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学校の授業や入試科目で古文や漢文はいらない?役に立たない?相対的な比較では正しいと思う

先日のYoutubeのABEMAニュースで面白いテーマを扱ってましたねw今は大学入試の時期ということもあって、「古文漢文が不要である、必要ない」と西村博之氏が提唱し、それについて有名な予備校講師の人などが出演していたのですが、私に言わせれば、受験勉強で必要となる科目って、究極的に言えば全部いらないと思うんですよ。古文漢文だけじゃなくて、全部がいらない、必要ないと思います。でも、それを言い出すと入試ができないのでって話になってしまうのですが(笑)入試は選別だから、くじ引きとか、運任せにしないという前提でいうならば、実力が反映されるものを課さないといけないので、結局はその後に生かされづらい、いらないとか、不要とされるものを学ばないといけないことになりがちである。その中で古文漢文は代表定的なのかもしれない。

 

西村氏は番組の中で、「例えばシングルマザーになって、まともに生きていくことが困難な状態になっている人がいる中で、古文漢文よりも例えば生活保護の申請の仕方など、生きていくうえで必要な知識を身に付けさせることの方が有意義である。まともな生き方ができている人が教養として学ぶならばいいが、時間が有限の中では優先順位をつけるべきであり、古文漢文がそんなに上の方なのか?」みたいなこと言っていました。番組では、予備校講師の吉野氏や東大出身と紹介されている宇佐美氏などが、こういった意見について反論しているわけだけど、結局彼らの反論を見ていると、古文漢文を学ぶ意義を必死に説明しているだけなんですよ(笑)西村氏が問題にしているのは、優先順位の問題であって、意義の有無じゃないんですよね。西村氏が言う古文漢文がいらない、必要ないというのは、古文漢文は相対的に役に立たない面があるから、相対的に役に立つものを教えるべきであり、古文漢文が教養として必要ないとはしてはいません。明らかにこの2人の反論が的外れに見え始めた頃、司会をしている平石アナが間に入ってきて、論点がずれていることを指摘してきましたね。「生きている中で、税金のこととか、知っておいた方が良いことはある」と。相対的な比較の話に戻りなさないよ!といった感じに私には見えました。

 

あとは吉野氏が、「古文や漢文は高校時代に学んだって、どうせ忘れる。何も覚えていない」という指摘に対して、「忘れて良いんじゃないですか!?」と言うと、宇佐美氏もそれに同調していたが、だから・・・(笑)と、私は画面上で思わずツッコミを入れてしまいました。この2人は議論に向いていないと思うんだよね。忘れて良いって言っている時点で、その後役に立たない(古文、漢文の素養がないが問題ではない)と言ってしまっています。つまり、この時点で意義すら乏しくなってますよ。それに忘れたっていいってことは役に立ちようがないものを学んでいる=時間を無駄にしているのですよ。役に立たない者に時間を費やす、つまり時間を無駄にすることを自ら選んでやっているならいいが、実際は強制されているわけですよね。だからこそ、西村氏や平石氏らの優先順位の話が出てくるんですけど、この2人はそれが理解できないのかな?

 

また、宇佐美氏に関しては、西村氏らが言う「時間は有限なのだから、役立つものを優先的に学ばせるべき」という意見に関して、「大人の事情を子供たちに押し付けないでほしい」と言ったものの、すぐに西村氏に「古文漢文をやるべきという大人の事情を子供の頃に押し付けられて僕は嫌な思してましたが?(笑)」と、即論破されてました。この人の言うことは全体的に、趣味でやればいいじゃん?って思うことであって、優先順位の話に絶対に持ってこないですよね。今回の議論では古文漢文がいらない、必要ないというのは、絶対的な話ではないのです。他と比べて役に立たないという話であり、この人は相対的なものの考え方ができないんじゃないの?と思えて仕方ない。「文学にはどうしても興味持っちゃう」みたいな話をしていましたが、だったら何?(笑)という話でしかないのよ。入試科目として、高校で教える内容として、古文や漢文が生活保護や税金のテーマよりも上なのか?という根拠は、彼の話からは特に見られませんでした。ただ、私は古文漢文は趣味でやりたい人はやればいいとは思っているのですが、じゃあ問題は生活保護や税金のことを学校で教えられる教師がどれだけいるの?という話でしょう。入試科目にするか?は別として、教えられる人間がいないと、学校の仕組みは変わらない。現状、そういった部分は教員になるにあたって必要不可欠な素養ではないと思われるので、現実的に言うと学校が変わるのは厳しいというか、相当時間がかかるだろうと思われる。

 

西村氏は番組の中で、コミュニケーションのために現代文は必要としていたが、私は現代文もいらないと思っている。いらないというか、むしろ害悪な科目だと思っているのです。説明すると長くなるので、詳しくは過去に書いた記事「現代文は感情論の集大成!役に立たない、やる意味がないどころか害悪な存在である - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」を見てほしいと思います。ちょっとだけ補足すると、現代文を勉強すると読解力がつくと巷では言われているらしいですが、読解力の有無ってどうやって判断するのよ?(笑)ってマジで思うんですよ。当然ながら現代文は正解があるから、点数の良し悪しで測ることになるんだろうけど、正解が真の正解である保証が私は怪しいと思っています。例えば、実生活で読解力の有無ってどうやって測るの?って思うわけ。要するに現代文の成績と実生活の読解力の結果が比例するならば、現代文を勉強すると読解力が実に付くは言えると彼らは考えていると思うのだが、実生活の読解力ってどうやって判断をするんですか?(笑)強いて言うならば多数決で決まりがちですよね。お前って読解力ないよな!って言う人が10人いて、そんなことないよ!って言う人が1人しかいなかったら、当該人物は読解力がないという扱いになりがちである。現実はそうだと思うんだけど、こんな決め方で良いの?と思う。

 

だって、読解力がないと判断している人に読解力がなかったらどうするの?って話です。要するに、Aのことを読解力がないと豪語しているB、C、Dがいました。しかし、このB、C、DはE、F、Gから同じく読解力がないと思われているような状況が現実的にありえますよね。つまり、実生活での読解力の有無って測りようがないんですよ。当然、現代文のテストの成績で決めては意味がないわけですよね。現代文のテストの成績と実生活の読解力の関係性を調べるにあたって、現代文のテストの成績を実生活での読解力の能力の参考にしてしまっては、そもそもの調査の前提が破綻します。だから、現代文のテストの成績で実生活の読解力が測れない以上、この2つの関係性は未知数としか言いようがありません。つまり、現代文を勉強すると、読解力が身に付くって発想は何の証拠もないのです。現代文の講師とかに判断してもらうという方法もあるけど、実生活の読解力って、入試問題みたいに〇×問題じゃないから、判断すると言っても限界があると思うんですよ。

 

それに最大の問題は現代文講師に適切な読解力がなぜ備わっていると言えるか?です。現代文の講師は読解力が備わっているに違いないと多くは思っているでしょうけど、それに根拠があるんですか?(笑)と思う。元も子もないことを言っていますが、結局現代文の講師になるためには、現代文の講師が作った問題、または解いた問題でいい成績をとらないといけないわけだ。つまり、現代文の講師は同じく現代文の講師に認められないといけない。基本的に現代文の講師って、ある問題を解かせたときに、100人が100人とも答えが一致すると思うんですよ。じゃないと困るというのもあるんだけど。それって、特定の問題を目の前にしたときの思考パターンが一致している状態なんです。だから、同じ選択肢を選ぶと言える可能性がある。

