就職しないで、ブロガーになった人のBlog

就職して雇われてお金を稼ぐという従来の働き方にとらわれない、未来の生き方を模索していきましょう。

コロナ禍以前の日常に仮に戻ったとして、それ自体に何か意味はあるの?

私が最近まで読んでいた「寄生列島」という漫画がある。ヤングマガジンだったかな?で2020年の初頭に連載を開始したはずで、ちょうど新型コロナウイルスが騒がれ始めた頃とタイミングが一致する。そして、この作品はまさにコロナの世界に似たような光景を描いているのだ。この漫画内ではウイルスではなく、寄生虫がある離島の中で蔓延していくというストーリーであり、主人公である女子高生と医者をしているその父親が離島に引っ越してくるところから話は始まる。しかし、その後離島の人たちの異変に気付き、後に国立感染症研究所で働くある男性が離島にやってくる。この男性は非常に変わった性格というかキャラをしており、主人公らを当惑させるが、後にキーパーソンになっていくのだ。ただ、全体的なストーリーとしては寄生虫にやられた島民が、主人公らの周囲で脅威となって立ちふさがるというものです。現実のコロナとは違い、この寄生虫は人間の理性を破壊し、非常に凶暴に振舞わせるという点が特徴でした。そして、このままでは離島のみならず、本土へも影響が出てしまう!という展開を迎えるわけです。詳しくネタバレはしていないつもりですが、以下は多少なりともネタバレを含んでいるので、読む際にはご注意ください。

 

この漫画は全5巻で完結なのだが、最終巻では先ほどの国立感染症研究所の男性が寄生虫をやっつけることができるワクチンの開発に成功したと、本土に帰った後に記者会見場で発表するわけですな。そして、「壊れた日常が元通りになる日も近い」と述べるわけですが、その直後に彼は「ただ、私たちの以前の日常って、そんなにいい世界でしたっけ?」と、衝撃的な発言をします。その場にいた記者連中は「は?」と口にするだけで、何も言い返せなかったのが印象的だ。この漫画ではエンディングはそこまで細かく描かれていません。ワクチンができた後、社会はどうなったのか?などは基本的に不明です。コロナにまみれた現実の社会がこれからどうなっていくのか?不明な中、そんな現実に合わせたようなラストになっているのです。個人的には先ほどのセリフがかなり印象的であり、この全5巻の中でも、この場面こそが最大の見せ場な気がする。それ以外に関しては、つまらないと感じる人も普通にいそうだ。

 

私自身、本音を言えばコロナ禍が収まってほしいと思ったことは1度もないですね。コロナ禍以降、私の生活は特に大きな変化は生じていません。外出時にマスクをつけるとか、公共施設では体温を測るとか、その程度です。些細な変化しか感じておらず、別に今の状況に対して不満はない。コロナ禍以前の社会に戻るなら戻ればいいし、戻らないなら戻らなくていいし、というスタンスです。コロナ禍によっていろいろな変化が社会で起きましたが、それらは人々にとって喜ばしい面も提供しています。飲み会がなくなってよかった!リモートワークやオンライン授業が普及してよかった!成人式や修学旅行、さらに体育祭などが中止になってよかった!と証言している人を見たこともあるし、人によってはメリットの方が大きいと思っているのかもしれないです。そんな発言をすると、そういう人たちの裏で悲しんでいる人もいるんだぞ!と言う人が絶対に出てくるが、彼らにとってはそんなの知ったこっちゃないでしょう(笑)だから何?としか言いようがないんじゃないかな?それを言うならば、飲み会、会社への出勤、学校への登校、体育祭、成人式、修学旅行の問題で悩んでいた人、悲しんでいた人も確実にいたわけですが、彼らは無視ですか?無視してなきゃそんな発言は出てきませんよね。

 

コロナ禍以前の社会ってそんなに素晴らしいものだったのか?素晴らしいと感じる人もいたでしょう。でも、そうではない人もいたと思います。以前、自分が社会不適合者であることに悩んでいた男性に対して、「こんな糞みたいな社会に適合してどうするんだ?」と説教をした人がいましたが、これに関しては本当に同感ですよ。糞であるという非常にアバウトな言い方だが、あえてレッテルを使わせてもらうならば、私も糞だと思っていますから。私自身は社会不適合者であることに優越感を覚える人間ですけど(笑)どういう社会であっても特定の人たちは苦しむのです。それがコロナ禍になったことで、苦しむ層が入れ替わっただけとも言えるのかな?糞な社会から糞な社会に変わっただけなので、私にとってはコロナ禍だろうが、そうじゃなかろうが、どっちでもいいと思えるわけです。苦しむ層が変わっただけですから、コロナ以前もコロナ禍でも、私にとっての赤の他人が一定数苦しんでいる。ただ、それだけです。社会はいろいろな出来事が理由で変化を遂げるが、その歴史自体はこれまで何度も存在してきたでしょう。コロナはその1つでしかないと思う。そんなに騒ぐことだったんだろうか?と、今更思います。コロナが終焉を迎えても、永遠に続いたとしても、私にとっては大して重要な問題ではない。コロナの話題自体も今後出すことはほぼないと思います。それくらいどうでもいい存在という認識なのです。日常だろうが、非日常だろうが、人間社会に期待することなんか1つもありません。

 

 

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プロ野球選手の50mのタイムが5秒台は嘘である!←なぜこういうバカはいなくならないのか?(笑)

現役の俊足自慢のプロ野球選手数人と陸上界の現役トップレベルの選手(桐生、小池)が50m走で対決をしたらしい。その模様がテレビで放送されていたのだが、私は見ていない。たまたまネットのまとめサイトかなんかで見たんだけど、結果は桐生、小池両氏の完勝といった感じみたいだった。動画とか見てないんで詳しくは分からないけど、プロ野球選手の中では東京ヤクルト塩見氏が最も速く、タイムが6秒3程度だったみたい。この状況を見て「プロ野球選手の50mのタイムが5秒台とか嘘じゃん!」と騒いでいる人がいた。まあ、日本人だからな(笑)当然いるだろうね(笑)とは思っていたが。ただ、コメント欄で5秒台が嘘である根拠は?と聞いたら、当然そんなものはない。感情論以外何も言い返せない人しかいなかったが。是が非でも嘘であることにしたい層がいるんでしょうね。自己ベストが5秒台で、6秒3ってそんなおかしいですか?どんな状況で測ったときに出たのが自己ベストなのか?は分からんけど、シーズンオフの時期に、真剣に身体を作る時期でもないタイミングで、興業のために1回走って出た記録がこんなもんというのは、はっきり言って想定内ですよ。この程度出れば十分じゃない?という印象しかない。

 

5秒台が嘘か?どうかは自己ベストとの比較なんだから、1回きりのタイムで比較して何か意味あるの?それとも1回測って6秒台前半とか、中盤しか出せない人が5秒台は絶対出ないっていう根拠はあるの?短距離をガチで練習している人は、1回あたりのタイムの誤差っていうのはかなり狭いと思いますよ。そりゃ理論に裏付けされた走法を学び、それを実践しようとしているから。だから、風の影響などの部分が同じなら、例えば10回測っても誤差は0.2秒とかそのくらいの間に収まるんじゃないですか?ただ、プロ野球選手とか、私たちの陸上の素人って、走り方は自己流なんですよ。彼らは野球に適した走りという意味では理論づけられた面は持っているだろうけど、50m走に適しているか?は別である。つまり、桐生、小池両氏と比べると、適当な走法で走っている可能性が高い。野球の世界では、まずクラウチングスタートがないですからね。そんな状況だと、回数を重ねた中で、1番遅いタイムと速いタイムの開きは相当ありそうだよなと思う。言ってしまえば、その都度フォームが微妙に違っている可能性も大いにある。

