就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

人間は「理性」という概念を持っているだけで、理性それ自体は持っていない

人間と動物の違いは?と聞くと、「理性の有無」と答える人が世の中には一定数いるらしい。へえ、理性ねえ(笑)と、私は思う。人間は理性という概念を持っているし、理解している。そして、それは確かに動物にはないように感じる。理性の対義語って本能なんだろうか?仮に本能なんだとしたら、人間以外の動物はこの本能に従って、行動しているのだろう。本能って何か?っていうと、私は「自己都合」と解釈している。自分にとって何が都合がいいか?メリットがあるか?を判断し、行動を決める、無意識に動いている、それこそが本能だと思う。理性っていうのは、辞書で調べてみると、物事の道理を考える能力らしい。じゃあ、人間は理性を発揮できるのか?と言えば、無理だと思うんだよね。というのも、理性とは何ぞや?を決める際には、結局本能がかかわってくるから。つまり、自己都合だ。要するに物事の道理それ自体が各自の都合によって決まっていたら、それはもはや道理ではない。各自の都合でしかない。よって、本能と大差ないと思います。

 

本能っていうのは、ある行動へと駆り立てる性質のことを言うらしいのだが、結局それはその主体となるものの都合が優先された結果だと私は感じている。メリットがない行動を人間を含めた動物がとるわけがないと思いますからね。理性が人間にあると主張する人は、当然ながら理性の定義を漠然ながらも説明できると思っているのだろう。じゃないと、それが人間にあるなんて言えないはずだから。定義が決まるから、その定義に当てるものが人間にあるか?の判断ができるはずですよねえ。しかし、何が理性で、何が理性じゃないのか?道理とは何か?を決める際には、客観的に決められない。理性という言葉の定義が漠然としている以上、それに該当する内容は主観的にならざるを得ない。そこに本能の要素が入ってきてしまう。理性は本能と大差ないのでは?と思えてくるのです。

 

つまり、各自の自己都合が優先される可能性が高い。本人にその意識がなくても、結局は何かしらの基準に沿った恣意的な決め方になるだろう。例えば、自立という言葉があるが、会社で働いている人間は会社に依存しないと生きられないのだから、自立をしていないと私は思っているし、辞書の定義を見る限り、これは間違っているとは思えない。しかし、世の中の社畜の大半は自分たちは自立していると思っているだろうし、思いたいだろう。自立という言葉を自分たちにとって都合のいい形で解釈した結果、自立していない層は限られ、どう見ても自立していない人間が、社会では自立しているように扱われる。こういったことは世の中のいろいろなシーンで見られ、それが当たり前の光景に見えるのです。したがって、人間は理性という概念そのものは理解していても、理性そのものを発揮することは到底不可能だと思います。

 

つまり、「理性」っていう存在は、空想上の概念と言っても良いと思います。人間が作った以上、概念としてはあるが、現実には存在しえない。伝説上の生き物みたいな感じでしょう。自立している人も世の中には皆無だと思いますが。理性を人間が結局持っていないならば、この点においては人間と他の動物は同じってことだ。理性って、実生活で言えば善悪の判断みたいな意味で使われることが多いような気がするけど、善悪の判断ってそれを主張する人たちの都合によって決められますからね。それって、本能で自身にとって都合のいいもの、悪いものを判断している動物と何が違うの?と思う。そもそも善悪って概念自体が、恣意的なのよ。良いものも悪いものもないという第3の選択肢があって良いと思うのだが、人間は善や悪というレッテルにこだわりたがる。そういうレッテルを貼ること自体が、誰かに都合がいいからだ。

 

法律が1番分かりやすいでしょう。違法、合法なんて言葉は善悪のレッテルの言い換えに過ぎない。違法と合法のラインの決め方は、政治家の都合で決まる。そこにラインを引くことが絶対的に正しい理由なんかありえないのだが、頭の悪い人は、自分の感覚が間違っているという事実を認められないガキなので、感情論で反論してくると思います。善悪の基準も、法律もそれを決める側の感覚で決まりますから。自分の感覚がまともであるという前提に立ってるんですよ彼らは(笑)何の根拠もないのに。自分が悪人であると認めたら精神崩壊でも起こすんじゃないですか?だから、常に自分はまともである、自分の感覚は正しいものであると自分自身を思いこませるんでしょうね。法律は単なるトラブル解決の際に使われる基準のはずなのだが、それが善悪の基準になると思い込んでいる人は実際多い。国がそういう風に洗脳しようとしているから、そうなってんでしょうけどね。

 

以前、Youtube面白い映像を見たことがある。野良猫に餌を与えようとした人がいたのだが、その人はスーパーとかで売っているまぐろの刺身の塊を持ってきて、それを猫たちの前で切ろうとしていたら、ある猫がその刺身を咥えて持って行ってしまったのだ。その投稿者は急いで猫の後を追いかけてなんとか奪い返したみたいだが。人間からすれば、この刺身の所有権は投稿者にあると考えるだろう。だから、基本的に所有権があるものを奪ってはいけないと考える。それが理性だと。そして、理性がない動物は所有権の有無に関係なく、本能で自分が食べたいものを勝手に奪って良いと考える。正確に言えば、目の前に美味しそうな食べ物があるから、そっを食べたい猫たちは考える間もなくそう行動しているだけだろうが。ただ、当然ながら、動物に所有権って概念があるのか?とは思うし、そもそも人間が作った所有権という概念の正当性はどこにあるんだ?と思う。所有権は、私たちが生まれたときから存在する当たり前の概念ゆえに、それが正しいか?間違ってるか?なんて1度でも考えたことがある人はほとんどいないだろう。この場合、所有権の正当性があって初めて、人間には理性があると言えると思う。しかし、所有権の正当性を感情論抜きで説明することはおよそ不可能だと思います。所有権に正当性がないならば、それを忠実に守る人間に理性があるとは言えない。むしろ、所有権という都合のいい概念を貫き通そうとする、その行動こそが自己都合に基づく本能行動に見えてくるのです。やっぱり理性と本能はほぼ同一の概念なんじゃね?(笑)

 

 

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殺処分に反対する人って、そんなに動物に苦痛を与えたいの?