 

でも、そうなると読解力の有無とは無関係に思考パターンの一致という部分で、正解にたどり着けるって可能性が浮上しますよね。ここでいう正解はあらかじめ現代文講師が導き出した、作り出した正解なんですが、その選択肢を選ぶことが最も読解力的に望ましいと言えるか?に関係なく、思考パターンが一致しているからこそ、特定の選択肢をみんなが選んでしまう現象が起きていても、100人が100人とも正解となっている選択肢を選ぶことができるんですよ。というか、思考パターンにズレがあって、正解できない問題があれば、そういう人は読解力が優れているか?に関係なく、現代文講師にはなれません。これは大学の入試問題でも同じです。入試問題は現代文講師が作っているわけじゃないけど、大学側はたいてい正解を発表しないので、正解を考えるのは現代文などを専門に教えている人たちです。だから、読解力に優れているか?に関係なく、過去の現代文講師と思考パターンが同じである人がこぞって現代文講師になっているとしても不思議じゃないわけ。それが起きていない証拠はありません。

 

現代文の講師であっても、特定の正解選択肢が望ましいと言える理由は感情論の域を出ません。その感情論の説明に納得してしまう人が世の中に大量にいるからこそ、成立しているだけの科目なのです。白黒はっきりさせる科目ではなく、グレーの選択肢の中で最も白いものを選ばせるような独特な科目だから、個人のさじ加減でどれが白に見えるか?は変わっちゃいます。あなたはそう思ったのは分かるが、あなたの感覚がまともであるという根拠は誰も提示できません。現代文って、問題作成者は誰からも認められるまともな読解力を持つ存在だという前提がないと、本来は成立しないのですが、その認める側の人間が思考パターンの一致によって、対象の現代文講師をまともだと感じているだけ。その可能性は割とあると私は思っています。これも私の推測なので、感情論でしかありませんが。でも、これはさっき示したアルファベットの登場人物の光景と同じです。実際、東大生って国語(現代文)の成績は良いはずだから、常人と比べても読解力はありそうって評価する人は多いと思うんですけど、宇佐美氏を見てると、やっぱり現代文の成績と読解力って関係ないのでは?(笑)と思えて仕方ない。彼は西村氏が言う「優先順位」という部分を全く理解できていないんですよ。読解力に関して、私(大学受験の模試の国語で偏差値が50を超えることがほとんどなかった)よりも劣っているのでは?と思えて仕方ない。理解しているけど、そこに触れると都合が悪いから無視している可能性もあるかもしれませんが。

 

私は現代文講師を論破する自信が大いにあります。というか、この議論は負けようがないのです。私は可能性を示唆しているだけだから。私は「現代文講師にはまともな読解力が備わっていない可能性がある。現代文という科目は、現代文講師にはまともな読解力があるはずという、根拠ゼロの信頼で成り立っている科目である可能性がある」と、主張しているだけです。つまり、私を否定する場合には、その可能性自体を否定することになるので、可能性が0でないといけないわけです。「私は可能性が1ミリでもあればいいが、私を否定する人間は可能性が1ミリもあってはいけない。どっちが客観的に見て可能性が高いですか?」←これを言うと、私の経験上では全員そこで返信が止まります。こういう論理の展開に持っていくと、100パー議論では勝てます。後半は古文漢文とは関係ない話になっちゃいましたが、私は古文漢文に加えて現代文もいらないと思っています。現代文は必要だと思っている人は世の中に多くいるでしょう。しかし、彼らが読解力を根拠にしているのならば、現代文を学ぶことで読解力が身に付く根拠を、そしてそれを示すデータなどを聞いてみたいと思っています。

 

 

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今後の日本において、バブルが再び到来する可能性は0に近いと思う

日本で言われるいわゆる「バブル景気」は1990年前後に発生していたものです。あれから約30年経ちました。バブルって30年周期くらいで起きるという話を聞いたことがあります。じゃあ、そろそろなんじゃね?と思われるわけですが、起きる気配がありません。30年ほど経つと、経済の中心となる人物が変わる。それによってバブルを経験していない人たち(痛い目に遭っていない人たち)が経済の中心となる。だから、バブルは定期的に何度も起きるんだ。といったことを以前テレビで池上彰さんが言っていた気がします。でも、私は今後の日本でバブル景気は絶対に発生しないと思うんですよ。ネットでは、バブルの再来を待望している人はそこそこ見つかりますが、1990年前後に起きた規模のものはもう望めないと思う。理由はいくつかあります。

 

・「バブルとは何ぞや?」を詳しく理解している人が世の中に増えすぎた

バブルが発生するためには、バブルを知らない人が世の中に多くいる必要がある。または経済の中心に居座る必要がある。これは池上さんが言っていたことですが、私もそれは同感だ。でも、バブルという概念は世の中にかなり普及しているように見えます。直接経験していない人でも、だいたいなんのことか?知っている人は大量にいると思うのです。私は1988年生まれで、いわゆるハンカチ世代の人間なのですが、生まれた当時はバブル全盛期だったんじゃないですか?当時の記憶はないけど。つまり、バブルの状況はリアルタイムでは知らない。経験していない。でも、バブルに対して割と理解している方だと思っています。今はインターネットがあるから、バブルに関しての情報はいくらでも手に入るし、Youtubeとかで著名人がバブルについて解説している動画も山ほどある。オリラジの中田さんとかが有名かもね。バブルを経験していない人でも、バブルに詳しくなれる環境が整ってしまっている。バブルとは何か?何が原因で発生し、崩壊したのか?崩壊後の日本はどうなったのか?そんな状況が文章としてではあるが、理解はできる。バブルが発生するためには、後にバブルと言われる現象が起きた際に、これはバブルではないと信じる層が大量にいる必要があると思うが、それはもう無理だと思うのです。

 

・バブルの概念が普及したことで、崩壊に備える人が増えすぎた

バブルという概念が、バブルを直接経験していない人たちにまで普及したことで、バブルに対する備えができるようになりました。かつての日本で発生したバブル景気の頃は、特に土地は永遠に価格を上げ続けると思っていた人が大量にいたみたいなんです。だから、土地は持っているだけで資産を増やす効果があると信じ、下がる前に売ろうと考えている人が相当少なかったのではないか?と思われます。土地の値段が永遠に上がり続けると思えれば、買い手がいなくなることはないし、買って損をすることもないし。ということで、売る人が非常に少なく、買い手ばかりの世の中になって、価格は確かに永遠に上がり続けるという予測が描けても、不思議ではなかったのかもしれない。

 

