就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

採用時に学歴を偽ったことが後に発覚してクビって意味わからんよね(笑)

ネットサーフィンをしていたら、たまたま高卒募集の公務員の採用試験に実は大卒者が応募し、採用されていた事実が発覚し、その公務員が懲戒免職を受けていたというニュースを発見した。このニュースは3年くらい前のものなのだが、ホリエモンが「あほくさ」とツイートしたことでも、当時話題になったらしい。今回のケースは大卒なのに高卒であると偽った、つまり学歴を低く申告したという状況で、ちょっと珍しい。しかし、公務員試験ではこういう状況は実は割とある。公務員試験の場合、高卒枠の方がいろいろと有利なことがあるんですよね。1番大きいのは筆記試験の難易度かな?一般的な市役所や県庁の職員の場合、大卒の場合にはいわゆる教養科目に加えて、専門科目の試験も出題される。これは法律、経済、政治、行政などの大学生が大学で学ぶような内容の科目だ。しかし、高卒の場合には、専門科目はない。教養科目という、大学受験であるような科目のみが出題される。したがって、出題範囲が約半分になる。そして、専門科目の方が勉強が大変なんですよ。そんな理由で高卒枠で採用されたいと考える動機は十分にあるだろうと。

 

ただ、今回はそこが問題ではない。ホリエモンが言った「あほくさ」に近い感覚かもしれないが、私はそもそもこの公務員を懲戒免職しないといけない理由って何?と思う。嘘をついたということが理由なんだろうが、その嘘が何か問題を引き起こしたの???と思う。このニュースを見たとき、私はファイナルファンタジー10のあるシーンを思い出してしまった。FF10にはリュックというアルベド族の人種のキャラが出てくる。そして、このアルベド族が大嫌いなワッカというキャラも出てくるのだが、この2人はともに主人公のティーダらと一緒に旅をしている仲間であった。しかし、リュックがアルベド族である事実はワッカにはあえて教えていなかったんだけど、それがある日バレてしまう。当然ながらワッカは激怒するが、この後あるキャラ(ティーダだったかな?)が、ワッカに対して、「リュックとお前は今まで仲良くしてきたじゃないか!アルベド族であることの何が問題なんだ!?」と詰め寄る。アルベド族とだって仲良くできるということを、ワッカは自身で証明してしまっており、仲良くしてきた実績がある以上、アルベド族を嫌悪する客観的理由を提示できなくなってしまったのだ。今更彼がリュックがアルベド族であるレッテルに対して怒る理由はないということなのだろう。つまり、ワッカは問題ない要素を勝手に問題だと思っていたと言える。

 

さて、今回のケースはどうだろうか?この学歴を偽った公務員は実は懲戒免職を受けた時点で、すでに40年近く勤務している。その間の勤務の状況がどうだったのか?は不明ではあるけれども、何か致命的な問題が起きたとは到底思えないし、そんな事実も書かれていなかった。となれば、そもそも高卒資格で募集した採用試験に大卒者が応募してくることの何が問題なんだ?ということになる。逆に嘘をつかないで採用された(とされている)人の中には致命的な問題を起こした人が少なからずいるはずだ。嘘をつくことが問題というのは、嘘をつくことによって何か問題が起きるという前提が必要だろうが、今回の場合は何が問題だったのか?そこが謎です。また、他のケースでもどんな問題が考えられるというのか?ここを明かすべきでしょう。嘘をつかない人間なんかいないでしょうからね。嘘をつくのがダメなら、採用できる人間は1人もいないと思うんですよ。他の嘘がよくて、この嘘がダメな理由って何?って思うんですが?(笑)合理的に説明してくれるんですかね?(笑)志望動機で嘘つく人は問題を起こさず、学歴で嘘つく人は問題を起こすという、因果関係でもあるんでしょうか?仮に学歴作業が発覚した人間は懲戒解雇というルールがあったとしても、そのルールの合理性が意味不明となる。採用試験なんて、民間企業も含めてどこもウソつき大会でしょうよ(笑)

 

何年か前に、無免許運転で人を殺した裁判で、その判決内容に世間から疑問が投げかけられたことがあった。それは危険運転致死傷罪がなぜ適用されないのか?という部分で、この裁判では結果的にさらに軽い罪名(具体的な罪名は覚えていない)で裁かれることになった。しかし、危険運転致死傷罪には「未熟運転」という項目がある。これに無免許運転は当てはまっているだろ!と声をあげた人もいたらしい。しかし、この裁判官は、無免許運転をした当該被告人は、日頃から無免許ながらドライブを趣味にしており、運転技術に関しては熟練があったと述べたらしい。言われてみればそうだねえ。と、当時の私も納得した覚えがあるけど、免許を持っているか?どうかは必ずしも熟練度にはつながらない。免許を持っていても運転する機会が日頃ほとんどない人もいるだろう。そんな感じで、世間が求める危険運転致死傷罪の適用はなかったというわけだ。この判決には、「世間の常識とかけ離れている」という抗議もあったようだが、そもそも世間の常識が正しい前提もないでしょうに(笑)なんで世間の人たちはさ、自分が正しいスタンスなの?と思うと同時に、世間の常識とかけ離れていて何が問題なの?と思いました。法律は大衆のご機嫌取りのためにあるんじゃないんですよ。

 

ちょっと話はそれだけれども、要するに当初は問題がある状況だったとしても、その問題がない程度に変化が起きたならば、その手続きに瑕疵があったという事実はさほど関係ないという点を裁判所が示したことになる。無免許で運転をしていたという事実は、今回のケースで言えば嘘をついた部分に当たるだろうが、無免許だろうと、運転技術の熟練に関しては問題ないと言えてしまう。実際、この被告人は日々の中で運転技術を磨く機会があったわけだから。そして、今回のケースでは、高卒の仕事を大卒がやって何か問題が起きるのか?という話になるがね。運転技術の熟練度の差は事故の確率に影響するだろうけど、公務員の仕事と学歴において、そういう問題はあるの?と思う。高卒のみを募集する事情は恐らくあるんだろうが、その事情を無視して、嘘をついた人間は、結果的に40年近く、致命的な問題なく勤務してきた(と思われる)状況なわけだ。今更クビにしないといけない理由ってなんだ?と。問題なく勤務をしてきた事実があるならば、嘘をついた人間を懲戒免職しないといけないルール自体が非合理的だと証明される。そして、採用時に学歴を偽った人間とそうじゃない人間の間で、公務員としての能力に明らかな差があったと言えるデータでもあるのか?と、クビを決めた人に問うてみたいです。

 

 

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不特定多数が乗り入れる電車内にて、飲食の是非のトラブルが起きる状況は正常である

