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正義を貫き通すRPG/「罪のない人」という表現を鼻で笑いたくなるRPG

正義を貫き通すRPGこと「テイルズオブヴェスペリア」は、私が未プレイのテイルズ作品の中では、最もやってみたいと思っていた作品です。その気持ちは今でも変わらない。ゲームとしてはすごい面白そう。ただ、私はこのソフトが対応しているハードを持っていない!私の家にあるハードで最も新しいのがPS2か、GBAであり、テイルズオブヴェスペリアは最も古いハードでもPS3XBOX360となっているため、プレイしようと思うと、そういったハードを買わないといけない。STEAMでやるって手もあるが、スペック不足なので今の私のパソコンだときつそう。でも、上記で挙げたような何らかの手段でそのうちやるかもしれないです。

 

今のところ、私は自分でプレイができないので、Youtubeのゲーム実況の動画を見ることにしたのです。ただ、実況動画を見ると、自分でもやってみたい気持ちがさらに出てきまして。でも、ゲーム実況の動画を見ると、ある程度のストーリーは把握できたので、まあまあの満足感は得られましたけど。このゲームはラスボスが割と印象的で、正直言って、どっちが敵か?分からない状況でした。主人公らが善とも言い難いような、それほどの存在感と目的意識を持って、主人公らの前に立ちはだかるのです。ゲームだから、最終的にはラスボスを倒さないと進まない設定になっているものの、私はラスボスの方を応援したくなるような気持ちになりました。このラスボスは論理厨の私に言わせれば、至極まともなことを言っている気がする。それは筋が通っているという点です。逆に言えば、主人公は筋が通っていないことをしてきたと思っています。

 

ネタバレをしてしまうと、このテイルズオブヴェスペリアでは、主人公はそれなりに地位が高い2人の人間を殺します。動機に関しては、それぞれの街の住む人たちを苦しめたから。という、勧善懲悪ものにありがちな内容です。主人公が悪役にすら見える光景なのです。ただ、この主人公は自身のことを「極悪人」とか、「自分はいつ斬られてもおかしくない」と評することもあるような人物なのですが。そこはちょっと変わっているけど、自身の望みを達成するためにどんな手段でも厭わないという姿勢は、かつて日本で外務大臣をしていた頃の大隈重信を殺そうとした、来島恒喜を彷彿とされるキャラに思えてきます。ちなみに大隈重信は自分を殺そうとした来島のことを称賛しており、来島が自害した後には自身の側近に彼の墓参りに行かせるなど、非常に懇意にしていた面があったようだ。これもちょっと変わっているな(笑)ただ、大隈はこの主人公のような行為をした来島に対して、「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っていたらしい。このことは大隈のWikipediaにも載っている。

 

そんな来島のような主人公は割とファンの間では人気が高いらしいです。歴代の主人公の中でもトップクラス、むしろトップと言えるほどに人気みたいだ。私がゲーム実況の動画を見ているときにも、そんな雰囲気は感じられました。主人公が実際に2人を殺したシーンにおいては、主人公は正しいことをしている。殺された2人は殺されてもしょうがないようなクズである。という感じが伝わってくるのです。実際、2人に対する「クズ」という表現は割と見られます。ただ、私はこの状況は特に考察のし甲斐があると思っています。別の言い方をすれば、日本人の謎の思考に非常に興味があるのです。それはなぜ主人公の行為が善で、殺された2人は悪なのか?という部分です。ゲームだから、そういう構図で描かれているから、という理由はここでは無視します。それとは別にそのように思った理由があるはずですよね。ゲームだからっていうならば、それが当たり前って認識なんだから、わざわざ口に出す必要ないし。

 

主人公の行為を善と捉える理由は恐らく「人を殺したとは言え、相手は圧政を敷いていた、住民を蹂躙していた人物だったから」でしょう。あとは彼らがそんなことをしておきながら罪として裁かれていないからだろう。実際、ゲームを見る限り、住民は相当疲弊している、困窮している状況が感じられました。つまり、悪と言える人物を殺して何が悪い?と、多くが思ったに違いありません。ただ、2人を殺した後も主人公は普通に冒険を続けており、主人公が憎み続けた「悪行をしておきながら、罪に問われない人物像」に自分自身がなってしまうわけですな。この主人公を好きだという人は割といるようだが、そういう人は普段は法律を遵守しながら、都合の悪いときには平気で破るような人間なのかもしれない。ただ、このゲームが体現したかった正義って、それなんだろうと思うが。正義は正義であり、善悪ではないということだ。冒頭で述べた来島もそんな人間だ。彼は当時の日本の欧米列強に対する軟弱な態度に嫌気が差し、国の現状を変えるために大隈に対して爆弾を投げつけた。その結果、彼の思惑通りに確かに事は運んだんですよ。殺人未遂だとしても、これが彼の正義だったんだろうし、彼の正義は結果的に実を結んだ。そして、日本にとって、日本人にとって有利な状況が実現されたのは事実だと思う。

 

このテイルズオブヴェスペリアにおいて、主人公がした行為は善とは言えないとしても、少なくとも殺された側は悪である。主人公の悪質度が殺された人物の悪質度を超えることはありえない。そんな感覚を実際にプレイした人の多くが持っていたのでは?と思います。しかし、それは主人公が人を殺した事情を把握していたから。とも言えますよね。逆に言えば、殺された2人なぜそんなことをしたのか?その事情をゲームをプレイした人たちは知っていたのか?ということです。人を殺す行為は、一般的に言えばこの世で最も許されない行為という認識がありそうだ。そんな行為が、特定の事情が存在することにより許されるならば、殺された2人だって許される可能性があることになる。つまり、2人がなぜ住民を苦しませるようなことをしたのか?その詳しい事情が判明していない段階で、なぜ殺された側が主人公よりも悪であると決めつけられたのか?ここは私が抱える最大の謎です。ここからがいよいよ本題です。

 