でも、土地の値段はあるときから急速に下がり始めました。政府が介入したからです。土地の値段が下がるように画策したのです。そういう歴史も、現代の人は割と知っているんじゃない?ってことで、バブルは崩壊する、永遠に値を上げ続けるものなんて世の中にほぼないのでは?という発想になりやすくなってしまいました。つまり、これはバブルかもしれないと予測し、対策をする人が増えやすくなれば、投機の過熱、そして景気への刺激も起きづらくなるでしょう。それに現代では、当時と比べても銀行への規制が厳しく、自由に融資がしづらい面があるため、そこも理由の1つです。バブルをバブルとは認識せず、崩壊の予測をしない、できない人が大量にいたから、かつての日本のバブルは成立した。しかし、そんな人は現代ではかなり少なくなっていると思う。

 

・現代は投機の対象が広がりすぎた

かつて起きた日本のバブルにおいては、土地と株への投機が進んだと言われています。当時の投機の対象となるものは今と比べると、かなり限られていたと思います。現代は投機の対象があまりにも多い。遊戯王カードなどのトレカとか、あとはレトロゲーム、特に最近はニンテンドーDSなどは熱かったしい。他にも探せば多くあると思うんだけど、投機の対象は確実に分散している。この時期は多くがこぞって不動産に関心を持ったらしいが、分散すると局所的なバブルにしかならないのではないか?と思われます。局地的にしか起きない以上、当然ながら時期はばらけるため、日本全土がバブルだと認識できる状況になりづらい。そもそも土地や株と違って、こういう対象は非常にニッチだと思うので、社会からも注目されづらい。実際、こういった業界で短期的なプチバブルみたいなのは起きているんですよ。遊戯王カードに関しては私は詳しいけど、去年の段階で確かにバブルと思われる現象は起きていた。しかし、数か月程度で崩壊しました。それが定期的に何度か起きています。この数か月程度の間に大きく儲けた人はいたと思いますけど、結局長続きしないですし、もちろん損をした人もいたと思う。

 

それは結局、これはバブルだと実感している人が多くいたからでしょう。遊戯王カードのバブルに関しては、特定のジャンルのカードが高騰している状況下において、すでに「バブル」という言葉が使われていました。つまり、いつか崩壊すると多くが予測していたのです。さっき言ったように、崩壊が予測できれば、あるタイミングで売り抜けようとする層が出てきてしまい、高騰の過熱はいつか抑えられる。株みたいに損をする前に売ってしまおうと多くが考えるわけだから、かつてのバブルみたいに「土地の値段は永遠に上がり続ける」なんて発想を持つ人はなかなかいない。だから、バブルの規模はたかが知れているという状況になる。それは他の業界でのバブルでも同じだと思う。

 

・お金を使うことに消極的な人が増えすぎた

当時の社会状況を、私は正確には知りませんが、お金を使うことに積極的というか、いい意味でも悪い意味でも何も考えていない人が多かったように見えます。とにかく高いものを買ってしまうという心理状態があったようで、日産のシーマが飛ぶように売れたという話も聞いたことがあるのです。当時の買い物の動機の1つが「値段の高さ」みたいだったらしいですから。高いものを何も考えずに買ってしまう。そういう人が増えれば、景気的にはプラスかもしれない。しかし、現代の庶民がそれをやっていたらバカにされる可能性がある。つまり、現代ではやりづらいわけだ。当時と比べて、今はリスクに対して、将来に関して非常に敏感で、無駄なお金は使えないという発想の人が相当増えただろう。この価値観や感覚は今後変わるとは思えない。日本人の平均年収が年々減っていく傾向にある状況を見ると尚更です。1990年前後は銀行も簡単にお金を貸してくれるし、人々は簡単にお金を使うしということで、今と比べたら異常な社会状況に見えてしまう。そんな価値観が大衆に蔓延しているならば、もちろん異常な行動をあえてとる人は少ないので、バブルになりようがないのです。

 

バブル―日本迷走の原点―(新潮文庫)

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東京都市と東京電機のレベルはどっちが上で頭いい?イメージや雰囲気の比較と就職の違いは?

東京都市大学東京電機大学はどっちが上なのでしょうか?どちらも四工大に属している大学で、同じようなランクとして位置づけられていますけど、難易度の比較はどうなのか?どっちがレベルが高いのか?そこに関して理解しておきましょう。東京都市大学東京電機大学の偏差値やレベルを比べると、そういった面が見えてくるのではないでしょうか?ある程度は同じような難易度だとは思うものの、実際の数字を見ていきましょう。そして、東京都市大学東京電機大学のイメージや雰囲気に関しても、同時にチェックしていくと良いです。東京都市大学東京電機大学はどっちがいいか?という点に関しても考えていってほしいと思います。

 

東京都市大学東京電機大学の学部ごとの偏差値の違い

 東京都市大学東京電機大学の偏差値やレベルを比較していきますけど、河合塾の個別日程の偏差値を参考にしていきたいと思います。共通している学部について比較をしていきますが、まずは理工学部です。東京都市大学は45.0~50.0で、東京電機大学は42.5~52.5です。理工学部に関しては難易度は結構近いと言えると思います。ただ、完全に一致している学部というと、この理工学部しかありません。それ以外では近いと思われる系統の学部を比べていきたいと思います。東京都市大学情報工学部と東京電機大学の工学部ですが、前者は52.5~57.5で、後者は45.0~50.0です。これに関しては偏差値にかなり差があります。比較できそうなのはこういったところくらいでしょうか?東京都市大学東京電機大学に関しては学部の系統にかなり差があるように感じるので、レベルの比較が難しいです。だから、東京都市大学東京電機大学はどっちが上か?どちらが頭いいか?に関しての結論を出すのも大変です。

 

2つの学部を比較してみましたが、これだけ見ると東京都市大学の方が難易度は高いと言えそうです。それ以外の学部のこともありますけど、他の学部の偏差値を見ると、東京都市大学は50.0を超えているものがほとんどですけど、東京電機大学は50.0に届ていない学部が多いため、全体的には東京都市大学の方が難しいという結論になるかもしれません。この2つの大学の場合には設置されている学部それ自体にかなり違いがあるので、実際にどっちがいいか?を考えるときには、難易度のみではなく学部ごとの系統をきちんと調べたうえで決めた方が良いでしょう。中堅大学のレベルだとは思いますが、理系の世界では有名ですし、東京都市大学東京電機大学はともに頭いいというイメージを持っている人も世の中にはそれなりにいると思います。したがって、優劣はあるにしても、一般的に言えば結構難しい大学になるのではないでしょうか?

 

東京都市大学東京電機大学のイメージや雰囲気の違いは?

東京都市大学東京電機大学のイメージや雰囲気の違いとしては、キャンパスの場所は大きいです。東京都市大学は世田谷キャンパス、等々力キャンパス、横浜キャンパスがあります。このうち世田谷と等々力はほぼ同じ場所です。横浜キャンパスも含めて住宅街のようなイメージがあるエリアです。東京電機大学は東京千住キャンパスと埼玉鳩山キャンパスがあります。以前は神田キャンパスといって、秋葉原に近い場所にあったのですが、今は存在しません。東京千住キャンパスは東京都足立区にあるので、都会とは言い難い雰囲気です。埼玉鳩山キャンパスも同様でしょう。したがって、キャンパスの立地条件はそれぞれ異なっているものの、イメージや雰囲気の面は多少なりとも近い面があるでしょう。だから、東京都市大学東京電機大学のキャンパスライフはある程度は似た側面がありそうです。そもそも理系の大学は都心に近い場所にキャンパスがあることは稀ですけどね。こういったキャンパスの立地条件を含めて、東京都市大学東京電機大学はどっちがいいか?を考えていくと良いと思います。キャンパスの場所に関しては、各自好みがあると思いますから。

 

東京都市大学東京電機大学で就職に違いはある?

