体ではなく、参加する側のさじ加減で決まっていることが分かります。で、強い馬が出なくなってきたから、つまらないと感じ、観ている方も熱狂しづらくなり、注目度も下がる。世の中の「価値」ってほとんどがそうだと思います。

 

競馬のレースは賞金が出るから、それを魅力に感じている人も多い。特にドバイは賞金が高いことでも有名だ。しかし、それは賞金に価値があるのであって、もはやレースそれ自体ではないってこと。賞金が10分の1でも出てくれるんですか?と言えば、出るわけがない。ってことは、関係者にとっての価値は、この場合は賞金であって、レースそれ自体じゃないってことが分かりますね。価値は賞金の多寡であるということ。競馬の場合には、他にも世界的に強い馬に勝つことで馬の価値が高まるような雰囲気があるが、強い馬がたくさん出るようなレースは実際価値があるという風にされている。ただ、強い馬が何でそのレースを目指すの?と言えば、他にも強い馬が出てくるから。そして、そういう他の強い馬を出す厩舎や馬主サイドの考えも、他にも強い馬が出てくるから。もはやそんな理由です。つまり、意識しているのは自分たち以外の出走馬であり、レースそれ自体じゃないのです。凱旋門賞に大した馬が出なくなったら、日本からの出走もほぼなくなるでしょうね。つまり、強い馬が集まるレースに価値があるとしても、それは強い馬が集まる状況に価値があるのであって、レースは何だって良いわけですよ。凱旋門賞だろうが、キングジョージだろうが、ブリーダーズカップだろうが、ドバイ、香港、オーストラリア、日本のレースだって良い。強い馬が集まるならば、どこの国のどのレースだって多くが注目するんですよ。レースそれ自体に価値があるって言うならば、大物が出走しなくなっても、大物が出ていた頃と同じ威厳を保たないといけないが、それは無理でしょう?ドバイ、香港、ジャパンカップは顕著な例ですね。注目度なんて絶対に下がります。つまり、競馬の場合、価値はレースに存在するのではなく、賞金とか出走馬のレベルにあるのです。

 

話は大分逸れてしまったが、ノーベル賞に価値があるということが事実だとしたら、それはノーベル賞を授与したという事実のみで今と同じように喜べる人がいた場合の話です。競馬で言えば、レースそれ自体に価値があると言えるのは、出走馬がろくでもない馬しか出なくて、賞金が0円でも、そのレースに馬を出したいと思える場合だけです。ノーベル賞の場合には具体的に言うと、富や名声は一切発生しない状況ということです。マスコミも報道しないし、その人がノーベル賞を授与された事実を誰も知らないし、お金も商品も何も貰えないし、単に事務局や代表者から口頭で「あなたに授与しました」という一言があるだけ。授与されたことを証明するものもない(証明するものがあったとしても、その事実を誰も知らない状況じゃないといけないので、誰かに見せてはいけないのだから、あっても意味がない)のです。ノーベル賞そのものに価値があると言えるならば、この状況で今と同じように喜べる人だけですが、ほぼいないと思います。富はお金の力だし、名声はマスコミの力なので、いずれもノーベル賞の力ではありません。それらを全て除外して、喜べる人だけが真にノーベル賞に価値があると言える人だと思います。でも、そんな人はまず存在しないと思うので、これがノーベル賞それ自体に何の価値もないことを証明する良い例えだと思います。つまり「授与した」という一言がある以外は、何の変化もない状態です。ノーベル賞が授与されたという事実のみの価値を測るには、こういう状況じゃないといけないので、実現のしようがないと思うが、そういったことが私の言いたいことです。

 

ノーベル賞受賞者が教えるノーベル賞をとる方法

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東京喰種の考察をして、この世に正義と悪が共存する状況はありえないと悟った

正義と悪という概念は、非常に都合のいい概念として存在する。自分たちにとって脅威なものは悪であり、自分たちは正義である。そう信じて疑わない、思考停止になっている人は遍く存在するはずだ。正義と悪とは何ぞや?みたいに考察する人間はそうはいませんけどね。しかし、自分たちにとって脅威という部分は、世間の大多数が悪だと考えている側にも当然あてはまる。世間は悪と考える側を排除しようとするわけで、それは世間一般で悪とされている側から見れば、間違いなく自分たちにとっての脅威であり、彼らから見れば、同じ理屈を使って、世間は悪になる。基本的に世間が使う正義と悪の理屈は、全く同じものを使えば対照的な存在にも同じように当てはめることができるわけだから、この時点で正義と悪はこの共存しないことが分かるだろう。正義と悪という概念は、都合のいい状況を作るための社会の多数派による詭弁でしかないということ言える。今回紹介する作品には「この世の不利益はすべて当人の能力不足」というセリフが出てきますが、世間の都合のいい詭弁として、現実でも使われてますよね。でも、都合が悪いときには自分の能力不足ではなく、他人のせいにするのが世間なんですが。

 

・喰種が悪ならば人間も悪である

世間が自分たちを正義と言うならば、もはや殺人者も正義にできるし、殺人者を悪だとするならば、私たちも悪だろう。殺人は落ち度かもしれないが、じゃあ殺人に至った人間の側からすれば、世間に落ち度がなかったとは一切思わないだろうね。殺人に追い込んだ側の落ち度は一切非難されないという不可思議な状況がある。実際、自殺に追い込むようなことがあれば、その原因を作った人はバッシングを受ける。ならば、殺人の原因を作った、追い込んだ側も同時にバッシングを受けるような悪でなければいけない。実際、誰かが犯した殺人は、一部の人間や社会全体が追い込んだ結果というのはよくある話だろうね。社会の仕組みが違えば殺人を犯す必要なかったと言えるならば、間違いなくある殺人は「社会が原因」になっている。そんな部分を哲学的に考えさせるきっかけとなったのが、「東京喰種」という作品だ。東京喰種では、「 この世の不利益はすべて当人の能力不足」というセリフもそうだが、「この世界は間違っている」という、絶望と怒りが混じったセリフも非常に印象的なのです。ここでは東京喰種という作品について考察をしていきたい。

 

窪田正孝『東京喰種』は世界を痛烈に風刺する “社会派映画”としての側面を読む|Real Sound|リアルサウンド 映画部」には以下のことが書かれている。

 

>人間(CCG)と喰種の争いを通じて、「善悪や正義とは何か」という疑問が浮かび上がった。喰種から見れば、人間が牛や豚を殺すように、自分たちも生きるために人間を殺すのは当然の摂理だ。しかし、人間からすれば、そんな喰種は殺人鬼も同然で、駆逐すべき対象となる。どちらの言い分も正しいといえば正しい。「戦争は正義と悪の戦いではなく、正義と正義の戦いだ」という言葉を思い出す。『東京喰種』では、人間と喰種がまさにそれぞれの正義をかけて争っているのだ。

 

>「この世界では我々こそが正義で、我々こそが倫理」、「この世界は間違ってる、歪めてるのは貴様ら(喰種)だ」と主張する人間。それに対して、「生きたいって思って何が悪い」、「あなた方が正しいとも僕には思えない」と反論する喰種。「なぜ世界から戦争がなくならないか」という問題について、作者がキャラクターを通して論じているように思えてならなかった。ただ世界平和を唱えるだけでは、この世から争いはなくならない。

 

この作品はグロい場面とかもあって、そういう作品という印象もあるかもしれないが、非常に考察のしがいがある。見ていて面白い。東京喰種という作品は面白いという表現もできるが、哲学的な作品なんです。私の東京喰種に対する感想としては、面白いというのもあるが、自分を含めた世界の人間の思考の浅さに気づかされる。「東京喰種(トーキョーグール)」という作品を知らない人に簡単に説明しておくと、東京喰種では、「喰種(グール)」という、人間とはちょっと違う存在が出てくる。ただ、この喰種は見た目は完全に人間であり、人間社会に一応溶け込んでいるように見せている。人間と喰種の違いは何か?と言えば、喰種は身体的能力が極度に高く、普通に戦ったら一般人は勝てない。そして、人間が通常食べる食事は基本的に受け付けないということ。喰種が食べるのは人間(喰種も含む)だけである。つまり、喰種は人間を殺さないと生きてはいけない。一部で自殺した人間を食べている喰種もいるし、喰種を食べるケースもあるのだが。

 

つまり、生きていくことが是だとすれば、喰種が人間を殺すのは不可抗力であることになる。ここが東京喰種の考察における重要なキーになるのだ。そして、喰種が生きることを是とするならば、その不可抗力も容認し、喰種が人間を殺すのは是にならないといけない。しかし、人間からすれば喰種によって殺されることを肯定できるわけがない。したがって、社会は喰種を排除しようと、殲滅しようとしているのだ。どちらの言い分もそうだろうなというしかない。哲学的な考察になってしまいますね。どちらも自分たちが生きるために当然の行為をしているまでだ。第3者の視点から、人間VS喰種を見ると、どちらも間違っているようには見えない。というのも、どちらも同じ理屈(自分たちが生きるために最善のことをしているだけ)を使っているわけだから。人間を食べないと生きていけないから人間を殺す喰種と、喰種に殺されないために喰種を排除しようとする人間、どちらも同じ目的に沿って行為をしているようにしか見えない。

 