動物の殺処分って、なぜか反対する人が多いじゃないですか?私はその気持ちが全く理解できません。殺処分に関しては多分賛成よりは反対の人の方が多いのではないか?と予想するけど、反対の理由とやらを見ると、まあひどい(笑)小学生の作文じゃないんだからwwwと思えるような、見事な感想が並んでいる。代表的なのは「かわいそう」とか、「殺すのはよくない」といったものです。世の中の常識に従うことしかできない、ひどい思考停止だなと思うしかないですが。基本的には私は殺処分は大賛成です。でも、多分他の賛成の人たちと理由は違うと思う。私は殺処分が悪く言われる理由ってないと思っています。何が悪いのか?理解できません。先ほど挙げた、かわいそうとか、殺すのはよくないというのは、それは殺処分を受けた動物側の視点は一切含まれていない。かわいそうっていうのは、殺処分を見た人間の感想でしかない。あなたが殺処分に対してどう感じたか?それが一体何の価値があるというの?殺すのがよくないに関しても、「殺す」というワードのネガティブさに引きずられているだけのような気がするのよね。本質的なものの見方ができないんだろうなと思います。

 

殺処分というのは、ある部分において、圧倒的に優れています。それは動物たちが苦痛を感じないということです。恐らくその可能性が高いと思います。方法にもよるんだろうが、殺処分って、人間で言えば寝ている間に死んでいるようなものだと思うのです。人間以外の動物はそもそも死を予期することがしづらい、できないと思う。ってことは、殺処分をされるにあたって、今から自分が死ぬなんて想像はまずできないだろう。そういう意味で、人間であれば日常の中で寝ている間に死んでいるようなものだと思うのだ。ただ、動物たちが殺処分をされない場合はどうなる?別の原因でいずれ死ぬわけじゃないですか?餓死、事故死、病死、虐待死など、どれをとっても少なからず苦痛を感じますよね。私からすれば、殺処分に反対している人って、そんなに動物に苦痛を与えたいの?サディストなの?って感じに見えます。殺処分で死ねば、苦痛を感じずに生涯を終えます。でも、殺処分以外ではほぼ確実に肉体的な苦痛を感じるでしょう。だから、殺処分は死という部分においてはメリットしか思い浮かばない。だから、殺処分は何が悪いのか?全く分かりません。そもそも殺処分に肉体的苦痛があったとしても、殺処分以外のケースで死ぬ場合にも肉体的苦痛は通常あるので、ここは別に殺処分に反対する理由にはなりません。

 

殺処分をなくす方法は?とか、なくすにはどうしたらいいか?とか、考えている人いますけど、殺処分をしない場合のこういったケースについてさ、1度でも考えたことあるの?殺処分はよくないという前提の上で話を進めているよね絶対に。頭で考えるってことができないんでしょう(笑)世の中に存在する常識に思考停止で従うだけ。殺処分に反対する人たちが仮に大量にいるならば、ロボットと何が違うんだろうね?(笑)って人間ばかりなんだと思うよ。殺処分に反対する人は、人間という立場からしか物事を捉えていない。殺処分をされる側の立場には一切立てていない。要するに、彼らは「自己満足」で反対してるんだよ。動物の気持ちなんかどうでもいいと思ってるんでしょ。殺処分をなくすにはどうしたらいいか?って(笑)殺処分が0になったら、動物たちは幸せなのか?それをどうやって筋道立てて説明するんだ?マジで聞いてみたいよ。殺処分をなくしたいと考えている人は、私からすれば、肉体的苦痛を与えることに何かしら喜びを感じる人なのかな?と、かなり蔑視してますからね。

 

人間からすれば、生きられる命を絶つことをよくないと思ってるんだろうが、それは動物たちの幸せとは直結しません。そもそも酒やタバコ、ドライブなど人間の寿命を縮める、死ぬ可能性が高まる趣味を容認している中で、そんなことを言っても詭弁にしか聞こえませんが(笑)犬や猫などの幸せとは関係なく、俺たちの自己満足の方が大事なんだ!って言うならば、まだ納得してあげますけど。そうじゃないならば、「殺す」という部分にこだわる理由なんかないことを理解しろと思う。先ほども言ったけど、人間以外の動物は死を意識したり、予期したりすることがおよそ不可能だと思う。これは同意してくれる人も結構いると思うが、そうならばいつ死ぬか?に関して、動物たちの幸福度には影響しない。人間であれば、死を予期した場合、自分の年齢などで幸福を測ることを無意識にやることがある。例えば、20歳で余命宣告をされたら、平均寿命と比べて大分早死にだなとか思うわけですよね。でも、動物にはそういう発想ができないでしょう。自分が死を迎えることが近いという意識になりようがないと思うのです。だから、動物の死というのは、人間であれば寝ている間に死ぬ状況と同じ。殺処分の場合にはなおさらだ。寝る前に死を意識することなく、そのまま眠りに入り、そのまま死ぬということ。私はこういう死に方が理想です。不安なく、精神的、肉体的な苦痛を最も感じずに死ねるからね。

 

知らない間に死んでいる状況、それは本人が死を全く意識せずに死んだということ。ってことは自分が早死にか?どうかを意識する瞬間はなかったはずだ。それ以外の不安などの感情についても同様です。動物の殺処分はこれと同じことが起きます。動物は死を意識することができないだろうと書いたけど、病気の場合にはもしかしたら意識できるかもしれない。自分の肉体の変化を感じているだろうし。そもそも病気の場合にはすでに肉体に苦痛が生じていると思うが。殺処分で死なないってことは、結局こういう苦痛をいずれ体感することになるのよ。殺処分を受ければ、知らない間に死んでいるから。例えば1歳で死んでも、10歳で死んでも幸福度に差はないでしょう。死を意識しない間に死んでしまったので、早く死んだことに関して動物そのものは全く意識できません。そもそも動物には時間の概念があるのか?も怪しいが。長く生きることを良しとするのは、あくまでも生きている人間がすることです。生きている人間の評価であり、死んだ対象の気持ちは全く考慮されていないのです。人間の場合には、殺処分をしても同じ状況は実現できない。それは殺処分という概念を知ってしまっているから。人間だと死刑に近い概念だと思う。その概念がないだろうと思われる動物にしか存在できないメリットではあるが、いずれ到来する苦痛を避けて死ぬことができるならば、それは大きなメリットです。