東京都市大学東京電機大学はどっちがいいか?については、就職の部分も考慮しておきましょう。ただ、就職に関して大きな違いは発生しないと思われます。偏差値やレベルは東京都市大学の方が少し高いかもしれませんが、全体的に見ればものすごい大きな差ではないと思います。基本的に就活は大雑把に大学群で見られる傾向にあり、四工大は同じような評価に落ち着く可能性があります。東京都市大学の方が多少評価は高いかもしれませんが、誤差の範囲と言える可能性もあるので、東京都市大学を選んだからといって、一気に有利になるとは思えません。だから、就職において東京都市大学との方が有利になったとしても、わずかだと思われるので、他の部分も考慮して、総合的にどっちがいいか?判断しましょう。東京都市大学東京電機大学は理系の分野では評判が高く、頭いいというイメージが人事にもあると思うので、どちらも割と評価してもらえるはずですが。それに理系の場合には大学名よりも学部学科、専攻の方が重要で、自分が受ける業界とどこまで一致しているか?も問われます。就職の部分まで考えるときには、そこも覚えておいてほしいです。

 

 

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死刑って、かなり優しさに溢れた刑罰に思えてくるんだけど?(笑)

以前、「「犯罪者家族」という都合のいい括りをする日本人って本当に卑怯者だよ(笑) - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」の記事でも紹介したが、私は「親愛なる僕へ殺意をこめて」という作品を読んでいた。2020年の11月くらいに単行本の11巻が発売し、それで完結した。主人公が二重人格であり、父親が殺人犯となっているが、冤罪なんじゃないか?という疑問を解決するために、調査をしていき、最終的にとんでもない真相にぶち当たるというストーリーだったと思う。ストーリーの途中からは、完全に父親は冤罪であるという前提で進んでいき、確か9巻か10巻でついに主人公は真犯人、つまりこの漫画の黒幕を見つける。主人公はいろいろな伝手を頼りながら、この真相にたどり着くのだが、主人公がそもそも黒幕を探していた目的は真犯人に復讐をすることだった。そして、真犯人に会いに行き、実際に殺そうとするものの、直前で躊躇う。それは主人公が、この真犯人が自分を殺そうとすることを望んでいるように感じたから。そこで殺すのをやめるのだ。

 

この真犯人は世間から受けた悪意の存在により、結果的に殺人犯になったのだが、その悪意と同じものを、殺そうとする瞬間に主人公は感じたと言う。主人公が真犯人から悪意を受け取り、それを継承していくことを真犯人は望んでいると。主人公はそう感じたと言っていたのだ。私はこのシーンを見て、ふと思った。というか、実は前から思っていた面もあったのだけど、なぜ人は復讐をする際に「殺人」を選ぼうとするのか?ということです。殺人が毎回選ばれているわけじゃないけど、復讐の手段として、最高峰のモノを殺人と考えている人は世の中に多数いると思う。正確に言えばそう思い込まされているということ。日本だと最高刑は死刑だからというのが大きいのか?殺すということが、罰として最も重い手段だと勝手に思い込まされているのだろう。でも、なぜだろう?復讐の手段として、恨みを晴らす手段として最も重いものは殺人だと考えている人、実際に殺人を選んでいる人は、それ以上の手段なんてないと無意識に考えていると思われる。しかし、殺人が復讐の手段の中で最も恨みを晴らすことができるとなぜ言えるのか?根拠はあるのだろうか?そんな部分を考えたことがある人なんていないと思う。人を殺すことの悪質性は、全て生きている人間の評価によるものだから。実際に殺された人間の感覚は考慮されない。

 

この漫画において、真犯人は過去の殺人事件の容疑者として捕まり、後に死刑判決を受けることとなる。主人公が殺さなくても、結局死ぬことになったわけだ。ただ、漫画のストーリーではそうなっても、現実では当然そうなるとは限らない。自分だけ真実を知っているが、それを客観的に証明する手段がない場合もある。その場合には法で裁けないならば、自分でさばくと、殺人に走るケースが実際にありえそう。でも、殺人って、私は超絶コスパが悪いと思っています。殺せば相手は死ぬわけだけど、死ぬということに一体何の意味があるのか?ということだ。死という要素に関して、人間はものすごいネガティブな印象を持っているし、かなり特別な感覚を抱くだろう。しかし、恨んでいる人間が死んだところで特別な感情があるのか?と思う。大切な人が亡くなったときには、相当な悲しみがありそうだが、死んでほしい人間が死んだところで当然悲しみはない。スッキリするとか、ざまあみろwくらいは思うのかもしれないけど、随分日常的な感情に思えてくる。実際、スッキリする、ざまあみろという感情は他の手段でも全然得られるはずだ。つまり、私の感覚からすると、殺人という手段は自己満足を得るにしても、あまりにもショボいものだと思っている。その代わり、刑罰はかなり重い方だ。正確に言えば、重い方だとされている。世の中的にはハイリスクローリターンな手段に思えてくるんですよね。そんな非合理的な手段を復讐として選ぼうとしている人は、フィクションの中だけではなく、現実でもいるはずだ。

 

そういう意味では、なぜ日本の最高刑は死刑なんだろう?とも思えてくるね。当然政治家だって、思考停止の状態で、死が最も刑罰としては重いものだろうと無意識に思っているのでしょう。死刑に処すということは、その人物は死に至り、それ以降は何の感覚もない状態になる。感覚がないということは苦痛も存在しないはずだ。苦痛がない状態は当然刑罰になりえない。ということは、死刑の刑罰としての機能は、当然死刑に処すまでに完了していないと説明がつかない。しかし、死刑を実行するまでに起きていることは、懲役刑と変わらない。強いて言うならば、いつ死刑を執行されるのか?分からないその恐怖心を日々味合わせることが罰と言うならば、まだしっくりくるが。でも、死刑にならなくても人間はいつか死ぬので、漠然とした死の不安はみんな抱えますよね。実際、日本の場合は死刑が確定しても、執行されるまでには10年とか、20年とか平気でかかる。それって、普通の囚人と変わらくね?と思う。人間がいつ死ぬか?は分からない。そのうちという漠然とした状況の中で生きている。漠然とした状況だからこそ、私たちは日々死を意識することは少ないわけだ。それは死刑囚も同じなんですよね。仮に執行されるとしても、日時があらかじめ決まっているわけじゃないし、どうせ当分先でしょ?と思える。死刑に処される恐怖心をそこまで抱えるだろうか?と思えてきます。

 