・同じことをしていながら自分たちを悪人とは認めない連中

しかし、現実では一方の正義が絶対に正しいと主張してやまない輩が大量に存在する。この東京喰種の中に出てくる一般市民や警察(喰種捜査官を作中ではCCGと呼ぶ)も同じだろうが、このアニメを見ていると、どうも喰種側に感情が寄り添ってしまう。それは主人公やその周辺の人間の多くが喰種だから。喰種視点で描かれているがゆえに、肩入れしてしまう。続編にあたる東京喰種reでは、CCG側の視点で描かれるが、それでも最終的には主人公の喰種捜査官が喰種側につくことになるので、やっぱり世間一般では悪とされるような存在に主眼が置かれており、彼らなりの正義が描かれている。つまり、このアニメを見たときの私の率直な感想としては、人間を殺そうとする喰種の排除をしようとしている人間が悪に見えてくるのだ。どちらかというと、私は東京喰種reの方が面白いかな?と思いました。喰種にも家族がいるケースもあり、その家族の仲を引き裂こうとする形で警察が喰種を殺しにかかる。人殺しをやっつけようとする側が完全に悪にしか見えなかった。というのが、東京喰種を読み終わった後の素直な感想だ。正義や悪という概念なんて考えるだけむなしい。善悪を求めて自分に何の意味があるのだろうか?とも思った。だから、喰種が正義であるとも言い切れないし、どっちが正義で、どっちが悪かなんて考えるだけ時間の無駄とも思いました。

 

正義や悪を一方的に決めつける人間、現実で言えば殺人犯はたいてい悪人扱いされるが、そういう見方をすると様な人間が、私から見れば悪人です。善悪という概念をあえて使うのであれば。一方的に決めつけていいとは私は思わないが、世間がそういう理屈を使うのであれば、彼らと同じ理屈を使って私は彼らを悪人扱いするでしょう。殺人の有無や犯罪の有無で善人、悪人を決めつけるならば、自分たちの都合のいい観点からしか人を評価しないということだ。つまり、彼らの理屈を使えば、世の中のほとんどの人間は社会から洗脳されている悪人だということになる。東京喰種の考察としては、ここに尽きる。最も害悪な存在なのは、正義や悪を一方の視点からしか見られない存在である。そういう存在がこの東京喰種を面白い作品にしているのかもしれんけどね。フィクションだから、そういう存在がいても良いのだが、現実にいると困るわけだ。特定の人間を悪人だとののしるような人間が実際いるわけですが、社会のせいで悪人と言われるような行為をせざるを得ないのに、別の言い方をすれば自分を悪人と言うような人間が原因で、自分が悪人になっているのに、自分たちに罵詈雑言を浴びせるような連中は、やっぱり真の悪人だとされる方が、私からすればしっくりくる。

 

「自分たちは悪であるが、生きるために悪になるのはしょうがない(または相手側は正義だが、それを潰す側も正義である)」と認めれば、相手側の気持ちはまだ全然違うんだろうねと思えてくるのよ。つまり、不都合を強いられている相手側にとっての憎悪心のようなものが生まれづらくなるってこと。都合のいい社会を作っている側が自分たちを悪だと仮に認めたら、社会に恨みを持つ人間は絶対に減ると思う。つまり、犯罪も減る。しかし、自分たちが同じことをしているという認識がないのが、東京喰種に出てくる人間側だろうか?喰種側は少なくとも人間が自分たちを排除しようとする姿勢そのものは理解しているだろう。それは仕方ないことだと。しかし、それが仕方ないならば喰種がやっていることだって仕方ないはずなのだが、そうとは絶対に認めないのが人間だ。そういう人間は現実にも大量に存在する。喰種を悪としか見なさない強固な姿勢が、傍から見れば非常に愚かに見えてくる。一言で言えば、頭の悪い正義感丸出しってところだろう。

 

喰種が人間を食うのは殺人だが、人間が喰種を排除するのは殺人とは扱わないだろうからね。東京喰種の考察をしてみると、やっぱりそこに行き着く。都合のいいときだけ正義と悪という概念を使う存在に気付くのだ。世界から戦争が消えない理由、平和が訪れない理由がよく分かりますな。既得権益を持っている側が、社会で蹂躙されている側から恨みを持たれる。これが平和が乱れる原因の1つであるが、彼らは譲歩しようとしない。むしろ罵倒し、押さえつけるだけ。だから、余計に恨みを買い、争いがどんどんエスカレートする。例を出すならば、就活生は内定が欲しいから通常は企業に対して譲歩します。面接を受ける日程を企業に合わせて、会場に関してもわざわざオフィスまで向かうなど。内定が欲しいならそれはやって当然なんだろうが、内定が欲しいのに、自分の都合のいい日を指定したり、面接は俺の家でやるから、そっちが来い!とか言っていたら内定は取れないのだが、平和を願う人間がやっているのはまさにそれ。平和を乱す側に譲歩をしない限り、平和が訪れることは100パーない。それをやっても無理だとは思うが、それをやらない限りはさらに不可能である。平和が構築されるメカニズムを知らない、自分たちに危害を加えようとする人間のことを理解しようとしない姿勢ってのが、愚かな群衆の心理における真理だと思うのです。東京喰種を読むと、そういう感想が自然と浮かんできますね。

 

この国では後先考えないで首相や一部の国民がテロリストや犯罪者を挑発する行為に出るわけですからね。日本の危機がもたらされる確率をわざわざ高めている。私から見れば、こういう人たちは完全にテロリストや犯罪者と同一視しています。完全に社会の害悪なんです。平和を望んでおきながら、稚拙な想像力しか持たない、感情で本能的に行動するせいで、平和なんてずっとやってこない(笑)平和を望みながら、平和がどのようにして実現されるのか?その仕組みを一切理解していない。そして、世の中で危害を加える人間は常にいるが、そういう人間だって、世間から危害を加えられているという被害者意識は絶対にあるだろう。喰種のようにね。例えば、この世には法律がある。法律というのは特定の行動などを制限するための存在であり、国や多数の民衆にとって有利な内容である場合が多い。

 

ってことは、少数派の人たちにとっては不都合な内容になる場合もあるってことだ。これが何を意味するか?それは特定の少数の人間は、その法律によって常に蹂躙されている場合が多々あるってこと。法律によって恩恵を受けている人間もいれば、不利益な取り扱いをされる人もいる。つまり、法律が世の中に存在し、それを擁護している人間というのは、ある特定の人間にとってみれば、完全なる敵であり、自分をこんな目に遭わせていると感じさせる張本人にしか見えないわけだよ。法律というのも、結局は特定の層にとって都合のいい環境を実現するために、特定の層に不利益を与え続ける装置だから。だから、私は第3者視点で見ると、法律を破る人間と法律を制定する人間、擁護する人間は同じことをしているようにしか見えないのです。

 

・自己責任の定義も恣意的で都合よく決められてしまう

つまり、東京喰種での「この世の不利益はすべて当人の能力不足」というセリフは、半分は当たっているかもしれないが真理ではないとなる。なぜならば、能力がもっと高ければ不遇な目に遭うことはなかった。と言える余地は残るだろうが、それは社会が自分にとって都合のいい仕組みであれば、というのも同じである。社会は常に一定のルールで運営されているので、それがたまたま自分にとって不利な状況であったがためにこのような不遇になっているならば、それはどう考えても社会のせいでもあるだろうね。社会のせいにすると怒る人もいるけど、たいてい社会のせいにする人間性を批判するだけで、社会のせいにすることがおかしい理由を説明できる人間を見たことがない。原因が明らかにあるわけだから。

 

それに自己責任論を突き詰めれば、飛行機に乗って、その飛行機が航空会社側(パイロットや整備士など)のミスで墜落し、乗客が死亡しても乗客の自己責任にはできますよ。だって、人間が絶対にミスをしないことなんて約束できないのだから、確率は無茶苦茶低いかもしれないけど、飛行機が事故に遭う可能性はあるわけでしょ?それを認識したうえで乗ったんでしょ?飛行機に乗らなければ、飛行機事故の巻き込まれて死ぬ可能性は0だったんですよ?その可能性をわずかでも増やしたのは、あなたの(飛行機に乗るという)意思でしょ?ほら、完全に自己責任(乗客にも事故に遭ったことの原因が存在する)ですわな。でも、こういうことを言っても世間は共感してくれないのですよ。それは自己責任になるか?ならないか?の境界線というものは、世間の都合のいいように恣意的に決められるから。自己責任って言い方をされると自分が無能だと認識することになるから、そうならないように自分の日頃の行為が自己責任には該当しないように恣意的に境界線を決めるのです。

 

自分が共感するものとそうじゃないもので、自己責任として扱うのが適当か?どうかを決める。都合のいい線引きが行われる。そこに論理的な思考は存在しない。すべて感情論です。超絶自己中ってことですね。飛行機事故の例では、間違いなく乗客の意思が原因になっているわけだから、あなたのせいと言える余地はあるわけだ。航空会社側にも責任があるというだけ。航空会社がミスをしなければ、原因を作らなければと思う人もいるだろうが、それを言ったら社会の仕組みそのものに同じ不満を感じている人もいますよ。社会の仕組みが原因で俺はこんな目に遭っているんだ・・・と思っている人は絶対にいるよ。でも、そういう不満を封じ込めようとするのが都合のいいようにふるまう世間の多数派であり、善人ぶる連中だからね。この「この世の不利益はすべて当人の能力不足」のセリフに共感している人もいるみたいだが、彼らはこの超絶自己中な存在である可能性が非常に高い。