 

私は正直言って、自殺ができる人間がちょっと羨ましい。自殺をするってことは、恐らく肉体的苦痛が存在しない方法を自分で選ぶことができるからだ。自殺以外で死ぬとなれば、動物と同じで、いずれは何らかの苦痛を感じる可能性は否めない。私は死に対する恐怖を少なからず感じているので、まさに死を意識してしまっており、自殺は簡単にはできない。だから、それができる人間に対してちょっとした羨望を感じてしまう。私は反出生主義寄りの人間なので、基本的に生物は生まれてくるべきじゃないと思っているし、最終的には滅亡すべきだと思っている。だからこそ、殺処分は大賛成だ。殺処分は何が悪いのか?それを感情論や自己満足以外で説明できる人は、私の頭の中では想像できない。殺処分をなくすには?なくす方法はあるのか?などを探している人たちが世の中では多数派みたいなので、殺処分が肯定的に世の中で見られることはまずないでしょう。殺処分の賛成の人たちがどのくらいいるのか?分からないけど、ニコニコ動画には猫の殺処分の動画があがっていたりします。その動画に対するコメントは、いいぞ!もっとやれ!的なものがほとんどだったと思う。恐らくだけど、野良猫などの迷惑の気持ちが大きいからこそ、彼らは殺処分に大賛成なのだろう。世の中で殺処分に賛成する人たちの理由は、結局は害悪の部分がでかいのではないだろうか?ただ、私はそういう理由ではないので、彼らとはまたちょっと違う立場ということになります。

 

動物は生きたいと思っている可能性があるじゃないか!と反論してくる人もいると思うけど、生きたいっていう感情を、殺処分は邪魔しないんですよ。だって、その感情は生きている間にしか存在できないんだもん。生きたい気持ちを邪魔するっていうのは、生きたい気持ちが存在する前提での話です。死んでしまえば、生きたい気持ちそのものがなくなるので、邪魔しようがないわけですね。人間に対して、お前を今から殺すと宣言すれば、生きたいと思っている本人は、その気持ちを邪魔される、されようとしているとまさに感じているでしょう。でも、死んでしまえばそう感じるのは無理です。また、生前の動物にもそれを感じることはできない。殺処分って、前もって死を予感させる状況がないはずだから。死そのもの、殺処分、この2つの概念を動物が理解することができるだろうか?だから、殺処分されようとしている動物たちが、生きたいと思う気持ちを邪魔されるなんて感覚にはまずなれないと思う。そして、死んで以降は感情がないので、当然邪魔しようがありません。

 

正確に言えば、人間の意識として邪魔はしていても、動物自身が邪魔されたとは感じられないということです。人間で言えば、寝ている間に無意識のうちに殺されれば同じ状況でしょう。本人は生きたいという気持ちを邪魔された感覚を持たずに死んだことになります。だから、生きたい気持ちなんてのは、今まさに生きている人間しか抱けない感情なんですよ。人間がしているのは、生きたいと思っている可能性がある動物の生きる行為を邪魔したことに対する評価です。で、その評価は動物たちには何の関係もありません。その評価が存在すること自体、動物たちに精神的、肉体的影響も与えられません。邪魔される感覚は殺処分をされようとしている、された動物にはないでしょう。その感覚がなければ、邪魔されることによる苦痛も存在しない。生きている人間が動物の生きたいという気持ちを邪魔をしたと評価するだけで。邪魔をするのがなぜ悪いか?それは邪魔をされたと感じたときの対象となる生き物自身の苦痛が問題なはずですよね?苦痛がない場合には、なぜ問題と言えるのでしょうか?そこまで考えてるの?考えられる頭があったら、こんなこと言わないんでしょうけど。

 

そもそもの話をすれば、動物に「生きる」なんて概念があるのだろうか?野良猫であれば、人間からすれば生きるという行為を日々しているように見えるが、それはお腹が減ることの苦痛を避けているだけの行為な気がする。お腹がすくのは苦痛なので、それを避けるために餌を探して食べる。その積み重ねが人間には生きるという行為に見えているだけな気がする。つまり、猫が日々やっているのは、生きるというよりは苦痛の回避なのでは?と思う。この苦痛は野良猫であれば、一生反復されるものだろう。であれば、死ねば苦痛が取り除かれるのだからいいことにしか思えない。苦痛が悪いコトであり、殺処分が苦痛を感じないならばなおさらだ。それに人間同様に死にたい(生きたくない)、ホームレスみたいな辛い日常から逃れたい、産まれてきたくなかったなんて気持ちが存在する可能性は彼らは無視なんですよね。生きたいって気持ちが仮にあるならば、なぜこういう気持ちの存在を考慮しないのだろう?都合のいい解釈しかしない人間のせいで不幸になっている動物がいても不思議じゃないのに。殺処分をなくす方法とか、殺処分ゼロを考えている人は、自分たちはいいことをしていると思っているんでしょうね。想像力が欠如している人はある意味幸せなんでしょ。

 

犬房女子 犬猫殺処分施設で働くということ
 

 

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東京外国語と上智大のレベルはどっちが上で頭いい?イメージや雰囲気の比較と就職で違いはある?