実際、殺された2人のうち、1人は主人公に殺される直前、命乞いをしながら「ある人物から命令された」と主人公に話しています。なんか深い事情がありそうな臭いがぷんぷんしてきますけど、この人物はあくまでも命令されたうえで行為に及んだにもかかわらず、私が見ていたゲーム実況者は、殺された人間に対する見方は変えていないようでした。主人公の態度も同じ。問答無用という状況だったのです。ただ、主人公の殺人という非道な行為に関しては事情を考慮しているのに、殺された側がやった殺人に匹敵しない行為に関しては、なぜ事情に関係ないというスタンスなのか?は謎です。主人公は悪人を殺したから、その殺人は悪じゃない。一方で殺された側は事情に関係なく、住民をいたぶっていたから悪である。よく分からない理屈ですね。

 

どうしてそんな心情になってしまったのか?これも私の推測ですけど、ストックホルム症候群に似たようなものじゃないか?と思っています。これは監禁や誘拐事件を起こした犯人とその被害者が一緒に生活をする中で、その犯人に対して被害者が親近感を持ってしまう現象のことです。要するに、当初は自分を監禁した、誘拐した悪者であるという印象のみという状況だったはずですが、一緒に生活を共にする中で、徐々にその犯人の悪とは違う側面、人柄のような面が見えてきてしまい、少なからず共感してしまうのでしょう。意外と良い人かもしれないと思えてくるのです。今回のテイルズオブヴェスペリアで言えば、主人公はプレイヤーが初っ端からずっと操っているキャラであり、主人公の人柄の全貌のような部分はほぼ明らかになってきています。つまり、その主人公がどれだけ悪行を重ねようとも、親近感が少なからず存在しており、真っ向から否定できない感情を持ってしまうわけです。思い出補正に近いものでしょう。

 

逆に言えば、作中で悪役として描かれているキャラは、悪行以外の部分はクローズアップされません。少なくとも住民をいたぶっていた段階では。つまり、悪い印象を抱かせる部分のみが、プレイヤーの脳裏に残ります。実際、殺された2人に関して、この時点では悪行部分だけがシーンとして残っているので、彼らがそれ以外の部分で何かしら善行を行っていたとしても、プレイヤーが知る由もありません。だから、そういう可能性を無意識にシャットアウトし、クズであると、悪であると決めつけてしまうのです。自分が見ている光景のみが真実だと捉えてしまうんじゃないですか?中には主人公を「ただの人殺しじゃねえか!」と揶揄している記述も、ネット上では一部見られますけど。しかし、少なくとも殺された2人の方が主人公よりも悪だと考えている人は、そういう想像をする能力がないのでしょう。さらに言えば、彼らによって蹂躙されていた住民がクズである可能性もありますからね?(笑)

 

ここが問題なんですよ。住民がそもそも蹂躙されるに至った理由が存在するかもしれない。そんな想像も彼らはできません。「いじめられる側に原因がある」みたいな話を露骨に嫌がる国民性が出ているのかな?(笑)とも思うけど、住民らが今まで何をしてきたのか?どんな過ごし方をしてきたのか?は、プレイヤーにとっては一切不明です。主人公らがたまたまやってきた街で、そういう光景を目にしただけなので、プレイヤーにとってもその街の住民の本性のような面は知りようがありませんが、これも勝手に決めつけているのだと思います。描かれていないってことは、=分からない、判断できないはずなのだが、なぜか分かったつもりになっている、判断できると思っているのでしょう。クズである部分が描かれていないから、クズではないと無意識に判断しているのだと思います。つまり、情報として明かされていない部分があるにもかかわらず、脳内で誰が善で、誰が悪か?の判断が勝手に行われてしまっています。

 

こういう状況を見ると、印象操作による洗脳がすごい簡単に行えそうに思えてきます。特定の人物の悪い部分だけを見せ、その人物に対して憎悪の気持ちを抱かせる。そんな方法が犯罪組織などで実際に行われているんじゃ?と思うし、巷で言われている印象操作とやらもこれに近いのかもしれない。例えば、何らかのテロで亡くなった人たちに悪い印象を抱いている人ってほとんどいないと思うんだけど、それは彼らの負の側面を知らないからでしょう。亡くなった人たちが多くいるため、私たちが知らないところで悪行を重ねている人たちが少なからず含まれていても不思議じゃないと、私は思っていますけど、そんな事実を確実な情報として把握していなければ、彼らの中に悪人がいるかもしれない可能性すら浮かばないでしょう。

 

つまり、悪である側面を一切知らないから、彼らは悪人ではないと世界中の人は扱う。いわゆる「罪のない人たち」という扱いになるのです。したがって、このゲームで主人公に肩入れし、殺された2人を悪だと見なす人って、簡単に洗脳できそうですね(笑)特定の人たちの悪の部分だけを見せて、善の部分は全て隠すようなことをすれば、その特定の人たちに対する憎悪を抱かせることは朝飯前でしょう。逆に言えば、テロリストらはテロ行為をしたという悪の側面ばかりがクローズアップされるので、誰もが悪人だと思う。大量殺人を行ったテロリストが(法律を基準にした場合に)悪人だというのはとりあえずいいとしても、そのテロに巻き込まれて亡くなった人たちが罪がない人たちか?悪人じゃないか?は分からない。彼らのこれまでの生涯の全てを知ったうえでも同じ印象を抱けるのか?ここは個人的には非常に興味がある。そもそもの話をすれば、この世に罪のない人なんていないと、私は思っていますけど。「罪」という概念を多数に該当しないような、非常に都合のいい、恣意的な線引きをするなら話は別ですがね。

 

そして、これは以前にトリビアの泉という番組内で放送されていた内容なのですが、野口英世という有名な学者、医者が、自身の伝記を読んだときに、その内容にクレームをつけたんだそうです。それはなぜか?というと、その伝記には自身のいいことばかりしか書かれていなかったからです。「こんなのは作り話だ!こんな人間は現実にいない!」と、非常に珍しいクレームをつけ、その後野口英世の伝記は、野口英世の悪行部分も含まれた、非常にリアルな内容のものに変わったみたいです。番組では、偉大な人物として社会で注目されるに至った経緯に関して、悪い部分まで含めて紹介していましたが、あれを見ると野口英世という人物に対して印象が少なからず悪くなる可能性はあるでしょう。ただ、美談ばかり載せている伝記に対して、あえて自分の負の部分を載せるようにクレームを出したことで、見直した!という人がいたかもしれませんがね。野口英世は、世間一般では偉大な功績を残した人物として知られているが、結局彼も罪深い人間だと説明することは容易でしょう。ニュースとかでたまに聞かれる「罪のない人」というワードが非常に空しく感じられてきます(笑)