そして、実際に死刑当日を迎えたことを知った瞬間に関しても、死刑囚以外でも経験することじゃないか?とは思うがね。余命宣告とかはそれに近い。死刑の場合にはその当日にいきなり執行されるわけだが、それ自体はメリットもあるだろう。要するに恐怖心を抱える時間が短くて済むということだ。また、健康な状態で死ねるので、病気にかかって死ぬときのような肉体的苦痛がない。余命宣告の場合、漠然と死を意識している状態から、具体的に死を意識する状況に変わる。そして、その恐怖心は死ぬまで続く。また、時間の経過とともに身体は弱弱しくなっていき、肉体的苦痛も感じることになるのではないか?と思われます。死刑の方がマシだと思われる面は存分にあると思うのだ。こうして考えると、死刑って、何がどう刑罰になっているのか?マジで分からない。死というものは死刑囚に限らず、全員がいずれ経験するものだが、そのときの恐怖心や精神的苦痛、肉体的苦痛が和らぐ可能性が大いにあるわけだ。死そのものが人にメリットをもたらすことは普通にあると思う。そういう考えに至ることができない人間が死刑を極刑にしたのかもしれない。

 

私からすれば終身刑の方が刑罰としては重く感じますけどね。だからこそ、死刑になりたかったという死刑囚がたびたび出てくるんだと思いますよ。人間は本能で死を避けようとしてしまうが、死を求めている側面は少なからずある。それは死にメリットを感じてしまっているからだ。でも、長年の人類の歴史による遺伝子レベルの洗脳により、死は悪いことだと思い込まされている面があるため、積極的に死を選ぶことができない、選んではいけないと考える人はこの世に多くいるのでしょう。基本的に刑務所暮らしになると、自ら死を選ぶことができない状況に置かれる。個人的にはこれ自体は精神に対する拷問だと思いますが。だからこそ、終身刑は本当にこの世で1番辛い刑罰だと思う。現代では肉体に対する拷問はないという前提ですが。

 

そういう意味では、死刑廃止論とか非常にバカバカしく感じる。死刑って私は十分に恩恵を感じられる刑罰なので、終身刑と比べるとよっぽど温情があると思うんですよ。残酷さはほとんど感じられないです。人間はなぜか死というものに関して非常にネガティブな印象を抱く。それは死というもののネガティブな部分しか見ていないからだと思う。メリットがあるという発想がまずない。だから、死に対してネガティブな感情のみを無意識のうちに抱いてしまうのでしょう。死刑は終身刑と比較すればかなり顕著だけど、死刑にならずに生涯を終える多くの人たちの人生と比較しても、死刑って意外とメリットを感じさせる、随分優しい刑罰にしか私は思えないのよね(笑)見方によっては罰金刑とか、そのまま普通に生き続けることができる刑罰よりも軽いと思えてきます。それは罰金刑に処された人は、死刑による恩恵を受けることができないから。それ自体がデメリットもなりえるのです。人間であれば誰しもが経験する死に備わるデメリット部分を帳消しにするような、見方を変えると魅力が存在する刑罰に思えてきてしょうがない。

 

 

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千葉大と東京理科のレベルはどっちが上で頭いい?イメージや雰囲気の比較と就職の違いは?

千葉大学東京理科大学ではどっちが上なのか?気になる人もいるでしょう。国立大学と私立大学なので、あまり比較されるケースは少ないですが、理系の人であれば両方受ける可能性はありそうです。東京理科大学に関しては千葉県にもキャンパスがありますからね。どっちも有名大学で、偏差値やレベルが高いとされていますが、どっちが頭いいか?どっちが難しいのか?は気になる人が多いと思います。ともに難易度はかなり高いはずですが、学部別に偏差値を比較してみて、厳密に言えばどっちがレベルが高いのか?について調べていきましょう。また、それぞれの大学のイメージや雰囲気などに関してもチェックしていくと良いと思います。

 

千葉大学東京理科大学の学部ごとの偏差値の違い

千葉大学東京理科大学河合塾の偏差値を比較していきますけど、国公立大学と私立大学の比較になりますが、今回は単純比較をしていきます。とりあえず難易度を単純比較し、その後見解を述べたいと思うのです。まず理学部です。千葉大学が55.0~62.5、東京理科大学が57.5~62.5です。そこまで変わらない状況です。次は工学部ですが、千葉大学が55.0~65.0で、東京理科大学が57.5~62.5です。こちらもそこまで変わらない状況でしょうか?後は薬学部ですけど、千葉大学が62.5で、東京理科大学が57.5~62.5です。薬学部に関しては千葉大学の方が偏差値やレベルは高いと言えそうです。共通している学部と言えば、だいたいこんなところでしょう。全体的に見ると、千葉大学の方がやや上という感じです。とりあえず千葉大学東京理科大学の難易度を単純比較をすると、理学部、工学部、薬学部においては、千葉大学の方が難しいと言えそうです。

 

実際は入試形態や科目数が違っているので、難易度の比較は難しい面もありますけど、千葉大学東京理科大学ではどっちが上か?に関しては千葉大学でいいのではないでしょうか?今回は主に理系学部の比較でしたけど、理科大は文系は経営学部しかないので、ちょっと千葉大学の文系学部とは比較が難しいです。文系に関しても千葉大学の方が上になりそうな気はしないでもないですが。どちらも有名大学ですし、千葉大学東京理科大学は頭いいという印象は世間にあるでしょう。特に理系においてはともに評判がいいので、どっちを選んでもいいとは思いますけどね。ただ、両者の難易度を理解したら、あとはイメージや雰囲気の違いも知っておくと良いです。キャンパスライフそのものが変わるので、千葉大学東京理科大学の比較では、偏差値やレベルとは別の部分も含めて、どっちがいいか?を考えてほしいです。

 

千葉大学東京理科大学のイメージや雰囲気の違いは?

千葉大学東京理科大学ではイメージや雰囲気に違いがあります。やはりキャンパスの場所に違いがあり、千葉大学は千葉県内ですけど、東京理科大学は都内が中心です。神楽坂や葛飾にキャンパスがあります。千葉県の野田市にもありますけど、理科大の方がなんとなく都会らしさを感じられ、華やかな学生生活が送りやすいかもしれません。ただ、理系の場合には設備などの環境面が重要でしょうから、そんなところはどうでもいいと考える人もいそうですが。千葉大学はどちらかと言えば田舎のような雰囲気、東京理科大学は神楽坂と葛飾に関してはやや都会的な雰囲気を感じられる可能性があるでしょう。そういう部分でイメージや雰囲気の違いはあります。しかし、さっき少し話しましたけど、設備面がやはり重要で、その点に関しては基本的には国立大学の方が上と言われています。だから、勉強をするにあたっては恵まれていると感じるのは千葉大学かもしれません。両者は偏差値やレベルに差がありますけど、実際に入学した後の部分でも違いがあるため、千葉大学東京理科大学はどっちがいいか?を考えるときにはこういう部分も考慮しておくと良いでしょう。

 

千葉大学東京理科大学では就職に違いはあるのか?