 

世間は社会のせいにする人間を基本的に嫌うだろうし、バッシングの対象だろうが、要はそういう人間を叩く側に回れている原因として、社会の仕組みが彼らに有利に働いている部分があるから。というのは否めない。社会のルールというものが全ての人間に平等に、全く同じように作用するなんてことがありえない以上は、社会のルールこそが、いわゆる勝ち組、負け組を決める大きな要素になっているのだから、 「この世の不利益はすべて当人の能力不足」とは言い切れない。仮に言い切るならば、過労死が自己責任っていうのも当然認めるべきなのだ。そういう社会が共感しない事柄は自己責任として扱わない姿勢でいつつ、そう言い切ろうとする人間がいれば、それはまさに都合のいいことしか言わない卑怯者としての存在なのだ。彼らは感情論でしか物事の善悪を考えられない、能力不足な人たちだから。だから、卑怯者になり果てる。卑怯者と言われてしまうのは、当人の能力不足なので、彼らの理屈を使えばこれも自己責任ですね。

 

・特定の人間を不遇に追い込んでおいて「自分たちは悪くない」の姿勢を貫く

ちょっと話は変わるけど、というか元に戻るけど、殺人事件が起きると「何の罪もない人間が・・・」とか言われることもあるが、そんな人間はいない。それは社会が作った都合のいい法律を破っていないという意味で、つまり犯罪を犯していないという意味で言われることが多いのだろうが、被害に遭った人たちも、生きていれば多くは法律を擁護して過ごしている可能性が高かったと思う。そうなれば、特定の層を苦しめる存在になったはずだ。つまり、罪を犯しても、犯さなくても、人間は全員罪深い存在であることには変わりない。そんなことすらも分からないのか?と、こういう表現をする連中を見て、むしろそっちに憤りが私の場合は生まれる。誰かの利益を優先すれば、それによって不利益を被る人たちがほぼ確実に生まれる。それがトレードオフの概念であり、社会にはそういう仕組みが存在する。殺人が誰かを苦しめるから罪ならば、被害に遭った人たちもその罪に該当する生き方をする可能性は非常に高い。生きながら誰かを苦しめ、最悪の場合に死の原因を作る可能性も考えられる。私も当然法律を基本的に擁護しているので、私も当然罪深い人間です。誰かを苦しめる元凶になっていることは認めます。自分を善人だなんて、これぽっちも思えませんし、思いたくもない。私はそんな頭が悪い傲慢な人間ではない。

 

どっちも自分たちの都合のいい行為をしているだけ。罪が一切ない人間なんかこの世にはいませんよ。まあ、罪の定義を例のごとく、都合のいい線引きで決めるなら話は違いますが(笑)都合の悪い法律を破るのも、都合のいいように法律を制定し強制させるのも、どちらも目的は自分たちの利益を最優先しているという点である。しかし、世の中では、例えば殺人罪という刑法上の罰則を支持する人間が多いので、人殺しは叩かれるというだけ。でも、死刑は賛成する人間が多いんですよね。都合の悪い存在は排除して良いという思想から来ているのだろうが、私の感想としては、都合の悪い存在を都合のいい線引きで区別してるんだなと。数の暴力、分かりやすく言えば、単なるいじめとも言えるだろうね。人殺しはなぜ人殺しになったのか?そこに至るまでの原因を作った世の中の仕組みなどは一切批判されない。自殺に追い込む人間は叩かれるが、殺人に追い込んだ側の社会は、一切悪くない姿勢を貫くだけ。自殺に追い込んだ人間を叩いても、たいていは自分たちに不利益はないが、殺人に追い込んだ原因が社会にあると認めたら、自分たちが悪いことになるからね。幼稚な精神の持ち主が世の中には多くいるんですよ。喰種をせん滅するだけで、自らの正義の主張をやめない人間や警察のように。

 

このアニメはフィクションだから、そういう姿勢を崩さない人間どもが喰種にやられる場面が映っており、ざまあwwwと思えるような自業自得な面も存在する。ある意味、世の中で起きる凶悪事件というのも、そういう意味では都合の正義ばかりを貫く民衆に対する、ある種の反逆という見方もできるだろう。東京喰種の考察をこうやってしていると、やっぱり世間ってバカだなという感想しか出てこない。いかに愚かな民衆が大量にいるか?愕然とする、そんな感想が脳内を占めたのだ。民衆がそういう姿勢を貫き続けるならば、こういう事件は永遠になくならない。無敵の人みたいな層が生まれる原因を放置している限り、定期的に起きるだろうね。それも私から見れば自業自得にしか見えない。無敵の人を煽るような発言をする人がいるわけだから。そういう私から見れば頭がおかしい人がいる限り、こういう事件は絶対にまた起きると思うよ。無敵の人を放置しただけではなく、無敵の人を煽るような発言をする人を放置した結果ならば、それは完全に自業自得だね。こういったところを見ると、東京喰種という作品が評価が高い理由がなんとなく理解できます。現実に存在する問題に関して、相手方に対する理解を示そうとしない姿勢、これこそが数多くの事件の根底の原因になっている。民衆は自分たちの脅威となる存在を悪く言ったり、さらに不利益に扱うために制度を創設したり、変革したりするだけ。お互いが気持ちよく生活するためにはどうしたらいいんだろう?なんて発想はほとんどないだろう。

 

・平和が実現しない方がむしろこの世の中としては自然

東京喰種の作品内では、喰種が人間と打ち解けようとする姿勢は多分に見られる。普通に学校に通い、お店で働いている喰種がいるからだ。そして、自分の正体を明かさないで人間と付き合っていくのである(一部、正体を明かしたうえで上手く関係を築く者もいるが)。人間しか食べることができない喰種が、人間の食べ物を無理に食べるように(後で吐いている)して、人間であることを装いながら生きていくのだ。喰種にとって、目の前にいる人間は単なる食糧なのだが、それを食べないで、殺さないで付き合う姿勢が感じ取れる。自分たちを排除しようとしている人間を恨むのではなく、彼らとどうやって共存をしようか?そこをちゃんと考えているのだが、東京喰種の中に出てくる人間や警察、そして現実世界に存在する人間や警察は、やっぱりそういう姿勢はない。東京喰種reでは喰種側が喰種と人間が共存しあう社会を作る目的の組織を作り、強制的に人間らを話し合いの席に着かせようとする描写がある。駆逐するという発想しかないCCGとは違う。喰種は喰種同士絆を持ち合いながら仲間を守ろうと必死で行動し、CCGらを殺そうとすることもあるが、そこは人間と変わらない。世界中で人を殺しまくっているテロリストとかも同じなんだと思うよ。彼らなりの信念をもって、仲間を信頼し、自分たちが敵だと、悪だと認識している人間に立ち向かってるんだろうなと思えてならない。

 

冒頭でもあった、なぜ戦争がなくならないのか?についても、すでに話したように原因は同じ。それはお互いが譲歩しないからだ。戦争というのは話し合いが行われ、お互いが少しでも譲歩し合えば未然に防ぐことができる。しかし、お互いがそれぞれの利益のみを優先し、相手国に譲歩するという気持ちが一切ないから起きるのだ。現代で平和が実現しない理由と全く同じです。自分たちに有利なルールを適用されているのをいいことに、不遇を受けている人たちに譲歩する姿勢なんかないでしょ。多くの人は東京喰種にあるような「この世の不利益はすべて当人の能力不足」という気持ちなんですよ。太平洋戦争のドキュメント番組を視聴すると、当時の日本とアメリカの首脳はどっちも「ガキだなこいつらwww」としか思えないね。お互いにほとんど譲歩できない、わがままなガキみたいな大人ばっか。本当に無能ってのがよく分かる。戦勝国である連合国が敗戦国の日本を裁こうとする姿勢なんかまさにガキだよね。日本と同じことをしておきながら、自分たちは悪くないって姿勢ですからね。お前らも十分に悪人だろうと、勝てば官軍なんて発想は悪人が自分たちが悪ではないということを言うときの詭弁なんですよ。一般的な社会で平和が訪れない理由も、既得権益を持っている側が譲歩しないから。自分たちに有利な社会のまま、平和を望んでいる(不利な状況で生きて恨みを持っている人間に対して、反撃してくるなと言っている)わけだから、自分たちだけいい思いをし続けようとする姿勢なわけだから、恨む人間が出てくるのは当然だろうな。

 

大分話は逸れたけど、東京喰種の考察をきっかけにいろいろなことを考えると、結局、過去も現在も多くの人はまともな想像力が欠如している。平和のためにやっていることが結果的に挑発につながり、憎悪心を爆発させ、脅威が実際に牙をむく。その歴史は何度も繰り返されてきたはずだが、愚かな民衆や政治家は、その歴史を今後も繰り返すのだろう。喰種に殺され続ける人間のように、現実でも誰かに殺される人が後を絶たないのは、世間が、人間があまりにもバカすぎるから。という、想像力と学習能力の欠如が最大の原因なのです。そもそも私は平和な社会が正しいとは一切思えませんが。争いが起きる状況こそがむしろ自然だと思います。人類の歴史で争いがなかった瞬間なんかないでしょ?それを無理やり実現しようとしているわけだから、平和なんて状況はかなり不自然な状況なのです。それに社会の特定の層にとって恨まれることをしているのだから、恨む人間が出てきてしまい、結果的に社会を乱す行為が行われるのも容易に想像ができますから、自然な状況なのです。これは善悪ではなく、あくまでも客観的事実としてね。それに平和を守ろうとする側も、平和を乱そうとする側も自分たちの利益のためにやっているのだから、どっちが善で、どっちが悪であるとか、客観的に見たら決められません。