この前、たまたま家にあったこち亀の190巻を読んだら、その中に確か「電車で食べたい」とか、そんなサブタイトルだったと思うけど、両津が電車内で飲食をするという回があったのです。両津は電車の中で牛丼を食べていたところを大原部長に目撃され、その話を派出所でしていたら、中川や麗子も話しに入ってきたというストーリーです。両津はとにかくスケジュールが分刻みで時間がないから、電車の中で食べるしかないと主張していた。しかし、部長は電車の中のような公共の場では飲食はすべきではない、それが常識だと言っていた。詳しい内容はぜひ漫画を読んでもらいたいけど、私は部長の言っていることには賛同できない。まず公共スペースが飲食禁止ならば、当然駅のホームも公共スペースなのでダメだ。ただ、部長は駅のホームは食べて良いって言っていたんですよ。それは売店があるから。でも、売店があっても、公共スペースには変わりないじゃないですか?それに公共スペースがダメなら、新幹線もダメでしょう。でも、新幹線で飲食がダメだと思っている人は少ないと思う。それは車内販売もしているし、車内で食べる文化が出来上がっているから。

 

でも、公共スペースだからを理由にすると、駅のホームも新幹線も飲食禁止じゃないと辻褄が合わない。現実における在来線の車内で飲食がよくないとされている理由を調べてみると、例えば臭いがきついとか言われています。この臭いに関しては駅のホームはともかく、新幹線内もダメだろうと思う。密閉空間なんだから。それに駅のホームは密閉されていない(地下にある駅は密閉に近いと思うけど)としても、結局近くに人がいる状況であれば、車内で食べるのと変わらないでしょ。だから、駅のホームも結局NGにすべきだと思いますけどね。それに離れていればOKならば、車内も空いてればOKって話になりますよね。そんな感じで、私は車内で飲食禁止というのは、非常に訳が分からない俺ルール(マナー)だなと思っています。この回では、両津が中川に頼んで、中川鉄道で飲食専用車両というのを作るのですが、それがかなりウケる状況となるわけです。この車両だけは飲食自由であり、テーブルとか自販機なども置いてある光景で、ここを利用する人たちはみんな弁当などを持参して乗り込んできます。結果として、かなり評判となるのです。これは現実にあったら面白そうだなと思えてきますよ。また、最終的には両津が男性専用車両も作れ!と中川鉄道に迫るのですが、その男性専用車両というのは、多くがイメージするそれとは全く違うものとして実現するのです(笑)

 

現実世界ではこの飲食専用車両というのはまず実現しないと思うが、仮に実現すればこの問題は解決するというか、今後衝突は起きづらくなりそう。ただ、実際はそんなものはまずありえないため、電車内での飲食のトラブルなどは今後も続くはずだ。不特定多数が乗り入れる電車という場所を考慮すれば、トラブルが起きない方が異常とも言えるんだろうけどね。意図的に実現しようとしなければ、実現する気配が見られない平和な社会とやらも、実は異常な状況であるのと同じだろうか。この場合の異常という言葉は必ずしも悪い意味ではないけど。平常ではないという意味の異常だからな。電車内の飲食は鉄道会社がルール化しているというよりは、お願いとして協力を求めているような状況ではないか?と思う。お願い程度ならば、それに絶対に従わないといけない根拠もないので、守らない人も出てくるのだろう。前にコンビニの成人向けの本について書いた記事でも言ったと思うけど、個人的には不特定多数が集まる場所には、不特定多数の願望が集まるのだから、いろいろな嗜好、または事情を抱えた人が集まるのが当然だろうと思う。それが公共の場というものだ。だから、不特定多数を相手に商売をしているコンビニが、不特定多数の需要を満たすように商品を置くのは当然と言える。コンビニに成人向けの本を置いている状況を批判していた人たちは、「不特定多数」という言葉を盾にしていたが、それはむしろコンビニがそういう本を置くことの正当性になると思います。コンビニはビジネスでやっており、自治体が運営しているわけでもない。それに嫌なら利用しなければいいだけだから。

 

電車内もコンビニと同様に不特定多数が利用する場所なのだから、結局は迷惑はお互いさまでしかない。そもそも飲食はルールによって禁止されているわけでないならば、飲食によって迷惑が生じているとしても、その飲食をさせないようにする行為も相手からすれば迷惑行為だろうし。結局、中立の立場から見るとどっちもどっちなので、食べようが、食べなかろうが、正直どっちでもいいんだけどね。現実においては、立場的には漫画内の大原部長のように、電車内で飲食をする人を咎める人が多いのだろうとは思う。でも、さっきも言ったけど、この問題はなくなることはないと思う。人が争いをやめないのと同じで、この状況に関してもそれぞれの立場からのにらみ合いはずっと続くだろう。その良し悪しの問題はともかくとして、私はそれが自然だと、正常だと思っている。立場が違う人間同士は、このような対立を続けるのが、日常の光景に見えてくるのだ。個人的には飲食専用車両とやらはぜひ見てみたいけどね。

 

 

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一生刑務所と一生無人島で無人島を選ぶ理由がほぼ見つからないんだがね・・・

「一生刑務所と一生無人島はどっちがいいか?」というアンケートを、以前水曜日のダウンタウンでやっていた。すると、6割弱が無人島を選び、4割強が刑務所を選んだという結果になりました。私はこの結果を見て、は???って思ってしまったのですよ。インターネット上でもこの一生刑務所と一生無人島はどっちがいいか?に対する回答をしている人たちがいて、自身のブログなどで細かく説明をしている。しかし、私は無人島を選ぶ人たちの気持ちが全く理解できない。無人島が刑務所よりも勝っているところってなんだ?と思う。実際、無人島を選んでいる人は、「自由だから」とか、「気楽でいい」という点を理由として挙げているケースが多い。ただ、ちょっと待てよ!と思う。例えば、この「自由」というのは、当然刑務所と比べての話なんだが、どういう場面で見出せるの?と思う。イメージとしては、生活スタイルにおいて、誰の命令も受けずに自由に決められるという点があるのだろう。確かにそれはそうだと思うんだけど、それは=自由なのか?だって、生活スタイルに関してはさ、むちゃくちゃ制限を受けるだろうと思うのです。

 

例えば、食事は自分でなんとかしないといけない。これは刑務所の場合には気にする必要がない。勝手に出てくるから。しかも、ちゃんと人間の食事と言えるものが出てくるはずだ。しかし、無人島の場合には食事は自分で用意しないといけませんし、どんなものが見つかるか?は全く想像できない。そして、見つかるまでに何時間かかるのか?も不明だ。要するに、自分で狩りをするような生活が決定的であり、この点においては明らかに刑務所よりも自由ではない。やらないといけない仕事が増えてんだから。それにちゃんとまともな食事が摂れるのか?も不明だ。それは栄養バランス的な面もあるし、まともな味をしているのか?という点も含めて。これは単なる一例だけど、自由とか、気楽という点に関して言えば、無人島の方が勝っているとは、到底思えないのです。刑務所に関しても刑務作業が必要になるので、それは大変な部分だと思うものの、これって別に生死がかかっているわけじゃなく、やれと言われたことをやるだけなんで、大分気は楽だと思います。無人島の場合、ガチで生死がかかってますから。しかも、時間が経てば経つほど、島にある食べられるものの数はどんどん減っていく可能性があります。つまり、食料を見つけるための苦労の程度は日に日に増していくかもしれないのです。あとは雨風を凌ぐことが可能な場所を見つけられるか?とか、身体をどうやって清潔に保つか?とか、体調崩したらどうするか?とか、趣味や娯楽ってあるのか?とか、やらないといけないこと、気楽とは思えないことが割と見つかる気がします。その程度が確実に刑務所よりも低いとは言い切れないでしょう。

