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現代文が安定しないのは当然!解き方やコツを学んでも運ゲーは避けられない

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文系の大学入試では、国語は避けられない。理系でも国公立を受ける場合には国語は受けないといけないんだっけ?あまり詳しくないのだが、現代文は解き方が分からない、現代文は点数が安定しないという悩みを多くの方が持っていると思います。今年のセンター試験当日の夜にニコニコ生放送で放送されていた、恒例の有識者によるセンター試験解いてみた!という企画がセンター試験の当日の夜に放送されていて、8時半くらいから3科目やって、結局終わったのが2時過ぎだったと思うけど、今年は3科目解答したのはホリエモンではなく、小説家の羽田圭介さんでした。知らない方もいるかと思うが、彼はそもそもセンター試験を受けていない。彼は明治大学商学部出身だが、高校からのエスカレーターで上がっていて、かつ高校でも成績は中の下くらいだったらしいです。だから、センター試験も受けていないし、大学受験もしていないのです。そりゃできるわけがないwww世界史が29点、国語が121点、英語が59点だったかな?国語だけちょっとはまともな点数に見えるが、世界史と英語は壊滅的というか、全問勘でマークしてもとれそうな点数しかとれていない。

 

その結果はどうでも良いのだが、彼が番組出演中に、自分の書いた作品がこうやって入試問題に使われたらどう思う?みたいなことを司会者から聞かれていて、彼は使われること自体に良いとしても、きちんと許可をとってほしいと言っていました。文章の使用料をとるつもりはないみたいだが、無断で使われるのは嫌みたい。その辺の事情は、私はよく分からないものの、実際に入試の問題に使われる文章って、無断で使っているんですかね?彼の言動を見ると、そんな感じでしたね。センター試験はともかく、予備校とか、各大学の入試問題で使われる場合には、間違いなく利益に結びつくものじゃないですか?だから、著作権的にかなり問題のある使い方だと思うんですね。利益が発生しないのであれば、本人に許可を採っておいた方が良いよ。くらいのレベルだと思うんですけど、センター試験以外の大学入試の問題や予備校の教材に勝手に使っているっていうのは、明らかにその問題が、予備校の場合だと授業料、大学の場合だと受験費用やその後の入学費用や授業料にもかかわってくるので、利益に関係しているじゃないですか?そこに羽田さんは苦言を呈していました。

 

著作者じゃない人間が勝手に文章を使って商売をすることもそうなんだけど、結局著作者じゃない人間が書いた文章の解釈を勝手に出題者がするわけでしょう?評論は100歩譲って良いとしても、小説を出題者が勝手に解釈するってどうなん?と思うのですよ。評論の方は、言語分析だと思っていて、一応解釈の正解はあると思うんです。出題者が確実にそれができているという根拠はどこにある?という問題もあるのだが、一応正解は存在するはずです。それが選択肢になると、比較の問題になるので、ちょっとややこしいことにもなるが、ここではとりあえず評論の問題は置いておく。今回は羽田さんが解答者だったということもあり、小説の方に話を移したい。小説もセンター試験のみならず、個別の大学の入試で出ると思うけど、小説の方は言語分析ではなく、心情分析になるじゃないですか?これは今回のセンター試験解いてみた!の国語の解説をしていた予備校講師も言っていたが、小説は心情分析になるらしい。確かに登場人物の気持ちを推理させる問題とかがあるわけだから、そうなのでしょう。

 

でも、心情を推理するときに、答えは1つじゃないといけないのか?という問題があります。評論もそうだけど、小説も答えは割れやすいと思う。それはある登場人物に抱く印象が違うからです。登場人物の心情を推理するといっても、文章で書かれたものから推理するしかないので、これが非常に難しいわけです。顔も分からなければ、普段の性格とかも分からない。そんな中で推理するので、非常に難易度が高い。実際、何が問題って、答えが割れて当然だと思うんですよ。例えば、ある小説の中に「〇〇くんのことなんか好きじゃないから!」と書かれていたとしよう。このセリフを言った本人の気持はどういうものか?を答えるとして、この人物はその〇〇くんを好きなのか?嫌いなのか?どっちなんだろうか?文字通り読んだら、嫌いっぽく見えるが、好きだと考えられる部分もあるわけだよね。いわゆるツンデレです。この子がツンデレなのか?否か?はもちろんこれだけじゃ判断できないし、そこに書かれている文章全体を読んでも判断できるとは限らない。でも、どっちかが正解になるとしたら、どっちが相応しいと思いますか?