 

ちなみに東京喰種が気になる人は漫画とアニメを両方見た方が良いと思います。この作品の雰囲気を存分に味わうならば漫画だが、漫画だとちょっと話の流れが分かりづらいところが結構あると思いますから、それをアニメで補完すると、全体的なストーリーが理解しやすいと思うのです。この作品を見ると、ほとんどの人が単なる「人殺し」と社会から揶揄されそうな喰種側に寄り添ってしまうんじゃないですか?逆に言えば特定の人間に対する印象なんていうのは割と簡単に変わってしまうものであり、殺人犯などの犯罪者をたたいている連中の脳内の思考も割と簡単に変えてやることは可能なんだと思いますよ。すると、彼らも気づくでしょうね。私たちが自分の印象や社会からの洗脳でほぼ決めている正義と悪の概念なんて、とんでもなく脆く無意味な存在だということに。

 

 

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「すべての人類を破壊する。それらは再生できない」の感想やあらすじ、ネタバレなど

「すべての人類を破壊する。それらは再生できない」というマンガをご存じだろうか?面白いというよりは、あらすじを紹介すると分かりやすいけど、懐かしい感じがしてくる作品です。まだ巻数が浅いので、ネタバレってほどでもないのですが、ちょっと感想などを紹介したいと思います。タイトルだけ見ると、すごいおっかないなとか、ダークファンタジーなのかな?と思うかもしれないが、そんなことはない。このマンガは単なるラブコメです。主人公は中学2年生の男子で、その前に現れるライバルとなるヒロインの同じく女子中学生との青春マンガのような内容になっています。「すべての人類を破壊する。それらは再生できない」のネタバレをすると、このマンガの特徴は舞台が1998年だということ。翌年ノストラダムスの大予言により、地球が滅亡すると言われていた時代だ。この時代というのは、私にとって非常にどんぴしゃなんですよ。当時、私は小学4年生である。この1998年というのは、私にとって非常に印象深い。なぜか?というと、横浜ベイスターズが優勝、日本一になったからだ。当時野球にドハマりしていた私は、地元のベイスターズのファンであり、野球に超ハマっていた。そういったことが理由で、1998年ってのは、私の人生の中でも結構印象に残っている年なんです。

 

このマンガはその1998年の状況をかなり再現しており、当時やっていたアニメなんかもよく登場する。今ではマンガやアニメを割と観ている方の私だが、当時はアニメやマンガにハマっていた記憶はない。今みたいに大人向け、オタク向けアニメみたいなもの、いわゆる深夜アニメはなかったんじゃないか?と思うし、子供向けアニメもそんなに積極的に観ていた記憶もない。せいぜいポケモンやコナンくらいかな?と思う。私が深夜アニメにちょっとハマりだすのは中学生3年生頃ですから。ゲームに関しても人並み程度かな?ポケモンの黄色(ピカチュウVer)、ドラゴンクエストモンスターズテリーのワンダーランド)、あとはパワプロの当時発売していたのをやっていた記憶があります。でも、なんだか懐かしい気分にさせてくれる。このマンガのレビューをAmazonで観ると、すごい好評なんですよ。で、その理由も私と同じような感想を持っているみたい。「懐かしさ」を魅力としてつかみ取っている人が非常に多いように思うのです。この記事を書いている時点では、まだ1巻と2巻までしか出ていないが、多分私と同じくらいの年齢の人が読んでいる可能性も高いと思う。ノスタルジックな雰囲気を感じさせてくれる。この「すべての人類を破壊する。それらは再生できない」では、あらすじようなものはあまり存在しないね。ラブコメだから、リア充のスクールライフを描いているような状況であるが、特定のストーリーが存在しているという感じではない。だから、ネタバレもくそもないのだが、子供の頃を思い出して懐かしむにはちょうどいい作品です。

 

そして、今思えば私が最もリア充だったなと思うのは、やっぱりこの頃かな?と思う。人生の中で1番楽しかったのは別の時期だと思うけど、リア充か?否か?という視点でいえば、多分この頃のかな?人生で最もモテていた時期があるとすれば、この頃か、高校生のときだと思う。小学生の頃はモテていたというか、単純に女子と仲が良かったという感じで、なんだろう?学校の外で普通に遊ぶことが何度もあった。だから、モテていたとは違うかもしれないが、傍から見ればリア充っぽさはあったと思う。高校3年生のときには、勉強ができたことで若干モテていた感はある。私の出身高校は正直って偏差値は微妙なところで、50台前半か中盤くらいの私立高校です。だからっていうのもあるかもしれないが、私はその中で勉強ができた方でした。元々普通コースで入学して、2年生から特進コースに簡単に移ることができたくらいなので、学内では勉強ができた方だったのです。で、模試の結果とか、入試の過去問の結果とかが発表されたりして、私の名前が結構呼ばれるわけです。だから、クラスの中でも「勉強ができる」存在という認識はあったと思うし、私から見て、周りの反応はそんな感じに見えました。結果的にうちの高校からはトップクラスと言えるレベルの大学にも進学できたし、勉強が超絶嫌いな私でしたけど、勉強で若干リア充っぽさを体感していた時期でしたよ。あと、この頃は深夜アニメをよく観ていた時期で、そういう意味でも充実した毎日だったんだろうなと、今更ながら思います。

 

今、私は30歳を過ぎましたけど、学生時代と社会人はやっぱり世界が違います。学生時代モテるのは勉強ができるか、スポーツができる人で、大学生の場合には大学名が特に重要です。社会人になると、年収や勤務先などの部分がかなり重要です。私は自由業で、年収も全然高くない(というか、お金を稼ぐことに関心がない)ので、社会人としてのステータスはほとんどないでしょう。つまり、今の私はモテる要素がほぼない。でも、今の方がものすごい生活それ自体は楽なんですよ。だから、昔のことを思い出して懐かしいみたいな気分に浸れるんだろうなと思うのです。生活に余裕がある(この場合の余裕は金銭的な意味ではなく、時間的な余裕)からこそ、未だにアニメを観たり、マンガを読んだり、ゲームをしたりという、子供の頃と同じような生活をしているんだろうなと思います。周囲からすれば子供っぽいとか言われるかもしれないけど、子供っぽいことで楽しめるんだから、それでいいじゃん?悪い理由なんかあるの?と思ってますよ。この「すべての人類を破壊する。それらは再生できない」の感想としては、そこに登場するキャラがかつての自分たちのような感じで重なるのです。1998年だけじゃなくて、それ以降の部分も含めて、自分の過去というのは、今を生きる糧になっていると感じます。

 

この「すべての人類を破壊する。それらは再生できない」では、あらすじとはあまり関係ないけど、マジック・ザ・ギャザリングが登場します。このカードゲームを通して、主人公とヒロインがくっつくわけだが、唯一共感できない部分があるとすればここですね(笑)というのも、当時の私の周りでMTGをやっていた人間は1人もいなかったと思う。カードゲームと言えば、遊戯王しかありえないような雰囲気でした。翌年の1999年に遊戯王オフィシャルカードゲームが登場し、2000年くらいまで私は友達とハマってましたよ。そして、数年くらい前からまた収集を再開したのですが。当時からMTGというものがあったのは知っていたが、私の周りではやっている人は見たことがない。これは中学生になってからも同様で、大人のカードゲームっていう印象があったのです。実際、年齢層がどうなのか?は分からないけど、当時はポケモンカードをやっている人が一部いたくらいで、遊戯王カード以外のカードゲームは話題にすら出ない状況でした。ひっかかるのはそこくらいです。「すべての人類を破壊する。それらは再生できない」のあらすじのメインはラブコメなので、MTGが分からない人でも問題ないです。私も全く分かりませんから。「すべての人類を破壊する。それらは再生できない」の感想としては、面白い!というよりは懐かしい!という感じで、当時のことを思い出して、気分が高揚してくるような感じです。

 

 

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神戸女子大学と摂神追桃はどっちがレベル高い?頭いい?イメージや雰囲気の違いと就職などの比較

神戸女子大学と言えば関西では名門の女子大の1つになると思います。神戸女子大学に入りたいと思っている人もいると思いますけど、神戸女子大学のレベルはどれくらいなのか?というのは知っておくと良いのではないでしょうか?神戸女子大学は関西では知名度は高いと思いますけど、どれくらいのレベルなのか?頭いいのか?などは気になると思います。比較対象としては関西なので、産近甲龍(京都産業、近畿、甲南、龍谷)ですかね?関関同立のレベルには明らかに達していない気がします。したがって、神戸女子大学産近甲龍はどっちが上なのか?について考えてみたいと思います。神戸女子大学の正確なレベルを把握するためにそういったことを事前に知っておくと良いでしょう。神戸女子大学は難しい女子大に入るかもしれませんが、最高でも産近甲龍のレベルだと思うのです。

 

神戸女子大学産近甲龍はどっちが上か?