 

刑務所を選ぶ最大のデメリットって、刑務所という場所から出られない部分な気はする(一定の敷地内からは出られない以外は社畜と変わらない)が、これも結局は無人島だって、そこから出られないわけです。広さがどれくらい違うのか?は分からないけれども、あまり条件が変わるとは思えない。それに刑務作業に関しても、社畜がやっている労働と変わらないでしょうと思います。多くの人間が日常的にやっている行為と同じことを刑務所内でしているだけと考えると、特別大変な思いではないです。塀の外の人も当たり前に同じことやってんだから。しかも、刑務作業は労働基準法を逸脱するような状況ではないはずです。体調を崩すと刑務作業ができなくなり、刑の執行にならないから。つまり、確実にホワイトな職場です。そう考えると、無人島ならではのメリットと思われている部分は、私にとっては刑務所にも存在しているのでは?と思えてきます。つまり、無人島が自由で気楽ならば、刑務所も同じくらい自由で気楽に思えてくるのです。そうなると、刑務所ならではのメリットに注目をすべきとなります。刑務所の最大のメリットって何か?っていうと、生存が保証されることです。無人島はその日暮らしが毎日続きますが、刑務所は常に養ってもらっている状況です。刑務作業と引き換えという言い方もできますけど、ホワイトな職場でちゃんと衣食住全部提供されるって素晴らしい環境でしょう。

 

じゃあ、刑務所ならではのデメリットは何か?というと、ネット上で見られるものに関しては、割と不確定要素が大きいものばかりなのです。実際、無人島を選んでいる人の文章を読んでみると、刑務所のデメリットとして挙げているものは、確定しているものとは言い難い部分なんです。そうかもしれないと言えるものばかりでした。例えば、他の受刑者と気が合わないかもしれないという点です。これは相部屋であればその可能性はありますが、たらればを挙げたらキリがないでしょう。海外にはさ、刑務所とは全く思えない刑務所があるみたいなんです。ホテルのような綺麗な空間で、受刑者は楽しく毎日を過ごしているような雰囲気であり、食事も超豪華です。そういうホワイト企業どころじゃない刑務所で暮らせるかもしれないわけです。でも、それはかもしれないという話なので、そういうかもしれないという話を持ち出したら、無限に出せますよ。無限に出せるならば、比較ができないので、刑務所と無人島のどっちがいいか?決められないわけです。

 

だから、こういう話で、たらればを持ってく人の気持ちが理解できないのよね。そういう人は自分の頭の中で浮かんできたたらればのみを比較してるんだろうけど、そんな一部だけで比較してさ、何の意味があるの?と問いたい。私に言わせれば、2者択一でどとっちかを確実に選ぶならば、刑務所と無人島に関してほぼ確実に言える部分だけを比較すべきだと思うのですが、こういうたらればの部分を考慮して選ぶと、無人島って回答が増えるのかな?と思ってしまいます。私も無人島は自由、気楽とは限らないという部分で、いろいろな「かもしれない」と言える箇所を挙げたが、これは無人島のメリットだと思っている人の主張がおかしいという意味で出しています。つまり、何らかの「かもしれない」は逆の「かもしれない」によって相殺されてしまうわけです。だから、たらればは意味がないって言ったのです。しかし、無人島のメリットと思われていることが、そうとは限らないでしょ?実態は違うかもしれないでしょ?というのは、メリットだと思われていることが必ずしもメリットとは言えない可能性を示唆しており、こちらのたらればは私は意味があると思っています。要するに、絶対にメリットであると言い切れるためには、メリットじゃないかもしれないという可能性が1ミリでもあってはいけないのです。だから、1ミリでもあった時点で、メリットとは言い切れなくなるわけだから、この場合の「かもしれない」はその1ミリ以上には該当しており、意味があるってことです。

 

不確定要素がある以上、私の本音を言えば「わからない」になりますが、無理にでも選ぶならば、私は刑務所ですよ。世の中の9割は刑務所を選ぶんじゃないか?と思っていたのだが、番組ではまさかの無人島の方が多数ということで、いろいろな意味で驚きだった。生存の保証なんかいらない、気楽や自由じゃなくていいというスタンスの人ならば、無人島を選んでも不思議じゃない。しかし、私が見ている限り、これらを気にしている人が無人島を選んでいる状況に思えるのです。個人的には、刑務所に存在するデメリットは、不確定要素が大きいものか、無人島(もしくは私たちの当たり前の日常)にも存在すると言えるものが多く、刑務所におけるデメリットの中でも、刑務所であれば確実に存在するものに関しては、あまり気にすべきものは思えない。また、無人島におけるメリットというのが、そこまでメリットに感じられないというのが、私の感想です。数字で表せるものじゃないので、感覚による判断にはなるけど、私はこの2択であれば迷わず刑務所を選択するだろう。ただ、これは他の人にあまり共感されない部分かもしれないが、私にとっての唯一の刑務所における懸念点は自ら死を選ぶことがしづらいという部分だろう。刑務所は物理的に阻止されやすい状況になっている。場合によっては、これはとんでもないデメリットに感じるかもしれないが、これもたらればの話なので、今回は考慮しなかった。 

 

 

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東京大学と一橋大学のレベルはどっちが上で頭いい?イメージや雰囲気の比較と就職の違い

東京大学一橋大学の偏差値やレベルの違いはどうか?基本的には東大の方が偏差値は高いイメージがあるでしょう。だから、東京大学一橋大学はどっちが上か?というと、東大という結論になりそうな気はするものの、厳密な難易度の差について見ていきましょう。それぞれの偏差値やレベルを比べてみて、どういう状況になっているのか?をチェックしてほしいのです。東京大学一橋大学はともに非常に頭いいイメージがあるでしょうけど、この際はっきりさせておきます。また、それぞれの大学のイメージや雰囲気についての比較もしていきます。どっちがいいか?についても考えておくと良いと思うのです。

 

東京大学一橋大学の学部ごとの偏差値の違いは?