東京外国語大学上智大学は似たような特徴を持った大学だと思います。国公立と私立という点は違いますけど、外国語系がメジャーなところは共通していると思うのです。どちらも東京のレベルの高い大学でしょう。そのうえで、東京外国語大学上智大学はどっちがいいか?で悩む人がいる可能性もあります。東京外国語大学上智大学は偏差値やレベルはどう違いがあるのか?そういった面を頭に入れたうえで、どっちがいいか?を考えていきましょう。世間的にはかなり難易度が高く、頭いいというイメージはあると思いますけど、具体的な偏差値などを調べて、違いを見ていきたいと思います。東京外国語大学上智大学はどっちが上か?についてまずはチェックして、そのうえでイメージや雰囲気の違いも理解しておきましょう。

 

東京外国語大学上智大学の学部ごとの偏差値の違い

東京外国語大学上智大学の偏差値を河合塾のもとを使ってとりあえず単純比較していきます。東京外国語大学は学部が3つあり、外国語、国際系となっているので、それに該当する上智大学の学部を比較していきたいと思います。まず東京外国語大学の言語文化学部は60.0~65.0で、上智大学の外国語学部は62.5~67.5となっています。割といい勝負という感じです。そして、東京外国語大学の国際社会学部は62.5~67.5で、上智大学の総合グローバル学部が65.0~67.5となっています。残る1つは東京外国語大学の国際日本学部ですが、こちらは65.0で、比較対象は上智大学の総合グローバル学部で構わないでしょう。つまり、単純に偏差値を比較すると、こういった状況です。どちらも非常にレベルが高いですし、やはり東京外国語大学上智大学は頭いいというイメージになると思いますけど、どっちが上か?というと、偏差値を見比べると上智大学の方が高いです。難易度は一概に見かけの偏差値だけで決まるわけじゃないのですが。どっちも難しいということが言えます。

 

東京外国語大学上智大学の難易度に関しては科目数などの違いもあり、一概にどっちが難しいとは言えないものの、国公立大学と私立大学の最高峰になるため、かなりレベルは高いでしょう。相当な勉強をしないと受からないレベルです。東京外国語大学上智大学はどっちが上か?に関してはそういう状況ですけど、世間的には知名度に差がある感じです。上智大学の方が基本的には有名でしょう。そこにおいて、東京外国語大学上智大学では後者の方が頭いいという印象の人が多いような気はします。そういった部分も踏まえて、どっちがいいか?を考えると良いと思います。ただ、東京外国語大学上智大学のイメージや雰囲気の違いも大切なので、そういうところも細かく知っておいてほしいです。キャンパスライフをそれぞれの大学でどのように送るのか?という点も簡単に知っておきましょう。

 

東京外国語大学上智大学のイメージや雰囲気の違いは?

東京外国語大学上智大学ではキャンパスの立地が違います。どちらも東京都内にあるものの、メインキャンパスは東京外国語大学が府中、上智大学が四谷にあります。府中は東京23区外なので、そこが注意点です。四谷は都心に近く、新宿などに隣接している地域のために、都会の雰囲気を感じやすいはずです。同じ都内でも全く違う雰囲気になる可能性があるため、東京外国語大学上智大学はどっちがいいか?では、こういった面もしっかりと理解しておきましょう。府中キャンパスの場合、アクセスが微妙と感じる人がいます。四谷キャンパスの方がいろいろな地域から来ることがしやすいですから。そして、イメージの部分で言えば、知名度に差があります。基本的には上智大学の方が有名でしょう。どうしても国立大学は一部を除いてあまり知名度が高くないのです。出身者の有名人の数の差が大きいと思いますが。そういった部分でも違いがあるので、東京外国語大学上智大学はどっちがいいか?では、イメージや雰囲気に関する比較もやっていきましょう。

 

東京外国語大学上智大学の就職における違いは?

東京外国語大学上智大学の違いはイメージや雰囲気の面では多少なりともありますけど、就職では存在するのでしょうか?就職では両者はかなり評価される方だと思います。東京外国語大学上智大学の難易度を考慮すると、頭いいと思う人事が世の中に多いはずですから。したがって、学歴フィルターは基本的に問題ないでしょうし、周りと比べても有利になる側面はありそうです。ただ、東京外国語大学上智大学はどっちが就職に有利か?というと、微妙でしょう。偏差値やレベルは近いですから、どっちが上とも言い難い状況です。ただ、大学の規模に違いがあり、上智大学の方がOB、OGの数は多いでしょう。また、キャンパスが四谷にあるので、府中にある東京外国語大学よりは都内でも就活がしやすい可能性があります。大学に行ってから就活をするなどのケースでは、そこは利便性にかかわるでしょう。だから、大雑把に言えば、就職において東京外国語大学上智大学はどっちがいいか?は分かりませんけど、細かいところを見ると上智大学の方がいいかもしれないです。

 

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転売屋を叩いて、転売屋を増やす、儲けさせてしまう構造に気付けないマヌケ日本人(笑)

日本って転売屋嫌いな人多いじゃないですか?でも、転売屋嫌いって言う割には、彼らの行動って結構謎だと思っているのです。今日見つけたんだけど、鬼滅の刃ビックリマンチョコのコラボシールかなんかを転売している転売屋を叩いている状況があったらしいです。転売屋がやっていることって、基本的に合法なんだけど、それでバッシングするって完全にいじめの構図ですよね。客観的な悪質性を指摘できないのに、悪口だけ言う。学校で、俺嫌いだから悪口言うわ!ってのと変わらない。ガキじゃないんだから(笑)いじめ大好き日本人に言っても無駄なんでしょうけど。人は迷惑をかけながら生きるのが当然だと思いますが、この人たちは迷惑をかけないで生きる方法を知ってるんですかね?(笑)ぜひ、教えてほしいですね(笑)

 