千葉大学東京理科大学では難易度に関しては多少なりとも違いはありそうです。すると、就職にも違いがあるのではないか?と考えるでしょう。大学のレベルとしては千葉大学の方が上と言える可能性があるので、人事も同様に思っているかもしれないです。すると、理系に関しては千葉大学の方が有利とは言えるでしょう。文系に関しても千葉大学の方が多少難しいと思われるので、同じ感じになりそうです。偏差値やレベルで言うと、見た目は同じくらいですけど、負担などを考慮すると千葉大学の方が上と言えなくもないので、就職において千葉大学東京理科大学はどっちがいいか?というと、千葉大学という結論になるでしょう。とはいっても、どっちも理系では評判が高いですし、人事も頭いいと思ってくれる大学のはずなので、大きな差にはならないかな?とは思いますが。それに理系の場合には大学名よりは学部学科、専攻が重要で、自分が受ける会社の業界といかに一致しているか?という点も求められます。だから、そこまで気にする部分ではないかもしれないです。

 

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君が生まれ変わるRPG/人間同士の対立の解決策は皆無だと教えてくれるRPG

私は最近まで、「テイルズオブリバース」をプレイしていました。2004年に発売したゲームなので、結構前ですけど、当時買おうか?迷ったんですよね。高校1年の冬休みに、中学時代の友達と秋葉原に遊びに行ったときに、どこかの店ですげー安売りしていて、新品が2980円くらい(定価は7000円くらいだった気がする)で売っていたので、そのときに買おうかな?と思ったのですが、結局買いませんでした。その後15年くらい経って、中古で500円くらいで買いましたが、やってみるとテイルズらしいストーリーという印象でした。どっちかという大人向けで、いい意味でも悪い意味でも現実味のある話だったと思います。ジャンル名は「君が生まれ変わるRPG」です。このテイルズオブリバースでは、いわゆる人種間の対立の要素が登場します。作品内ではヒューマとガジュマという架空の種族が登場し、ストーリーが進んでいくと対立が激しくなっていくのです。

 

主人公や一緒に旅をしていくメンバーは、ヒューマやガジュマという区別をくだらないものだと思っており、見た目が違ったって人間はみんな心は同じだろ!何バカなこと言ってんだ!?といったスタンスです。1人を除いてはね。主にパーティーになる人間が6人いるわけですが、うち4人はヒューマ、1人はガジュマ、そして残る1人はヒューマとガジュマのハーフでした。このハーフのキャラが他の登場人物とはやや違った形でこの人種問題を捉えていきます。しかし、人種の違いを気にすることはない!見た目が違ったって、人間はみんな同じだろ!と主張していたメンバーは複数いたものの、彼らは後にとんでもない大ブーメランを食らうことになるわけです。そこが壮大なストーリーの中で、個人的には1番印象に残っているシーンです。シーンというほどでもないんですけど。処刑台を目の前にしたときのあの人の大演説があった後の些細な場面です。その大ブーメランは何か?というと、重要なネタバレになっちゃうんで、以下は見たい人だけ見てください↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実は主人公の幼馴染であるヒロインは、このゲームの世界の女王陛下に身体を乗っ取られます。というか、お互い身体が入れ替わってしまう状況になるのです。この女王陛下はガジュマに当たる人物であり、自分の見た目に多大なコンプレックスを抱えていました。したがって、ヒューマの肉体、特に美しい女性の肉体が欲しかったのです。その結果、主人公の幼馴染が偶然その候補に選ばれ、女王陛下はある力を使い、彼女の身体を手に入れることに成功します。一方で、ヒロインは女王陛下のガジュマの見た目となってしまうのです。そして、その事実に主人公たちがついに気付きます。しかし、彼らがその後どういう行動をとったのか?というと、どうすればこのヒロインの身体を元に戻すことができるのか?その方法を探すことだったのです。当然の発想と言えば、そう見えるものの、このゲームのストーリーを踏まえると、彼らはおかしいことを言っています。彼らはヒューマとガジュマの見た目の違いなんて関係ない!心は同じなんだから!と豪語していたのです。見た目にこだわらないはずの彼らが、ヒロインの見た目を戻そうと躍起になるのです。こだわらないなら、そのまんまでいいじゃん!でも、主人公はその後幼馴染の見た目の部分で葛藤し続けるシーンが実際にあります。

 

当のヒロイン本人は、必ずしも元に戻りたそうな雰囲気には見えません。結構この見た目を気に入ってるんじゃ?くらいの状況に見えたのです。というか、このヒロイン自身もヒューマやガジュマの見た目の違いなんてどうでもいいスタンスのキャラだったんですよ。だから、本人が元に戻りたいなんて思ったら、それもおかしいはずなんですがね。でも、このヒロインは主人公らの反応とは違い、自分の今の見た目を気にしている素振りは見せません。つまり、客観的に見て身体を元に戻さないといけない理由が存在しないのです。しかし、主人公や周りの人間の一部はヒロインの見た目に明らかに違和感を覚えています。違和感を覚えている時点で、人間は見た目の部分が確実に心理面に影響するって、自身で認めてるってことになりますけどね。そして、主人公は心はそのままだとしても、幼馴染の見た目の違いをどうしても受け入れることができない。そんな気持ちが無意識に出てしまった言動なんでしょう。ただ、あれ?人種の違いとか、見た目の違いとか気にしないってのは嘘だったの?他人事だからこそ言えたの?単なるきれいごとだったの?というツッコミが、プレイ中に私の脳内を駆け巡っていました。

 

主人公らは人種や見た目の違いなんて関係という、差別否定派の人間に見えて、実は無意識のうちに差別的な言動を起こしてします。これは現実でも十分に存在する状況です。差別を否定している人が実は差別行為を働いている。全然あるでしょうね。そんな現実を風刺しているような状況だと、私は勝手に解釈しました。作り手がそのような意図で入れたシーンか?どうかは分かりません。でも、主人公らの言動は、正直言ってリアルな反応だと思っています。人間の見た目をしていた人物がいきなり獣人になったら?そんな状況を受け入れられる人はそうはいないでしょう。自分の見た目が一気に変貌するわけですからね。ある日起きたら自分や友達、家族の肌の色とか、顔そのものが変わっていたら?これをいきなり受け入れられる人は現実ではあまりいないのでは?と思います。見た目の違いがくだらない!と思っている登場人物らの発言は、完全にきれいごとと私は評価しているのです。

 

また、さっき言っていた大演説というのは、このヒロインのものなのです。女王陛下に見た目がなってしまったことで、ヒューマによって虐げられている状況にあるガジュマの人たちから頼られ、結果的にヒューマとガジュマの対立に終止符を打つべく、ある演説を行ったのですが、その演説の内容は、人間は種族や見た目が違っても心は同じであるというものでした。結局、主人公たちの考えていることと同じなのです。例えば、楽しいときには笑い、悲しいときには涙を流すといった感じで、人間の心の在り方は同じであり、人種は特に関係ないということです。そうやって、人間は根本的には違わないという内容で演説を行うわけですけど、正直言って、この演説は私は全く響かなかった。この演説に感動した!という声はネットで割と見つかるものの、私は「え?どこが?(笑)」って感じでした。違う、違わないというのは、感覚の問題になってしまいます。それに明らかな違いを見つけられてしまったら、反論のしようがありません。

 