 

私の話になるけど、私は中学生のときに100mのタイムを測ったのだが、体育の授業のときに測ったんだけど、2週にわたってやったときに1週目と2週目で1秒くらい違ったんですよね。ちなみに当時の体育の先生は陸上部の顧問で、この人がタイム測ってたんだけど。自分でもびっくりしたわ。「1週間で俺、こんなに足速くなったの?」って(笑)私は中学時代は野球部だったし、100mの走り方なんて学んでもいない。そして、その後も何回かタイム測ったけど、それ以上のタイムは出なかった。これは100mの話だけど、素人の場合、複数の試行回数の中でタイムのばらつきは本当に出やすいと思いますよ。それにプロ野球選手がさ、50mのタイムを測るのなんていつ以来よ?(笑)これも私の話だけど、というか前にも書いたと思うんだけど、私は大学1年のときの50mのタイムが中三のときよりも遅くなっていたんですよ。中三のときって、体育の授業で短距離を日常的に走るような状況が何度もあった。でも、中学を卒業して、高校に入って以降、そういう機会はずっとなかった。で、3~4年ぶりに大学1年生のときの体育の授業で50mのタイムを測ったら、中三のときよりも0.2秒くらい遅くなっていた。15歳と19歳だから、普通に考えたら19歳の方が身体が成長して速くなっていても不思議じゃない気もするけど、現実は遅くなっていました。50mを走るという感覚が自分の中からずっと消えていたんですわ。高校入学以降はあまり運動をしていなかったというのも、タイムが遅くなった一因にはあるかもしれないが。

 

あと塩見氏に関しては現在の年齢が28歳なんだよね。この28歳って年齢は、陸上の世界では引退を考え始めても不思議じゃないんですよ。例えば、ウサイン・ボルト選手は確か30歳くらいで引退しているし、日本人でいえば桐生氏に抜かれるまで100mの記録を持っていた伊東浩司氏も確かそれくらいで引退しているはず。ちなみにこれは引退をした年齢なので、タイム自体は(全盛期と比べて)もっと早くから遅くなってきている可能性が大いにある。一般的には20台後半ってスポーツ選手としてバリバリでしょ?って思うかもしれないけど、競技によってはそうではない。陸上の短距離においては20代後半になってくると、ピークを過ぎてしまう可能性が現実的にあるのです。100分の1秒とかを競う世界だから、ちょっとした衰えが致命的になりやすいのだろう。少なくとも今回のメンバーでいえば、塩見氏に関しては、自己ベストを出したときと比べて、短距離に必要な走力という点が落ち始めている年齢にすでに到達していると言えなくはない。その中で6秒3ってかなり頑張っている方じゃない?って思うんだけどね。それに陸上短距離のトップクラスの選手と一緒に走るってなったら、俺なら超緊張してガチガチで普段の力なんか出せる気がしないけど?しかもその模様をカメラで撮られるんですよ?全国放送されるんですよ?それを事前に頭に入れたうえで走るんですよ?それに単なるバラエティ番組の収録で怪我なんかしたら本当に笑えないですよね。今回出場した人たちって、全員本気を出してるのかな?という疑問がある。これは桐生、小池両氏にも言えることだが。プロ選手がバラエティ番組なんかで怪我して、2022シーズンに影響が出たなんて状況になったら、大目玉食らいますよ。

 

そして、今回の放送内容は屋内でやってるんだよな。つまり、無風なんだわ。自己ベストって、風の影響がむちゃくちゃ好都合なときに出やすいのは誰でも分かると思うんですよ。屋外で記録を測定することが多いと思うのだが、そうなる風の影響がある。追い風のときもあれば、向かい風のときもあるけど。ただ、普通に考えたら自己ベストが出るような環境というのは、追い風であることが大半である。陸上の公式記録としては追い風2.0mを越える環境下では認定されないようだが、プロ野球選手がタイムを測るときにはそんな部分は無視しているだろうから、単なる追い風ではなく、2.0mを越えるような追い風の中で記録を測定し、それが自己ベストだったのかもしれない。追い風の程度はともかく、自己ベスト時の環境下において、追い風が吹いていたのはほぼ間違いないだろう。そして、その追い風の程度は運に左右されるものだから、2.0mを大幅に超えているケースもありえる。でも、仮にそういう環境下で出たタイムを自己ベストと申告しても嘘じゃないですよね?例えば、追い風5.0mで5秒台が出ました!と言っても、嘘はついていません。

 

いろいろと書いてきたけど、5秒台が嘘と決めつける人は、普段の記録の測定時と今回の放送における環境の違いを考慮する頭がない。そして、5秒台が絶対に出るはずがないという根拠を何も出せない。想像でしか語れない。私の感覚だと、自己ベストが5秒台を豪語するプロ野球選手がたった1回測っただけの記録で6秒前半、中盤程度のタイムしか出ないことは、特に不思議な感じはしない。彼らの豪語するタイムは自己ベストだから。今までの人生の中で何度も50mのタイムを測ってきた中で、最もいい1回の記録(環境や自身のコンディションなどが最高点に達した瞬間)がそれである。まるで別人にしか見えないような奇跡の1枚が撮れた瞬間と同じだと思うんだけど、嘘ついているという発想をする人の気持ちが理解できないのよね。嘘をついていないと断言することはできないものの、私が見ている限り、嘘をついている!と決めつけている人は多かった。何の証拠もないのに(笑)嘘とは限らない根拠はすでに述べたわけだが、彼らは感情論のみが根拠だからね(笑)

 

実際、私が根拠を詰め寄った人たちは、狼狽してましたよ。本能的に嘘だと判断しているだけで、嘘だと判断する材料はなんもないのがバレてしまったわけです。彼らの口から出る言葉はそろって、「この程度のタイムしか出せない人間が5秒台なんか出るわけないじゃん!」という感情論で、そう言い切れる根拠は?と問うたら、また同じ回答しか来ないのよ。さらに言えば、「この程度」って言うならば、どの程度以上が出れば、嘘じゃないの?その境界線はどこなの?と問う考えも頭にありました。境界線があるからこそ、その境界線を上回ったのか?下回ったのか?の判断により、嘘か?嘘じゃないか?の判断が初めてできるはず。つまり、境界線なんか考えていないことがバレた時点で、彼らは適当にしか物事を考えられないことが再度バレます。実際、今回の話題以外の場面でこういう詰め寄り方を使って、相手の無能さをさらしたことが過去に何度かあります。法律を知らないのに、違法だの、合法だの言っているバカと同じ。バカはそんな思考しかできないのに、それが正常だと疑わないわけです。だから、永遠にバカから脱却できないのよね(笑)

 

 

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関東学院大学と大東亜帝国のレベルはどっちが上で頭いい?イメージや雰囲気の比較と就職の違い

関東学院大学大東亜帝国はどっちが上でしょうか?関東学院大学に関しては、スポーツなどで有名な大学と言えるでしょう。文系、理系ともに充実しており、東海大学帝京大学のイメージに近いかもしれません。偏差値やレベルは中堅くらいであると評価できると思いますが、大東亜帝国と比較するとどっちが上なのか?という点は気になる人がいるはずです。したがって、今回は関東学院大学大東亜帝国の難易度の違いに注目して、そのレベルの優劣を見極めていきたいと思います。今は中堅私大も偏差値が一気に上がり、こういったところも頭いいと言える可能性があると思います。また、両者のイメージや雰囲気の比較もしていきます。キャンパスライフの雰囲気などの違いを見極めて、どっちがいいか?を考えていきましょう。

 

関東学院大学大東亜帝国の偏差値の違いは?