神戸女子大学は学部ごとにちょっと状況が異なっています。河合塾の偏差値を見ると、下は40.0、上は55.0くらいとなっています。したがって、相当差がありますけど、文系に関しては50.0くらいかな?と思います。すると、この数字は産近甲龍の下位レベルにギリギリ相当するかな?って感じです。そういった意味では、神戸女子大学は頭いいと言えるレベルか?は微妙かもしれませんけど、関西の女子大という括りでは上の方なので、神戸女子大学は頭いいというイメージはあるのではないか?と思います。産近甲龍も近年は難しくなってきているのです。合格者削減がかなり激しいので、倍率が上昇し、合格最低点も上がってきているので。十分に難関大学と言えるのではないか?というイメージもあります。したがって、神戸女子大学産近甲龍はどっちが上か?というと、産近甲龍になりますけど、割と近いかもしれないです。神戸女子大学産近甲龍の比較で言うと、どっちが人気なのか?は分からないですけど、間違いなく併願は多いと思います。甲南大学とかは雰囲気が近いと思うので、近畿大学はちょっと難しいのであれですけど、難易度としては甲南大学京都産業大学神戸大学に近いかな?と思います。だから、併願する人は多くいると思います。そして、特に甲南大学神戸女子大学の雰囲気に似ていると思うので、神戸にキャンパスがありますから、そういった意味でも人気でしょう。

 

神戸女子大学産近甲龍の比較ではイメージや雰囲気もしていきたいところですけど、まずはそういったところが異なっています。で、神戸女子大学摂神追桃(摂南、神戸学院追手門学院桃山学院)はどっちが上なのか?についてもついでなので見ておきましょう。摂神追桃の偏差値の平均は恐らく40弱~40台後半くらいまでです。したがって、神戸女子大学の偏差値とかぶるところもありますけど、全体で言えば神戸女子大学の方が上だと思います。神戸女子大学摂神追桃はどっちが上か?という点については、神戸女子大学の方がレベルは高いと言えると思います。関西の有名私大と比べてもそん色ないわけですから、神戸女子大学は頭いいと言えるのではないでしょうか?評価していいと思います。神戸女子大学産近甲龍の比較においては産近甲龍の方が上と言えると思いますけど、神戸女子大学摂神追桃では、神戸女子大学の方がレベルは高い状況です。女子学生はこういったところを併願するケースも多いと思いますけど、どういったレベルの違いがあるのか?はなんとなく把握しておくと良いです。そして、産近甲龍摂神追桃を併願するときには、両方のイメージや雰囲気なども知っておきたいところです。大きく違うのは女子大か?共学か?というところですけど、キャンパスの立地なども違いますから。キャンパスの立地については、大阪だったり、京都だったり、兵庫だったりとそれぞれで大きく違うので、そこでイメージや雰囲気の違いが生まれます。

 

神戸女子大学産近甲龍摂神追桃のイメージや雰囲気の違い

神戸女子大学は女子大なので、明らかに産近甲龍摂神追桃とは雰囲気は違いますし、イメージも異なっているでしょう。学生数の違いというのがまず大きいかもしれませんね。当然ながら、神戸女子大学の方が学生数は少ないです。逆に産近甲龍摂神追桃に関しては学生数はかなり多いので、より賑やかに感じられると思います。逆に神戸女子大学は落ち着いた雰囲気が特徴ということが言えます。女子大と共学の雰囲気は違いますから。そういったところは理解しておいてほしいです。神戸女子大学と違って、産近甲龍摂神追桃は大規模大学のところが多いですから、そこは重要ですし、あとはスポーツで活躍しているところが多いです。特に産近甲龍はスポーツで有名な大学が多いです。そういった特徴はやはり共学ならではです。神戸女子大学がスポーツで有名になることはあまりないと思いますが、そういうイメージを気にしない人が多いと思うので、神戸女子大学産近甲龍摂神追桃との比較ではどうでも良いという人もいそうですね。ただ、すでに話したように神戸女子大学は神戸にキャンパスがあって、それ以外は大阪や京都にキャンパスがあったりするので、どちらかというと都会的なのは大阪や京都かもしれません。

 

神戸女子大学のイメージや雰囲気としては神戸ということでオシャレなイメージがありますが、都会的なのは摂神追桃ということになると思います。ちなみに就職に関してはどうか?というと、それぞれ強みが違います。OBやOGが多いのは摂神追桃になりますし、知名度自体もこちらでしょう。ただ、女子大は就職サポートが相対的に手厚くなることが多いです。学生の数が少ないために、就職課の人間が使える1人あたりの時間が多くなり、結果的に面接対策などもしっかりと面倒を見てもらうことができます。また、女子大は一般職の求人が来るので、これが共学の大学との違いになります。したがって、女子大は結構就職に有利なのです。就職において、神戸女子大学摂神追桃はどっちがいいか?というのは難しいです。大学のレベルはそんなに変わりませんから、頭がいいと言えるか?は人によって違うものの、こういった部分で比較をしていくというのも重要でしょう。神戸女子大学のレベルは摂神追桃とはそこまで違いがないと思いますから、実際に大学を見学したりして、そのうえで決めると良いと思うのです。

 

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人類は遺伝子レベルで洗脳を受けており、生まれた時点ですでに不幸になっている

世の中には、社会には洗脳されるタイミングが存在するが、代表的なのはやはり学校でしょう。その前に親の教育を受けており、それも洗脳には違いないが、世の中で望ましい存在になるように、不都合な存在にならないように、親や教師から私たちは無意識のうちに洗脳を受け育っている。しかし、洗脳はもっと前の段階からすでに始まっている。これは洗脳とは言っているが、誰かが意図して洗脳をしているわけではない。洗脳する人間がいたわけではないが、気付いたら洗脳されている状態にあるのだ。私たちは実は生まれた時点ですでに洗脳されている。というか、遺伝子レベルで洗脳を受けた状態で生まれてきている。そういったことに私は割と最近気付いた。そこに気付くと、世の中のあらゆる場面で、非常に不可思議なことが起きていることを知る。

 

私が言っているこの場合の洗脳とは何か?というと、人類が代々受け継いできた共通の感覚というものだ。つまり、誰かが教えたわけではないのに、みんなが共通して持ってしまっている感覚がそれである。代表的なものでいえば「人を殺してはいけない」とかそういうものになるが、これは学校や親が全く教えないとまでは言えないだろう。しかし、例えば土下座をするのが恥ずかしいとか、苦痛であるという感覚はみんなが持っているであろう。私は持っていないのだが(笑)多くの人は土下座を強要されると、それをしたがらない。なぜだろう?土下座というのは3秒でできることだ。しかも、痛みがあるわけではなく、金銭的に損をするわけでもなく、何かが減るわけでもない。マイナスと言える要素がほぼないのに、多くが嫌がる。恥ずかしいという気持ちば芽生えるくらいだろうが、なぜ恥ずかしいと思ってしまうの?土下座は恥ずかしい、やりたくないという感覚になっているが、私はすぐにでもやるだろうね。それで物事が解決するなら安いものだと思うだろう。すでに話したように、土下座をすることのマイナス面って大してないんだけど、すごい辱めを受けるような感覚を持っている人が多いじゃないですか?これは何でそう思っちゃうのでしょう?

 

それは土下座は恥ずかしい行為であるという感覚を生まれながらに持ってしまったからだ。実際、土下座は恥ずかしいことだなんて習ったこともなければ、洗脳を直接受けた記憶もない。しかし、世の中ではみんながそう思っているし、これから生まれてくる人たちも同様だろう。これは人類が代々受け継いできてしまった共通感覚であり、本人の論理的思考の有無に関係なく、無意識に判断してしまっていることなのです。土下座をすることは自分のプライドに反することであるとか、相手の思惑通りに事が進んでそれが許せないとか、いろいろな気持ちが芽生えていると思うが、そんな要素を気にしないといけない理由を論理的に説明するのは無理だろう。多くがそう思っているから、人間が勝手にそういう風潮を作り、さらに多くがそれを信じ込んでしまっているのです。その仕組みに気付くと、土下座を嫌がる人も気持ちが全く理解できなくなる。お店とかでモンスタークレーマーと呼ばれている人が店員に土下座を強要したニュースとかあったけど、私ならすぐにでもやるでしょうね。恐らく目の前の人物はキョトンとしているだろうけど、3秒で解決じゃないですか?(笑)正論を突っぱねるのは1つの手段だけど、正論が通じる相手じゃない場合には、相手の気分を良くすることを1番に考えるべきだと思うよ。そんな客はめったにいないんだから、土下座した方が早いよ。

 

土下座を恥ずかしく思う気持ちというのは、単なる一例で、こういうケースというのはいくらでも見いだせる。人間が無意識のうちにみんなと同じ感覚になってしまっている状態で、かつ論理的思考とは無縁のところにある謎の感覚というのは結構ある。言葉では説明ができないような、謎の矛盾する行為というのは結構あるんだよ。例えば、街中で真冬に自分1人だけ半袖半ズボンで過ごさないといけないしたら恥ずかしい!って多くは感じるのではないだろうか?この場合、寒さに対する苦痛は度外視して、恥ずかしいという部分だけ取り扱う。それは仕事でもなく、何かの罰ゲームだとしよう。でも、なんでそれを恥ずかしいと思うのだろう?その理由をきちんと言語化できるだろうか?理由として考えられるとしたら、みんなと明らかに見た目が違うから。というのが1つあるだろう。多くがアウターなどの洋服を着ているのに、自分が真夏みたいな格好だから。みんなと違うことをしているから。というのがあるかもしれない。しかし、自分1人だけがその場で水を飲む行為をしたとしたら?それは同じように恥ずかしいの?というと、そうではないだろう。周りにいる人たちが誰1人何も飲んでいない状態で、自分がペットボトルの水を飲んだとしても、絶対に恥ずかしいなんてならないよね。ってことは、みんなと違うからっていうのは理由の根本じゃないんだよ。