東京大学一橋大学の偏差値やレベルはどっちが上か?を調べていきますけど、今回は河合塾の偏差値を参考にしていきます。一橋大学は学部が多くないですし、文系のみとなっていますから、少数ですけど同系統の学部で違いを見ていきます。まずは法学部ですけど、東京大学が67.5で、一橋大学が67.5です。したがって、法学部の難易度は同じです。次は経済学部で、東京大学が67.5で、一橋大学が67.5~72.5です。経済学部は一橋大学の方が偏差値は上ですが、これは後期の分で差がある状況です。とりあえず比較できそうな学部はこんなところです。一橋大学と共通している東大の学部はあまり多くありません。だから、共通している学部だけで見ると、一橋大学の方がレベルは高そうに見えなくはないです。でも、東大の場合には他にも難易度が高い学部があり、理系も優れています。だから、数字上で見ると、東京大学一橋大学はどっちが上か?に関しては、いい勝負と言えるかもしれませんが、実際のところは東大の方が上になるのではないか?と思います。ただ、この比較は難しいとは思いますが。東京大学一橋大学を両方受けたことがある人は、世の中でほとんどいないと思われますから、両大学の比較は厳しい面があるのです。

 

理系も含めた総合で考えるならば、東大を凌ぐ大学と言うのはそうはないでしょう。ただ、理系が存在しない一橋大学との比較はそれ自体が正当なものか?という問題があります。あくまでも文系学部、しかも法学部と経済学部で比較するならば結論は出るかもしれませんが、そういった部分的な比較でどれほど意味があるか?という気もしてきます。どちらも頭いいと言えるほどで、甲乙つけがたい面はあるでしょう。世間のイメージでは東京大学一橋大学はどっちが上か?と言えば、難易度が高いのは東大でしょう。一橋大学の場合には、知名度的にそもそも知らない人もいる可能性があるため、そういう現状があるということです。ただ、実際のところは分からないという言い方もできるでしょうか?

 

東京大学一橋大学のイメージや雰囲気の違いは?

東京大学一橋大学の場合、難易度は近い大学とされていますが、イメージの面では違いがあります。東大は日本でトップの大学、一橋大学京都大学と2位争いをしている大学という感じで、さらに東大が厳しそうな人が逃げで受ける大学という雰囲気がありそうです。京都大学の場合には関西の大学ですから、関西ではトップである以上、地元でナンバー1の大学を受ける部分から、逃げのイメージはあまりないものの、一橋大学は東大と同じ東京都内にあるため、どっちも受けようと思えば受けられる状況です。だからこそ、東大に受からなそうな人がレベルを下げて受ける大学という印象が生まれるのかもしれないです。ただ、逃げという言葉は単なるレッテルですから、それ自体が悪いという意味は特にありません。悪いと思っている人はいるでしょうけど。逃げっていうのは自分にとって都合がいい選択肢を選ぶことです。例えば、第一志望の大学に受かれば、そこに入学するのでしょうから、第二志望以下の受かった大学からは逃げるわけです。これってみんなやりますよね?つまり、東大に受かった人も逃げてるはずですよね。それこそ選択科目では得意科目をみんな選ぶんだから、苦手科目からはみんな逃げます。苦手科目という都合の悪い存在から逃げる、これも東大に受かった人もやってるはずです。

 

つまり、自分にとって現状最も望ましい選択をする際には、100%逃げが生まれます。だから、一橋大学を受ける人に対して「逃げ」と揶揄するような言葉あったとしても、気にするだけ無駄ですよ。東京大学一橋大学に関して、どっちも現状の自分にとって望ましくない選択肢から逃げているのは同じです。この状況でなぜ東大から逃げる一橋大学の受験生だけ、逃げのレッテルを貼られるのか?私には理解ができない。むしろ逃げという言葉をマイナスにしか捉えられない方が問題だと、個人的には思っています。逃げは自分にとって望ましい選択肢を選ぶことと同義ですから、めちゃくちゃポジティブでしょう。見方を変えたらネガティブに見えるってだけの話です。そんな感じで、東京大学一橋大学のイメージには差があるとしても、気にしない方がいいと思います。あとはキャンパスの立地条件が異なっているので、そこでキャンパスライフの雰囲気の違いはあるかもしれません。東大はほとんどの学生で駒場キャンパスと本郷キャンパスに通うことになります。それぞれ東京都目黒区と文京区です。比較的都心に近いです。しかし、一橋大学は東京都国立市にキャンパスがあります。東京都23区外なので、都心からはやや離れています。ともに都内ではあるものの、雰囲気には違いがあると言えるでしょう。しかし、どっちがいいか?は好みが関係するため、ここも含めて東京大学一橋大学について考えていくと良いです。

 

東京大学一橋大学では就職に違いはある?

東京大学一橋大学では就職における違いはあるのか?というと、ここまでのハイレベルになると、ほぼ違いはないと思われますが、厳密に言えば企業は東大の方を評価する可能性が高いでしょう。わずかであっても、差はあると言えるのではないでしょうか?でも、差はあってもわずかなので、気にするほどか?という気もしますが。東京大学一橋大学の偏差値やレベルでは、東大の方が上であるという認識が多くの人事にあるでしょう。また、学部数、学生数が多いのも東京大学であるため、OB、OGが多いという点から東大の方が有利になる可能性は高いと思います。そして、就活は都心にキャンパスがある方が移動が楽なので、その点においても東大の方がおすすめと言えると思います。どちらも頭いいと評価できるものの、就職において、東京大学一橋大学はどっちがいいか?と言われれば、一般的には東大を推すことになるでしょう。

 

 

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一部に釣られて、全体を見誤るバカは多分今後も消えないだろう

名探偵コナンが好きな人、よく見ている人は知っている人も多いと思うけど、コナンの歴代の事件の中には「ハンガー事件」と言われるものがあります。これはアニメタイトルでは「消えた凶器殺人事件」ですが、この回で犯人が動機を語る際に「(殺した相手が)ハンガーを投げつけた」と語ったことから、ハンガー事件と揶揄される状況になったのです。ただ、私が見る限り、このハンガー事件に関しては、ハンガーを投げつけただけで人を殺すのかよ!マジでクズだな!みたいな風に受け取っている人が多いように思う。そういう人たちは、このハンガー事件について、視聴したことがないんだろうなと思うわけです。漫画でも、アニメでも、どっちでもいいけど、この消えた凶器殺人事件を最初から最後まで視聴すれば、犯人の動機がハンガーを投げつけたことじゃないことは分かる。ハンガーを投げつけたことは、被害者に対する憎しみが限度を超えた理由であり、それ以前の事前すでに恨みを持っていたのだ。だから、この事件についてよく調べもしない人間が、ハンガー事件って言葉を使って、犯人を揶揄しているんじゃ?と思えて仕方がない(笑)

 

実際、「『名探偵コナン』歴代犯人のクズすぎる動機。見方を変えると笑えない?(マグミクス) - Yahoo!ニュース」の記事でもこのエピソードは取り上げられているが、案の定、犯人がハンガーを投げつけられる以前から、すでに憎しみを抱いていたという事情は書かれていない。この記事を書いた人間も、「ちゃんと調べる」ってことができないんでしょうな(笑)ちゃんと調べていない人間の意見のみを参考にして作った、ちゃんと調べていない記事であり、ほんとにくだらない記事という印象しか出てこない。バカはバカを参考にする、バカはバカを見て学ぶという非常に分かりやすい例です。

