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生まれた意味を知るRPG(常識を妄信するバカをバカにするRPG)

テイルズオブジアビス」というゲームソフトをご存じだろうか?日本の有名なRPGシリーズであるテイルズ作品の10周年記念作品であり、2005年にPS2で発売されたソフトです。私は当時買いまして、ちょっとやっていたんですけど、それが高校2年生から3年生になる頃だったので、受験勉強に忙しくなり、次第にやらなくなりました。したがって、当時は全体の10分の1くらいしかクリアしていなかったと思います。それを最近になって再びやり始めたわけです。15年ぶりなので、当時の記憶はあまりなく、新鮮な気持ちでプレイできましたが、このゲームはストーリーが非常に深い。深いというのはいい意味でも、悪い意味でもという話なのですが。テイルズって、だいたいこういう感じのストーリーが多いと思います。ドラクエとかと比べると、ストーリーが複雑です。ドラクエは小学生でも理解できるようなものですが、テイルズはそれぞれの作品ごとに違うものの、重いストーリーが多い気がします。かつ複雑なので、ゲームをプレイしながら、理解できなくなってくる面もあります。

 

テイルズオブジアビスもそんな感じで、設定とかがいろいろとややこしくて、調べながらプレイしないと何がどうなってんのか?よく分からなくなってきます。そして、この作品は副題というか、ジャンル名が「生まれた意味を知るRPG」となっています。テイルズシリーズはどの作品も基本的に「〇〇なRPG」、または「〇〇のRPG」といったジャンルがつけられているのです。この「生まれた意味を知るRPG」というのは、これだけ聞いてもよく分からないと思うけど、実際にゲームを進めていくと意味がはっきりと理解できます。全体の3~4割くらいまで進めると、ああ・・・そういうことだったのね。と分かるのです。このテイルズオブジアビスというゲームでは、現実には今のところ存在しえない、ある特殊技術が存在しており、それが主人公の誕生に深くかかわっていました。また、主人公が生まれた理由に関しては、預言(スコア)という要素も実は関係しています。ある都合によって生まれたのが主人公だったわけですけど、この預言に関しては、テイルズオブジアビスを語るうえでは欠かせない存在です。

 

簡単に説明すると、このゲームの世界では、古くから偉い人が預言を詠んでいたのです。この預言は舞台となる世界が繁栄を極めるまでの道しるべとなっており、この預言通りに人々は生きていれば、必ず繁栄がもたらされるという言説がありました。実際、それはある意味正しい面もあったのでしょう。だからこそ、人々は預言を妄信し、それに従い生きていく。その預言の中にどんなに罪深いことが詠まれていても、人々はいずれ訪れる繁栄のために、その預言通りに行動していったのです。その結果、例えば戦争なども平気で起こすような始末でした。この世界の人々は預言への依存が深刻であり、預言こそが正しいという思考停止の末期状態だったのです。預言というのは、私たちが生きている現実世界で言えば「常識」に相当するものでしょう。人が守るべき、正しいと信じるべき信念や行動指針などの意味で使われていると思います。そんな預言依存の状況に対して疑いの目を持っていたのが、ゲームでプレイヤーが実際に扱うことになる主要キャラたちです。彼らは預言に支配されている状況を変えるべく、別の言い方をすれば戦争などをやめさせて、平和な世の中にすべく、冒険をしていくわけです。

 

この預言に依存しっ放しのゲームの世界は、別に現実と乖離しているとは思えません。現実の人間だってほぼ同じでしょ?(笑)と思います。私たちが生きている現実世界で言えば、必ずしも常識という言葉だけに囚われません。良識、モラル、道徳、倫理、法律、ルールなどの言葉もほぼ同じでしょう。それが真理であると誰も説明できないにもかかわらず、それを正しいと大多数が信じ込んでいるものは、預言と同じだと思います。特定の行動などを非難するときに、まともな頭の人は、なぜ?という部分を説明するはずです。こういう理由だから、あなたの行動はおかしいというプロセスを経ると思いますが、まともじゃない頭の人は、結論を言って終わりです。その時によく出てくるワードが「非常識」です。常識に沿ってないからダメだと言うだけで、理由が存在しません。理由を考えられない頭なのかもしれませんが、何が悪いのか?説明する能力がないということです。つまり、傍から見れば否定されている理由が理解できません。常識に沿っていないのがいけない?じゃあ、イノベーションは悪ってことか(笑)非常識な発想から生まれるものですからなあ。非常識が悪っていうのは、そういう観念があるだけ。そして、その観念を信じている者がいるだけなのです。それの何が正しいのか?を問うたときに、私を論破することができるでしょうか?