 

これが現実に起きていることであれば正解はあるわけですよ。その子に聞いてみれば良い。でも、これはフィクションですよね。正解はないわけだ。つまり、どっちが正しいか?というのは、感じ方の問題でしかない。どちらが正しいと思っている人もそれなりの根拠は一応持っているはずです。どちらの言い分が正しそうに見えるか?を争っているに過ぎない。一応、問題作成者としては、先ほどの例で言うと、「〇〇くんのことを好きだと感じられる記述が無いこと」を一応根拠にしているらしい。つまり、一般常識的な感覚から言えば、文章から判断して、この子がこのとき、〇〇くんを好きだなんてありえないというのが、一応根拠らしいのだが、そもそも文章中に書いてあることで、それがありえないと断じて良いのだろうか?と思います。先ほどツンデレの例で言うと、デレの部分が本文に書かれていれば、ツンデレの可能性が十分出てくるが、そのデレの部分がなければ、ツンデレじゃないかもしれない。しかし、デレの部分がないからといって、ツンデレじゃないとは断言はできない。そもそも入試に載るのは、作品の中のほんの一部分であり、ツンデレか?どうかなんて全文載っていないと判断できないんですよね。全文の中にデレの部分が全くなければ、ツンデレと解釈するのはおかしいとなるのかもしれないが、それが受験生にはできない。仮に全文載っていても、登場人物の描写は別に24時間365日あるわけではないので、性格を完全に分析するのはおよそ不可能と言わざるを得ないが。

 

多くの人が指摘しているのは、小説問題は一般的な感覚や常識がもはや答えの基準になってしまっているというものであり、正解を探す科目ではなく、一般的な感覚からいって、どれをみんなが選びそうか?それを探す科目だということです。で、出題者は一応文章中から、それ以外の心情はありえないという根拠を導き出し、答えに設定するわけだが、それ以外がありえないと思える根拠っていうのは、結局は感覚の問題じゃないですか?出題者の感覚の問題なんですよね。だって、出題者の設定した解答が1番選ばれなかったとしたら、客観的に見たら、出題者の正解は明らかにおかしい、世間の感覚や常識とずれているという判断なんでしょうけど、だからといって、それが正解になることはないじゃないですか?絶対にないですよね。また別のことを言う人もいます。「採点官と同じ推測にたどり着ければ正解」といったことを言っている人もいて、これはその通りな気がしてきますね。実際、今の現代文で問われている力ってここじゃないですかね?ただ、その採点官が推測した正解をそもそもどうやって推測するのか?が問題になるわけですよね。採点官が用意した正解にたどり着くのが、現代文の小説の意義だとしたら、もはや文章を読んでいてもしょうがないことにも思えてきます。1~5の中で全通り選ばれる可能性があるわけだけど、例えば、3を正解にした人が採点官の場合と5を正解にした採点官の場合、どうやって推理の仕方を変えるの?

 

正解っていうのは、その採点官が設定して初めて生まれるものだから、3が正解でも、5が正解でも良いわけですよね。はっきり言って、どれを正解にしてもだいたい全員が納得するケースってありえないでしょうからね。で、採点官が全員ある文章を読んで、正解ではなく、最も望ましいと思うものを1つ選ぶときに、割れる可能性もあるわけです。その割れた選択肢を提示したそれぞれの採点官は、それぞれの選択肢が1番望ましいと思ったはず。ということは、それぞれの採点官が正解を設定するときには、それぞれ正解が割れることになる。つまり、採点官が1人しかない。または唯一無二の価値観や感覚、考え方をを持っている採点官しかいないという前提じゃなければ、問題ごとに担当する採点官の特性を知らなければ、正解にたどり着く術なんかないじゃないか?となる。採点官を務める人間は、みんなこういうものだ。という1つの類型を提示できるならば、その特性を研究すれば、採点官の心のうちを読みやすくなり、先ほど示した採点官が推測した正解にたどり付くための道筋はとりあえず示されたということになります。しかし、それは実際にできません。採点官は1人じゃないし、唯一無二の価値観、感覚や考え方を持っている人しかいないとは言えないから。結局、現代文の小説の問題を解く意義をどういう風に設定しても、現在のやり方では無理があるじゃないですか?

