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自己中はなぜ悪いと思われている?何が悪い?自分勝手は治らないし、治したいと思う必要もないと思う

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「自己中」や「自分勝手」と言われると、多くの人は嫌な気分になると思うし、イラっとするのではないか?と思います。私はそんなことはない。私が誰かに「お前は自分勝手な人間だ!」と言われたとしたら、「はい、その通りです」と返すだろう。すると、相手はきょとんとするのではないだろうか?自分勝手や自己中という言葉はたいていの人は言われたくない言葉であり、それを言うことによって相手を否定できる、または言い負かすことができると考えている人もいるかもしれない。そんなときに、「はい、その通りです(それが何か問題でも?)」みたいな態度をとられると、完全に相手の予想を上回る言動になると思う。私は別にそれを言ってくる相手から論破されないためにそう返すわけじゃない。私は本音として、自分自身が自分勝手な人間だと思っているし、認めているからだ。だから、そう返すだけの話なのです。で、当然ながら疑問が出てくる。自己中は何が悪いのか?ということです。別の言い方をすると、人はみんな何らかの部分で自己中じゃないですか?ということです。自己中を治したいと思う人もいるかもしれないが、治らないというか、治さなくて良いと思うのです。自己中は自分が幸せになるために必要な条件だからです。例えば、1番分かりやすい例は法律だと思うのです。法律ってかなり自己中な存在だと思います。だって、それがなぜ正しいのか?なんて根拠は皆無なのに、正しいことと間違っていることを決めちゃうわけですからね。

 

で、ここで問題なのは法律の善悪っていうのは、かなり主観的な部分があるということなのです。例えば、空腹で死にそうなCさんがDさんを殺して食べました。この状況で起きたのはDさんが死んだということです。でも、CさんがDさんを殺さなければCさんが死んでました。という状況だったとします。つまり、このケースではCさんがDさんを食べても、食べなくても、誰か1人は死にましたよね。という話なのです。CさんでもDさんでもない第3者の立場から見ると、1人の人間が死んだ。ただ、それだけです。法律や多くの人の感情を基準にすると、Dさんを食べて、Cさんが生き残るというのは緊急避難などのケースを除けば叩かれると思うんですよ。この場合、他に生き残る選択肢があるだろう!という部分はとりあえず度外視して(Cさんは空腹がいき過ぎてDさんを食べる以外の思考が回らないという設定にしておく)考えているが、1人の人間が死ぬというケースは全く同じなのに、なぜDさんが死ぬケースでは非難されるのでしょうか?その理由があるとすれば、Cさんが生き残るためにDさんを犠牲に許されると、同じケースで自分が犠牲にされることが容易に想像できてしまうからでしょう。つまり、みんな自分が大事なんですよ。その気持ちを否定するつもりもないし、自然な発想じゃないか?と私は思っています。

 

つまり、客観的に見れば、先ほどのケースは1人の人間が死ぬという状況は完全に一緒なのですが、その死ぬ人間が誰になるのか?という部分は多くの人がこだわるってことになります。法律はそういう考えのもとに成り立っているし、その法律を多くの人は正しいと思っているわけです。1人の人間が死ぬという客観的な考えではなく、誰が死ぬか?という主観的な考えのもとに法律は成り立っている。そして、それを多くは信じている。だから、その時点でみんな自己中という表現ができてしまうと思うのです。で、問題なのはその自己中ということは悪いことなのか?ということです。自己中はなぜ悪いのか?これを説明しようとしても私は無理だと思います。できなくはないが、完全に感情論になってしまうと思う。あるサイトにはその人が考えた自己中の定義みたいなのが載っていたのだが、自己中の明確な定義がないのに、その定義を自分で決めている時点で、まずこの人は自己中だと思う。っていうか、正確に言うと、法律とそれ以外で良いことと悪いことを決めていることと大差ないことが実際起きているわけ。つまり、広く見れば自己中に当てはまることでも、自己中と言われたくないがために、自分なりに自己中の定義を狭くして、普段の自分の言動がそれに当てはまらないようにしているのでしょう。つまり、自分は違いますよ?ということを言いたいのだろうが、それはその人の感想であって、それが正しいことにはならないんですけどね。人前で咳をしても何とも思われないかもしれないけど、オナラををしたら白い目で見られるようなものでしょう。

 

どっちもある種の迷惑な行為かもしれないが、咳はしょうがないもの、オナラは慎むべきものという認識が多くの人にあるということ。しかし、その線引きが正しいという根拠はない。人前で咳をする人間はよくて、オナラをする人間は悪いみたいな見方をされてしまうのと同様に、広い定義で言えば自分勝手に当てはまる行為も、線引きをする形で、特定の行為は自分勝手ではないということを言うために、自己中の定義を狭めているのです。でも、何でそんなことをするのか?と言えば、自分勝手ということを悪いことと捉えているからです。悪くないのであれば、人はそれを言われることを気にしないし、そもそもそういう指摘をする人もほとんどいないんじゃないか?「あなたは男ですよね?」「はい、そうです」という会話と同じような状況にならないのは、自分勝手という言葉が非常にネガティブな要素を持っていると思っているからだ。自己中は何が悪い?とか、そういう以前に自己中な人を指摘する人も結局同じじゃないか?って思うんですけどね。つまり、自分勝手に振舞う人は間違いなく自分勝手だと言えると思うのだが、その振舞い方に納得がいかない人は、その人を否定するわけ。でも、否定するってことは、あなたの振舞い方はおかしいという指摘をしているわけで、裏を返せば私たちがしているような振舞い方をしなさい。という言い方になるわけですよね。つまり、このケースでは結局お互いがお互い正しいと思っている振舞い方をしている、させようとしているという話であって、やっていることは同じなわけです。