しかし、こういう日本人って転売屋を叩いて何の解決になると思ってるんですかね?憂さ晴らしをしているんだろうけど、憂さ晴らしをした結果、転売屋が増えるだけだと思いますけどね。以前「甲子園の土の出品(転売)に怒るような連中にはかかわらない方がいいよ - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」の記事でも同じようなことを書いたけど、何かしらの転売が行われていることが世の中に知れると、特定のものを転売すると儲かる事実が知られてしまう。さらに言えば、特定のものがどうすれば手に入るのか?も分かってしまう。鬼滅の刃グッズを転売すれば、あ!儲かるのか!と考える人が増える。また、鬼滅の刃グッズが品薄の状態ならば、転売されているってことは、ヤフオクとか、メルカリに行けばいいのか!と分かってしまう。転売屋を叩いて、転売屋が減る理由ってほぼないと思いますが。叩かれて辞めるくらいなら最初からやらないですよね。バッシングされているのは誰でも知ってるんだから。それどころか、転売屋を始める人間、転売屋から買う人間が増える可能性すらあるのですよ。すごいマヌケな状況に見えますよね(笑)新しく転売屋になる人たちが減るじゃないか!って意見もありそうだけど、その場合でも儲かるから始めるって人と相殺されちゃいますよ?その結果、残るのは転売屋から特定のものを買えばいいんだ!と理解する人たち。彼らが需要を生んで、さらに転売屋を始める人も増えそうですけどね(笑)嫌いな人間のアシストを自らしているという。イケダハヤト氏が「アンチは養分」と言ったり、ホリエモンが「バカはタダで拡散してくれる」と言っていたが、まさにその状況です。ご苦労様です(笑)

 

私は転売屋嫌いじゃないんで、こういう光景を見ると、すっきりしますね。バカが転売屋のためにタダ働きしてくれてるって(笑)私は商売で重要なのは、バカをいかに利用するか?だと思ってるんですよ。アンチが増えることは財産でしかないと思っているので、私が転売屋だったとしたら、こういうことをしてくれる人は本当にありがたいです。バカって理屈が通じない人が多いから、相手にしても時間の無駄なんだけど、平気で理解できない行動をとってくれたりする。だから、利用価値の面では相当ありますよ。善悪などの議論において相手にする価値はないのだが、ビジネスの道具としての利用価値はむちゃくちゃあります。そこがバカの社会にとっての存在意義だと思ってるんですよね。日本には転売屋アンチが多くいて、こうやって彼らの商売の手助けをしてくれているわけだから、楽勝な国ですわな。利用すべき存在が大量にいてくれている、日本に生まれる最大のメリットって、このバカの多さだと思う。イケダハヤトとか、ホリエモンはこの大量に存在するバカを餌にビジネスを行っている、代表的な人たちじゃないか?と思います。でも、口に出しては言わないだけで、同じようなスタンスの人は世の中に多くいると思いますけどね。

 

アンチの人たちって、拡散することをやめられないんですよ。何かしら文句を言わない気が済まない性格なんじゃないですか?自分をコントロールできない無能といった表現した方が分かりやすいかな?だから、一部の人たちの養分になってしまうわけです。転売屋に対するケースは代表的だと思いますけどね。転売屋を叩いて何の解決になるのか?と言えば、全くならないわけですよ。自分たちが嫌いな存在を叩いた結果、その存在を増やして、儲けさせて、一体何がしたのよこいつらは(笑)でも、その理解不能な習性を持った人間いることを理解している人は、養分として利用することになります。バカは頭のいい人たちに利用されるために生まれてきたんでしょうね。何の役にも立たないまま死ぬよりはいいんじゃないですか?一応、社会のためになっているので。

 

私は今までこの世で1番マヌケな人たちって、子供に殺される親だと思ってたんですよ。親が子供を産まなければ100%それに殺されることはなかったのに、自らそのリスクを生じさせて、そのリスクが顕在化する。これ以上マヌケな死に方はないし、マヌケな人間はいないよな(笑)って思ってたんですけど、今回の例はそれを上回っていると感じられてきました。こんなにマヌケな人がいるんだな(笑)って思ったんですよ。でも、彼らは転売屋を叩けて幸せなのかもしれない。転売屋の人たちも自分たちの利益に貢献してくれているわけで幸せなんでしょう。Win-Winなんで、この状況を壊すメリットはないですな。どっちも幸せなんだろうからな。そして、そんなバカに見える人間をバカにできる私も今非常に幸せな気分なので、ある意味こういう状況って、社会全体で言えば非常に理想的なんじゃないですか?マジな話で。転売屋にはこれからも頑張ってほしいです。日本人という生物が大嫌いな私にとっては、日本人を怒らせる転売屋などの存在は人生の糧ですから。マジで応援しています。

 

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反出生主義者が増えない理由=出生主義者がすぐ論破されて議論が白熱しないから?w

世の中は子供を産むことに何のためらいもない、正しいことだと思っている出生主義者が多い。割合的には9割以上はそうだと思う。私は反出生主義者に近い人間なのだが、反出生主義者は割合的には高くない。なぜ反出生主義の人間は増えないのか?という理由に関して、ネット上で面白い記述を見つけたのです。それは「反出生主義が流行らない(反出生主義の人が増えない)理由は、出生主義者(子供を産むことを肯定する層)がすぐに論破されてしまって、議論が白熱しないから、盛り上がらないから」というものです。議論が白熱すれば、いろいろな人がそれに注目して、結果的に反出生主義に感化される人が増えるはずなのだが、即効で論破しちゃうから、そこで終わり。盛り上がらず、注目もされずという状況になっているのではないか?と、その人は予想したみたいです。それはあるかもしれんねwと個人的には思います。

 

私も反出生主義の人間として、出生主義者を論破するのは簡単だと感じています。今まで何度もあったんですけどね。例えば、「TNR活動と反出生主義|なおき@naocoffee|note」から引用した以下の記述を見てほしいのですが。

 

>全人類が子どもを産まなくなるなんて現状で不可能です。だったら今子どもが生まれてくる前提で幸せになれる道を探した方が建設的じゃないですか。(たぶん反出生主義の人からしたらこの意見にも十分な反論は用意していることでしょう。)

 

上記の文章は、一応は反出生主義の人に対する反論として書いたのでしょう。ただ、このパターン多いですよねwと思う。出生主義というか、子供を産むことを肯定している人の言い分って、いくつかのパターンしかないなと思っているのです。多くの人が同じようなことしか言ってこない。で、その言い分に対する反論が容易に思いつく状態、だから論破が容易という感覚に私はなっています。上記の反論も同じようなパターンの中の1つです。他は人類が滅亡するだろ!、子供の生まれてくる(母親の産む)権利を侵害してる!、不幸になるか?は生まれてこないと分からない!などです。私はいろいろなネット上の記事見てますけど、出生主義者の反出生主義者に対する言い分、反論ってパターンとしても10個もないと思うんですよね。