 

そして、似たような事例は他にもあるが、あるロシアの旅客機が起こした墜落事故が個人的には特にしっくりくる。これはこの界隈では非常に有名らしい。「児童操縦」なんて言葉で揶揄されているけど、簡単に言ってしまえば、コックピットに子供が入り、操縦をしていたという事実が事故調査の中で発覚するわけだね。当時はそういうことが割と普通に行われていたみたいだが、墜落した機体を子供が一部操縦していたという事実が世間に伝わると、そこに非難が集中したらしい。実際、操縦といっても、操縦かんを動かしている気分を味わっているだけだったみたいだが。というのも、当時機体は自動操縦となっているので、子供が操縦かんを動かそうが、何の影響もない。はずだった。ただ、結果的に事故は起きた。事故の直接的な原因は「自動操縦の意図しない解除」であり、子供がコックピットにいたことは原因ではないとされている。別の言い方をすれば、きっかけでしかないと。

 

専門的な話になるので非常にややこしいが、この機体はある一定の重量が操縦かんにかかると、自動操縦が解除される仕組みになっている。子供が操縦かんを押す力だけでは、本来そういったことはまず起きない。しかし、当時は副操縦士も操縦かんを握っていた。そして、2人の操縦かんを押す力が、自動操縦を解除するために必要な重量を超えており、自動操縦は意図せずに解除されてしまう。でも、自動操縦が解除されたことに関して、警告などは一切鳴らず、パイロットらもしばらくは気付かなかったのだ。警告が鳴れば、すぐに対処し、墜落は免れたという声も多い。じゃあ、なぜ警告が鳴らなかったのか?それは、この機体の自動操縦が解除されるために必要な重量は、人間が意図せずにかけられるものではないという考えがあったかららしい。つまり、意図せずにかけられた重量でないのであれば、自動操縦が解除されるほどの重量が操縦かんに実際にかけられた際には、意図して自動操縦を解除しようとしたに決まっているという考えがあり、意図している以上、本人は間違いなく自動操縦が解除されると分かっているのだから、警告なんか必要ない。ということみたいだ。でも、実際は意図せずに自動操縦が解除されるほどの力が加えられるケースが存在してしまったわけで、設計側の思惑は外れる結果になってしまったのです。

 

この事故を知った素人の人間からすれば、子供に操縦かんを握らせたことが最大のミスだろう!と思うかもしれない。ただ、私はこの事故をアンビリバボーで視聴して知ったんだけど、その番組内の専門家は「子供に操縦かんを握らせたことは事故のきっかけでしかない」と言っていた。そして、「仮に今回子供に操縦かんを握らせることがなくても、遅かれ早かれ同様の事故は起きていた」とも言っていたのをよく覚えている。要するに、自動操縦の解除にかかわる設計が同様のままであったならば、意図しない自動操縦の解除により、墜落のリスクが高まる状況は残ったままであり、今回の事故は防げても、今後いつかは起きたと思われる、今回と同様の原因を持つ事故の発生を防ぐことはできなかったということなのだろう。つまり、±0だと。アンビリバボー内の専門家は「事故の最大の原因は、意図しない自動操縦の解除と警告が一切鳴らなかったこと」と結論付けていた。

 

児童操縦と揶揄している人の中には、私から見ると、自動操縦の意図しない解除の事情を知らない人が非常に多い。つまり、事故の原因は子供が操縦かんを握っていたこと。それがほぼ100%だと、よく調べもしないで勘違いしているのだろう。さっきのハンガー事件と同じパターンです。仮に子供をコックピットに入れたことが原因の一端だとしても、パイロットらは自動操縦の意図しない解除の事実を知らない。知らないがゆえに、子供に操縦かんを握らせることが墜落のきっかけ、または原因になるなんて予想できるわけがない。この事故に関して、にわかと思われる人たちは子供たちをコックピットに招き入れたパイロットらをバッシングしているみたいだが、彼らがこの状況で、子供たちをコックピットに入れることが問題であると、どうやって認識できたと言うのだろうか?漠然とそれはマズイでしょ!とかではなく、具体的な理由を挙げて、論理的に説明してもらいたいですよ。

 

実際、この事故についてまとめられている「アエロフロート593便墜落事故 (ちゃいるどぱいろっと)とは【ピクシブ百科事典】」には以下のように明記されています。

 

>子供に操縦桿をさわらせたことはあくまで発端に過ぎず、墜落過程においてコクピットの人間達が混乱に陥ったのは大体エアバスのシステムのせいである。 パイロット達は誰一人としてこのオートパイロットを部分解除する"隠しコマンド"の存在を全く知らず、機長の息子の操作で自動操縦が部分解除されたとき誰一人としてこれに気付かなかった。……というかそもそもエアバス側がこの隠しコマンドの存在を公にしておらず、この事故が無くともいずれどこかでこの隠しコマンドに端を発する事故が起きていたことは間違いないであろう。

 

ただ、このページには子供に操縦かんを握らせたことは「到底擁護不可能な大失態」と書かれている。でも、この文言を書いた本人は、何がどういう理由で擁護不可能なのか?は説明することはできないようです(笑)理由は一切書かれていませんでした(笑)実際にパイロットらの置かれた環境において、子供らをコックピットに入れることに関して、確実に事故のリスクを高めるはずであると、パイロット自身が認識できないのはおかしい!と断言できる理由が浮かばないんでしょうね(笑)でも、感覚的には子供をコックピットに入れて、操縦かんを握らせるのはさすがに問題だろう!と思えたきたのでしょう。自分の感覚をまともだと思いたいがために、理由は言えないが、とにかく大失態であることにしたいという児童思考の状況に陥ったのだと思われます。あなたの感覚のどこに信用できる余地があるのか?教えてほしいですがね。

 

それに子供たちのために操縦かんを握らせることが仮にリスクだとしても、酒やタバコ、ドライブといった趣味など、単なる娯楽で、しかも最悪人が死ぬ可能性がある(実際、これらが原因の死亡事例は山ほどあるはずだが)行為が普通に許されている社会で、先の行為がいけない理由をどうやって説明するの?(笑)酒やタバコ、ドライブはどれだけ危険な娯楽だとしても一応法律では許されているが、子供をコックピットに入れる行為も当時のロシアの法律で許されていたんでしょうからね。そもそも9.11が起きるまでは、全世界的にコックピットに無関係の人たちが普通に出入り(しようと思えば)できる状況が放置されていたみたいですから。客側もその状況を容認してたんだから、リスクに十分加担してるわな。そして、日本人だけじゃないが、ロシア国民を含めて、酒やタバコ、ドライブなどの趣味を平然と行いながら、パイロットらを叩いていた自己中で傲慢な人間は五万といたんじゃないですか?