 

何が言いたいか?っていうと、自己中を悪いことと捉えている限りは、みんなみんな自己中ですと言っているに等しいわけです。だから、それって悪いことじゃないんじゃない?悪いことと捉える必要はないんじゃない?と思うわけです。だから、私はそのように言われても、その通りです。と、簡単に認められるわけ。自己中を治したいという人もいるかもしれないけど、治す必要はないんじゃね?と思います。というか、治す方法ってあるんですかね?普通に生きるだけで自分を優先せざるを得ないので、治したいと言われても、生きると言う前提の上では治しようがないんじゃないですかね?だから、世界平和が無理というのと同じで、みんなまず自分が大切なので、他人は二の次なわけですよ。逆に他人を優先すると、今度は自分が疎かになる。世の中はトレードオフで、全ての人たちが幸せになれるというわけでもないと思いますし、自分が幸せになろうと思えば、その陰で苦労している人たちが必ず生まれると思うのです。それが自然というか、その状況以外を実現する術はほぼないと思うのです。正しいか?どうかじゃなくて、それを受け入れるしかないという状況が発生していると思うのです。人間は確実にいつか死ぬわけですけど、死ぬことが良いことか?という問題とは別に、いつか死ぬという状況は避けようがないわけです。

 

で、私が思うのはみんなもっと自分勝手に生きた方が幸せになれるんじゃね?ということです。だから、ニンテンドーSwicthがYoutuberによって買い占められたってニュースがあったけど、あれも自分勝手な例ですよね。でも、買い占めた本人は転売によって大金を稼げたならば、それはそれで幸せなわけです。それをみんながやれば幸せになれる人は増えるし、みんながみんなやりだせばその方法は通用しなくなるから、また別の方法で儲けられないか?と考えるようになり、幸せになれる人が増えますよね。という話なのです。現状を変えようと思って、革新めいた行動をとる人が増えると思うのです。もちろん、自分勝手な人が増えれば、その煽りを受ける人もいるわけだが、迷惑な部分よりも得られるメリットの方が私は大きくなりそうな気はします。これは全員がそうなるという話ではない。個別のケースは無視して、そういう行動をとる人たちの全体を見たときのメリットとデメリットの総量の比較です。みんな非難されるのが怖いからできないこと、やりづらいことってあると思うんですけど、その萎縮してしまっている部分というのはもったいない気がするのです。

 

別のサイトで、「社会的に成功している人ほど自己中だ」みたいなことが書かれてあったんですけど、それが本当ならばまさに私が言っていることだと思うのです。社会的成功者っていう定義も曖昧で、本当と言えることなのか?は怪しいけど。でも、これって説明は容易にできると思うのです。自分勝手ってことは言い換えれば、自分の利益にならないようなことには手間をかけないってことなんです。損得勘定における取捨選択を非常に効率よくやっているってことだと思います。たまたま今日見た記事で、稼ぐキャバ嬢は挨拶をしないみたいなコラムを見たんですけど、書いてある内容を見ると、へーって感じでしたよ。これも結局同じで、内容を要約すると、稼げるキャバ嬢は金になる客しか相手にしない。それを見極めるのが上手いってことなんですよね。そういう人って嫌われがちじゃないですか?特定の人だけ優しくして、他には冷たい人って、世間一般から言えば、多分支持されない行動だと思うのです。でも、そういう人が社会で成功するっていうのは、ちゃんと理屈で説明ができるのです。

 

あと、他人を幸せにしたいならば自分がまず幸せにならないといけない。という理屈を見たことがあって、これは真理だと思います。公務員の待遇が恵まれているのも同じ理由で、国民の生活を1番に支える職業の人たちの生活が不安定だと、公務員が国民の生活を支えることなんてできない。だから、彼らは相対的に安定した生活をしているのだ。という理屈と同じなのです。したがって、自己中な人が増えれば、その人は幸せになれるかもしれない。で、そうやって幸せになれる人が増えれば、他人を幸せにできる人が増える。世の中で幸せになれる人が増えていくという構図が出来上がると思うのです。嫌われるのが嫌だからと自分勝手になれないと、平均的な人が量産されるだけで、他人を幸せにできる余裕のある人はなかなか生まれないが、他人を出し抜く行動をとる人が増えると、少しずつその幸せの輪が広がりやすくなるのではないでしょうか?独裁の国で上手くいっている(ように見える)国があるのは、そういう理屈が存在しているからだと思うのです。

 

だから、他人から嫌われることを何とも思わない人や他人の目が気にならない人、そして世間で悪いことと捉えられていることの本質を見極められる人というのは、成功者になるため必要な条件の一部は満たしていると言えそうな気がします。自己中は治らないし、治したいと思う必要もないんじゃない?と思います。そういう開き直りの気持ちを持てる人の方が、今の社会は幸せになれそうな気がします。今の社会は、自分勝手はなぜ悪いのか?ということを考えることすらしない人がほとんどだと思う。それは無意識のうちにそれは悪いことだと思っているから。理由を自問自答したりしないのでしょう。または幼いころからそう教え込まれてきたというのも影響していると思うが、そういうすごい些細なことでも疑問に思うって大切だと思います。私は社会不適合者って言われることも全然気にしない(むしろ、社会適合者とは思われたくない)し、本当に世の中の多くの人とは感覚が違う。でも、それは私はプラスだと思っている。他人と違う感覚だからこそ、得られたものがあると思っているから。

 

 

自己中でいいんだよ!: 「良い自己中」だから、自分も他人も幸せにできる

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