例えば、特定の人が死んだときには悲しむ人、暗い気持ちになる人が多いものの、喜ぶ人もいますよね。その死んだ人物に対して、あらかじめ憎しみや嫌悪の感情を抱いていた人の場合には、多くの人の反応とは違うものとなります。そもそも嫌悪や憎悪の感情がないとしても、人の死に悲しい感覚を抱かない人はいるかもしれませんが。ただ、人の死を目の前にしたときのこの感覚の違いは、当然ながら種族による違いではありません。じゃあ、これを肯定するのか?ということです。人が死んだときに、みんなと同じような反応をするのも、みんなと違う反応をするのも、どちらも種族は関係ない、この状況は人間だからこそ起きる反応と言えてしまいます。人間を種族に関係なく一律に見るのではあれば、人が死んで悲しむのも、喜ぶのも同じ人間として評価しなければなりません。この場合、人が死んで喜んでいるなんて最低だ!という意見は間違っているってことです。人が死んで悲しむのが正しいならば、喜ぶのも正しい、そういう評価をしないといけないのです。しかし、現実はこのような両者の評価が同じになることはないでしょう。でも、人が死んで喜ぶ人は、こういう事態を悲しい場面とは捉えていない(嬉しい場面だと捉えている)だけなんですよ。悲しいという感覚自体がないわけじゃないのです。その人にとっての悲しい場面に遭遇したらちゃんと悲しむんです。泣けるんです。だから、人が死んだときに喜ぶ人は、嬉しいときには笑い、悲しいときには泣くという演説の内容と矛盾しない人物像になってしまいます。

 

結局、人間はみんながみんなどこか違うんですよ。それは心そのものが違うというよりは、生きている境遇や環境が異なるから。人生そのものが違うからです。生きてきた人生が違えば、そこから育まれる心、何が正しい、何が間違っているという価値観などの面で差が生まれやすくなります。そして、みんなの人生を全く同じにすることは不可能でしょう。だから、心や感情の部分で一致する部分はあるにせよ、違う部分は少なからず生まれるはずです。共通点を見つけようと思えばいくらでも見つけられると思いますよ?しかし、それは違いを見つけようとしたときでも同じなんです。特定のシーンにおいて発生する感情の一致または違いというのは、種族の違いによるものではないというのは正しいでしょう。ただ、これは種族の違いではないシーンを取り上げただけであり、種族による違いであるシーンを持ってくることは恐らく可能だろう。

 

そもそもこのゲームでは、例えば、ヒューマとガジュマの労働における待遇の差別のような面も取り上げられている。ヒューマはいわゆるホワイトカラー、ガジュマはブルーカラーのような役割を強いられており、そこに反発するガジュマ、それは能力の差なんだからしょうがない!と主張するヒューマという構図がある。演説ではヒューマとガジュマの心に違いはないと言われていたが、心に違いがないからこそ、こういう差別が生まれるんじゃ?と私は思う。だって、人間って得したいし、楽したいって思うじゃん?これって、種族に関係なくみんな思うじゃん?じゃあ、ヒューマが抱えているガジュマをこき使うような精神は、ガジュマがホワイトカラーの側に立っても持つんじゃ?ってことですよね。つまり、人間が自分は得したい、楽したいという感情を持ち、それが種族に関係ないとしたら、この感情はヒューマもガジュマもともに持つので、この構図は立場が入れ替わることはあっても、構図それ自体は消えないとなります。

 

つまり、ヒューマとガジュマの能力が逆転するようなことがあったときには、ヒューマとガジュマのホワイトカラーとブルーカラーの立場が逆転するだけ。搾取する側とされる側の構図それ自体は永遠に残り続けるのでしょう。だから、この演説の内容を肯定すると、私に言わせれば対立は永遠に消えない、状況は変わらないと思うんですよ。人間には欲望を満たしたい、優越感を得たいという感情がありますからね。この感情は種族による違いはなく、確かに人間ならばみんな持っているでしょう。これはゲームだから、作中ではこの演説で心を動かさられる人が多く出てくるという設定になっているわけだが、現実では反論される可能性は相当高いと思う。そういうわけで、私からすれば反論が容易な演説にしか聞こえなかった。論理がガバガバというか、そもそも論理がない。演説を行ったヒロインの感じたことをそのまま述べただけ。だから、部分的には感覚的には正しいと思えなくはないが、所詮は感覚の問題でしかない。それに共感できるとしても部分的なので反論の余地が大きすぎるのだ。

 

本当に人種間の対立をなくしたいならば、人間はみんな違うものだという部分を認めさせるのが先決だと思う。私なら「違わないではなく、違うんだ!」という方向性の主張をするでしょう。人間はみんな違うのが当たり前であり、違いがあって何が悪い?です。これはさっき出した、人が死んだときの反応の例と根本的に同じです。ヒューマだろうが、ガジュマだろうが、聖人だろうが、殺人鬼だろうが、みんな人間であり、人間は何かしら違う。そこは同じだと、私ならそういう方向性で説く可能性が高いと思います。その違いの中で特別視をしてしまうから、結局差別や対立が生まれるのです。現実で言えば、殺人鬼は確実に差別されるでしょうけど、そういうシーンが当たり前に存在し、それを問題ないこと、正しいことと思う人が大半を占めるならば、差別はいけないことという大前提の中において、何らかの特別な差別は許されるという例外を作ることになり、例外の範囲が個々人の都合によって大きくなり、差別は拡大していくわけです。人種の問題はその例外の1つじゃないか?と思っています。だから、本気で人種間の対立などをなくしたいならば、私は人間を全て平等に扱う気持ちが重要でしょう。それは殺人鬼なども含めて。そういう姿勢がないと無理だと確信している。殺人鬼と自分は同じ人間であると、誰もが認められるような社会になれば、違いを意識する人がいなくなり、差別という概念すらも消えるんじゃないか?と思う。でも、そんな状況は私はやってこないと思っています。

 

これは私みたいにレッテルに何の意味もないことを理解している人間ばかりじゃないと無理なんですが、世の中の大半の人間はレッテルを気にすると思う。殺人鬼と同じと言われたら怒るんじゃないですか?私は怒りませんけど。お前のやったことは殺人鬼と同じと言われても、私はそれで殺人を犯したことになるわけじゃないし・・・というスタンスなのですが、マイナスのレッテルを貼られると、それに何の意味もないことを理解する前に、無意識に拒否してしまう人が現実的に多いのです。結局、人間はレッテルという呪縛から逃れられない。このテイルズオブリバースの実況をしている人の動画を見てもそんな感じだ。いわゆる悪役のキャラに対して、レッテルを貼る言葉が無意識に出まくる。

 

この作品はいい意味でも、悪い意味でも現実を表している。ゲームはハッピーエンドにも見える状況で終わらせることは可能だが、現実はなおも問題が残ったまま。あくまでもゲーム作品としては、私は面白かったと思う。それはストーリーそのものだけではなく、他の要素も含めて。ただ、ゲームの世界はゲームの世界でしかない、ゲームの世界はいくらでも都合のいいように収束させられる。しかし、現実は相変わらず悲惨である。そんな事実を改めて突き付けられたような気分になりました。人間同士の対立は現実にもあるし、その理由は様々だ。そういった対立はこれからも続くだろう。それが解決することは永遠にやってこないと思う。人間にとっての対立は自然な状況だと思えるから。

 

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国旗損壊罪という謎の法律の正当性、必要性が意味不明すぎるんだけどw