 

作品を楽しんでいる人たちにとっては善人に見えるが、実は悪人だった(多くは悪人である部分を一切知らない)というケースは実際にないのか?というと、実は探してみるとある。これもトリビアの泉で紹介されていたのだが、多くが子供の頃に見たことがあるんじゃないか?と思われる「ピーターパン」は、原作では衝撃的な事実が含まれている。しかし、多くが見たことがある映画ではそのシーンはカットされている。教育上不都合なんでしょうな。(とんでもない事実を隠蔽することは教育上いいのか?と思うが)それはどんなシーンか?というと、ピーターパンが子供たちを殺しているという部分です。動機は不明なので、動機次第では悪人とは言えない余地はあるものの、不明な部分を一切考慮しないでクズと決めつける人たちのスタンスからすれば、ピーターパンは悪人確定ということになりますよね。しかも、トリビアの泉を見る限りでは、かなり多くの人数を殺している感じに見えます。ピーターパンに対して悪の感情を覚えている人は世の中にほとんどいないと思われるが、実は凶悪殺人犯とされているわけですからね。こういうのを見ると、テイルズオブヴェスペリアで被害者と思われていた住民とかが実は極悪人の集団であった可能性は全然あるんじゃないの?と思います。「罪のない人」なんていないという、私の感覚からすれば、私にとっては悪人である方が自然なんでしょうけど。全てはゲームを作ったスタッフ次第ではありますが。

 

ここから分かることは、人間には悪の側面はつきものだということです。世の中に悪いうわさが存在しないような人物ほど、裏の顔が存在するってことだと思います。そして、世間的に聖人扱いされている人ほど、見えないところで何やっているか?分からない可能性があります。そこを疑った方が良いです。逆に言えば、悪い噂しか聞かない人物にも、実は少なからず美談があるのかもしれない。私たちが抱く、特定の人物に対する印象というのは、非常に不確かな根拠で生まれているものであり、信用できないものだと思った方が無難でしょう。その印象とやらはちょっとした情報が加わるだけで、一気に変わる、崩壊する可能性があるわけです。ゲームの話に戻ると、殺された2人が住民を苦しませたことで、得をしている人物もいるんでしょうね。もちろん主人公が2人を殺したことで、住民らは得をしているでしょうけど、殺された2人の家族は悲しんでいると思われる。結局、誰かが得をし、誰かが損をするのは、誰を殺しても、誰を苦しめても一緒である。あくまでも全体から観察すればそういうことになります。しかし、多くのプレイヤーは主人公側に肩入れするでしょう。ただ、そういう人ほど簡単に騙される、洗脳されてしまう、思考回路に危うさが感じられる人だと、私は思っています。

 

 

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明治学院と武蔵大学のレベルはどっちが上で頭いい?イメージや雰囲気の比較と就職の違い

明治学院大学武蔵大学はどっちが上でしょうか?明治学院大学武蔵大学の場合、一般的には同じ大学群として扱われます。準高学歴的な扱いで、頭いいと思っている人も割といるでしょう。実際、偏差値やレベルは同じくらいというイメージを持っている人も多いでしょう。したがって、難易度に関しては大きな差はないと思われます。ただ、実態がどうなっているのか?に関して注目していきましょう。明治学院大学武蔵大学の偏差値やレベルを比較すると、どっちが上か?の判断はしやすいはずです。そして、それぞれの大学のイメージや雰囲気の違いについても見ていきたいと思います。そのうえで明治学院大学武蔵大学はどっちがいいか?の判断もしていきましょう。

 

明治学院大学武蔵大学の学部ごとの偏差値の違いは?

明治学院大学武蔵大学の偏差値やレベルを学部ごとに見ていきます。河合塾の個別日程の偏差値を参考にしていきたいと思うのです。まずは文学部(人文学部)からです。明治学院大学が55.0~60.0で、武蔵大学が57.5~60.0です。文学部は武蔵大学の方がやや難易度は上と言えるかもしれません。次は経済学部ですが、明治学院大学が55.0~60.0で、武蔵大学が57.5~60.0です。経済学部についても武蔵大学の方がレベルはやや高い状況です。そして、社会学部については、明治学院大学が52.5~62.5で、武蔵大学が57.5~62.5です。したがって、社会学部も武蔵大学の方が偏差値は高くなっています。武蔵大学の学部数が少ないため、比較できる共通学部が少ないですが、全体的には武蔵大学の方が難易度は高い状況です。ただ、明治学院大学には他にも学部がいくつかあるため、全体的に比較をすると、どっちが上か?というのは難しい判断と言えるでしょう。また、武蔵大学は2022年から国際教養学部を設置するため、その偏差値によっては明治学院大学武蔵大学はどっちが上か?という結論に影響を与える可能性があります。

 

明治学院大学武蔵大学の偏差値やレベルを比較すると、だいたいこんな感じです。全体的には多少武蔵大学の方が上かもしれませんけど、ほとんど変わらないです。したがって、現状は明治学院大学武蔵大学の難易度はほぼ一緒と評価できると思います。ただ、どちらも十分に頭いいと言える状況です。今の時代はかなり難しいランクになります。この2つの大学はほぼレベルは変わらないので、それ以外の部分からどっちがいいか?を考えた方が良いです。どちらを受けるべきか?どっちに進学すべきか?悩んだときには、偏差値やレベルとは別の点から決めるのも良いと思います。したがって、明治学院大学武蔵大学のイメージや雰囲気の違いも理解しておきましょう。実際にキャンパスライフを送るうえで、どんな日常を過ごしていくのか?そういった部分について理解しておきましょう。

 

明治学院大学武蔵大学のイメージや雰囲気の違いは?