 

上記で引用した「反出生主義の考えはどうせ浸透しない、実現しない、だったら自分たち、これから生まれてくる人たちの幸せを願った方が建設的である」という言い分は、反出生主義の思想が間違っているという否定にはそもそもなっていません。多くが賛同しない、どうせ実現しないという予測を述べただけです。その時点で、反論としてどうなのか?という気もするけど、言っていること自体は妥当にも見えなくはない。どうせ反出生主義が世の中で多数派になる未来はまず来ないと思うし。でも、この言い分って、実は論破が簡単なのです。反論はまさに用意が容易と言えます。上記の人に直接言ったわけじゃないが、この言い分と全く同じことを言ってきた人に遭遇したことが過去にあります。そのときに私はなんと反論したのか?というと、「じゃあ、殺されちゃった人って、どうあがいても帰ってこないんだけど、殺人犯に文句言っている遺族とか、世間は頭おかしいこと?(笑)」って反論をしたのです。

 

子供を平気で産むような人間に文句を言ったところで、事態はどうせ変わらないでしょう。それはそうだと思うんですよ。でも、殺された人も同じだと思います。世の中は文句を言ったところで変わらないことが上記で挙げた例以外でもよくあると思うんですが、出生主義者って、みんなそれやってますよね?(笑)選挙で投票する人とか、まさにそうだと思うんだけど。あなたの投票がどうやって世の中に影響を与えられるって言うのよ?(笑)他にもたくさん見つけられそうだが。でも、実際に自分の家族とかが殺されたときには、その殺された事実や殺された人のこと、殺した犯人のことをさっさと忘れた方が幸せだと思いますよ。いつまでも犯人を恨んだりしてさ、何の解決になるの?(笑)それが幸せだって言うの?(笑)忘れる努力をした方が絶対に幸せ、建設的だと思うんだけど。これはマジな話で。でも、これには多くが賛同しない(感情的に許せない)でしょう。私の場合、これ以外にも具体的な反論の手段はいくつか頭にありました。その中でたまたまこれを選んだだけなのだが、即効で返信が止まりましたよ。もちろん、さらに人が変われば、上記の反論にさらに返信をしてくる人もいたかもしれないが、当然こっちはその想定もあります。出生主義者ならばこう反論してくるだろうなというパターンが完全に読めるので、その返信への反論も頭の中にはあるわけですが。いまだにその人に出会ったことはない。レスが一切続かない。私の感覚として、議論が全く盛り上がらないというのは、そうだなって思うんですよね。論破したところでむなしいですよね。

 

人類が滅亡するに関しては、滅亡して何が悪い?(笑)って当然返します。数年前の朝まで生テレビで某議員が、某タレントにこれ言われて何も反論できなかったシーンがいまだに私の脳裏に焼き付いています。子供の生まれてくる権利の侵害に関しては、これは出生主義者も同じです。無限に子供を産むわけじゃないのだから、どこかで打ち止めにしますよね。でも、産もうと思えば産めるケースは山ほどあるはず。子供を1人産みました。でも、2人目以降産もうと思えば産めるケースは世の中にたくさんあるはず。ってことは、この家庭では2人目以降の子供が産まれる権利を侵害しています。2人産んだ家庭、3人産んだ家庭、それ以上の家庭でも同じです。3人目、4人目、それ以上の子供たちの生まれてくる権利を侵害してます。もちろん、経済的な問題などによって多く子供を産むことで、彼らが不幸になるっていう事情などはあるだろうが、それは理由にはなりません。むしろそれを理由にしたら、反出生主義が掲げている理屈が正しくなっちゃいますよ?子供が不幸になる可能性があるなら、子供を産むべきではないって言ってるわけですからね。不幸になるか?は生まれてこないと分からないに関しては、全体で言えば確実に存在するじゃないですか?個別のケースでは分からないというだけであって。自殺する人間がこれだけいるのだから、一定割合では確実に存在してしまいますよね?(笑)そもそも不幸な人間が産まれてからじゃ遅い!って理由で、反出生主義は生まれています。飲酒運転したって、事故起こすとは限らないでしょ?飲酒運転で事故が起きたケースだけ取り締まればいいんじゃないの?飲酒運転は取り締まるメリットの方がデメリットよりも大きいという主張をしていた人もいたけど、なんでそんなことが言えるの?メリット、デメリットの大きさをどうやって測るの?と返信したら、返信は一切きませんでした(笑)

 

あと、最近見つけたのが以下のツイートね。

 

産まないという選択が子供の意思を無視しているという謎の解釈w生まれてきていない子供の意思とはなんでしょうか?意思って、生きていると言える生物がするものじゃないの?w生まれてきていない子供の意思とやらはどこに存在するのか?どうやって存在することを確認するのか?生まれてきたくなかったって意思は確認できますよね?生きている人間が示しているんだからね。でも、生まれてきたかった意思ってどうやって存在できるんですか?反出生主義は、生まれてきたくなかった人間が確実に存在することを根拠にしています。しかし、生まれてきたかった子供の意思という、謎の概念を持ってこられても、それが存在する証明をまずしてもらわないと。どこがブーメランになってるのでしょうか?そもそもこのツイートでは「意思能力がない存在」って表現をしている。これって、産まれてきてない存在のことでしょうけど、自分自身でまだ産まれてきていない存在は意思表示ができないって認めちゃってるじゃん!つまり、産まれてきていない子供には意思が存在しないということです。しかもこのツイートをした人は、産む、産まないの選択は自由であるべきともツイートしていました。でも、この人はすでに話したように、反出生主義に対する反論として、産まない場合にも子供の意思を無視していると言っています。産む、産まないという選択が自由ならば、産まないという選択で子供の意思を無視することは問題ないって解釈になりますけど?何でこんな反論をしたのでしょう?頭使いましょうよ。