関東学院大学大東亜帝国の偏差値やレベルはどっちが上か?について見ていきます。今回は河合塾の個別日程の偏差値を参考にしてきます。文系については、関東学院大学が45.0~50.0くらいとなっています。この数字は大東亜帝国の文系学部の偏差値地に近いです。大東亜帝国もそれぞれの大学学部ごとに難易度がバラバラですが、45くらいから50強くらいとなっています。だから、そんなに違いはないです。大東亜帝国の場合には東海大学帝京大学など、文系よりも理系の方が評判が高い大学もありますが、そういったところも含めて、関東学院大学の偏差値やレベルと近い状況です。近年は国士舘大学の偏差値がやや上昇気味であり、難易度が高くなってきていますが、大東亜帝国の平均と比較をすると、どっちが上か?と言えば同じくらいだと思います。文系はだいたいこんな感じとなっています。

 

理系に関してはやや差があると言えます。関東学院大学の場合には40.0~45.0くらいが多いです。ただ、大東亜帝国の場合には40台前半もあれば、60以上もあります。東海大学帝京大学には医学部があるので、こういった部分を含めると、大東亜帝国の方が確実に偏差値は高いです。亜細亜大学大東文化大学のように純粋な理系が存在しない大学もありますけど、東海大学帝京大学の存在感は大きいです。関東学院大学では理工学部、建築・環境学部、栄養学部、看護学部がありますが、いずれも難易度はあまり高くない状況です。理系に関して、関東学院大学大東亜帝国はどっちが上か?と言えば、大東亜帝国という扱いになると思います。理系に関しては、大東亜帝国はかなり頭いいと思われる可能性がありそうです。医学部の存在は特に大きいと言えますし、ここは関東学院大学との大きな差です。偏差値やレベルはこういった状況ですけど、両者のイメージや雰囲気の面も重要です。そういった部分を比較しながら、関東学院大学大東亜帝国はどっちがいいか?を考えていくといいと思います。

 

関東学院大学大東亜帝国のイメージや雰囲気の違いは?

関東学院大学大東亜帝国のイメージや雰囲気の違いについて見ていきます。特にキャンパスの立地条件の比較が重要でしょう。関東学院大学の場合、神奈川県横浜市にある横浜・金沢八景キャンパスがメインキャンパスとなっています。ここでほぼすべての学部の学生が学んでいるのです。横浜市にはあるものの、金沢区なので都心からはやや距離があります。そして、一部の学生に関しては横浜・金沢文庫キャンパスで学びます。同じく横浜市金沢区にあるため、両キャンパスはそこまで離れてはいません。関東学院大学の場合にはこういった環境になりますけど、大東亜帝国はそれぞれで違いがあります。でも、関東学院大学のように、郊外と言える地域で学ぶ機会が非常に多いでしょう。都心と言えるキャンパスは東海大学の代々木、高輪くらいであり、都内ではあっても、都会の雰囲気を感じやすい位置にキャンパスがあるケースは稀です。つまり、関東学院大学大東亜帝国はキャンパスライフの雰囲気でいえば、かなり似ていると言える可能性があるのです。それぞれの大学学部ごとに比較をして、どっちがいいか?どれが自分に合っているか?など、自分の好みのキャンパスを考えるといいかもしれません。

 

関東学院大学大東亜帝国では就職に違いはある?

関東学院大学大東亜帝国において、就職の違いはあるのか?というと、一般的にはあるでしょう。偏差値やレベルにおいて、関東学院大学大東亜帝国はどっちが上か?というと、文系に関してはそんなに変わらないですけど、理系に関しては東海大学帝京大学であれば、大東亜帝国の方が評価される可能性は高いと思います。東海大学帝京大学はすべての大学の中でも理系が優れていると定評があるため、学部次第な面はありますが、かなりおすすめできる大学です。医学部があるせいか、この2校はかなり頭いいイメージがありそうです。しかし、亜細亜大学といった規模が小さい大学と比べると、関東学院大学のような大きい大学の方が有利になる面もあります。OB、OGの数が多くなるので、採用実績が多くの企業に存在しているケースが多く、安心して新規学生を採ることがしやすいからです。そういった感じで、就職において関東学院大学大東亜帝国はどっちがいいか?と言えば、文系はあまり変わらないと思います。関東学院大学の方が有利になる場合もあります。理系は東海大学帝京大学であれば話は別ですが、それ以外ならばあまり変わらないかもしれません。

 

 

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「コロコロよりもゴロゴロの方が大きいと感じるのはなぜ?」←何このバカみたいな疑問(笑)

1月2日に両親と夕食を食べていたときに、たまたま「チコちゃんに叱られる!」だっけ?それの新春スペシャルみたいな番組が家のリビングのテレビに映っていたんですよ。私は普段テレビなんか全く見ない状況で、この日も見ていたというよりは、食事をしているときに音声がたまたま耳に入ってきたという状況なのだが、その内容に愕然としてしまった。私が食事をしていたときにやっていた内容が「コロコロよりもゴロゴロの方が大きく感じるのはなぜ?」というもので、私は「は?(笑)」と思わず思ってしまった。何この疑問・・・(笑)という感じで、まるで日本人の多くがそういう感じ方をしているみたいな言い回しをしていたのね。実際そうなのかもしれないけど。少なくとも私はそんな疑問を持ったこともなければ、コロコロとゴロゴロの大きさのイメージ違いなんて抱えたこともない。そもそも大きさって何の大きさ?とも思ったけど、転がっているものなのかなー?と、無理やり想像することにした。

 

コロコロとゴロゴロって、それぞれが転がっているものの相対的な大きさの定義なんかないじゃないですか?厳密に言えば、辞書で調べるとコロコロ、ゴロゴロはそれぞれ小さいもの、大きいものと言及されている場合もあるものの、これはそれぞれコロコロ、ゴロゴロと比べてという相対的な言い方ではなく、コロコロは小さいものに使う、ゴロゴロは大きいものに使うといった感じで、個人の主観に頼った絶対的な言い方をしているので、辞書の定義を使っても両者の正確な比較をすることはできず(相対的な大きい、小さいの比較であれば、客観的に判断ができる)、番組の趣旨とは違う。そもそも辞書に載っている小さいもの、大きいものという部分が、人々が抱いているイメージから付け加えられたものである可能性もあるが。ストレートに捉えれば、それぞれの言葉から大きさのイメージの違いなんて生まれるはずがないと思うのです。

 

でも、仮に世の中の日本人の多くがそういうイメージを浮かべているのだとしたら、本当にその感覚は理解できない。だって、コロコロとゴロゴロに元々相対的な大きさにかかわる定義は存在しないのに、そんなイメージを勝手に抱くというのは、要するに先入観で物事を判断しているということ。コロコロよりもゴロゴロの方が大きいものが転がってそうだよねという謎の発想は、先入観が存在しなければ浮かばないはずです。強いて言うならば、辞書に小さいもの、大きいものとそれぞれ書いてあったから。という理由ならばまだ合点はいくかもしれないが、この場合にはイメージじゃなくて定義に近くなってしまうので、今回の放送内容とは相容れない理由だろうと思うが。実際、後述する番組内の解説でも辞書の定義などの話は一切出てこない。というか、それぞれの意味を辞書で調べたことがある人なんてほぼいないはずだから、辞書にそういう定義が載っていたとしても、それを知っている人はほとんどいないと思う。だからこそ、番組はコロコロとゴロゴロがそれぞれ相対的に小さい、大きいという判断を人々のイメージから発生したものと捉えているのだろう。番組では、確か「ゴロゴロの方が発音する際の口の中のスペースが大きいから」とか、専門家の人が解説していた気がする。それが理由としてどうなのか?という部分もあるけど、そもそも解説をしている時点で、この専門家と思われる人は、自分が先入観で特定の言葉に特定のイメージを付与している事実に関して、何の疑問も浮かばないんだ?と思いました。