明治学院大学武蔵大学のイメージや雰囲気の違いに関しては、やはりキャンパスの立地条件の面が大きいです。そういった部分で日々のキャンパスライフに差が出やすいです。明治学院大学は東京都港区にメインキャンパスがあり、白金台駅白金高輪駅高輪台駅が最寄り駅です。武蔵大学は東京都練馬区にメインキャンパスがあり、江古田駅が最寄り駅です。メインキャンパスを比較すると、明治学院大学の白金キャンパスの方が基本的に都会です。武蔵大学の江古田キャンパスは周辺はそこまで栄えていないですし、割と静かな街並みにあります。だから、雰囲気で言えばかなり違いはあるでしょう。ただ、明治学院大学は神奈川県横浜市に横浜キャンパスもあります。こちらは戸塚駅が最寄り駅で、都心からはやや距離があります。一部の学年、学部の場合にはこの横浜キャンパスに通うことになります。キャンパスの立地条件は好みがあるため、どっちがいいとは一概には言えません。明治学院大学武蔵大学のそれぞれのキャンパスに関して、見学に行けるならばそういった手段を踏むのがおすすめでしょう。

 

明治学院大学武蔵大学では就職の違いはある?

明治学院大学武蔵大学において、就職の違いはあるのか?ここが気になる人もいるでしょう。この2つの大学は一般的には同じレベルであり、難易度はそこまで変わりません。したがって、就活においては同ランクとして扱われるのが普通でしょう。だから、基本的には偏差値やレベルの通りということで、人事の評価としては大きな差は生まれないはずです。明治学院大学武蔵大学も頭いいレベルの大学だと考えている人事は、それなりにいる可能性があります。ただ、明治学院大学武蔵大学の場合、大学の規模は明治学院大学の方が多少なりとも上です。就活では大学の規模が大きい方がOB、OGの数が多くなり、それによって有利な面があるとされています。したがって、微妙な差ではありますけど、その点で言えば明治学院大学の方が良いかもしれないです。それに就活をする頃には多くの学生は白金キャンパスで就学しているでしょう。武蔵大学と比べると明治学院大学は都心にあるため、交通面において利便性を感じやすい可能性があります。だから、難易度は近いものの、就職において明治学院大学武蔵大学はどっちがいいか?と言えば、明治学院大学と言える余地はあるということで、ここは知っておいてほしいです。

 

 

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勉強を教える側が、教わる側の頭のレベル以下である可能性を誰も考えない

先日、5chのある板のスレッドで、いわゆる2人の子供問題について議論がされている光景を目にしました。この2人の子供問題って何か?っていうと、「ある家庭に2人の子供がいる。そのうちの1人が男の子であることが分かっているとき、もう1人も男の子である確率はいくつか?」というものです。ちなみに男女が生まれる確率は50%ずつです。この問題は、結論から言うと答えは1/3ということになっているらしい。ただ、議論になっているということは、この答えに納得いかない層がいるわけです。私もその1人ですが。私は1/2が答えだと思っていますし、1/3に納得いかない人もほぼ全員がそんな感じに見えました。

 

この問題の答えに関しては、1/3が正解という扱いになっているみたいですが、1/2派の人からすれば納得いかないわけです。それは解説を聞いても。というのも、1/3が正解だと思っている人たちの解説には明らかな欠陥があるのですよ。そんな事実に気付いてしまったので、このレスバトルの中に私もちょっと割って入ったわけですが。1/3が答えだと主張する人たちは、2人の子供を主に4つのケースにまず分けます。(兄、弟)(兄、妹)(姉、弟)(姉、妹)といった具合に。この中で2人とも女である姉、妹の組み合わせは最初から除外され、分母は3(通り)になる。そして、分子は兄、弟のケースのみであり、1通りになるので、1/3が答えになるらしいです。この答えを聞くと、たいていの人は「へー」ってなるみたいです。私は「は?(笑)」でした。何が疑問かというと、これは1/2の答えが間違っている理由が一切含まれていないってことです。要するに、1/3が答えになるような計算の仕方をしたら、答えが1/3になりました。と言っているだけです。

 

具体的に言うと、そもそも1/2と1/3に答えが分かれる人は何が違うのか?そこが重要なのです。すでに話したように、1/3が答えになると主張する人たちは、2人の子供の性別と年齢の部分を基準とし、4つのケースに分けています。1/2が答えになると主張する人たちはそんな分け方をしていません。私の感覚だと、問題文を読む限り、ある1人の子供が男か?女か?の確率に、もう1人の子供の性別は影響しないと考えます。恐らく1/2が答えだと主張する人は他の人もだいたいそうじゃないか?と思います。つまり、スタート地点で違っているわけですよね。だから、1/2派の人たちは4つに分ける必要なんかないと思っています。にもかかわらず、1/3派の人たちは4つに分けないといけない理由を一切説明しません。これは当のスレッドでのレスバトル内でもそうだったのだが、ネット上でこの問題に関して解説しているいくつかのページを見ても同様でした。1/2は間違っている、答えは1/3である、なぜなら4つのケースに分けられて’(ryと書いてあるのみ。なぜそんなやり方をとらないといけないのか?それがなぜ正しい計算の仕方なのか?を誰も説明しないのです。その説明がなければ、1/2が間違っている根拠が1つもない状況になってしまいます。

 

そんな状況だったんで、私はこのレスバトルに割って入って、答えが1/3だとする人たちに直接聞いてみました。「なんで4つに分けないといけないの?」と。すると、一応返信はきましたが、「どうせ説明してもお前には理解できない」だそうです(笑)こいつ絶対に説明できないやん!(笑)と、瞬時に思いましたよ。その後は「僕、初めてあなたに話しかけたんですけど、どうして僕が理解できないって判断したんですか?(笑)あなたは僕の何を知ってるんですか?(笑)」と返したら、返信が止んでしまいました。やっぱり説明する能力がないんだなと思いましたよ。この状況から推測をすると、答えが1/3と主張する人間は自身ではそれが正解だと思っているが、それが正解だと断言できる根拠を何1つ持っていないのです。実際、このレスバトル内では、他の人が「(答えが1/3だと主張する人は)教科書や本などに載っている答えをそのまま持ってきただけで、その答えに関して精査する能力がない」と言っていましたが、まさにその通りだと思う。1/3はこの問題の答えとして常識になっているが、常識を疑う力がないとこうなってしまうわけです。彼らは(常識となっている)解き方を知っているだけ。こういうケースを見ると、数学を学んでも論理的思考力は育まれないんじゃ?と思えて仕方ない。実際、1/3が絶対的に正しい答えならば、1/3以外の答えを真っ向から否定するための説明ができるはずですが、私が見たところでは誰もできていない。「4つに分けることができる」と「4つに分けなければいけない」は同義ではありません。