 

ただ、別の言い方をすれば、戦争はいけないことだという常識はあるけど、それも結局は預言と同じです。戦争がなぜいけないのか?それは常識にはなっているが、理由はなんだろうか?常識や非常識の概念と比べれば、まだ理由は出てくると思います。しかし、その理由は戦争のデメリットにしか言及されないでしょう。戦争の悪いところを述べて終わりだと思います。頭が悪い人はだいたいこんな感じ。悪いところがあるから悪であるという、稚拙な思考しかできません。じゃあ、包丁は人を殺す道具になるから同じく悪であると?(笑)包丁を作る奴も買う奴も悪なのかな?悪い部分があるから悪になるのであれば、世の中の全部が悪なんじゃないですか?(笑)悪か?どうかって、普通はメリットとデメリットを比較して初めて出る結論だと思います。

 

戦争を始める人間がいるってことは、メリットがあるからやっているわけだ。それに「希望は戦争」という名言を残した人もいる。戦争が起きてほしいと思っている人もいるわけです。そういう意味では、テイルズオブジアビスの中では戦争それ自体は否定的な意見を主要キャラは持っているように見えるが、実は預言を妄信している人々と脳内構造はあまり変わらないとも言える。預言を無条件に信じている無能をバカにしているように見えるけど、特定の何かを、この場合においては戦争を無条件で悪と考えているならば、状況はあまり変わらない。実際、このゲームにも戦争を起こすことでメリットを実感する存在が出てきますから。別の作品になるけど、テイルズオブファンタジアという作品では、「この世に悪があるとすれば、それは人の心だ」というセリフがありますが、これがよく分かるような状況にも思えます。この人の心という悪の存在は、作中では同時に善であるとも捉えられているわけですが、結局人の心、観念などは善とも悪とも捉えられる、その場やその人たちの都合で作られているということです。だから、戦争が悪という人もいれば、善であると考える人もいるわけです。

 

このテイルズオブジアビスの面白いところは、預言を妄信する輩を否定する人間の中でも対立しているという部分です。主人公を含めたパーティーの面々と対立する存在がいるのですが、その対立する存在も預言それ自体は否定的です。つまり、預言によって支配されている世界の解放を目指していました。しかし、そのやり方で対立をするわけです。そして、そのやり方の部分に絡んでくるのが主人公の誕生の秘密です。なんのために生まれたのか?そこがこのゲームの核心であり、テーマにもなっています。生まれた意味とは何ぞや?と聞かれたら、私はそんなものはないと答えるだろうな。人が生まれるということは、誰かの意思によって勝手に行われることである。つまり、生まれるという状況は、生まれた本人の意思とは何ら関係ない。生んだ側の何らかの都合があって起きることである。そういう意味では、生んだ意味はあるだろう。生んだ側にとってね。

 

しかし、生まれた側にとっての意味はなんだ?後付けでなら生じるかもしれない。つまり、生まれた人間が生きて楽しい人生を送ることができた、それによって生まれてきた意味はあったと結果的に考えることは可能であるが、生まれた時点では、生まれた側の意味はもはや存在していないだろう。「生まれた意味」とは、結果的に生じる(可能性がある)ものであり、このゲームにおいてもそんな気はしないでもない。というのも、このテイルズオブジアビスの主人公は、自らが生まれた意味を冒険の中で探し求めるのだ。人が人を生むということは、生む時点までは生まれた人間ではない、別の誰かの都合が最も関係している。しかし、生まれて成長をしていく過程では、本人に生まれた意味が生じる可能性があるだろう。でも、それが具体的に何なのか?は分からない。ちなみに私に関して言えば、今のところ生まれた意味は不明です。今後見つかるかもしれません。人によって思い浮かべるものは違うのだろう。主人公がたどり着く生まれた意味とは何なのか?そこがみどころの作品です。こういう説明を聞けば分かると思うけど、テイルズって本当にストーリーが複雑でで、ややこしいですよ(笑)

 

テイルズ オブ ジ アビス - 3DS

テイルズ オブ ジ アビス - 3DS

  • 発売日: 2011/06/30
  • メディア: Video Game
 
テイルズ オブ ジ アビス

テイルズ オブ ジ アビス

  • 発売日: 2005/12/15
  • メディア: Video Game
 
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甲子園の土の出品(転売)に怒るような連中にはかかわらない方がいいよ