 

そんな感じで、ハンガーを投げつけた、子供が操縦かんを握っていたという、見た目的にもインパクトがあり、目立つ存在があると、人はそこだけに注目してしまい、思考をやめてしまう。そして、誤った解釈に至るのです。私が大好きな漫画「なれの果ての僕ら」の中でも、こういう人間がすごい皮肉られているシーンがある。よく調べもしないっで、マスゴミが作り出した釣りにひっかかり、誤情報を平気で拡散するような人間が、漫画内では盛大にバカにされてるシーンがあるんですよ。またはまともな人間面していた奴らが、実は自己中で傲慢な存在でしかなかったことがバラされたり。この作品では、他にも無能としか言いようがない人間のよくある行動などが取り上げられ、いちいちバカにされている。個人的にはそこが痛快である。ただ、この漫画は暴力シーンとかが比較的多いので、好みは分かれると思うがね。

 

人間は少なからず本能的に行動し、頭で冷静に考えるという状況を放棄する。その事実が頭にあればまだしも、頭にないと、人間がそういった行動を平気でとることへの想像力が働かず、その行動を防ぐ手立てすら思いつかない。そして、その事実に気付いても、たいていの人間はそれまでの行動を反省せず、改めないだろう。人間は自分を無能や悪人とは認めたくないからだ。これは前にも出した例だが、「いじめを苦にした自殺」というのが報道されると、世間はいじめっ子を責め立てる。これもマスゴミが作り出した釣りにまんまと引っかかる連中ならではの行動だろう。いじめっ子が自殺の原因になっているのはいいとしても、何でいじめっ子しか責めないの?(笑)特定の人間が自殺をする理由ってさ、常に原因が1個しかないの?(笑)日常的に人を自暴自棄に駆り立てる原因は他にもあるはずだ。

 

顕著なのは親の存在だろう。親が自殺した子の自殺原因に加担していないなんてまずありえないと思うんだけどね。いじめっ子以上に長い時間を過ごしてるはずなんだから。そもそも親が学校に通わせることをしなければ、いじめにも遭わなかったしね。学校みたいな不特定多数が集まる場所には確実に頭のおかしい人間が混ざるんですよ。そりゃ誰かにとって不都合な行動をとる奴が現れても不思議じゃないでしょうに。また、学校においてのみではなく、家庭においても親の存在は子供にとってストレスですよね。勉強しろとか、成績上げろとか、遊んでばかりいるなとか、欲しいモノ買ってもらえないとか、ストレスを、苦痛を一切子供に与えない親なんかいないからね。でも、そういう親は恐らく世の中では多数派なので、思考停止のバカはそれが普通だと思い、普通であるから問題ないと、それ以降の思考をする気がない。自分たちが子供をいじめる存在であるという可能性すら考慮できない。頭が悪い人は、普通であることは悪いことではないと無意識に思い込んでしまうのです。過去には黒人を奴隷として扱うのが普通だった時代もあったんですがね(笑)

 

世間は親である立場の人間が非常に多いので、親が子供にストレスを与えていることは自覚していても、それを自殺の原因として認めることはしないだろう。これは反出生主義の存在を認めない理由にも似ているだろうね。自身の子供を産むという行為が、子供を不幸にしている可能性を認めようとしない連中は世間に大いにいますからね。いじめで自殺するならば、それはいじめを受け続けることによるストレス(それに端を発する将来への悲観)が原因なんだろうから、ストレスを与える存在は悪だろうし、親は100%悪です。そして、恐らくたいていの場合、教師も悪です。教師の場合には、校則などを使って生徒らにストレスを与え続けています。教師がストレスの原因に一切なっていないケースもまずないだろう。ただ、親や教師がやっていることは「教育」、または「しつけ」という言葉で誤魔化される。「いじめ」とは言わない。校則といじめの違いについての話は、以下のような記事でしているので、よかったら見てね。

 

「いじめ」の定義を恣意的に、都合のいいように適用する輩が1番の問題児である - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog

 

意味不明なくだらない校則で生徒を縛り上げる無意味な学校教育に日本はいつ気付く? - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog

 

私は以前、教師と名乗る人間に対して「いじめ」と「しつけや教育」の違いを聞いてみたことがあるが、彼らは行為の違いしか言わないんだよね(笑)私が聞いているのは、結論として、いじめ、しつけや教育という違いに至る理由なのに(笑)例えて言うならば、ナイフで人を刺す場合と拳銃を人に向けて撃つ場合では行為は違うが、どっちも殺人になりえるわけですよね。殺人という同じ結論に至ることができるわけです。殺人か?否か?の違いは、行為の違いでは説明できないのに、こういう説明の仕方をしてくるバカが教師の中にも平気でいて、そいつらはいじめ加害者のくせに、それを認めないんだよ。やっぱり教師ってガキなんだな(笑)と思えた瞬間でした。いじめとしつけ、教育の違いが説明できないんだから、いじめから発生するストレスとしつけや教育から発生するストレスを別に扱わないといけない理由(自殺に至る原因として扱うべきか?)も説明できないだろうな。ちなみに先ほど挙げた、「なれの果ての僕ら」でも、教師がこてんぱんにバカにされるシーンが何度か出てきます。そうやって、親や教師は自身が子供のストレスの原因になっている、自殺リスクを高めている自覚がなく、かつそれを指摘されても絶対に認めません(笑)彼らにとって、都合の悪いものがいじめ、都合のいいものがしつけ、または教育なんでしょう。TPOによってレッテルを使い分ける、卑怯者の鑑とも言える存在ですな。

 

ちょっと話は逸れたけれども、こういう「頭の悪い人」というのは、今後人類から消えることはないだろう。いじめで自殺という報道をみたら、いじめっ子だけを責め、他に自殺の確率を高めている存在がいるという可能性を考慮できない、そんな連中は恐らく珍しい存在ではないだろうし。いじめで自殺の場合、いじめは自殺に至る引き金であり、さっきの例で言えばハンガーを投げつけたと一緒なのにね(笑)いろいろな嫌な出来事が重なって、最終的に自殺に至るって発想はできないんだよ。積み重ねによって自殺が起きていないならば、いじめられた初日にいきなり自殺しないとおかしいけどね(笑)嫌なことが自殺の原因になっているという前提において、積み重ねにより自殺が起きるがありえないならば、嫌なことが起きた瞬間に自殺をすることになりますからね。でも、そうなると小学生とかの(自殺の概念を知っている年齢)時点で自殺している人が多くいるはずだけどねえ。

 