 

だから、私の本音を言えば、例えば秋山仁とかの数学の専門家にでも説明をしてもらいたいです。説明如何では、最終的に1/3派に寝返る可能性もありますから。ただ、こういうパターンは珍しいことではないと思っています。要するに答えがこうなる理由だけを説明し、他の答えが間違っている理由を適切に説明しない、できないケースはいわゆる受験勉強、学校の勉強では結構あると思う。そういう部分に関して気にしないというか、注目する能力がない人たちが大勢いるからこそ、受験勉強や学校の勉強は成立しているんだろうと思うのです。要するに、私みたいないちいち抗議をしてくる人間ばかりだったらスムーズさを欠き、なかなか先に進まないと思います。ある意味支障が出るんでしょう。勉強って、知識や考え方に不備がある人間が行うものだと思うんだけど、実は教えている側も同じだったりするんじゃない?私はそんな気がしています。そういう例は少なからずありそう。私が実際に閲覧した、2人の子供問題の解説ページを見る感じでは、この解説をしている人は私と同等以下の頭なんじゃ?と思えて仕方ない。算数や数学の知識は私よりもありそうだが、論理的思考力はどうしても下に見えてしまいます。例えば学校で言えば、先生という立場である以上、彼らが間違っていることは教えるはずがないと無意識に思っている人は多くいると思います。そういう先入観が多くになければ、学校という存在は存在できなかったのかもしれないです。勉強を教える側が教わる側と同じレベル以下かもしれない事実は、当然ながら学校では教えてくれない部分です。

 

 

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「昔のゲームの方が面白かった」は、私にとっては多分正しいのだろうと思う

以前、PS4とPS5でどっちを買おうか?迷っていたら、PS VITAとSwitch Liteで迷い始めたということを話したが、その後いろいろとありまして、多分この4つのうちどれも買わないことになりそうです。というのも、この4つの選択肢の他にSTEAMがあることを思い出し、パソコンを使ってゲームをしようかな?と考え、試しにドラクエ11の体験版をダウンロードしてプレイしてみたんですよ。とりあえずやってみたら、今のゲームソフトは自分には合わないと悟りました。ドラクエ11は2017年くらいに発売され、その後多少リメイクされたものが登場したみたいです。ハードは基本的にはPS4かSwicth(Liteを含む)です。したがって、私の中では最新のゲームという扱いだったのですが、やっていて疲れるという感覚が非常に強かったのです。パソコンでやったのが大きかった可能性はあるかもしれないが。

 

パソコンではあるけれども、XBOXのコントローラーを使ってプレイしたので、テレビなどにつないでやる環境とほぼ同じだと思うのだけど、それでも疲労感がすごかったのです。その原因は何か?というと、多分グラフィックなんだろうと思いました。正確に言えば3Dが合わないんだと思う。3Dの全部が合わないとは思わない。PS2でやっているゲームでも3Dのタイトルは多くあるし、それらを今までやってきた。今のゲームは3Dの進化が著しいと感じられ、プレイヤーのさじ加減でいろいろな方向を見ることができるため、それが個人的にはイマイチに感じられてしまう。視線が固定されている(または自動で視線が移動する)方が良いと思うし、それこそ2Dの方が良いのかもしれない。それが正直な感想でした。あとはファイナルファンタジーなどは顕著だと思うけど、グラフィックが実写にほぼ近くなりすぎている。例えばFF7リメイクに関しては、最初見たとき実写だと思ってしまったほどです。実写に限りなく近いグラフィックは、ゲームをしているという感覚を消す効果を生み出していると私は感じています。つまり、ゲームをやっている感覚じゃない、映画でも見ているような気分で、はっきり言ってやりがいが感じられない。ファンタジーに見えないのだ。

 

また、今年の9月に発売が予定されているテイルズオブアライズに関して、当初は買ってやってみたいなと思っていたものの、実際に公式のプレイ映像を見て、正直言って買う意欲が失せてしまった。当然このゲームは3D仕様だが、そこはとりあえず良いとしよう。問題は背景がリアルすぎるということ。さっき言ったように、実写のような感じで、ゲームをやっている感覚になれそうにない。1つ前のテイルズオブベルセリアに関しては、これはまだゲームだなと思える。グラフィックによる映像だと思える。よって、私にとっては実写にしか見えないか?どうかの違いは非常に大きく、2Dか3Dかという問題とは別に、私にとって重要な要素であることを実感したのです。

 

逆に言うと、私は最近までDS版のドラクエ6のゲーム実況をYoutubeで見ていたのだが、この作品はドット絵&2Dグラフィックで、今と比べたら相当ショボく見える。しかし、そんなグラフィックの方が楽しそうに見える。ドラクエ11よりもこっちの方がやりたいと思ったのだ。ドラクエ11もモードを変えることで、2Dグラフィックにできるんだけどね。そんな感じで、グラフィックの進化は私にとってはデメリットでしかないことに気付いたため、私は今後最新のゲームはまずやらないと思う。オクトパストラベラーみたいな、この時代にドット絵&2Dグラフィックのゲームであれば話は別だが。そんな感じで、私は今後新しいハードを買うとしても、最高でもPS3になると思う。PS3のグラフィックも個人的には割と進化しすぎているとは思う余地はなくはないものの、ギリ耐えられるレベルという印象が強い。したがって、PS4やPS5のゲームをやるならPS1とかのゲームをやるんじゃないか?と思う。そっちの方がやる気がわいてくるのです。幸いPS1のゲームはPS2でプレイできるし、PS3でも可能だ。