 

私は番組の途中で食事を終えてリビングから姿を消したので、放送内容の全部は見ていないけど、あと「強そうな苗字は?」とか、そんな話題も扱われていた気がする。なんだよ強そうな苗字って(笑)さっきよりも酷くないか?それぞれの名字に相対的な強さに関する因果関係なんて存在しないのに、なんでそんなイメージが浮かぶんだろう?とどうしても思ってしまいます。そういうイメージが浮かぶ理由は説明できるんでしょうけど、その理由も因果関係じゃないからね。因果関係ではない時点で、やはり先入観なんですよ。何の関係もないのに、関係が少なからずあるんじゃないか?と思えていないと、強そうな苗字なんか浮かばないと思うのよね。でも、これがテレビなんだなと思うしかないです。

 

インターネットで検索すると、「テレビはバカ向けに作られている」とか、「テレビを見るとバカになる」という言葉が躍っている。私はそれに対して違和感はないし、そうなんじゃない?と思える面もあったが、こういう放送を見ると、そういう部分はより確信に近くなります。少なくとも番組の制作側は、この内容で視聴者が面白いと思ってくれると考えたわけでしょ?これは番組制作側が視聴者と同じレベルの感覚なのか?視聴者の感覚レベルを相当低いと判断したのか?のどっちかでしょう。最近のテレビ番組は全然知らないので、他の番組がどんな内容になっているのか?は知らないけど、もしかしたら他も同じような感じなのかもしれないです。でも、不特定多数を相手にする商売っていうのは、そうならざるを得ないでしょう。それこそ前にも話した「CMは偏差値40の人に向けて作らないとダメ」という言説もあるし、たくさんの人に見てもらいたい、利用してもらいたいものは、そういう発想ができる人じゃないいけないんじゃないか?と思う。ある意味、そういう人の気持ちが理解できる人じゃないとこの業界には向かないんですよ。その人がバカなのか?頭がいいのか?分からんけれども。

 

世の中の人たちは、自分と同じ人たちが多くいると安心する感覚があるらしいですね。その感覚もあまり理解できないけど、そうなるとバカが世の中に大量にいたとしたら、彼らの頭の構造は未来永劫変わらないんでしょうな。だって、自分はみんなと同じだ!大丈夫だ!と安心して、終わりだもん。自分も周りの人間もヤバいかもしれないという発想にすらなれないでしょう。そういう意味では、テレビがつまらないという感覚を持っている方が正常なのかもしれないですね。私は全部が全部つまらないと思っているわけではなく、見たいと思うものもある。バラエティとか。でも、基本的にテレビを通じては全く見ないんですよ。テレビって超不便じゃないですか?放送時間帯に合わせないといけないし、一時停止も巻き戻しもできないし、CM終わるまで待たないといけないし。そんな感じで、見たいと思う番組はあるけど、テレビでしか見られないなら、見ない方がマシだくらいの感覚です。だから、滅多にないけど、どうしても見たい番組があったとしたら、パソコンとかを使用して、Tverとかの見逃し配信のサイトで視聴しますよ。テレビとか、すごい昔の娯楽ツールみたいな感覚で、私はしばらく使ってないです。今年の箱根駅伝も日テレの公式ライブ配信を通じて見てましたし。そういう意味では私もテレビ番組と完全に縁を切れていないので、バカな部分がまだまだ残っているんでしょうね(笑)

 

 

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「誹謗中傷」の本質的な問題って、誹謗中傷が根絶されても何も解決しないでしょ

先日、「「誹謗中傷が嫌ならばSNSやめれば?」に対する反論が謎過ぎる問題 - 就職しないで、ブロガーになった人のBlog」の記事で書いた内容の続きとも言える記事になります。世の中では誹謗中傷をなくそうと躍起になっている人たちがいるが、私はそういう光景を見て、無理でしょ?と思わざるを得ない。私は個人、または特定の層を攻撃することがあるけれども、誹謗中傷にならないように、根拠はきちんと添えているつもりだ。感情論にならないように。ただ、誹謗中傷であっても、そうじゃなくても、個人を攻撃するようなケースがあるということは、その相手はショックを受けている可能性がある。その人が私のブログを見ていればね。これってどういうことか?というと、誹謗中傷がなくなったところで、誹謗中傷の問題は何ら解決しないってことです。誹謗中傷というのは、根拠のない悪口とか、罵詈雑言の類だと思っているし、逆に言えば根拠がしっかりと存在していれば、それは誹謗中傷に当たる、当たらない以前に問題ない発言として捉えられるはずだ。根拠がある場合でも否定的な発言が一切できなければ、そっちの方が問題だろうと社会では思われるのだろうし。

 

でも、誹謗中傷って何が問題なんですか?といったときに、たいていの人は「本人が傷つくから」とか、そういう理由を答えると思いますけど、誹謗中傷以外であれば一切傷つかないの?と思う。要するに根拠が存在する否定的な発言を言われても、結局傷つくでしょ?という話になるのです。じゃあ、解決しなくね?と思う。むしろ正論を言われた方が傷つくケースもありそう。要するに、誹謗中傷ってのはさ、論理的思考力のない人間が発する言葉なわけです。根拠が存在しないうえで、バカとか、死ねとか、そういうものを言っている状況に近いと思うのだが、それってバカである理由、死なないといけない理由を考える力がない、頭が悪い人が言っているだけだから、気にする理由って本来はないと思うのです。気にしてしまう人もいるんだろうけど、気にしない状況を実現できる余地はあります。頭が悪いから根拠を何1つ言えないんでしょ?誹謗中傷しかできないんでしょ?って感じで、逆に脳内で相手をバカにすればいいだけじゃん?って、私は思います。でも、相手が根拠を添えて、正論を言ってきた場合にはそう思えませんよね。反論もできないが、相手がバカであると思える余地もほぼない。自分が無能であることが確定してしまう、認めざるを得ない状況になってしまう、自尊心が完全に消えるでしょう。どうすればいいんですか?本人の精神はガタガタですよ。

 

例えば、あるブラック企業で働く人が自身の酷い惨状、そして不満をマスゴミの前で告白したが、「そんな会社で働いているお前のせいで、そもそもブラック企業は生まれてるんだろうが!そこで働く人間がいなければ、ブラック企業は生まれないんだよ!お前が辞めない理由は生活に困るからだろ?だったら、経営陣も労働者をこき使う状況をやめれば、会社がつぶれて困るんだよ!ブラック企業は社員に迷惑をかけているかもしれないが、ブラック企業が増えれば、まともな会社の選択肢が減るんだから、ブラック企業で働くお前も社会に迷惑をかけているんだよ!ブラック企業が加害者なら、お前も加害者なんだよ!」といった言葉を社会から、大勢の人たちからぶつけられたとする。こういう主張をしている人は実際に世の中に一定割合います。ちなみにこの状況は誹謗中傷がほとんど存在しない世界、つまり世の中の多くの人たちが論理的な思考を駆使して否定ができるようになった社会であるとします。この状況において、この人はとんでもない精神的ダメージを受けるでしょうね。私は上記の批判の部分は正論だと思っていますし、何1つ間違っていると思っていません。根拠が存在するので、誹謗中傷でもないでしょう。そして、恐らくブラック企業で働いている自覚のある人が反論するのは非常に難しいと思っています。

 