数学を学べば論理的思考力が身に付くとか、そんなのが常識だと思われている国では、永遠に論理的思考力は身に付かんだろうね(笑)人は都合が悪いとき(論理的に考えようとすると、自身にとって都合が悪い結論になりそうだと感じたとき)には、論理的に考えることを意図的にしないという、精神年齢の問題に目がいかないわけだからね。人間にはロボットと違い、感情があるんですよ。バカって単純脳だから、人間は常に合理的な選択をするに決まっている!みたいに考えた昔の経済学者と同じレベルです。彼らは想像だけで物事を考えて、現実を考慮できないわけじゃないですか?(笑)この数学を学べば論理的思考(ryというのは、例えば東大の理Ⅲ出身の人とかが言ってたりするんだけど、東大理Ⅲっていうのは、受験勉強が得意なだけで、思考力は大したことないんでしょうかね?(笑)マジでそう思えて仕方ないんだよね。世の中で頭がいいと言われている人たちの中で、私はまともな思考力を披露した人をほぼ見たことがないんですよ。そういう意味では、東大生も、Fランも、高卒も、中卒も、その他大勢も、受験勉強の得意、不得意はあっても、基本的にみんな思考力に関する頭の性能は変わらないんじゃないですか?(笑)

 

 

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「ソ連経済はなぜ失敗したのか?」←何でこんなすぐ論破されそうなこと言うの?(笑)

ソ連経済って失敗したと思っている人が多いんですかね?これはアンケートなどをとらないと分からないかもしれませんが。でも、なんとなく世の中的には失敗したことになっている雰囲気ですよね。実際、ちょっと前に「ソ連経済はなぜ失敗したのか?」ということを話していた人がリアルでいたのです。その人は私の学生時代からの知り合いなんだけど、そんな彼に対して「〇〇(相手の名前)が考える失敗の基準ってなんすか?(笑)」って聞いてみたのです。すると、やっぱりという感じですけど、すぐに回答が来ない。明らかに頭で考えているんですよ。正直言って、この状況は想定済みです。というか、絶対にこうなるだろうなと思っていました。失敗の基準がこの人の頭の中に定まってないのに、この人はソ連経済は失敗したって断言したんです。おかしいですよね?法律がないのに、違法、合法の判断をしているようなものです。

 

相手の人は私のこの一言で、自分が無能であることを自覚してしまったみたいなのだが、この人とは濃い付き合いをしているわけでもないので、別に嫌われてもいいと思っていました。今回のケースで言えば、失敗の基準があるからこそ、その基準に照らして失敗したのか?そうじゃないのか?の判断をするのが妥当だと思います。つまり、この人は勘で失敗したと言っていたわけだ。失敗の明確な定義はないから、仮にこの人の中に自分なりの基準があったとしても、勘であることには変わりないと思うけど。ソ連経済が失敗したのか?それとも成功したのか?それはソ連経済のどこを見るか?によるでしょう。要するにソ連経済が失敗したと考えている人は、負の部分しか見ていない、または負の部分を中心にしか見ていないだけでは?と思えてきます。ある部分と別の対照的なある部分をともに観察するような、総合的な見方ができないんじゃないか?と思われる状況です。つまり、レッテルを使って表すと無能です。

 

一国の経済体制が成功なのか?失敗なのか?それを見極めるには、成功と失敗の定義が必要だが、それは各自の感情の問題の域を出ないでしょう。したがって、私から言わせれば、成功した、失敗した、どちらかを考えること自体が無駄だと思います。所詮はレッテルなので、それが成功だろうが、失敗だろうが、実際に起きた歴史そのものは一切変わらないのです。世の中には考えても意味がないことが多々あるわけです。よくあるのは「正解がない」とされる問題です。学校の道徳の授業が好きみたいだが、学校などでは正解がない問題を考えさせることがあるらしい。正解がない問題というのは、個人の観点からすれば、考える意義はあるかもしれない。自分にとって何が望ましいか?を考えることで、自分にとっての幸福を左右できるからだ。しかし、第3者視点に立ったうえで、正解がない問題を考えてもしょうがない。

 

例えば、昭和天皇に戦争に責任はあるのか?という問題は、まさに正解はないと思う。これに関しては、責任ってなんだ?責任の範囲はどこまでだ?が決まらないので、まずこの部分が各自の主観によって勝手に決められる。責任の定義が恣意的ならば、それ以降に導き出された考えも各自の価値観に沿ったものにしかならない。よって、この問題は正解が決まらず、正解がないのであれば考えることに意味はない。正解がない問題は、正解がないがゆえに、各自の回答の優劣を測ることができない。本来はこういう状況なので、採点もできないはずだが、道徳の授業などでは評価が決まるんでしょうね。正解がないってことは、どんな意見も平等に扱われるはずで、言ってしまえば答えは何でもいいとなる。責任がある、責任がない、どちらでもないなどの回答は全て同じ点数をつけるべきだ。そして、そんなの知らねーよ!という回答もOKのはずだ。どんな回答でもいいと言える以上、回答を出す意味すらないと思う。採点する側にとっては、何らかの形で優劣をつけないといけないので、やる意味があるというか、無理にでも採点をすれば、それによって学校としての責務が果たされるような雰囲気が生まれる。しかし、実際に考えている側にとってはマジで時間の無駄だと思う。

 

話は戻るけど、ソ連の経済が失敗したか?否か?というレッテルの話は、はっきり言って何も生まない。ソ連の経済を分析し、良かった部分は生かして、悪かった部分は反面教師にするなど、そういう捉え方をすることに意味はあると思う。とはいっても、それはほぼ政治家がやるべき事柄だが。しかし、ソ連経済を失敗と断罪して何の意味があるの?と思います。しかも一般人が。実際、失敗と捉える人は、そもそもソ連経済の良い面を見る気はないんだと思う。つまり、良い部分を探そうとすらしないと思うので、今後に生かせるヒントをみすみす見逃す可能性もあるわけだ。失敗と一蹴する人は、ソ連経済=失敗というレッテルによる図式が完成しているので、ソ連経済を評価する気がないのでしょう。評価できる面が探せば少なからずあるかもしれないのに。

 

物事は良い面と悪い面の両方があるのだから、良い、悪いに二分することは本来できないはずだ。しかし、主観によって、それをやりたがる人は非常に多い。それは特定の部分だけを見て、プラスか、マイナスか、どちらかの印象が無意識に頭に浮かんできてしまい、その印象こそが全てだと勝手に判断しているんだと思われる。すると、それとは反対の面を分析するチャンスを逸する可能性があり、非常にもったいないよねとなるのです。だから、人や物事を評価するときに、良い、悪いの2つの軸から行うのはやめるべきだと思う。思うけど、そういう状況はまず実現しないだろう。いわゆる感情論というのは、大多数の人間が行う本能的行動だと思うから。

 