 

それ以外で考えられる理由としては、自分が目立つのが嫌だからというのもあるかもしれない。確かに自分だけが真冬に半袖半ズボンだとしたら注目を絶対に浴びるし、目立つのはその通りだと思う。しかし、結婚式とかは普通に目立つ存在で、多くがその主役になっているし、そもそも芸能人やスポーツ選手、Youtuberなど目立つ有名人になりたいって願望を持っている人はたくさんいるわけですから、これも理由としては乏しいと思う。目立つこと自体は優越感も得られるからね。そうなると、答えは1つしかない。「周りがおかしいという認識を持つから」というのが最大の理由だろうと思う。公共の場で、真冬に半袖半ズボンでいるなんて頭おかしいんじゃないの?と、周りが思うということを容易に想像できてしまうから。というのが1番納得できる理由だと思います。しかし、じゃあなぜ周りの人間はそんなことを思うのか?ここまで考察してしまうと、答えは出ません。つまり、彼らは「非常識」を嫌っている、おかしいと思っているのです。多くが真冬の格好をしている場所でそんな寒そうな格好でいること自体が頭おかしいだろうと思っているわけです。じゃあ、非常識は何でいけないの?という疑問をぶつけるだけですがね。

 

そして、さらに別の例を挙げれば、お笑い芸人のバカリズムという人が、女性の胸を触るための方法論といった題材のネタを以前やっていたことがある。これは女性に対して胸を触らせてほしいと頼むが、断られてしまったため、論理的に「あなたが胸を触られることを嫌がる理由なんてない」ということを理詰めで説得しにかかるというネタなのだ。そして、女性は論破された状態になり、最終的に胸を触ることに成功するという結末なのだが、このネタを真面目に考察すると、女性が胸を触られるのを嫌がる客観的理由を、女性自身が説明することが非常に難しいという事実が判明してしまう。女性が胸を触られると苦痛を感じる感覚、それは生まれた時点でそうなっており、社会というものを知る段階で、いつの間にか自分の頭の中に一種の経験則のような形で存在しているのだが、それは社会の雰囲気からそう思い込んでいる状態であり、何かしら明確な不可欠な理由があって、そう思っているわけではないのです。

 

ずいぶん時間がかかったけど、ここからが本題です。私がこの記事で何を言いたいのか?といえば、人間はこういう生まれながらにして受けた洗脳によって勝手に不幸になってしまっているのです。バカリズムのネタを見るとわかりやすいと思うけど、実は嫌がる理由を自分で説明できないのだが、無意識のうちに不快になってしまっていることは結構あると思うのです。説明できないってことは、不快になることが当然であるという、その理由が客観的に存在しないということになってしまう。土下座の例でいえば、私が言ったように、土下座をする手間はほとんどかからないし、お金も損しないし、何かが減るわけでもないし、嫌がる理由がほとんど思いつかないんですよ。3秒で終わるじゃないですか?でも、土下座って基本的にみんな嫌がるじゃないですか?私はさっきも言ったけど、土下座なんていくらでもやってやるという人間なんで、土下座を嫌がる人の気持ちが理解できなくなってしまったんですよ。やればいいじゃん!3秒で終わるんだから(笑)とでも思ってるのです。土下座を不快に感じる人と何とも思わない人がいれば、絶対に後者の方が幸せなんです。不快に感じる瞬間が確実に減るわけですから。多くが不快に感じることを自分にとってそうは感じないという感覚は結構大切です。不快に感じることの多くは、不快に感じることが合理的とは言えない状況であり、むしろ損をしているのに、その状況に多くは疑問を持たないんですよ。

 

これは以前、西村博之氏が言っていたことだが、いわゆるブス専のような人は絶対に幸せであると断言していた。その理由はシンプルで、競争率が低いから。美人やイケメンと比べたら競争率が低くなるので、そういう人と付き合えたり、結婚できる確率は高くなる。しかし、なぜ多くの人は美人やイケメンがいいと思うのか?といえば、これも感覚の問題なので、論理的に説明はできない。人類が生まれながらにして持ってしまった共通感覚であり、ルックスのみで決めるとしたら美人やイケメンの方が望ましい思ってしまう感情は、生まれた時点で不幸になってしまっている1つの側面ともいえる。不細工でも問題ないと思える感覚は、珍しいかもしれないが、その人が幸せになるためには必要なことである。そこに気付くと、人類の常識、人類であれば多くが持っている共通の感覚というのは、自分が不幸になるための道具になってしまっているのです。「周りの目を気にしない」という言い方もできるが、無意識のうちに持ってしまっている感覚は、それが正しいと思っている人は多いとは思うものの、そんなものを持つ必要性は実はないんじゃないの?捨てられた方が幸せなんじゃないの?と私は思っているのです。私は昼間から外に出歩いているので、傍から見れば「あの人ニートじゃないの?」と思われている可能性もある。しかし、そう思われようが私はどうでもいい。というのも、私は「ニートと思われることで不快になる客観的理由なんかない」と確信しているから。

 

疑う力 「常識」の99%はウソである

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「数学できない人は頭悪い」←この考えを持つ人が頭が悪いのだと思う

「数学ができない人は頭が悪い」という記述を、ネットで見ることは多い。そういう風に考えている人は多分結構いるんだと思う。しかし、彼らに「頭が悪いって、どういう状態?」、「頭が悪い、悪くないの基準はどうやって決まるの?」と聞いたら、まともな返答は期待できないだろう。数学への信仰心というか、執着心が厚い人ほど、私は頭が悪いんじゃないか?と、最近感じ始めているのです。かといって数学ができない人が頭いいとも思えないけど。そういう部分は前から感じ始めていたのだが、最近それを確信に導く出来事がいくつかあったのです。1つは有名国立大学卒を名乗る人と話をする機会があったのだが、その人は有名国立大学を受験しているので、数学をちゃんと勉強したのだろうし、かなり高いレベルの大学に受かるほどなのだからしっかりとものにしたんだと思うのだ。で、その人は数学ができない文系の人を否定する発言をしていたので、その人にコメントをしてみたのだ。その人は数学ができない人を否定する際に「文系の受験生は数学から逃げている」という表現を使ったのだけど、この表現を聞いた瞬間、私は「多分、この人すげー頭悪そうだなw」と直感的に思ったのです。ちなみに私の頭が悪いという基準は、論理的思考ができているか?どうかという点です。

 

私はなぜこの人が「数学」だけを持ち出したのか?が気になったのだ。文系の受験生は数学が苦手な人が多いだろうから、数学から逃げているというのは、私自身は否定しない。しかし、「逃げているのはあなたも同じですよね?(笑)」と返したのだ。相手はそれを聞いて戸惑っていたようだが、「文系の受験生は社会科とかの方が得意だから、相対的に苦手な数学から逃げているだけです。例えば東大や京大の受験生だって、選択できる科目が一部あるのだから、その選択科目は当然得意な科目を選びますよね?じゃあ、相対的に苦手な科目から逃げたのはあなたも同じですよね?」と返したのですが、残念ながら相手は論破されてしまったようだ。学歴と論理的思考力が比例しない良いサンプルだったと思う。数学に異常なこだわりを見せている人が一部いるようだけど、たいていはこんな感じ。文系の人を否定するために「数学から逃げている」という表現を使う人は非常に多いと感じるけど、そういうことを言っている人にはこのように返せばいいということです。彼らは頭が悪いからすぐに論破できると思いますよ。そもそも「数学から逃げることの何がいけないんですか?」と返すことも可能だが。数学ができることを自負している人に頭がいいと思える人を私は見たことがない。頭がいい人がいないとは言わないけど、私はほとんど見たことがないということです。あと、もう1つ面白い事例があったのです。

 

大手企業の入社試験で出た問題で「ある国では男の子だけを欲しがっており、女の子が生まれた場合には男のが生まれるまで子供を産み続ける。そして、男女が生まれる確率は50%ずつであるとする。このときこの国の男の子と女の子の比率はいくつになるか?」という問題に関して、模範解答は1:1らしいのだが、これに納得いっていない人がいて、その人がネット上で質問をしていたのだ。その納得いっていない人の言い分は、男女が生まれる確率がそれぞれ50%ならば、1人目に男の子が生まれた場合はそこで終了し、1人目が女の子の場合には2人目は絶対に男の子になるはず。だから、答えは1:1にはなるはずがない。というものなのです。当然ながら、「1人目が女の子なら2人目が男になるはずだ」という部分には、いろいろなツッコミが来ていたのですが、そのツッコミの内容が正直言って、頭悪いなと思うツッコミばかりだったのです。「確率が2分の1だからといって、1人目が女の子ならば、2人目が男の子だとは限らないだろ」という内容がほとんどでした。これは「現実的な話」のうえで、妥当な意見だと思うんだけど、これが一応解答が存在するという前提の上で言えば、明らかに間違った指摘なんですよね。

 