つまり本人からすれば、自分が悪者であることを自覚せざるを得ない、さらに世の中の多くが自分に対して嫌悪感を持っている、敵視している状況を認識できるわけです。こういう正論を言われると、感情論を言われたときよりも傷つかないですか?精神的ダメージ大きくないですか?感情論の場合、相手のバカに対して、お前もバカだろ!という感情論を返すことがまだしやすいが、正論に対しては言い返すこと自体が難しいんですよ。正論に対して感情論を返せるメンタルがある人ならまだいいかもしれないけど、そこまでのメンタルがない人の場合、最悪のケースでは鬱病になったり、自殺をするかもしれませんよ。誹謗中傷がなくなるだけではなく、正論に対しては何の感情も揺さぶられないようなケースが同時に実現するような、とんでもなく都合のいい状況が実現すれば話は別かもしれませんが、そうならないのであれば、正論を言われて傷つき、病んでしまう人は現実的に出てきます。

 

結局のところ、誹謗中傷だろうが、そうじゃなかろうが、否定的なことを、しかも多くの人たちから言われたときには傷つく人は多いってことです。誹謗中傷の問題の本質が、「言われた側が傷つくから」ならば、誹謗中傷をなくしたところで解決する問題ではありません。誹謗中傷で傷つく人がいてはいけないけど、正論で傷つく人がいてもいいという考え方の人もいるんだろうけど、そうなるとその理由が必要です。逆にその理由がないならば、その考え方が誹謗中傷です。論理で人を傷つけていいのに、誹謗中傷で傷つけるのがダメと主張し、その主張に何の根拠もないならば、誹謗中傷をなくそうとする側が、誹謗中傷をしている人に対して誹謗中傷をしている状況でしょう。実際、日本では「正論ハラスメント」なんて言葉があるらしく、正論を言ってくる側が問題だと主張する層もいるようようですからね。論理であっても、人を傷つける発言はするな!と主張する層が一応いるわけです。誹謗中傷をなくそうとする側は、無意識のうちに自分たちが正義であるという前提に立つんだろうけど、その感覚はやめた方がいいと思います。無意識のうちに生まれる感覚に言っても意味ないのかもしれませんが。でも、問題の本質を見誤る結果になりかねないですから。要するに「人が傷つくから」以外で、本来は根拠が必要なんです。

 

結局のところ、誹謗中傷をなくそうとすることは、誹謗中傷の問題を解決するための手段として現実的ではないということです。そもそも根拠があっても、その根拠が的外れだと思えた場合にはどうするんだ?などの問題もあります。それは誹謗中傷なのか?誹謗中傷じゃないのか?レッテルで議論をすると、こういう問題にぶち当たるわけです。そうなると、こういう議論はやるだけ時間の無駄だと思います。だからこそ、以前の記事でも書いたけど、「SNSやめれば?」が現実の対策として最も有効になってきます。こういう案を出すと、絶対にそれを否定的に捉える人も出てくると思うのだが、マジでそれしかないと思いますよ。そもそも上記の問題が仮にないとしても、誹謗中傷をする人がこの世から1人たりとも消えるって、想像できないです。誹謗中傷はそれを言った本人はもちろんだが、周りの人間に快感をもたらすものです。むかつく奴を悪く言ってやったという快感は本人にあるでしょうけど、言った本人以外でも、同じくその相手をむかつくと思っていた人からすれば、そのむかつく人が悪く言われている光景を見ると、同じく快感を覚えると思うんですよね。つまり、誹謗中傷それ自体に需要が存在してしまう、誹謗中傷はエンターテイメントの力を持っている状況なのです。

 

実際、Youtubeとかでそういう動画をあげると再生数稼げますよね。私が過去に確認した例では、世の中で批判的な見方をされている人物の「クズエピソード(これはタイトルに使われていた単語)」なるものを紹介する動画を公開している某有名Youtuberがいました。動画を見たところで、それがクズと言える根拠は何1つなかったように見えたが、その人物は世間から嫌われているため、クズというレッテルで誹謗中傷されることに対して何の違和感もない人が多かったのでしょう。それどころか、いいぞ!もっと言ってやれ!みたいな人も多くいたはずです。コメント欄を見ると、マジでそんな感じだった。そんな動画を公開している、そんなコメントをしているあなた方はクズじゃないですか?と心の中で思ったけれども(笑)これも悪を懲らしめたいという欲求から、善人面しているケースでしょうな。悪人が悪人を叩いている光景とでも言うべきか(笑)誹謗中傷であっても快感を覚えてしまう以上、エンタメとして成立している以上、これをなくすのは無理です。人間が食事なしで生きられるくらいの難易度だと思います。快感は本能ですから。快感を求めてしまうことを自分の意志で防ぐというのは、それができる人もいるが、できない人も往々にしています。多少減る状況はありえても、ほぼなくなるとか、そういう状況はまずないでしょう。ネット実名制にしても、韓国ではほぼ変化なかったようですし。

 

だから、以前の記事と同じような流れになってしまうが、改めて泥棒に対して鍵をかけるような対策こそが私は最も合理的だと思います。泥棒はいなくならない前提でやるのが鍵をかける行為でしょ?泥棒に対して「泥棒やめろ!」なんて叫んでいる人ってほぼいないじゃないですか?それって、その行為が無駄であることを知っているからですよね?そんなことしても無駄だから、現実的な策として施錠をしっかりとやるという選択をしている人が増えたんだと思うんですよ。誹謗中傷もそうすればいいと思います。誹謗中傷はなくならない、なくなっても傷つく人はいなくならない、そういう前提で行動すべきだと思いますよ。SNSをやめないで自衛ができるならばそれでもいいです。SNSをやめるってのは自衛の手段の1つってことですから。単に愚痴を言って自己満足に浸りたい人ならいいけど、本気でなんとかしたい、傷つく人をなくしたいならば、SNSをやめるなどの自衛をするしかないと思います。それにSNSをやると誹謗中傷の被害に遭うだけじゃなくて、自分が加害者側になる可能性もありますから。その可能性が0と言い切れる人なんていないと思いますよ。悪を懲らしめたいって欲求は、人間であれば多くが持っているはずなので、悪と認識した対象を正義感から誹謗中傷してしまう、全然あり得る光景でしょう。そういう意味でも、誹謗中傷をなくしたいならば、SNSをやめるってのはかなり合理的です。

 

泥棒に対して鍵をかけて自衛する手段がとれるならば、SNSをやめる、掲示板などを見ない、エゴサーチしない、もしくはそれ以外の手段で自衛をするってのができない理由が分かりません。こういう手段をとらない、あえて否定する人は、誹謗中傷の被害をなんとかしたいって本気で思っていないってことなんじゃないですか?実際、以前の記事でも書いたけど、彼らは謎の理屈を持ってきますからね。誹謗中傷の被害をなくすために、被害に遭った側がSNSをやめるのはおかしい!いじめられた側が転校するのと同じだ!とか、言ってくるんですよ。私であれば「それが何か問題でも?」と返すだけですが。現実的にそんな手段は実行できないとか、そんな方法じゃ被害は食い止められないという反論なら分かるものの、そういう反論はしてこない時点で、SNSをやめる手段が現実的である点は認めてくれたってことでしょう。でも、現実的に有効な手段であると認めているのに、それを拒否するって時点で、彼らは誹謗中傷の被害を防ぐよりも、自分たちが納得いく方法か?どうかっていう、自己満足の方が大切だと思ってるんでしょうから、どうしようもないですよね。誹謗中傷の問題を本気でなんとかしたいなんて気持ちは微塵も感じられません。

 