どんな人やモノも良い面、悪い面の両方あるでいいのですよ。でも、人は何かを否定する際にレッテルに頼らざるを得ないんだろうなと思うのです。それは否定する対象に関して、具体的にどこがどうおかしいのか?などを説明する力を持っていないからです。そういう力がないと、その人は具体的に説明をすることができない。でも、自分の印象を頼りに善、または悪だと無意識のうちに判断した以上、その判断をスルーすることができない。自分の感覚をまともだと思いたい人は世の中にたくさんいますからね。だから、根拠を言えなくても、感覚のみで芽生えたその判断を実際に表明してしまうのです。そして、自分の印象だけで特定の人やモノに対する評価をするには、レッテルを使うしかないのです。

 

レッテルを使うと、根拠が一切なくても、とりあえず否定をしたという状況だけは実現できますから。なぜ否定できるの?という疑問は残りますが、とりあえず幼稚園児がやりそうな手法でも、否定をしたという事実は残るのです。これが彼らの自己満足につながるのでしょう。自己満足につながるのであれば、すでに満足しているので、根拠を添えて否定をする必要性が彼らに感じられない。そして、日本からは誹謗中傷が消えない。そういう分かりやすい構造ですね。でも、レッテルのみで評価をすると、冒頭の私の知り合いみたいに、そのレッテルを使った理由、基準を問われ、反論に困る人が出てきてしまうのです。今回の彼はその事実にさすがに気付いたんじゃないですか?(笑)レッテルで何かを評価をすることの脆さを。根拠をいちいち考えないと、自分を無能と認識する結果になってしまうと。でも、こういう記事を書いてるとさ、私ってレッテルをよく使う人間以上に、実はレッテル好きだよな(笑)と思えてきて、仕方ないんですよ。私もやっぱり日本人なんだなと思えてくるわけです。

 

 

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北海道大と九州大のレベルはどっちが上で頭いい?イメージや雰囲気の比較と就職の違い

北海道大学九州大学はどっちが上か?偏差値やレベルを比べたらどうなるのか?は非常に気になるでしょう。北海道大学九州大学はともに旧帝大のグループとして、かなり有名で難易度が高い大学となっていますけど、この2つに関しては、旧帝大の中ではランクが低い方じゃないか?と、世間では思われているみたいです。両者ともに難易度が他の旧帝大と比較して相対的に低いのは、北海道と九州という、極端に位置にある点も関係しているかもしれませんが。今回は北海道大学九州大学の偏差値やレベルの違いを見ていきたいと思います。どちらも一般的には頭いい学歴と言えると思いますが、どっちが上か?はっきりさせておきましょう。そして、北海道大学九州大学のイメージや雰囲気の違いについても見ていきたいと思います。

 

北海道大学九州大学の学部ごとの偏差値の違い

北海道大学九州大学の偏差値やレベルはどっちが上か?その違いについて見ていきます。今回は河合塾の偏差値を参考にしていきます。まずは文学部からです。北海道大学が62.5で、九州大学60.0です。したがって、文学部は北海道大学の方が難易度は上でしょう。次は法学部ですけど、北海道大学が60.0~62.5で、九州大学が60.0です。法学部も北海道大学の方が偏差値は高いです。経済学部はどうか?というと、北海道大学が60.0~62.5で、九州大学が57.5~60.0です。経済学部も北海道大学の方が難しいです。そして、教育学部については、北海道大学が60.0~62.5で、九州大学が60.0です。教育学部北海道大学の方がレベルは高い状況です。文系に関してはこんな感じで、全体的に北海道大学の方が難易度は高いと評価できるでしょう。

 

理系についても見ていきます。理学部においては、北海道大学が57.5~62.5で、九州大学が57.5~65.0です。理学部は九州大学の方が難しい状況です。工学部は北海道大学が57.5~60.0で、九州大学が55.0~62.5なので、同じくらいのレベルと評価できそうです。薬学部に関しては、北海道大学が57.5~62.5で、九州大学が60.0~67.5なので、薬学部も九州大学の方が偏差値が上です。次は農学部ですが、北海道大学が57.5~62.5で、九州大学が55.0です。農学部北海道大学の方が上で、割と差がある状況です。そして、歯学部については、北海道大学が55.0~57.5で、九州大学が57.5なので、九州大学の方が上でしょう。最後に医学部ですけど、北海道大学が50.0~65.0で、九州大学が52.5~67.5なので、医学部は九州大学の方がレベルは高い状況です。こうしてみると、北海道大学九州大学はどっちが上か?と言えば、文系は北海道大学、理系は九州大学になりそうです。どちらも頭いいと言える学歴ではありますが、こういう差があるということです。では、北海道大学九州大学のイメージや雰囲気の違いについても見ておきましょう。こういった面も比較をしたうえで、どっちがいいか?を考えると良いと思います。

 

北海道大学九州大学のイメージや雰囲気の違いは?

北海道大学九州大学のイメージや雰囲気の違いについて見ていきますけど、それぞれのキャンパスの立地条件が重要です。そういった面を比較していきます。まず北海道大学は基本的には札幌キャンパスのみです。北海道札幌市にあり、ここは全学部の学生が学びます。ただ、水産学部の3、4年生だけは函館キャンパスで学ぶのです。ちょっとした例外はあるものの、基本的には北海道大学はほぼ全ての学生が札幌で学ぶので、道内では割と栄えた場所に通うことになるでしょう。自然が豊富でかなり広いことでも有名です。一方の九州大学は学部ごとに異なっています。大半の学生は伊都キャンパスに通いますが、ここは福岡県福岡市です。それ以外では医学部、歯学部、薬学部の学生が通う病院キャンパスがあり、ここも福岡県福岡市です。あとは芸術工学部が通う大橋キャンパスがありますけど、ここも福岡県福岡市です。九州大学も福岡県内の割と栄えた場所に通うことになりますが、それぞれのキャンパスごとに全く雰囲気ではないので、そこは理解しておきましょう。福岡市も地域によって都会とそうじゃない場所に分かれますし。北海道と福岡県を比較するのは難しいですけど、北海道大学九州大学のどっちが望ましいか?悩んでいる人であれば、自分の好みに合うキャンパスの雰囲気を選んでみると良いと思います。

 

北海道大学九州大学では就職の違いはある?

北海道大学九州大学の偏差値やレベル、イメージや雰囲気の違いについては、すでに見てきたとおりです。あとは就職における違いがあるか?ですが、全国的に見ればほぼ違いはないでしょう。人事にとっては北海道大学九州大学も頭いい学歴という位置づけだと思います。北海道、九州で就活をする際には有利、不利が生まれることはあっても、あくまでも全国レベルで見たときには、評価の違いはほぼないと思われます。これは文系、理系ともにです。旧帝大の中でも上位の大学、例えば東大や京大などと比較すればまた違うでしょうけど、北海道大学九州大学の比較であれば、基本的には評価は変わらないため、就職において北海道大学九州大学はどっちがいいか?と言えば、どちらでも構わないとなります。でも、あらかじめ就活をする場所が決まっていて、北海道または九州を中心に行うならば、それぞれ北海道大学九州大学を選んだ方が望ましいとは言えると思いますが。

 

 

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