 

出生ってのはどちらかと言えば、本能で行われている行為だと思う。つまり、理屈で考えて合理性などで導き出された行為ではなく、常識に沿って生きるしかできない人間が集合した結果、起きている現象だと思っています。一方で、反出生主義って、基本的には常識を疑う発想だから、基本的に理屈でしか存在していないのです。論理としての矛盾を突く発想の人が多いように思う。理屈以外で、感情的な根拠で主張している反出生主義の人もいるかもしれないけどね。そう考えると、出生主義者が、議論で勝てる余地は99.9パーないと思う。負けがあらかじめ決まっている試合なんですよ。だから、論破してもむなしさしかないのかもしれない。ネット上で検索すると反出生主義に関するページは割と多くあると思うが、これにアクセスしているのがどんな人間なのか?は気になります。反出生主義の人間ばかりでは、あまり意味がないのかもしれない。出生主義側において有利な点があるとすれば、数が多いことくらいで、それによって優位性を保つことができる状況以外で、彼らに味方する要素ってほぼないと思うのです。反出生主義者と出生主義者の代表を同人数集めて議論されたら、勝負にならないと思います。よほど特別な人がいれば状況は変わるかもしれんけど。それでも結局は彼らが反出生主義者を言い負かすのは無理だとは思いますが。

 

生誕の災厄

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東京理科と明治大のレベルはどっちが上で頭いい?イメージや雰囲気の比較と就職の違い

東京理科大学明治大学は比較される存在にあるでしょうか?どちらも非常にレベルが高い私立大学です。理科大は理系で評判が高い状況ですけど、明治大学も理系では割と評価されています。東京理科大学明治大学はともに頭いいというイメージが一般的にあるでしょう。したがって、東京理科大学明治大学はどっちがいいか?で悩む人もいると思います。偏差値やレベルを比較すると、東京理科大学明治大学はどっちが上か?という部分は徐々に見えてくるとは思いますが、どっちがいいか?を決める際にはそれ以外の面も考慮しないといけません。ただ、まずは難易度の違いを知ることが大切と言えるため、東京理科大学明治大学の偏差値やレベルを比較していきましょう。今回は理系学部と経営学部のみを比較していきたいと思います。

 

東京理科大学明治大学の学部ごとの偏差値の違いは?

東京理科大学明治大学はどっちが上か?どちらがレベルが高いのか?というのは気になる人が多いと思います。どっちが頭いいか?を決めるのは難しいですが、実際の偏差値を学部ごとに比較していきたいと思います。河合塾の個別日程の偏差値を参考にしていきます。東京理科大学明治大学の場合には理工系の学部と経営学部のみの比較になります。まず東京理科大学の理学部は57.5~62.5、工学部は57.5~62.5、理工学部は55.0~62.5となっています。明治大学理工学部は57.5~62.5です。したがって、ほとんど同じような偏差値です。そして、東京理科大学経営学部は57.5~62.5で、明治大学経営学部は62.5~65.0となっており、経営学部に関しては明治大学の方が高いです。ただ、理系メインの大学にしては東京理科大学経営学部の偏差値も結構高い気もしますが。理工系の学部に関しては、東京理科大学明治大学はどっちが上か?というと、同じくらいです。しかし、経営学部に関しては明治大学の方が難易度は高いです。

 

そういう意味では、理系の受験生に関しては難易度で言えば、東京理科大学明治大学はどっちを選んでもそんなに変わらないかもしれないです。しかし、文系の受験生に関しては差があるということです。東京理科大学明治大学の偏差値やレベルを比較すると、こういう状況ということです。東京理科大学明治大学はどっちがいいか?では、単純に偏差値やレベルの違いを見てもしょうがないです。どちらも有名大学で、頭いいイメージがあるところなので、ブランド力は十分でしょうけど、イメージや雰囲気の面では違いがあるはずですから。東京理科大学明治大学のキャンパスライフはどうなのか?という点に関して知っておきましょう。特にキャンパスがどこにあるのか?は重要です。東京理科大学に関しては、学部学科ごとにキャンパスが割と分かれているので、そこに関しても知っておきましょう。東京理科大学明治大学のイメージや雰囲気の違いを理解したうえで、どっちがいいか?を検討するのもおすすめです。

 

東京理科大学明治大学のイメージや雰囲気の違いは?

東京理科大学明治大学ではキャンパスの立地条件に違いがあります。東京理科大学は神楽坂、葛飾、千葉県の野田などで、学部ごとに違います。明治大学駿河台、和泉、中野、生田にあり、理系は中野か、生田です。経営学部は和泉と駿河台です。東京理科大学は理系であるにもかかわらず、割と都心に近い環境で学べる点が特徴であり、明治大学と共通点があります。したがって、場所が違うので、それぞれでイメージや雰囲気には違いがありますが、どっちを選んでも楽しそうな光景が浮かびます。学部ごとに違いがあるため、東京理科大学明治大学ではどの学部がどのキャンパスか?調べておきましょう。案外は雰囲気は似ているかもしれません。ただ、東京理科大学経営学部に関しては、理学部や工学部の一部学科と同じような場所にあります。したがって、周りは理系の人間が多いです。明治大学経営学部は基本的に周りには文系しかいませんから、どこで雰囲気の違いは感じやすいかもしれません。東京理科大学明治大学では難易度の違いのみならず、こういった面も考慮して、どっちがいいか?を考えていくと良いと思います。

 

東京理科大学明治大学では就職に違いはある?