中にはSNSの利用マナーを向上させるための教育をすべき!とか言う意見もあるが、具体的にどんな教育なの?という中身に関して、一切話さないのよね。そんな教育が可能ならば、とっくに実現してるんと思うんだがね。理想だけ言って、その理想を実現させるための中身が全くないという、どうしようもない状況ですよ。話はちょっと逸れたけれども、誹謗中傷はエンタメになり得る存在なので、消えることはない。そして、誹謗中傷が仮に根絶しても、相変わらずショックを受け続ける人は残る。それどころか、誹謗中傷が消えた世界の方(論理的な発言を多くができるようになった方)が人は傷つきやすいんじゃ?という懸念もあります。何らかの発言で人がショックを受けるのを問題と捉え、その問題を根本から解決したいならば、人とかかわるのを避けよう!くらいしか言えなくなってしまいますな。

 

 

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ドラクエ8をプレイしたら、他人の人間性を叩けるレベルじゃない人間性の人が世の中に多くいる事実に気付いてしまった

以前に「ドラゴンクエスト8空と大地と呪われし姫君」をプレイしているときに思ったのだが、腑に落ちないシーンが1つある。物語の中盤から終盤にかけてのシーンで、リブルアーチという街が出てくるのだが、そこのチェルスという青年がいる。このチェルスはハワードという王の屋敷で使用人をしているのだが、このハワードはチェルスに対してアタリが強い。ときには世間で言うところのいじめのレッテルを貼られそうなこともしており、プレイヤーからすれば、ハワードという人物はむかつくキャラに映るだろう。以下はネタバレになってしまうので、注意してほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このチェルスは、ある偉大な7人の賢者の末裔であり、本人はそれを認識しておらず、ハワードもそれは知らなかった。そして、このゲームに登場するラプソーンという強大な敵はこの時点ではある杖に封印されていたのだが、その杖に封印をしたのがかつての賢者7人であり、この賢者の末裔を全員殺すことで復活できるとされている。それゆえ賢者の末裔である自覚がないチェルスも自然と命を狙われることになる。そして、実際にこのチェルスは死んでしまう。そのタイミングにおいて、チェルスが偉大な賢者の末裔であることをハワードも初めて認識し、彼を守ることができなかったことを悔やんでいるようだった。プレイヤーの目からすれば、チェルスが可哀想・・・ハワード?なんやこいつ!と映るのではないだろうか?このシーンだけですべてを判断するような人にとってはね(笑)

 

実際、こういう反応をする人が多いと思うし、ネットで調べてみても同じような状況だった。「【チェルス】 - ドラゴンクエスト大辞典を作ろうぜ!!第三版 Wiki*」のページには以下のように書かれています。

 

>【三角谷】の出身で、経験を積むために旅に出て【リブルアーチ】辺りで行き倒れる。 空からしか行けない三角谷をどうやって脱出したのかは謎だが、そこでハワードに助けられ、彼の屋敷で働くようになる。 この出会いは実は偶然ではなく、遠い先祖の代にかけられた宿命によるものだったのだが、ハワードはそんなことは知らずにチェルスをいびり倒す。 それどころかこの男、「あいつ(チェルス)の顔を見ていると腹が立つ、きっと一生いじめ倒したいのだろう」とかぬかしており、愛犬【レオパルド】にすら様付けを強要し、エサに毒を盛った疑いをかけるというムチャクチャな難癖をつけたり、毒見として四つん這いでそれを食わせたり……とまあ見事なパワハラだらけ。 チャゴスも相当にウザいが、胸糞悪さでは遥かに上回るレベルであろう。   しかしこれほど屈辱的な仕打ちを受けてもチェルスは全く怒っておらず「ハワード様のこと大好きだから…」とか言う始末。 ここだけ見ると特殊な趣味の持ち主にしか見えないが、それほど高い忠誠心が後にハワードの改心にも繋がった。

 

ここに書かれているチャゴスに関しては別の記事でも書くかもしれない。私は特にハワードに対して胸糞悪さは感じなかった。というか、ハワードにとっては災難でしかないでしょう。結果的には運命によって、ハワードとチェルスは絶対に出会う状況となっていたようなのだが、先述したように、本人に何の帰責性もないとはいえ、チェルスは基本的に命を狙われている。つまり、彼がいる限り、その周りの人間も危ういわけです。実際、このリブルアーチという街を主人公たちが初めて訪れたときに、本来はパーティーの1人であったゼシカというキャラが、杖に封印されているラプソーンによって精神を操られてしまい、このハワードの前に立ちふさがっていた。当然、このときのラプソーンの目的はチェルスだったがゆえに、チェルスがいるこの街が狙われてしまったわけだ。このときは偶然主人公たちが助けに入ったから事なきを得たものの、ハワードはもしかしたら死んでいたかもしれない。また、ハワードは無事だったが、この騒動でハワードの屋敷で働いている兵士が実際に襲われている。この場面だけで言えば、ハワードらは確実に被害者ですよ。チェルスを雇ったのだから自業自得と言える面はあるものの、運命によって決まっていたのならば、それ以外の選択はなかったのだろうから、チェルスと出会う運命によって、最悪死ぬかもしれなかった状況に必然的に巻き込まれたこととなる。

 

チェルス本人に帰責性はないとはいえ、チェルスが原因となってハワードらが災難にあったのは間違いない。周りの人間からすれば、本人の帰責性の有無なんか関係ないからね。東京喰種で言えば、喰種は人間を殺さないと生きられない存在であり、そこは不可抗力であるものの、だからといって人間たちは殺されるのを容認できるわけがない。結果として、東京喰種の世界では、人間たちが喰種らを社会から排除しようとする。リブるアーチの住民らが、事前にチェルスとラプソーンに関しての真実を知っていたら、チェルスを追い出したかったのではないか?と思われる。狙われる原因を作ったのが本人ではないとしても、チェルスがいるからこの街が襲われている事実をみんなが知っていたら、街の人にとっては単なる邪魔者でしかないのです。そういう意味では、そんなチェルスの命を助けて、仕事まで与えているハワードに関しても、住民にとっては害悪(再度言うが、これは運命なので避けられない)だろうが。ハワードもチェルスも、お前らこっちくんな!状態だったろう。実際、皮肉なことにチェルスが死んだため、それ以降このリブルアーチは標的にされずに済んだという部分もある。チェルスという存在が消えたからこそ、この街には平和が戻った。これは紛れもない事実です。

 

ただ、引用文にも書いてある通り、ハワードは改心したと書かれているが、チェルスが賢者の末裔であることを知って以降、本人はむちゃくちゃ罪悪感を覚えているような描写があるのです。私は「ん・・・?」って感じて見ていました。どうやら賢者の末裔であるチェルスを守ることができなかったことに対して罪悪感を覚えていたみたいなのだが、何で罪悪感なんか覚える必要があるの?と思った。だって、そもそもどうすれば守れたと言うのか?ハワードとチェルスは王と使用人の関係で、使用人の側が王を守るのは分かるが、その逆は成立しないだろう。この日常がこれまでずっと続いてきた中で、ハワードはチェルスを守ろうという気になるなんて99.999%ありえない。チェルスが賢者の末裔であることをハワードが知ったのも、チェルスが死ぬ直前だし。私はハワードが罪悪感を覚える描写について、全く意味不明な感じで眺めていたのを覚えています。大人の事情ゆえのストーリーかもしれませんがね。

 