 

2Dのグラフィックが私は好みなのかな?と思えてくるし、そもそも昔のゲームの方が安いし、コスパの面でも優れている。2Dじゃないと嫌なわけではないが、2020年以降のゲームソフトだったら、たいていは2Dの方が好みだろうなと思う。3DならPS2かPS3くらいまでが個人的には好みで、それ以降の3Dゲームなら2Dの方が良いと思っており、私は現代の最新のゲームは合わないと確信した。3Dが進化しすぎること、グラフィックが実写に近くなることは、私にとってはデメリットだということ。最新のゲームでもストーリーとかは好みに感じられる作品はあるんだろうが、ビジュアル的にやる気が起きない気分なのです。「昔のゲームの方が面白かった」と言われることもあるみたいだけど、私の場合にはそれが当てはまるんでしょうね。一概に言えるわけではないけど、PS5とPS1のゲームなら、後者を選ぶと思います。分かりやすく言えば、そんな感情を抱いている今日この頃です。

 

 

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関西学院大学明治大学はどっちが上でしょうか?両者の難易度の比較をすると、どっちが頭いいか?について、ある程度見えてくると思います。どちらも関西、関東では有名な私立大学ですが、全く同じレベルではないでしょう。少なからず難易度に差があるはずです。その偏差値やレベルの違いを見ていきます。関西に住んでいる人であれば、関西学院大学明治大学の両方を受ける可能性がありますし、どっちがいいか?で悩む場合も考えられます。したがって、関西学院大学明治大学の偏差値やレベルの違いを認識して、そこから決めるというのもおすすめです。ただ、それぞれの大学のイメージや雰囲気の違いもあるため、そこに関してもチェックしていきましょう。

 

関西学院大学明治大学の学部ごとの偏差値の違いは?

関西学院大学明治大学はどっちが上か?を調べる際には、それぞれの偏差値を見比べると良いです。河合塾の個別日程の偏差値をチェックしていきたいと思います。まずは文学部ですが、関西学院大学が55.0~60.0で、明治大学が60.0~65.0です。文学部については明治大学の方がかなりレベルが高い状況です。次は法学部ですけど、関西学院大学が57.5~60.0で、明治大学が60.0~62.5です。法学部も明治大学の方が偏差値は上です。さらに経済学部(政治経済学部)ですが、関西学院大学が57.5~62.5で、明治大学が62.5~65.0です。こちらも明治大学の方が難しいと言えます。そして、商学部については、関西学院大学が57.5~62.5で、明治大学が62.5~65.0です。やはり明治大学の方が難易度が高い状況です。国際系の学部として、関西学院大学の国際学部、明治大学の国際日本学部がありますが、前者は60.0~70.0で、後者は62.5なので、これに関しては関西学院大学の方が上になるでしょうか?

 

文系の比較はだいたいこんな感じです。理系については、関西学院大学の理学部と工学部、明治大学理工学部で比較をしていきましょう。関西学院大学の理学部が50.0~55.0で、工学部が50.0~60.0です。そして、明治大学理工学部が57.5~62.5です。理系についても明治大学の方が難しいと言えそうです。関西学院大学明治大学はどっちが上か?というと、全体的に明治大学の方がレベルが高いと評価できるでしょう。両方とも関西と関東では有名な大学と言えますが、難易度には違いがある状況です。関西学院大学明治大学はどっちが上か?と言えば、やはり明治大学になりそうです。どちらも頭いい学歴だとは思いますけど、こういう実態は理解しておきましょう。そして、関西学院大学明治大学のイメージや雰囲気の違いも理解しておくと良いと思います。

 

関西学院大学明治大学のイメージや雰囲気の違いは?

関西学院大学明治大学ではどんなイメージや雰囲気の違いがあるのでしょうか?それぞれは関西と関東にありますけど、兵庫県と東京都にキャンパスがあるため、そこは大きな違いとして認識しやすいでしょう。兵庫県と比べれば東京都の方が都会的な雰囲気は感じやすい可能性があります。明治大学の場合には、文系は和泉、中野、駿河台にキャンパスがありますけど、この中で言えば多くの学生が通う駿河台は都心に近いです。御茶ノ水駅が最寄り駅で、新宿駅にそこそこ近いですから。関西学院大学兵庫県西宮市にメインキャンパスがあるので、東京ほど都会という状況ではないと思われます。ただ、どっちがいいか?は好みが関係するので、一概には言えないでしょう。キャンパスライフに影響しそうな部分だけに、実際の両者のキャンパスを見比べてみると良いかもしれません。

 

関西学院大学明治大学では就職に違いはある?

関西学院大学明治大学の偏差値やレベルを比較してみると、ある程度は差があることが判明しました。ただ、そういった部分は就職に影響するのでしょうか?関西では関関同立は有名私大としてかなり評価されるとは思いますが、明治大学も十分に有名大学であり、評価自体が大きく変わるとは思えません。一方で、関東で言えば確実に明治大学の方が上でしょう。すでに難易度の差が表している通り、学歴のランクで言えば、関西学院大学明治大学は1ランク以上の差があります。だから、関東では関西学院大学明治大学では評価に明らかな違いがあるでしょう。関東で言えば、同志社以外の関関同立はMARCHと同格には見られない可能性が高いと思われます。したがって、関東では確実に就職における違いが出るはずです。就職において、関西学院大学明治大学はどっちがいいか?と言えば、どこで就活をするか?によりますけど、少なくとも関西以外を拠点とするならば、明治大学の方がおすすめでしょう。人事としては、関西学院大学明治大学はともに頭いいという評価はしていそうですが、全く同じ評価になるとは到底思えないのです。そこに関して頭に入れておくと良いと思います。

 

 

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「病気」や「障害」のレッテルの有無で人々の考え方や反応が変わるのはなぜ?

