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就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

犯罪者になぜ人権ある?いらない、剥奪すべき→全員から人権がなくなる

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「犯罪者に人権はいらない」という主張がたまに見られます。さあ、どうでしょうか?少なくとも若気の至りか?昔の私も同じようなことを考えていたことがあります。犯罪者に人権はいらないし、制限すべきだと思っていたこともありました。殺人みたいなことを犯しておいて、何で犯罪者に人権なんか保障されてんの?と、5年位前までの私ならそう考えていたが、今は違いますね。犯罪者だろうが、なんだろうが人権を保障すべきと考えます。そうじゃなかったらそもそも「人権」じゃないんですよ。人権っていうのは人だからこそ認められている権利であって、人権を認めない例外を作ってしまうと、その例外がどんどん広がっていく傾向にいきかねない。昔はそういう時代があったわけだ。人種を理由に人権が認められていないに等しいような状況は世界中であったと思う。そういう状況が生まれかねないというのが、犯罪者にも人権を認めるべきだろうという1つに理由になりますが、大きいのはここからですね。つまりね。「犯罪者から人権を取り上げるべき、剥奪すべき」という意見は、犯罪を犯していない、または今のところ犯す気配のない人間だからこそいえることだと思います。

 

 

こう言っちゃあなんだけど、私は犯罪者になるか?どうかは8割くらいは運だと思います。犯罪に走る理由は主に2つあると思います。1つは犯罪に対する意識の軽薄さです。そして、もう1つは自身が犯罪を犯すほどの何かしらの出来事に遭遇するか?どうかです。前者の場合は、つまり、人を殺してみたかったとか、そういった理由で犯罪を犯す人たちです。こういう人たちは、一般的な感覚から言うと、かなり犯罪に対する意識が軽薄ですね。しかし、これはその人が悪いとは思わない。というのも、意識の軽薄さって、もはや無意識のうちに生まれているものであって、意識的に軽薄さから脱却することが難しいからです。要するに「理解ができない」わけでしょう。犯罪の重さを。多くの人は犯罪をしてはいけいこととして捉えているが、別の人はそんな大そうなことには思えない。そういう人はいますよ。日本中がワールドカップに盛り上がっているときに、全く興味を示さない人もいますからね。それと変わりませんよ。そして、犯罪に対する意識の軽薄さは、その人自身の努力で補えるものではないのです。周りが教育などによって説得したり、洗脳したりすることはできるかもしれないが、それは絶対ではないのです。その人自身が思えるか?思えないか?は周りの人間や本人の匙加減の問題ではないからです。(犯罪が重大だと)思えないものは思えないんですよ。

 

そして、もう1つ犯罪者になるか?どうかの理由として、自身が犯罪者になるほどの出来事に遭遇するか?どうかです。例えば、ある死刑囚が死刑を執行されて、その人がとても大きな犯罪を過去にやっていたとして、多くの人間は、「この人は死刑になって当然だろう」と、非常に他人事のように思うのではないでしょうか?そう思う人は、そういう犯罪をやった人は殺されて当然だと思うわけですよね。また、別の例を言うと、死刑制度の是非のときに、反対する人たちに向かって賛成する人が「お前、自分の家族が殺されても同じこと言えるのかよ!」といった聞き慣れたセリフを放つことがありますが、これは今回は自分の家族じゃないけど、実際に自分の家族が殺されたら、絶対に死刑を望むだろ?という同意を求めるセリフであると考えられます。つまり、これを言う人っていうのは、自分の家族が殺されたら、何かしらの手でその犯人を殺したい、または殺してほしいと思っているということです。、実際過去にいましたよね。死刑(極刑)にならないなら、自分の手で殺したいと記者会見で発表した人が。

 

つまり、そういう人は自分の家族が殺されるという、普通はありえないような出来事に遭遇したために、人を殺したい、または殺して欲しいという気持ちが芽生えたわけだ。そんな気持ちは普通に平穏に生活していたら、滅多に芽生えないはず。普通に考えたらありえない出来事に遭遇したために、生まれた気持ちであり、実際、犯罪者になるような人は、中にはそういうありえない出来事に遭遇するか?しないか?で犯罪者になるか?ならないか?が決まっている部分もあると思いますよ。だから、犯罪者になるか?ならないか?は運ゲーの要素も大きいってことです。だから、現状犯罪者になっていないような人は、無意識のうちに、自身の犯罪に対する意識が軽薄ではないという部分、そして自身を犯罪者に追い込むような出来事に遭遇していないという2点において、たまたま運がよかったから犯罪者になっていないと見ることもできると思います。そんな運ゲーで決まる問題なのに、運が悪かった人間から、犯罪者から人権を剥奪するのはさすがにおかしいだろうと思うのです。

 

実際、犯罪者って、そんな珍しい存在ですか?赤信号を渡るとか、軽度の犯罪を全て含めると、該当者は相当いると思うのです。軽度の犯罪は含めないとかいう話になると、じゃあどこからが軽度なのか?という議論に決着がつかないし、先ほどと同様に、例外の範囲がまた生まれていくわけだから、特定の人間にとって都合の悪い部分は全て例外として使われやすくなり、誰かにとっての都合の良い主張しかされなくなる。結局、多くの賛同を得られない人権付与にしかならない気がするのです。犯罪者には人権はいらないという主張は、それをする人にとって都合の悪い存在だから。という理由があるはずで、なぜ犯罪者には人権は必要なくて、それ以外には必要なのか?を問われたときに、そういった理由以外では答えるのが難しい。つまり、自分は犯罪者じゃない。でも、犯罪者は自分たちにとって迷惑な存在だから、彼らに人権はいらないという主張になるのではないか?と考えますが、じゃあ私にとって迷惑な存在も同じく人権を剥奪して良いと主張して良いですか?となり、収拾もつかなくなりますよね。

 

自分にとって都合の悪い存在から人権をなくすべきという主張をそれぞれがしていくだけの話であって、そうなれば、最初に「犯罪者から人権をなくそう」と言った人の人権も、最終的になくなる可能性がある。それが嫌ならば、じゃあ問答無用で全員に認めようと。そうなるだけだと思いますよ。人を殺したいと思わない人、殺したことがない人は、人を殺した人は迷惑な存在でしかない。だから人権を奪おう!と考える。しかし、車を運転しない人、したいとは思わない人は、車を運転する人は迷惑な存在でしかないから、同じく車を運転する人から人権を奪おうと主張したら、前者も後者も完全に理由の性質は同じです。人権に例外を認めて、犯罪者など一部から剥奪すると、こういうことが起きるということではないでしょうか?みんながみんな自分にとって都合の悪い存在から人権を剥奪すべき、不要だと主張すれば、最終的には、ほぼ全員から人権がなくなってもしょうがない事態になるのです。

 

 

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