東京理科大学明治大学はともに偏差値やレベルが非常に高い、頭いいと世間一般dねは思われる大学です。理系分野では割と評価が高い両大学ですが、就職における評価で違いはあるのでしょうか?東京理科大学明治大学に関して難易度は大きな違いはありません。ただ、場合によっては東京理科大学早慶上智と同じ扱いになることがあります。明治大学はMARCHが一般的なので、そこで格差が生まれる可能性があるのです。東京理科大学も学部によって格差はありますけど、大雑把に評価すれば早慶上智レベルとされることがあるので、就職では東京理科大学明治大学はどっちがいいか?と言えば、東京理科大学の方が有利かもしれないです。実際は企業ごとに評価は異なると思いますけど、東理科大学の評価が明治大学より下になる子とは、理系に関しては考えづらいです。文系については明治大学の方が基本的には上か、同じくらいかだと思います。少なからず就職においての評価には違いが出る可能性があるので、東京理科大学明治大学の難易度の実際の違いのみならず、就職においても想像しておくことが必要だと言えると思うのです。

 

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人気がないものに価値が生まれるという謎の現象が起きている世界

レトロゲームというものが今すごい人気みたいです。私自身は集めてはいないのですが、フジタさんとか、それ以外の人たちのチャンネルを含めてレトロゲーム関連のYoutube動画は割と見ています。おかげでちょっとした知識はついてきました。私は最も古いものでもスーパーファミコンのカセットしか持っていませんけど、その中には結構高価なソフトも存在していて、捨てなくて良かったなと思った面もあります。しかし、なぜレトロゲームって人気なのでしょう?人気の理由としては、昔子供だった人たちが大人になって集め始めた、遊戯王カードとかと同じなのかな?と思っています。ただ、このレトロゲームに関してちょっと詳しくなると、面白い側面を見出すことができます。それは当時不人気だったソフトほど、今価値が高くなっているということです。

 

現状、どんなレトロゲームが価値(価格)が高いのか?と言えば、単純に希少性が高いものです。遊戯王カードでも同じです。世の中に出回っている、市場に存在している数が少ないものほど高価になっています。それはつまり、発売された当時不人気だったソフトなんです。ソフトごとの数の差は当時の人気度に左右されており、人気のソフト程追加生産されたため、数が大量に存在しているわけです。だから、誰もが知っている、聞いたことがある有名タイトルで高価なものってほぼないでしょう。逆にレトロゲームで高価なのはマイナーゲーム、知名度が低いと言えるようなもので、当時人気がなかったから生産量が少なかったソフトになります。人気がないものって、一般的に言えば価値が低いと評価できると思うのですが、昔のファミコンとかのソフトは、当時人気が低いものほど価値が高くなっているという、謎の現象が起きているのです。

 

やはりプレイヤーとコレクターの違いというのが大きいと思います。子供の頃にゲームを買うときって、基本的にプレイするものだから、面白いものを買うわけです。でも、大人になるとコレクターが増えて、単純に集める楽しさに魅了されます。その結果、価値は面白さから希少性に変わったのでしょう。しかも、レトロゲームの場合には、単純にソフトだけに価値があるわけではありません。ソフト以上に貴重なのが箱です。当時の箱は綺麗なものがなかなか残っていないので、箱の有無で値段が大きく変わります。もちろん説明書も同様です。ただ、驚きなのはゲームを買うとだいたい一緒についてくるチラシやアンケートはがきというものにも価値がついているのです。特にチラシなんて本来なら価値はほぼゼロだと思うのです。こんなものが何の役に立つのか?と言えば、役に立つわけではないと思いますが、コレクターからすれば重要なんでしょう。チラシに価値があると思える人って、世の中になかなかいないと思いますが、レトロゲームの世界では、チラシの有無で一喜一憂するわけです。チラシが入るだけで、アンケートはがきが入るだけで、いわゆる完品という扱いになり、値段が大きく変わる場合があります。ただの紙切れ一枚に意外と大きな価値があるんだな!と思ったものです。

 

レトロゲームというジャンルではないかもしれないけど、私も最近懐かしいゲームを買ったことがあります。私はPS2のゲームソフトしかほぼプレイしないのですが、中古だとだいたい数百円程度で買えるものがほとんどです。PS2のソフトに関しては、プレミアがついているものはほとんどないです。いずれ出てくるかもしれないですけど。ただ、私が実際に中古のソフトを買ったときには、チラシの有無などをチェックしてしまいましたよ。やっぱり影響されているんだなと思いました。PS2のソフトに関しては、チラシなどの有無で値段が大きく変わることはほとんどありませんがね。でも、レトロゲームを見ていると、本当に世の中って何に価値が生まれるか?分からないなと思います。レトロゲームに関しては、実は価値が今非常に高くなっているソフトを持っている人が普通にいるんじゃないか?と思っています。私が子供の頃に買ったソフトだと、スーパーファミコン悪魔城ドラキュラXXというソフトが最も値段が高いと思います。これは子供の頃になぜか親に買ってもらったのだが、パッケージが当時すごい怖くてほとんどプレイしていないのです。だから、すごい状態が良いのです。ただ、箱がどっかにってしまって(捨てた可能性も高い)、それが惜しいなと思っています。

 

この悪魔城ドラキュラXXはソフトだけでも4000円くらいします。箱や説明書がつくと1万円くらいいくのかな?私の場合には当時ほとんど遊んでないので、ソフトは綺麗ですし、説明書も綺麗な状態で残っていました。だから、箱が残っていればこちらも綺麗だったはずです。なんか悔しいです(笑)でも、こういう例って、世の中の多くの人たちにも該当するんじゃ?と思います。昔遊んでいたゲームソフトの中には、現在すごい高い価値を誇っているものが存在している可能性があります。もう遊ばないって人が多いと思うので、売ればそこそこいい値段になる可能性はあります。私の家にはスーパーファミコンゲームボーイ(ポケットやカラーも含む)、ゲームボーイアドバンス、PS、PS2ニンテンドー64などのソフトがまだ残ってますけど、駿河屋やヤフオクで価値を調べたところ、全部合わせると2~3万円くらいはありそうです。販売価格ですけど。しかもソフト以外のハードも残っているものがあるので、結構掘り出し物だったんだなと思えてきます。これもレトロゲームの魅力かもしれません。

 

悪魔城ドラキュラXX

悪魔城ドラキュラXX

  • 発売日: 1995/07/21
  • メディア: Video Game
 

 

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