確率が2分の1だからといって、2人の子供が生まれた場合に、男の次は女、女の次は男といった、そんな都合よく男女で常に分かれるわけがない!という意見は、現実の話をすればその通りなのだが、それじゃ答えが出ませんよね???答えがない、答えは無数にあるという意見ならばわかるのだが、彼らはいずれも1:1という模範解答を支持しているのです。ってことは、答えが1つに決まると言っているのだが、明らかに矛盾です。1人目が女の子の場合、2人目が男の子とは限らないということを言ってしまうと、極端な話で言えば10人、20人、それ以上産み続けた場合に全員女の子しか生まれないという可能性も存在します。つまり、男の子が生まれるタイミングが2人目なのか?3人目なのか?4人目なのか?はたまた10人目なのか?100人目なのか?決まらないってことです。男の子がどのタイミングで生まれるか?決まらないと、男女比の正解を出せません。つまり、この入社試験の問題が1つの解答があることを支持しているのに、現実的な話をするような人はものすごく頭が悪いってことになります。この問題で正解を出すには、確率2分の1を機械的に捉えないといけないということです。

 

そういう意味では、1人目が女の子の場合には2人目は男の子が絶対に生まれるはずだという考えは、答えを1つに決めるためには必要な前提条件とも言えるわけです。この入社試験を出した会社がどういうプロセスで正解に導くのを正しいとしているのか?が分からないものの、数学的に解くと恐らく1:1が答えになるんだと思う。私は数学が苦手なので、その辺の話は正直言ってよく分からないものの、現実的な話を持ち出してしまうと、当然現実的な話と数学における理論上の話は別なので、答えは食い違ってしまう可能性もあります。数学的な解答で言えば、例えば2人の子供が生まれた場合には男男、女女、男女、女男の4パターンしかなく、この4パターンを全体から見ると、男女は1:1になるというのが解答に至るための根拠らしい。この入社試験で出た問題においては、男の子が生まれたら2人目は生まれないので、正確に言えば、男、女女、男、女男のパターンが考えられ、総数で言えば男女共に3人なので、1:1というのが、数学的な模範解答なんだろうね。

 

ただ、数学ができる人は数学のルールに則って考えるが、数学ができない人からすると、そもそも数学的にそのように考えることが正しいとなぜ言えるのか?って疑問があるんじゃないか?別の言い方をすると、数学的に解かない別の方法で出した答えがなぜ間違いなのか?という部分です。こういう疑問は現代文という科目でもよく噴出するらしい。ただ、これは数学を使っては説明のしようがないのです。なぜこのルールで解かなければならないのか?それ以外の解き方が間違っていると言える理由は?という疑問は、はっきり言って多くの人はいちいち考えないでしょうからね。数学ができる人ほど恐らくそうなんじゃないか?と思うのです。確率の問題だけに限らないけど、なんで三角形の面積は底辺×高さ÷2で求められるの?という疑問を仮に教師らにぶつけた場合、「そのように決まっているから」以外に真っ当な説明がくるとは、あまり想像ができないんですよね。

 

説明できる人もいると思うけど、それってそのように考えることが正しいという説明であって、他の考え方が間違っているという説明にはならない場合もある。つまり、「こういう問題は数学的に既に決まっているルールに沿って解くのが正解である」という常識は存在するが、その常識がなぜ正しいと言えるのか?を説明している人は見たことがないし、説明できる人は多分ほぼいないと思う。なぜならば、数学は現実に存在する事象を数式で導くものであるが、現実の事象を対象にしてはいるものの、現実的な考え方ではなく、それは理論的な考え方だから。現実的な事象に関して、現実的な考え方ではなく、機械的に論理的に考えることが、正解を導くためのプロセスとして正しい(この問題を数学的に解くことが正しい)となぜ言えるのか?の説明がないといけないってことだが、その正当性はないですよ。経済学と行動経済学の違いと同じようなもんだと思う。人々が合理的に動くはずだと考えるのが経済学全般なのだが、行動経済学は人々の感情を考慮し、非合理的な意思決定などを含めて考えるのです。つまり、行動経済学は現実的な話を含めて考えるわけだ。

 

つまり、さっき出たような女の子と男の子が生まれる確率が2分の1だとしても、都合よく1:1ずつには分かれないという現実的な話を、無理やり論理的に、機械的に導こうとするのが数学なのです。だから、どっちが正しいか?っていうと、数学の世界の中での話をすれば、数学的に決まっているルールに沿って解くのが正解なのだが、じゃあ現実的な話で解いてはいけないのか?というと、この問題文を読む限りでは間違いとは言えない。だって、「答えはありません」とか、「国によって男女比は変わる」みたいな解答が正解である可能性もありますからね。答えが1つに決まるという前提ならば、現実的な話をするのは間違っているというだけなのですから。だから、国語的な要素を持ってくると、この問題において、数学が得意な人がやっている数学で解くという考え方自体が間違っている(模範解答とされている解き方以外の解き方が正解である)可能性が残るのです。

 

実際、入社試験で行われるこういう問題って、答えが1つにならない問題が割とあるらしく、なぜそういう解答になったのか?という理由がしっかりとしていれば正解とする。というケースが結構あるという話も聞いたことがあります。そもそも1つの正解が存在しないと思われる面接試験を就活では多くの会社が重視しているのだから、そういう考え方は割と自然だと思うけど。つまり、1つの模範解答を出そうとしている時点で、実は数学に長けている人は論理的思考力に問題があるのではないか?とも思えてきます。数学的に解くという出発点が正しいという保証がなくなるのです。数学的に解いている人は、数学的に解くのが正解であるということを疑っていないと思うのだが、数学的に解かないで、現実的に考えて「答えは時と場合によって異なる」と解答する人が間違っていると言える根拠は、この問題文から、または入社試験という性質を加味すると、存在しないのではないか?ということです。私に言わせれば、数学的な論法で答えを出してどや顔をしている人は、何とも言えない感じに映ります。実際、1:1を正解だと思っていない人というのは、少数派だがそこそこいるみたいね。その多くは機械的ではなく、現実的に考えている人たちですが。

 

でも、現実的な話を持ち出す人間が間違いとは言えない。むしろ、これは学校の試験ではなく、入社試験であることを鑑みると、彼らの考え方が正しいと言える余地も大いにあるだろうと。出された問題を数学的に解く力は彼らにはあるのだろうが、数学的に解くことがこの場合正解なのか?入社試験であるという事情を鑑みるような、広い視野を持つ力に関しては、乏しいのだろうというのが、私の判断です。この問題はYoutubeで検索をすると、東大生とかも解いていて、彼らも1:1と答えを出しているが、恐らく答えが1つに本当に決まる問題なの?という想定はないでしょうね。つまり、頭が良いんだか、悪いんだか、分からないのですよ。数学的に解くということに関しては彼らは非常に優れているのだが、この問題は数学的に解く方法のみが採用されるのか?という前提条件が揃っていないので、そこへの配慮が足りない彼らの頭脳は・・・なんとも評価が難しいですな。数学ができることと頭がいいか?どうかははっきり言って比例しないと思います。数学ができないことでバカであるとも言えないということです。バカな人は数学ができる、できないかかわらず、状況を正しく認識して、そこから論理的に考えられない人なのですから。だから、「数学ができない人は頭悪い」と、考えてしまうような人は、そういう理由で頭が悪いんだと思いますよ。

 

頭がいい人、悪い人の話し方 (PHP新書)

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アフリカ等の貧しい国より日本に生まれる方が不幸になる確率は各段に上がる

日本に生まれたらめちゃくちゃ不幸だと、私は思っています。アフリカとかにはさ、現代でも戦時中と同じような暮らし、それ以下の暮らしを強いられている人がいると思うのです。でも、そっちの方が不幸とは私は思えない。そして、たまたまネットサーフィンをしていたら、気になるツイートを見つけたので取り上げたい。

 

申し訳ないけど、この人は本当に短絡的な考え方しかできないんだなと思う。ある人が幸せか?不幸か?ってことが、何をもって決まるのか?を全く理解していない。日本を基準にして、貧しい国を語ることほど馬鹿な行為はないですよ。かつてあの林修氏も同じことやってたけどね。このブログでも取り上げましたが。日本で暮らしている人の生活水準を基準にするから、超貧しい国が不幸に見えるってだけなのよ。日本での暮らしを知らない人が、いきなり超絶貧乏な国に生まれた状況を想像できないの?って思うがね。逆に言えば、日本に生まれた人は、超貧乏な国で生まれて、そこでずっと生活をするという状況を想像できないから、日本の方が幸せなんて思っちゃうのよ。超貧乏な国で生まれてそこで生活をしていくという想像力が欠如している。例えば、ツイートで言われているような、身体を売らないと生きていけないってのは、それが当たり前ではない日本人から見たら酷い状況に見えるってだけなの。それが当たり前か?どうかは分からないが、割と頻繁に行われているような国の場合、日本人が感じる苦痛よりも間違いなく小さいです。それにそもそも労働って超苦痛じゃないですか?でも、日本人って大人になるとみんなやるじゃないですか?死ぬかもしれないのに。これって働くことが当然の社会だからですよね?みんなやってるからですよね?労働なんて私からすれば正気の沙汰には思えないけど、みんなやってるからそれが当たり前という風潮になってしまっている。

 

何で働かないといけないの?と、私は子供の頃からずっと思っていたし、働かないといけない社会はマジでゴミだと思っている。働かないと社会が成立しないという理由を説明するだけで、働かないといけない理由をまともに説明している人を見たことがない。当然、憲法に書いてあるからは理由にならない。憲法は国民に義務は課さないから。でも、みんな奴隷のように世間の風潮に従っているわけですよ。私から見れば、身体を売ることよりも悲惨な状況に見えますけどね。それに肉体労働だって、身体を売っているに近いと思うけど。どっちも苦痛でしょ。私は基本的に労働はできる限りしないように努めているが。そして、本題に入るけど、人が不幸を感じる場面っていうのは、多くの場合、周りと比べて自分が劣っていると感じているときなんですよ。日本みたいな格差社会は、この原因がかなり生まれやすい。逆に国民の多くが貧しいような国は、自分も貧しいけど、みんな貧しいから、周りと比べて自分が劣っているという実感が生まれづらい。つまり、劣等感を感じる瞬間が、日本より間違いなく少ない。実際、日本の自殺率って、こういう貧しい国よりも普通に高いらしいですね。この状況で、日本に生まれるのが幸せ???