最近になって、「国旗損壊罪」という法律が制定されるのでは?という気配があるようですが、ABEMAニュースでは数日前にその議論がされていました。私はたまたまそのアーカイブ動画をYoutubeの公式チャンネルで見てみたのですが、法律の制定に賛成の立場を示している自民党の長尾孝という議員と数人のコメンテーターが出ていて、法律の是非について話し合っていました。私はこの国旗損壊罪について、率直な意見を述べさせてもらうと、理屈が意味不明wwwとしか思えないんですよね。賛成、反対以前の問題というか、この法律は日本の国旗を損壊することによる、日本に対する侮辱行為を罰する法律となっています。ただ、当然ながら、日本って人間じゃないですよね?(笑)この部分は動画内でも一部触れられているのですが、人間じゃない、実体がない、意志もない、そんな対象に侮辱って発想が意味わからないのです。侮辱された対象が傷つきようがない時点で何が問題なの?と思う。侮辱的な発言をすることはできますよ。例えば、その辺の石ころに対して、「ブサイクな見た目してんな(笑)」と言うことはできます。でも、これって問題にならないじゃないですか?

 

でも、日本という同じく人間ですらない、実体がない、意志がない、感情がない存在に対して侮辱をすると何が問題なの?と思います。そりゃ理由は想像できますよ。むかつく人間がいるからですよね?日本という、国または国家、言葉でしか存在できない、実体を確認できない、謎の存在に対して侮辱をすると、なぜか怒る人がいる。それが理由だろうなという想像は容易につくものの、なぜ怒るの?という疑問があります。この番組に出ていた芸人のパンサーの向井さんは、この法律に全面的に賛成であると、国旗が燃やされたりしたらやはり気分が悪いと言っていたのだが、私がスタジオにいたら彼に聞いてみたいですよ。なぜ不快になるのか?と。これに関しては、長尾議員が「帰属意識」というワードを使っていたので、恐らくそれが理由になるのではないか?と思います。帰属意識っていうのは、別の言い方をすれば共通点ですよね。日本人と日本という概念は全然別です。しかし、日本という国にずっと住んでいる人間からすれば、日本と概念に対してある種の共通点を抱き、そこに対してこだわりを持っているわけです。だから、その日本が侮辱されると怒りたくなる。そういう仕組みなんじゃないですか?例えば、男性差別のニュースが流れると、男性が怒るっていうのと同じ仕組みでしょうね。

 

でもさ、例えば、日本人の犯罪者が侮辱されていて、じゃああなたは怒るの?というと、向井さんは怒らないと思うし、他の日本人も同様だと思う。でも、日本人の犯罪者は同じ人間じゃん?同じ日本人じゃん?あとは出身地とか、年齢とか、性別とか、場合によっては共通点ありまくりじゃん?って、私は思います。強いて言うならば、犯罪者を侮辱している人は、「日本を侮辱したのではなく、犯罪者という部分、犯罪という部分に侮辱を加えたんだ!だから、違うんだ!」と言うかもしれません。でも、それって国旗を燃やした人も同じでしょ?(笑)と思います。だってさ、国旗を燃やしたり、破いたりする人って、燃やしたり、破くこと自体が目的ではないでしょ?何かしら日本に対して嫌悪や憎悪を覚える出来事があり、それに対する憎しみを表す表現として、そういう手段を使っただけなんですよ。日本の国旗を損壊させる行為は、結果的に日本を侮辱し、帰属意識がある日本人を怒らせているているようにも見えるが、日本人の犯罪者を侮辱したら、その犯罪者は日本人なんだから、(犯罪者である)日本人を侮辱しているのも同じだ。

 

結局のところ、彼らが国旗を燃やすという手段を通じて侮辱しているのは、日本そのものではなく、日本に備わる何かの要素なんです。差別をされたことで怒った人がいて国旗を燃やしたならば、その人は日本に存在する差別意識に対して侮辱を行った、怒りを表したと見るのが適当である。実際、差別に怒って国旗を燃やす人はいるかもしれないし、そんな人がいたときには、当然ながら差別をしない日本人に対しては怒ってないわけでしょ?怒りの矛先は日本人であるか?ではなく、差別をするか?になりますよね。だから、国旗を燃やすという手段は、厳密に言えばケースバイケースで侮辱する対象が違う。それをひとまとめにしてしようとするから、国に対する侮辱なんて見方しかしかできないんだよ。

 

仮に日本そのものではないとしても、日本が絡んだ侮辱そのものがダメだって言うならば、日本に落ちている石ころや日本人の犯罪者を侮辱するようなケースがなぜいいのか?をぜひ聞いてみたいですが(笑)ただ、国旗を燃やされて怒る人ってのは、まさにこういうタイプの人間ってこと。侮辱された対象を正確に把握できていない。だから、日本を侮辱したことが理由であるならば、実際に日本の国旗を損壊させた人に理由を聞いたうえで、怒りの矛先が日本そのものなのか?それともその中の何かなのか?の区別をし、前者であった場合にのみ処罰するのが妥当だろと。ただ、国旗を燃やすというやり方はそういう勘違いをされる可能性があるんだから、できればやめた方が良いとは思うけどね。具体的に言葉で理由を添えて、論理的に抗議をすべきだと思う。以上のような理由で、私は日本が侮辱されて怒る人が、日本人の犯罪者が侮辱されて怒らない理由がよく分かりません(笑)

 

あと、長尾議員は国旗損壊罪の制定の理由として、国への敬意を示すということを何度か言っていたのだが、国への敬意はこの法律によっては実現されないでしょう。敵意を持っている人が国旗を損壊するわけで、法律を制定してそれを防止したとしても、敵意は消えません。敬意になりようがないのです。さらにこの番組出演していた若新友純氏が最後の方にぽろっと言っていたんだけど、「保守層の主張は理屈じゃない、なんかそういうもんじゃん?という部分で戦っている」ということを言っていた。向井さんや長尾議員の意見を聞いていると、そんな感じですよね(笑)これが普通とか、本人はそう思っているみたいだけど、具体的な理由が見えてこない。自分の感覚は普通である、まともである、だから自分が感じたことは理由を考えるまでもなく正しいんだ!おかしくないんだ!そんな雰囲気が私は見て取れたんですよね。

 

若新氏は感情で彼らは話すから論破しようがないと言っていたが、根拠を問うと論破って割と余裕だと思うんですよね。私の体験を含めるとね。論理が存在しない意見は、比較をしやすい。つまり、じゃあこれはどうなの?と言えてしまう。そのうえで感情論を言ってくる層は、それとこれとは違うとだいたい言ってくるのだが、こちらとしてはどう違うの?と聞く。さらにはその違いは結論を変えないといけない違いだとなぜ言えるの?と迫る。つまり、「なぜ?」と突き詰めて、論破までいけなかった人って私の記憶上存在しないですね。論破とは何ぞや?という部分があるにせよ。私の主観で良いならば、論破までいかなかったケースって記憶にないです。保守層が強いってのは、単純にその数が多いこと、そして、こういう迫り方を彼らに対してする人が世の中にほとんどいないということが原因なんじゃないか?と思います。国旗損壊罪に賛成する人が世の中で多数派なのか?は分かりませんが。

 

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