そもそもハワードはチェルスにとって命の恩人なので、だからこそどれだけ酷い仕打ちを受けてもハワードのことを悪く言わなかったのだろう。実際、ハワードが悪く言われる理由が意味不明です。命を助けて、仕事まで与えた部分を考慮すれば、いびり倒す行為によって、ハワードの人間としての評価が±0を下回るとは到底思えない。命を救っているわけだからね。いじめの印象が強く残っている人からすれば、命の恩人なんて部分は頭から消えているんでしょうけど。それにどうしても嫌ならばさっさと出て行けばいいのだが、出て行ったところで生活する当てはないんだろう。現実世界において、見ず知らずの人間を助けて、自分の家に置いてやり、さらに仕事まで与えるなんて、ほぼ誰もやらないでしょう。しかも、ここで言ういじめは肉体的苦痛ではなく、ほぼ精神的苦痛によるもの。つまり、現実の人間がハワードに対して投げかけている罵詈雑言と大差ないが?(笑)結局のところ、ハワードを悪く言っている、誹謗中傷している連中は、ハワードがやった見ず知らずの人の命を助けて、自分の家に置いてやり、仕事まで与えるという行為をしないのに、精神的に苦痛を与える行為はするわけだから、この部分だけで言えば人間性はハワード未満ってことですよね?(笑)

 

たいていの人は道行く先に存在するホームレスなんか無視でしょ?食べ物やお金をちょっとめぐんでやる程度のことすらしないでしょ?アンケートで7割近くの日本人は弱者を助ける必要がないと回答したというデータも見たことありますし。この時点でハワードとハワードを侮辱する連中の人間性には天と地ほどの差があります。いやいや、見ず知らずの人間を助けるか?罵詈雑言を投げかけるか?どうかだけで人間性を判断するな!と言うかもしれないが、じゃあハワードを叩いてる連中はハワードの何を知ってるんですかね?(笑)チェルスをいじめているシーン以外でハワードの人間性を評価しているようには全く見えませんが?(笑)一部のシーンだけで人間性を評価しているのはどっちでしょうか?そんな感じで、この状況でハワードを責められる人の気持ちが理解できません。よくその程度の人間性でハワードのことをここまで誹謗中傷できるよなーと、呆れるばかりです。でも、これが日本人の常識的な感覚なんでしょうね。ドラクエ8を全国民にプレイさせたうえで、ハワードに対する印象を全国民に対してアンケートとったら、絶対にネガティブなものが大勢を占めると思います。

 

しかし、本当のことを言えば、そもそもの問題の出発点はラプソーンなわけだが、ハワードを叩く人はラプソーンの存在が頭にないんですよ(笑)目の前で繰り広げられた、ハワードによるチェルスに対する自分が胸糞悪いと感じるシーンだけですべてを判断しているんでしょうな(笑)そこの印象が強かったから、それ以外の情報を踏まえて、客観的に、全体を踏まえて判断するって能力がないんでしょう(笑)実際、ハワードが命を助けたシーンとか、雇ってあげたシーンとか、一切映ってないし。説明はちゃんとありますけど。また、ラプソーンはこの時点では実体がない。存在自体が知らされているだけ。つまり、ラプソーンに対しての印象も大してないわけだ。プレイヤーの頭にはそういった部分が浮かばないんですよ。でも、ハワードがチェルスをいじめるシーンはちゃんと大々的に存在しており、プレイヤーの印象にトラウマ級に残ります。ハワードを叩く人たちって、そういう脳内構造になってるんじゃいんですか?それに正直言って、チェルスの使用人としての資質は微妙と判断せざるを得ないシーンもあったし、個人的には「あ、クビにしないんだ?」という感想を持ったくらいだから。そんな感じで世間では評判が悪いハワードに対して、個人的には特に悪い印象は持っていない。胸糞悪いなんて感情は一切ない。ハワードに対しても、チェルスに対しても。だって、これはゲームでしょ?(笑)虚構の話でしょ?(笑)存在しない人間に対して怒ったり、むかついたりする意味が分からんのよ(笑)

 

 

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一部の日本人の責任の追及の仕方が謎すぎるとしか言いようがない

ちょっと前に東京都市大学に対して爆破予告があったニュースを覚えているだろうか?そのときの大学側の対応がいい意味でも、悪い意味でも突飛であり、この爆破予告のニュースはちょっとだけ世間を騒がせる結果となった。大学側は「爆破予告があった時間までは(爆破されることはないので)通常通りに講義を続ける」という対応をとったわけだが、これが賛否両論となったわけだな。大学側を擁護する意見としては、「爆破予告があって実際に爆破されるケースなんかありえないんだから、無視が最善である」といったものが多かった。一方で、大学側を否定する意見としては、「本当に爆破されたらどうするの?どう責任とるの?」というものが多かった。私は基本的に大学側の対応は全うだと思っている。爆破されない保証もないけど、本当に爆破されたとしても、それは大学側のせいではないというか、世間一般で用いられる責任という言葉の現象は一切存在しないだろうと思っているから。責任の有無って何で決まるんだ?って問題もあるんだが。

 

私の感覚では、そもそも爆破予告があった後に、本当に爆破された場合、それが大学側のせいと言えるのか?という問題があります。多くの人は想像していると思うけど、本当に爆破する気があるならば、爆破予告なんかしないだろう?という考えがありますよね。それは合理性が説明できないからです。なんで警戒されるようなことをわざわざするのか?そんな疑問が浮かぶはずです。ということは、冷静に考えて爆破予告と爆破は因果関係が存在しない(説明できない)状況なわけです。因果関係が存在しない、説明できない状況において、大学側をバッシングするのであれば、例えば肩を軽く叩いた人に対して、「やめろ!それで相手が死んだらどうするんだ?」と言っている状況に見えます。肩を叩いて人が死ぬ状況を想像できない人が、なんで爆破予告があったら、本当に爆破されると想像するのか?全く理解できません。要するに爆破予告が存在したことで、その対象が実際に爆破される可能性が高まった」とは言えないわけです。実際、世界中で起きている爆破関連の事件の大半は予告なんか存在しないだろう。つまり、予告されていない状況の方が爆破されるケースが圧倒的に多いと言えるはずです。ちなみに日本だけで言えば、爆破予告があって、本当に爆破されたケースが1度でもあるのか?というと、調べてみた感じではほぼない。ただ、1970年代に起きた連続企業爆破事件の一環である「三菱重工爆破事件」においては、爆破予告と思われるような状況が存在していたらしい。

 

でも、これは詳しく調べてみると、いわゆる爆破予告ではない。というのも、これは犯人側が企業のオフィスに対して爆弾を仕掛けたという電話をかけたみたいなのだが、これは脅迫などではなく、そこにいる従業員を避難させる目的があったらしい。もうすぐ爆発するから、早く避難させろ!と伝えたらしいのだ。つまり、多くの人たちが被害に遭わないために起こした予告であり、いわゆる爆破予告とは似ても似つかないケースだろうと思うが、電話を受けた側にとってはいつものイタズラの爆破予告かな?と思ったに違いない。結果、これは実際にイタズラと取られて、複数回の電話もむなしく、多くの人たちがいる中で爆発物が爆発してしまったらしいが。そういう意味では、私が調べたところでは、脅迫に該当する爆破予告からの本当の爆発は国内ではほぼ0なのではないか?と思えてきます。理由を問わない爆破予告という広い概念で見た場合でも、多く見積もっても1回かな?と。データ的に言えば、爆破予告によって本当に爆破されることは、常識的にありえない。むしろ爆破予告があった=爆破されないフラグなのでは?ともとれる。この状況で、東京都市大学がとった対応が間違っていると言える余地はないだろう。仮に今回のケースで本当に爆破されてしまったとしても、東京都市大学の対応に問題があると言えるためには、爆破予告によって爆破される可能性が高まったと言えた場合だけだ。しかし、過去のデータを参考にすると、むしろ可能性が低くなった、高く見積もっても平常通りの確率ととるのが正常では?と思えるのです。