 

日本を基準にすれば、確かにアフリカなどの一部の国に生まれたら悲惨だよねとか、思う人はいるかもしれないが、それは日本に生まれて、そこで生きてきたという経験をすでにしてしまったからだ。明らかに利便性が高い、経済的に豊かである国での生活を経験したケースにおいて、日本と超貧しい国での生活を比較することは何の意味があるんですか?比較をするならば、最初から超貧しい国に生まれた状況で比較をしないといけないが、それは日本人にはできない。日本にすでに住んでしまっているから。日本の利便性を知らないような人が超貧しい国で生まれたら、いま私たちが抱いているような気持ちにはなりません。日本人は日本の当たり前を知ってしまっているから。超貧しい国にはその国の当たり前でがあり、そこでの比較が中心になるのだから、日本のような利便性の部分は発想としては乏しいだろう。年収300万円の人が比較をするのはせいぜい1000万円くらいまでの人であって、年収何億とかの人と比較なんかほとんどしないでしょ。人は身近な人と比べるのであって、雲の上の存在のような人とは比べないのよ。で、社会の底辺と思われるような人を基準にした場合、生活水準が自分よりも上の人の数というのは、日本と超貧しい国のうち、どっちが多いですか?と言えば、日本になるわけだよ。格差社会だから。超貧しい国ってのは言ってしまえば、日本人から見ればみんな底辺みたいな状態だから。自分よりも良い暮らしをしている人間はごく少数に限られる。でも、日本の場合、底辺の人からすれば自分よりも良い暮らしをしている人は大量にいる。貧乏な国の方が、他人との比較が劣等感につながらず、不幸な気持ちを抱えづらいのよ。

 

そもそも貧乏ってなんで不幸だと思うの?って疑問があります。貧乏は不幸である。金持ちと比べてって考える人が多いと思うけど、何でか?って理由は説明できます?欲しいものをたくさん買えるから?それは貧乏人との差ではないよね。買えるもの自体が変わるだけで、貧乏人も好きなものは買えますよ。貧乏人は欲しいものをガマンしないといけないときがあるかもしれないが、金持ちが我慢しない瞬間はないの?例えば、高級ブランドの財布が欲しいけど買えない貧乏人がいる一方で、豪華客船が買えない金持ちもいるわけ。どっちが不幸ですか?と言えば、一緒でしょ。自分の所得水準に応じて、欲しいものって変わるわけですよ。年収300万円の人が豪華客船を買おうなんて発想になると思います?ありえないですよね。豪華客船じゃなくてもいいよ。もっと値段を下げて豪邸とかでも良い。普通のリーマンやっている人はたいていそんなものを欲しがりません。欲しいという発想になりません。せいぜい買えるなら越したことはないかもしれない程度でしょう。最初から無理ってあきらめてるから、それを買えないことに不幸を感じません。自分がファンである芸能人と結婚できないことにものすごい不幸を感じる人って、ほとんどいないでしょ?それと同じです。だから、それぞれの所得水準に応じて、自分の頭の中で欲しいものは変化し、当然我慢をしないといけないもの、お金を貯めないと買えないものが生まれるわけです。その構造は全く一緒なの。だから、この場合、どっちが不幸か?と言えば、基本的に一緒です。金持ちが幸せで、貧乏人が不幸っていうのは、社会のステレオタイプに従うだけで、何も考えられない人が勝手に思ってしまうことです。

 

実際は貧乏だと劣等感を感じやすいから、自分を不幸だと思う人が多くいるという現実があるだけ。でも、それは本質を見ていないだけだと思う。貧乏を不幸だと思う人って、貧乏であることのデメリットと金持ちであることのメリットしか見てないんじゃ?って思うのです。貧乏のメリットとか、金持ちのデメリットも考えたら?って思いますけど。金持ちって、努力家で向上心があるから金持ちになれたと思うんだけど、私は以前「「向上心のないやつはばかだ」は人を、社会をマイナスに導く思想 - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」の記事で書いたように、向上心は悪だと思っているのです。つまり、向上心がある時点で不幸だと思っています。西村博之氏が過去に同じような話をしていて、上を見ることは不幸につながりやすいという話題を出したときに、「オリンピックの銀メダリストって、悔しくて泣いてるのよwww世界2位なのにwww」って、笑いながら以前話してたことがあるけど、この言葉って上を見ることがいかに不幸か?ってのがよく分かるよね。悔しくて泣くってのは、成績に不満があるからだよね。不満を感じている状態は精神的には不幸なわけで、向上心がある人は永遠に上を見続けるのだろうから、一生不満を持って上を目指さないといけないってことよ。これ一生不幸な状況なわけでしょう。金持ちが貧乏人よりも幸せだと断定している人って、うわべだけ、外見しか見られない人なんだなって思いますね。

 

例えば、日本陸上の短距離界をけん引してきた末續慎吾氏は、現役時代には大会で1位を獲ることが何度もあったみたいだが、それが当たり前になると、日本記録を出さないといけないプレッシャーにずっと悩まされていたらしいね。1位を獲っても、記録がイマイチだと会場からため息ばっかり聴こえて、それでかなり病んだということをテレビで言っていた。向上心っていうのは、周りも他人に害悪を与えるものということ。記録を出そうと奔走したのは、自分自身にも向上心があったからだろうが。ただ、自分が向上心を持つと、自分が不幸になるが、他人に向上心を強要すると、単純に迷惑行為になりますよね。向上心がいかに悪か?が分かるでしょう。トップレベルの選手ですらこれなのよ。つまり、金持ちだろうが、トップレベルのアスリートだろうが、向上心を持っている人間は不幸になりやすい体質ってわけ。

 

私は学生時代、そこそこ足が速い方だったけど、それは学校の中での話であり、末續氏と比べたら大人と子供以上のレベルの差があったに違いないと思う。でも、私は体育祭のリレーで活躍したりして楽しかった記憶しかない。しかし、私は陸上をその後も続けるということはしなかった(野球が1番好きなスポーツだったから)し、高校以降は何の部活にすら入っていない。つまり、足をさらに速くしたいとか、もっと活躍したいという向上心を私は持っていなかった。でも、彼はオリンピックや世界陸上に出られるほどの努力をし、実際に活躍をしたのに、最終的に病んでしまった。明らかに向上心が彼の方が強かったし、結果的により高いレベルまでいくことができたが、彼の方がどう見ても不幸になってしまってるのよ。一方で私はいい思い出だけが残った。

 

さらに私は通っていたスイミングスクールの大会で1位を獲り、金メダルを子供の頃に貰って満足したことがあるが、オリンピックの水泳で銀メダルを獲った人はめちゃくちゃ悔しいはずですよね。そういう人はスイミングスクールとかのレベルだったら、ダントツで1位をとれるはずなのよ。そこでやめておけば良かったのに、オリンピックを目指すという向上心を持ってしまったがゆえに、悔しくて泣いてしまうという、不満たらたらの状況を生んでしまうわけだよね。こんな例はいくらでも見出せると思う。向上心が相対的に少ないだろう(偏見かもしれないが)と思われる貧乏人はその点においてメリットはちゃんとある。つまり、不満を感じづらい体質なのだから、メリットをあるという理解すれば、貧乏であることを不幸と思う必要はないってこと。実際、私はこの真理に気付いて以降、向上心をガチで捨てた。そのおかげで、不満やストレスを感じづらい体質になれたと言えるだろう。お金を稼ぐことにも今ではほぼ興味がない。

 

人が幸せ、不幸を感じるのは主観だけれども、その主観は相対的な比較で決まる傾向にある。冒頭のツイートをした人は、恐らく相対的な見方ができない人なんだと思われる。絶対的な見方しかできないのだろう。「100点満点のテストでの80点は高いか?低いか?」という質問をして、「高い」または「低い」と答える人がいたら、その人はまさに絶対的なものの見方が完全に癖としてついてしまっている人だと言えるだろう。この場合の正解は「比較対象による」だ。70点と比べたら高いけど、90点と比べたら低いわけ。相対的なモノの見方ができる人はこう答えるはずだ。そして、相対的なモノの見方ができない人が、経済的に豊かで格差が激しい日本のような国の方が、アフリカのような格差が小さい貧乏な国よりも生まれて幸せであると答えてしまうのだろう。

 

続・ニホンという滅び行く国に生まれた若い君たちへ―16歳から始める思考者になるための社会学―

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ニホンという滅び行く国に生まれた若い君たちへ

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