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「絶歌」を書いた少年Aは多分反省していない、それがサイコパスという人間

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以前、少年Aが書いたとされている「絶歌」についての記事「少年Aの「絶歌」の意義は、貴方が殺人鬼になることへの警告かもしれない - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」を書いたが、今朝の朝日新聞にそのことについての遺族のコメントとイケダハヤト氏のブログ「寄稿, 書評] 「絶歌」1人の元犯罪者としての感想と「反省を理解できない脳」について。 : まだ東京で消耗してるの?」に、ブロガーのイノシシ氏という方の絶歌についての書評が載っていた。この話題については、いろいろと言いたいことが個人的にあるので、この際にまとめて書きたいと思います。前回の記事で、私は絶歌を買おうか?どうか悩んでいる感じで終わらしたが、未だに買っていない。多分買わないと思う。ブログの内容を一部引用させてもらいます。特に作中での少年Aのセリフについて『大人になった今の僕が、もし十代の少年に「どうして人を殺してはいけないのですか?」と問われたら、ただこうとしか言えない。「どうしていけないのかは、わかりません。でも、絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから。」』という部分があります。この部分について、イノシシ氏は以下のように批評しているのです。

 

本人の言葉を借りると、それが少年院を出て以来11年間でやっと見つけた「唯一の答え」だそうです。

たしかに、「なぜ人に迷惑をかけずに自殺しちゃいけないの?」と天涯孤独の人に言われたら、僕も言葉につまるかもしれません…。というか、答えれる自信がありません。

ただ、「なぜ人を殺しちゃいけないの?」に対しては、「君には無意味に人を殺す権利なんてない。」、そして「その人の家族、友達、恋人、その他周囲の人たちが悲しむから」ぐらいは言えると思います。

「自分が苦しむ」というのは「勝手にしてくれ。」としか言いようがなく、苦しむのは「加害者本人」よりも「被害者とその周囲の人間」です。この視点が未だに決定的に欠如している。

今現在、多くの人が元少年Aに憤りを感じているのは、この点だと思います。

「なんで未だにその考えができないんだ?」「なんで遺族の過去の傷口をえぐるようなことをするんだ?」と。その考えは十分に理解できるまし、当然だと思います。

ただ、これらの怒りっていうのは「元少年Aが良心の呵責という概念を心から理解でき、反省できる人間」という前提でのもの。

この前提があるから、今の彼の言動に対して「なんでだよ!!」となる。

 

僕は思うんです。

「そもそも彼は良心の呵責を感じれない脳の構造の持ち主なんじゃないか」と。

 

人を殺してはいけない理由について、私も実は少年Aに同感だ。これといって思いつかない。私が人を殺さない理由は存在するが、殺してはいけない理由を導き出すのは、正直自己都合的な主張や感情論以外では難しい。存在するのは、人を殺してはいけないという法律や風潮のみ。人を結果的に死に追いやることは別に社会全体で常に起きていることじゃないのかい?社会主義の国じゃないんだから、日常的に社会の荒波の中で人は死んでいく。これは直接、人の手に殺されていないからOKというのは、何だか随分都合の良い主張に聞こえる。気付いていないところで、社会が人を殺しかねない状況はよくて、1人の人間が1人または複数を殺すのはダメなのか?納得できる回答がほしい。私自身、この矛盾に納得できない間は、殺人事件とかが起きても、加害者に非難をぶつける気になれない。人を犠牲にして、自己利益を追求するのがが是とされるのが、今の社会ではないのか?と思うのだが。人を殺す仕組みを作っておいて、それに巻き込まれて死んでいく人はしょうがないと処理され、直接手を下して殺すのは相当な非難を受ける。何が違うのか?理解できない。時限爆弾を作って人の多い場所に置いておくか、ナイフで刺すかの違いでしかないと思うのだが。「人が悲しむから」というのが理由ならば、当然今の社会システムそのものも非難されるべきだと思うが。

 