「レッテル」というものに関して、人類は大好きなようだ。個人的には人類が抱える七不思議の1つにでも入れたいと思っているが、なぜ人類はレッテルにこだわるのだろうか?日常生活の中でそういうシーンに出くわす機会は割と多い。例えば、最近で言えば、ある猫をケージ内に閉じ込めさせている飼い主が、動画内のテロップで「いじめているわけじゃないから許してほしい」と書いていた例があったのだが、「いじめ」というレッテルになぜこだわるのだろう?と、私は不思議でしょうがなかった。いじめているわけではないと弁明している時点で、要するに別の目的があってそういうことをしているという意識が飼い主にあったと思われるが、いじめに当たるか?当たらないか?を気にする理由ってなんだ?と思う。そんな部分は当の猫にとっては何の関係もない。猫が感じている苦痛は、人間がその行為をいじめを呼ぶか?呼ばないかで?一切変化しない。じゃあ、逆に言えば今回と全く同じ行為を、いじめる目的でやったらダメなのか?って話になる。全く同じ行為である以上、いじめ目的でやったとしても猫にとっての苦痛の程度や影響の度合いは変わらないわけだが。それはダメなんですか???問題はいじめに当たるか?ではなく、猫に対して具体的に何をしたか?だと思うのですが。

 

ただ、私にとって不思議でしょうがないレッテルの最たる例は「病気」に関するものです。病気ってのは基本的に病名が存在する。だから、病気って言えるわけだが、この病名そのものは完全にレッテルです。つまり、特定の状況に関して病名が与えられる状況であれば、それはいわゆる病気に該当すると周囲から認められる。逆に言えば、異常な状況であっても、それに対する病名が存在しなければ、病気という扱いにならない。さらに言えば、私が見る限り、病気というレッテルに該当するか?しないか?で、人々の反応が大きく変わるように見える。例えば、かなり前に日本で起きた航空機の事故の話なんだけど、その事故はパイロットが意図的に機体を墜落させようとしていたらしい。それが判明すると、世間ではそのパイロットに対する非難が集中することになる。しかし、その後このパイロットは「統合失調症」であったことが報道されると、その非難は止み、今度は航空会社に対する非難に変わったという状況なのだ。パイロットが統合失調症になった原因として、航空会社が悪いと考えた人が多くいたということなのだろう。

 

今度はフランスの航空会社で起きたある航空機事故に関しての話をしたいと思う。この事故は結果的に機体が墜落したのだが、その原因がパイロットの信じられないミスであることで有名になっている。この事故を引き起こしたパイロットは世界中で無能の烙印を押されており、ニコニコ大百科にも彼の項目が存在するほど(つまり、悪い意味でネタにされている)だ。彼はどんなミスをしたのか?というと、機体が失速状態にあったにもかかわらず操縦かんを引いて機首を上に向け続けていたのです。通常、機体が失速状態にあるときには機首を水平にするようにし、推進力を高めて失速状態から抜け出すことが先決である。しかし、このときコクピットにいたパイロットの1人は、機体が失速状態にあることで、このままだと落下し続け、いずれ墜落するという危機感があったのだろう。高度を上げることを目指してしまい、機首を上げるという行動をとってしまったのだ。機体が失速状態になければ、これによって高度は上がるが、失速状態でこれをやると前に進もうとする力が削がれ、失速がより促進される。つまり、傍から見れば、このパイロットの操縦は機体が墜落する可能性を高めるものだったと評価できる。

 

このパイロットの操作ミスは、あまりにも信じられないものであったがゆえに、彼はその点でその後有名になってしまった。冷静な状態であれば、機首を上げるなんて行為はプロのパイロットは誰もやらなかったのだろうが。そして、当時もそうだったろうけど、現在でも彼を叩く人間は世界中にいるだろう。彼は何らかの病気を抱えていたという情報はないだけに、病気というレッテルを貼られることがなかったからだ。しかし、先に出した統合失調症の事例では、本人が飛行機を墜落させようとする意思を持っていた事実は明らかである。後者はそんな意図はない。じゃあ、なぜ人々の反応は違うのだろうか?一方は病気で、一方は病気ではない。そこに違いはあるが、両方ともパイロットとして不適格な状況は一緒だろう。むしろ意図的に墜落させようとする方が問題じゃないか?とすら思えてくる。

 

統合失調症になってしまった原因は、日々の労働が過酷だったからなどの原因があったとしても、そんな事情はフランスの例だって当てはまってもおかしくない。外的な要因により、彼が凡ミスをするに至った可能性は十分にある。そして、彼を責めている人たちはその外的な要因によって、彼が無能と言われる状況に陥った可能性は一切考慮していない。私が見る限りでは。病気だろうが、病気じゃなかろうが、社会にとってはどちらのパイロットの存在も困る状況なのは一緒なのです。病気の有無という点にこだわらないといけない理由はどこにあるんですか???フランスのパイロットが能力の欠如ならば、特定の病気になりやすいか?どうかも能力の欠如と言わざるを得ない。だって、全員が全く同じ状況にあっても、全員が統合失調症になるわけじゃないんだから。これは別の病気も同じですけどね。例えば、免疫力などの部分には絶対に差がある。今回は言いたいことを説明するために、私も「能力の欠如」というレッテルを使ってしまいたが。

 

こういう反応の違いって、日常生活の中で割と見られる。病気じゃなく、障害という言葉もそうです。いわゆるコミュ障っていうのは、障害扱いされないのが一般的だろうが、はっきり言って社会生活を営むのが困難だと言わざるを得ない事例は普通にあると思われる。それこそ足がない、手がないよりも困難なケースは全然ありえると私は思っている。しかし、手足がないは障害認定されるが、コミュ障は障害認定されない。そして、障害がある人に対しては、国は雇用に関して特別な措置をとる。しかし、コミュ障の人は健常者の扱いなので、優遇措置を受けられない。障害というレッテルの差によって、そういう状況は当たり前に存在している。コミュ障になることって、別に自業自得な側面があるとは思えないですし、障害者の中だって、障害を抱えるに至った原因に関して、自分が悪いと言えるケースはあるだろうし。なぜ障害にコミュ障が含まれないのか?謎でしょうがないです。ただ、障害と呼ぶか?はこの際重要ではないんだけどね。手足がない人とコミュ障な人で国の対応が違う点が問題なんです。障害というレッテルにに関して、国も平気で影響されてしまうわけだ。人類は何らかのレッテルの有無によって、考え方や反応を変えることをやめられないのだと思われます。