 

爆破されるときには、たいてい予告はない。しかし、こういった部分を踏まえると、予告が一切存在しない日常において、なんの対策もとらない大学側は問題ではないのか?という言い方が可能であろう。すでに説明したように、爆破されるときは事前に予告がないときが大半(ほぼ全部と言ってもいい状況)なのだから、予告がないときほど警戒すべきと言える。今後、日本でコロナが完全に収束して、以前と同じようなキャンパスライフが戻ってきたとしたら、これは完全に爆破に対する警戒心が存在していない状況と評価できるでしょう。オンライン授業を一部であっても継続するなどの策をとれば、予告がないとき、つまり爆破される可能性が相対的に高いかもしれない状況で、ちゃんと警戒しているという評価が可能かもしれないが、そういう状況が多くの大学で見られないならば、それは爆破される可能性が相対的に高いかもしれない状況で何もしていないという評価になる。オンライン授業を実施すれば、いざ爆破されたときにおける人的被害はより少なくなるだろうから。コロナ禍以前の状況に完全に戻るときがあったならば、それは爆破に対する警戒を完全に相対的に緩めている状況だ。そして、その状況で実際に爆破されたら、これこそ大学側はどうするんだ?どう責任をとるんだ?と非難する余地が生まれてしまう。これは実際に何の警戒もせずに大学に通っている学生にも同じことは言えるわけだけど。

 

普段から爆破予告に対する警戒を万全にできない、ずっと継続は不可能と言う人もいるかもしれないけど、日常においてそういった警戒ができないことは、爆破予告があったときに警戒しないといけない理由にはならんからね。だって、爆破予告がない状態も、爆破予告がある状態も、今回の東京都市大学に関しては一定の油断があったんだろうから。つまり、今回の爆破予告は、爆破予告がない日常の延長線上でしかないわけ。どっちも油断している。状況が一緒になのに、一方を非難して、一方を非難しないって意味が分からない。それに日常において何の警戒もできない、継続が一切できないなんてことはありえないだろう。例えば「大学はいつ何時爆破の対象にされるか分からないから、授業が終わったら真っ先に家に帰るように」とか、学生に周知することはどの大学もできますよね?でも、そんなことをやっている大学はほぼないと思う。こんな簡単なことすらできない大学なんてあるんですか?私の出身大学ではそんな周知を見た記憶は一切ないけど。つまり、普段は完全に無警戒ってことなんでしょう。ちなみに私の出身大学も爆破予告の標的にされたことはありますが。

 

そんな感じで、爆破予告があった東京都市大学が、爆破予告を完全にスルーしたこと自体は特に問題ないだろう。それ自体は可能性の大小をもとにすれば、非常に合理的な対応だと言える。この対応が問題と言うならば、爆破予告が存在しない日常における対応はもっと問題であり、そこに関して非難の声が飛ばない理由が理解できない。それに爆破予告の目的は犯人にしか分からない。単に愉快犯というケースもあれば、目くらましというケースもあるかもしれない。例えば、爆破予告をすれば、大学側は敷地内から人を避難させるだろうと見込んで、その間に敷地内で何かをする目的があるなども考えられる。ありえそうなのは重要な書類などを盗み出すとかか。爆破予告があったところでどうせ油断して、避難なんかさせないだろうと見込んで、あえて逆を突いて爆破させるという犯人がいるかもしれないが、それも合理性はない。油断しているのは(爆破予告がない)日常においても同じなのだから、予告をするだけ無駄に手間がかかっているだけとなる。

 

強いて言うならば、大学側が油断をして、学生らを避難させない光景が見受けられたときに、あえて爆発させ、大学側が油断したからこれだけ大勢の人たちが死んだんだ!という状況を作り出したいという動機を犯人が抱えていたケースも一応考えられる。大学側に対してよほど強い恨みがあったときには、そういう行動をとることもあるかもしれない。でも、これを実行するには本当に爆発物を用意しなければいけないので、ハードルは相当高いですが。できる人は本当に限られるでしょう。今のところ、国内の爆破予告オオカミ少年の事例ばかりなので、無視をするのが得策だと思う。でも、本当に無視をするケースばかり増えたとしたら、そのときはガチで爆破される事態が起きるかもしれない。「かもしれない」なので、爆破予告がないケースよりも、爆破予告があったときの方が爆破されやすい現実が本当に訪れるのか?はやっぱり不明だが。客観的に爆破予告がないときよりも、あったときの方が爆破される可能性が高い、事例が多いことを説明できる状況があるとは思えない。爆破予告からの爆破というケースは、過去の日本では0と言ってもいいような状況があるだけに、無視をするのが得策というのは、今のところはその通りとしか言いようがない気がするがね。

 

これが得策じゃないと言う人がいるならば、爆破される確率がより高い可能性がある予告がない日常において、何の策もとらない、無警戒状態の大学側をなぜ非難しないんだ?と言いたいですが、彼らは爆破予告がない日常の方が爆破される可能性が低いと思っているのでしょうか?今回の件で爆破予告を無視した場合に、「本当に爆破されたらどうするのか?どう責任とるのか?」と言われても、「別にどうもしないし・・・」としか言いようがないのです。なんで責任なんかとらないといけないの?という疑問が当然生じます。爆破予告によって、爆破される可能性が低くなった可能性がある、高く見積もっても平常通りの確率と言えるならば、本当に爆破されてしまった場合でも、その爆破による被害の発生が、なんで大学のせいになるのか?という状況を説明せねばなりません。責任を追及するならば、そういった点が必要です。爆破予告がない日常において、何の警戒もしていない大学側を非難しないならば尚更です。確率が相対的に高い可能性があるときに何も言わないのに、確率が相対的に低い可能性があるときには責任を追及するという行動は本当に理解できません。

 

この件に関してのツイッターを見ると、「自分だったら予告した時間よりも前に爆発させる」とか言っている人もいたけど、だからそれをする意味が分からんのですよ(笑)油断している中で爆破させたいならば、さっきも言ったけど予告なんかする必要がないのよ。それに本当にそういう事態が起きたとしても、それって予告がない中で爆破されたのと一緒なんです。どちらも油断しているときに爆破しただけなんだから。強いて言うならば、世の中には何が合理的か?の判断すらまともにできない人もいるという可能性もあるわけですがね。ただ、爆弾魔の中に本当にそういう人がいるならば、過去に起きた爆破事件の前に予告をする人がもっといそうですが。それに何が合理的か?分からない人の場合には、爆破をするタイミングなんて予測できないってことなので、爆破予告があっても、なくても常に警戒しないといけないって結論にもなりますが。やっぱり大学の日常の無警戒の状況に対して何も言わないで、爆破予告があるようなときだけ無警戒の大学を非難するのは意味不明となっちゃいますよ。

 

実際、恐らく予告がない状態で油断している中で爆破されたら何も言わないのに、予告があって油断していて爆破されたら大学側を責めるなどの謎の言動を見せる人が日本人の場合は多いと思うのよね。前者と後者は何が違うって言うの?ここから判明するのは、ある事態を正確に把握するってことができない、爆破予告があったときに、爆破される客観的な可能性の大小の判断ができない人たちが意外と多くいるということなんだと思う。東京都市大学爆破予告の時間までは授業を継続するという、傍から見たときには油断している(私にはそうは見えないが)ように感じる措置をとったわけだが、油断しているのは普段も一緒なのに、その事実を把握する能力がない人がこんなに多くいることに関して驚いてしまった。大学側の対応の仕方よりもこっちの方がよっぽど愕然ですよ。

 

爆破予告

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