 

あと、最後に1つだけ気になっているコトがある。これは評論も含めての話だけど、「現代文は答えが1つになるようにちゃんと作られている」ということを、まるで真理のように、まことしやかに言う人が多くいるんですよね。それを言うのは自由なんだが、じゃあ何故そう言えるのか?となるわけですよね。その根拠を提示する人間を私は見たことが無いんですよ。だから、不信感を覚える科目なんですよね。それはあなたの思い込みじゃないの?と反論したら、何て返ってくるんだろうか?と。社会科とかは、答えがそもそも1つしか存在しないもので、かつ参考書や教科書を見れば、確認できるじゃないですか?それは「事実」を答えさせる問題だからです。研究家の間で意見が分かれているようなものを除き、事実は1つしかないわけですよ。でも、現代文って、解釈の問題なので、解釈は事実ではないから、2通り、3通り、それ以上生まれるのは当たり前だと思うんですよ。その中で、1番妥当性の高い解釈を導き出すのが現代文になりますが、妥当性が高いか?どうかっていうのも、その人の感覚の域を出ないのです。オレはこれが1番正しい、妥当性が高いと思ったとしても、それって事実ではないから、それが絶対的に正解と言える根拠なんかないわけですよ。文章と選択肢を対比させた結果、それが1番望ましいと思った。ただ、それだけじゃないですか?

 

仮に99%が1の選択肢を選んでも、別に2が間違いだという根拠には本来はならないわけです。1が正解っぽく見えるだけの話です。仮にこの状況で実は、採点官が設定した答えは2だったとしても、正解が1に変わるわけじゃない。多数決で正解が決まるわけではないとしても、採点官の感覚や解釈の仕方が絶対的に正しいという前提の話ならば、2を選ぶ人がどれだけ少なくても2が正解で問題ないとなるが、採点官は全知全能の神ではない。私たちと同じ人間であり、その採点官が設定した解答が何故絶対的に正しいと言えるのか?その解釈が何故絶対的に正しいと言えるのか?その答えは存在しないでしょう。採点をする人なんだから、解釈に長けているんじゃないの?と、受験生は思っているかもしれないが、別にそういう事実が存在するわけではない。じゃあ、何で採点官をやっている人間は解釈力に長けているの?と聞かれても答えようがない。そういうものだろうと思うしかないのでしょう。採点官をやることを認められたということは、その人の解釈力が優れていると、誰かが認めたことになるが、その認めた人の解釈力が優れていないと、その認めた事実が適性であったと見出すことはできない。根本的なことを言うと、結局そこに行き着く。そこを覆せないと、現代文は運ゲーであるという論説が正しくなってしまうでしょう。

 

現代文が安定しないという方はいると思うが、そういう人は参考書やら問題集とやらをやって採点官の考えや考え方に近づくように、自分自身をコントロールしていけば、正答率が上がる可能性はあるということでしょうかね。評論も答えが割れたり、意見が割れることも多々あるだろうが、小説の方はまず譲れないでしょう。小説の問題で間違えたら、自分の出した答えが世間一般の感覚とずれているということは、小説の場合は言えるのかもしれないが、100歩譲って、小説の問題が世間の一般的な感覚を試す問題だったとしても、出題者が用意した答えじゃない選択肢に1番票が集まった場合には、客観的に見て、出題者の解答は世間の感覚とずれているということになるが、解答が変わるのか?といったら、変わるはずがない。出題者は確実に世間の一般常識を代弁しているという根拠は無いだろうから、結局訳が分からなくなる。現代文の出題者は一体、何の力を持っていると言うのだろうか?だか、、私は現代文が嫌いなのです。

 

 

現代文の勉強法をはじめからていねいに (東進ブックス TOSHIN COMICS)

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