 

 

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学区制はなぜあるのか?中学時代の通学で大変な思いをした私だから感じられる問題点

つい先日、私は母校である中学校の周辺を歩きながら自宅に帰った機会があったのですが、そのときにふと自分が中学校に通っていた頃を思い出しました。特に通学の大変さの思い出が蘇ってきて、当時よくこんな中学校まで毎日通っていたな・・・と思い始めたのです。私は地元の公立小学校を卒業し、同じく地元の公立中学校に入学しました。私の住んでいる自治体では、当時も今も学区制が敷かれており、住んでいる住所により、通うべき公立中学校が決まるという特徴があったのです。なぜ学区制なんてものがあるんだろう?今でも思いますよ。この学区制自体は別に珍しいものではなく、今でも多くの市町村や区で残っているでしょう。で、この学区制の存在により、私は本当に過酷な3年間を送ったと言っても過言ではありません。結論から言うと、私の通った中学校は、自宅から徒歩30分もかかるところにあったのです。30分って書いてるけど、小学生のときに私は親から「40分かかる」って言われていたのです。また、実際は30分だったけど、それは遅刻しないように早歩きしながら(場合によっては走って)通っていたので、完全な徒歩であれば、実際はもう少しかかっていたかもしれないです。

 

片道徒歩30~40分って、結構きついでしょう。駅2つ分じゃないですか?しかも私の場合には、実際に通った中学校が最寄りではなかったのです。私の自宅から徒歩12,3分のところ1校、15分くらいのところに1校それぞれ中学校があり、実際に通った中学校よりもさらに近い場所に別の中学校はちゃんとありました。しかし、学区制により、それらに通うことができなかったのです。小学校は徒歩10分弱くらいのところだったから、余計に通学が大変に感じられました。しかも往復それぞれで結構アップダウンの激しい通学路だったため、暑い時期の部活帰りとか、かなりへとへとだった記憶があります。ただ、同じ小学校に通っていた人たちの中には、私の自宅にかなり近い場所に住んでいる人たちもいて、彼らの多くは同じ中学校に進学していたので、同じような目に遭っていたのは私だけではないのですが。この中学校に通って良かったと思える面は、校舎が綺麗なところくらいでしょうか?私が入学したタイミングは新校舎を建てて2年目くらいだったと思うので、ピッカピカの状態です。今でも外観はかなり綺麗なままでしたが。当時は中もすごい綺麗で、そこは良かったかな?と思うけれども、3年間本当に大変な通学だったなと、今改めて思います。

 

こういった状況が起きたのは学区制という存在が大きいでしょう。今では廃止、撤廃するところも増えてきたみたいですが、まだ学区制はメジャーな存在です。学区制がなぜあるのか?と言えば、ある程度の生徒数を維持して、廃校や校舎の増築の必要性を防ぐためなどが理由みたいですけど、学区制の廃止や撤廃をするところが増えてきたということは、学区制を敷くメリットよりもデメリットの方が大きいと考えるところが増えてきたってことなんでしょうかね?いわゆる学校選択制を敷いている自治体もあるのですが、少なくとも親や実際に通う生徒ら目線から言えば、学校選択制の方が望ましい気はする。メリットが大きい気がする。学区制はなぜ存在するのか?その理由は基本的に自治体の都合によるものなので、学区制のメリットはあるものの、それを私たちに理解することはなかなか厳しいと思えてきます。

 

実際、高校になると学区制は緩くなりますよね。公立高校でも学区制は存在していますが、一定の範囲内で好きな高校に進学しようと思えばできる状態になっているケースは多いと思われます。試験に受かれば、好きなところに行けてしまう。そうなると、同じ自治体内の各公立高校の生徒数のバランスの問題が浮上しやすくなります。高校の場合、公立に落ちたら私立という選択肢もあります。だから、特定の公立高校に落ちたら別の公立高校に進学して、全体のバランスが調整されるなんて事態になるとは言えない。したがって、高校は学区制が多少緩くなっているのに、中学は何でこんなに厳しいの?と思うわけです。中学校の場合、特定の1つの学校に固定されてしまいます。高校は複数選択肢が一応あります。公立中学校の場合には、受験がないってのも影響しているかもしれないけど。だから、私は中学校の学区制はなぜ?と疑問を持ってしまいます。私は高校は私立高校に進学し、県をまたいで進学したわけですが、通学に関しては電車を2路線使って約1時間くらいでした。時間は高校の方が長くて、通勤ラッシュも経験しているのに、どうしても中学時代の方が通学はきつかったなといまだに思います。でも、2駅分あるんだから、中学校も電車通学でも良かったんじゃね?と、今なら思いますよ。

 

あくまでも生徒目線で言うならば、学区制のメリットは特に感じない。人によっては感じるかもしれないけど、私は特に感じられません。私が公立高校に進学しなかった理由の1つにはそれがあったかもしれない。選択肢が狭まるということです。私の通っていた中学校から公立高校に進学した人は、だいたい6~7くらいの高校の中に収まっており、これはやっぱり学区制の影響が大きかったと思います。つまり、そもそもの選択肢が少ないわけです。さらに学力で事実上さらに選択肢は狭まり、ほぼ選択肢がないという状況もありえる。ただ、私立高校になると、地元の都道府県の高校と近隣の都道府県を選択肢にできるから、選択肢が増えて、個人的には納得できるところを選びやすかった。学力がもっと高ければ、さらに納得できるところに進学できたんだろうが。でも、通学時間で言えば、私が学力も含めて選択可能な公立高校の中には、30分以下で通えるところもあったんだけどね。でも、高校で通学時間1時間ってのは普通くらいだと思っているから、気にするほどではないのですが。大学になると学区制は完全に廃止、撤廃されているというか、そもそも存在していないので、中学校でも完全に学区制が廃止、撤廃になってくれた方が個人的には良いなと思っています。2度とあの辛い状況は経験したくないですから。

 

 

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