あと、このイノシン氏の見解によると、少年Aは反省していないらしい。それは私は本書を読んでいないので何とも言えないが、その可能性はあるでしょう。というのも、この少年はAは人を殺したらどういうことが起きるか?についての結果を見てきて、何だかヤバイことをしてしまった。という感覚はあるものの、でも、それがどうしていけないことなのか?は理解できていないのです。反省をするってことは、物事の善悪について理解し、それを2度としないと決めることじゃないか?と思う。つまり、殺人についての善悪が理解できないとしたら、悪いことと認識できなければ、何で反省しないといけないのか?となってしまうのですから、そりゃ反省なんかできない。これは彼の脳内のメカニズムの問題だったり、彼に納得できる殺人がいけない理由を説明できる人間の力不足が問題であって、少年A自身が悪いと断じるのは酷な気がする。つまり、無理矢理自分を納得させる以外は、彼の匙加減や努力ではどうにもできない問題なのです。

 

あと、いろいろなところで言われているけど、遺族に許可なく出版したというところについても引っかかる。多くは遺族側に配慮が足りない。許可をとるべきだ。という意見が多い。気持ちは分からないでもないが、それを言うならば、国に言うしかないだろう。そういう法律なんだから。彼らが言っているのは感情論だと思うし、あまり擁護できない。少年Aはすでに法律に則った刑期を終えて社会に出てきたんだろうから、一応彼が果たすべき法的な義務は終えたと言える。そんなんじゃ足りないという声もあるだろうが、ここからは少年Aの気持ちの問題である。彼自身が思っているのは、殺人がいけない理由はよく分からないが、人を殺すとマズイ感じになるということ。それは遺族への影響も多分含まれているのではないか?と思います。そうなれば、遺族への配慮ができるならば、遺族が出版を拒否しているなら、それに従うのが良いだろうと思う。でも、そういう気持ちがないのなら、さっきと殺人がいけない理由が理解できないのと同じ話になってしまう。「何で遺族に許可なく出版するのがダメなの?」ということです。

 

これはサイコパス扱いされている彼のような特異な人間であれば、不思議でもない感覚かもしれない。つまり、私たちは私たちと同じ一般的な感覚からものを言うが、それが一般的な感覚を持っていない人間にぶつけられても、サイコパスの人間には通用しないのです。逆に言うと、通用しない人間をサイコパスというのではないでしょうかね?つまり、「え?何でこいつこんなことも理解できないの?」という一般人の感覚をサイコパスの人間にぶつけても何の意味もないのです。そりゃ感覚が違う人間に、常人の感覚が理解できない人間に、常人の常識のようなものをぶつけても、違う国の人間に日本語で話しかけるようなものだと思うから。理解できない相手に理解できないことをぶつけても意味はないし、法律で合法とされている行為なんだから、客観的に見てやってはいけない行為と一概に断じることはできないし、いわゆるサイコパスの人間の中の常識としては遺族に許可なく出版することは、別におかしいことではない。という認識なのでしょう。

 

実際、彼のやった行為を客観的に見ると、本の内容次第な部分もあるが、彼のエッセイだと捉えるならば、そんなに問題行為か?とも思えなくはない。例えば、本じゃなくて、ブログを開設して、そこに同じ内容を投稿したらどうなるんだろうか?それも非難があったんだろうか?自身の気持ちを公に発表するくらいのことは許されるべきじゃないのか?と思います。遺族の心中は察するが、本を出版する権利は、犯罪者であっても認められている以上は、理屈では出版が非と断じるのは難しい。昔の事件でいうと、パリ人肉事件の漫画「サガワさん」のときも実は同じようなことがあったらしい。これは法律を改正してくれ。と国に要求するのが筋ではないのだろうか?と思うのです。サムの親子法だっけ?あれは正直あった方が良いと思うのだが、出版する権利は認めてあげても良いのではないか?と思う。というか、認められているはずなんです。出版に関して非難が飛んでくるのはしょうがない部分もあるが、出版禁止や本の回収までの要求は正直厳しいだろうと思う。私は、この本を読む気はない。読みたいという衝動もないし、ただこういう事件について深く考えてみることはいろいろと大切かもしれない。実際、私が人を殺さない理由として大きいのは、人とを殺す理由が今のところないというのと後は人が悲しむところを想像すると辛すぎるという点です。彼が実際にその光景に目の当たりにして、本書に認めて、それを知れたこと。やっぱり、そうなんだ。人を殺すと、殺人者自身にも人が悲しむ光景が染み渡るんだと。それを分かっただけでも、私に対する影響力としては十分だったんじゃないか?と思います。私が今後殺人をしない可能性を増幅させてくれた、大いに意味があったんじゃないか?と思う。

 

 

絶歌

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