2020年の夏の甲子園が中止になったことで、全国の高校球児に向けて、甲子園の土が贈られることになったらしい。ただ、その甲子園の土がメルカリなどで転売されているそうです。タダでもらったならば転売じゃなくて販売だけどね。その状況にすごい怒っている人もいるわけです。元プロ野球選手の新井貴浩氏は「高校野球を通じて何を学んできたのか?」と言っていたし、自身のYoutubeチャンネルで片岡篤史氏も怒ってましたね。私は転売肯定派なので、この件に関して当然怒る理由はないです。私は転売アンチが嫌いなので、むしろもっと出品されねーかな?(笑)くらいに思ってます。以下で詳しい理由は説明するけど、今回の騒動を叩いている人たちは、私は基本的に大嫌いですし、出品者に対しては「いいぞ!もっとやれ!」という感情しかないです、はい。全部で5万個だっけ?それ考えたらメルカリだけでも相当出品されてますよ。いらないって人が多いんでしょうな。よっぽど邪魔に思われるものを送ったんだな。マジで反省すべきだよ。こんなに迷惑をかけてんだから。基本的に甲子園の土の出品(販売)に怒っている人って、私は頭が狂ってるんだろうと思っているのです。視野が狭すぎる。自身の感情に任せた善悪をただ語っているだけ。端的に言えば子供の意見でしかない。私が出品者だったら、無視でしょうね。「勝手に言ってろよwばーか!www」くらいは心の中で思うだろうが。別に文句を言う人がいたところで、出品している人には何の影響もないですから。無視をすれば解決するならば、無視をするだけでしょう。

 

そもそもこれって、希望者だけじゃなくて、全国の高校球児に等しく行き渡るように送ったらしいね。そらいらないと思う人に届くことくらい想像できるでしょ?それを処分してはいけない?善意の押し付けという迷惑行為を肯定するわけですか?(笑)これはひどいね。被災地に送った千羽鶴が邪魔、いらないという問題が以前あったけど、そういうニュースがあったんだから、それと同じことが起きただけ。歴史に学ぶことができないの?善意の押し付けは迷惑でしかない。実際、千羽鶴の迷惑のニュースのときには「支援する気がなくなった」と逆ギレコメントも結構あったみたいですがね。日本人ってそんなもんでしょ。自らがやってきた善意を迷惑と捉えられると怒るんですよ。支援する義務なんかないから自由にすればいいと思うけど、こういうコメントを見ると、自分たちが迷惑行為をしてきたという反省はないんだね(笑)マジでガキだね(笑)と私は思う。常に自分たちは善人というスタンスですか?(笑)

 

今回、甲子園の土を実際に出品している高校球児らの意見は特に見つからないが、過去に高校球児だった人の意見が「 ひろゆきが甲子園の土なんか貰っても嬉しいのかなと言ったそうですが... - Yahoo!知恵袋)」に載っていました。この人は、自分が貰う立場だったら「いらない」という気持ちみたいです。

 

>自分は以前、高校野球まで死ぬ気でやって来ましたが、今回のような措置の甲子園の土は本当にいらないです。 そのお気持ちは大変ありがたいのですが、それらを行う側の自己満とも思えてしまう。 甲子園の挑戦権をも奪われて、はい甲子園の土を、と言われても正直嬉しいとはならない。 しかも甲子園の土がそこから湧いてくるのならまだわかるが、色んな地方から甲子園へ運んでブレンドしていることくらい高校球児もわかっているので、その場を踏んでもいないのにどこかわからない土をどうぞと言われても嬉しくない。高校球児をバカにしないでもらいたい。 嬉しい人も大勢いるしいらない人も大勢いると思う。 それを発案してやろうという行為に文句を言うつもりもないです。

 

今回の甲子園の土をメルカリなどに出品している人は、そんなに本気で甲子園を目指していない人たちなのでは?と言われている面もありますけど、この人は本気でやっていたんでしょ?そういう人からしても、結局今回の土は魅力を感じないと。むしろ不快に感じている部分すら読み取れます。善意は結構だが、いらない人の気持ちも理解しろ!というような文章に見える。出品している人がどんな気持ちでしているのか?は分からないけど、中にはこういうちょっと怒りの気持ちが混じっている人もいるのかもね。ネット上を見ると、甲子園の土を出品することに怒っている人の方が圧倒的に多いようだが、ってことは日本人はそういう頭のレベルってことだ。善意の押し付けを肯定するようなヤバイ連中ってこと。頭が相当マズイ状況なのか、勝手に送り付けられた高校球児側の迷惑なんて無視なんですよ。送った側がかわいそうという声は多く見つかるけど、いらないものを送られた高校球児を思いやる気持ちはかなり少ないです。邪魔なものを送られた側は可哀想じゃないの?ここから分かるように、日本はやっぱり差別主義者がうじゃうじゃいる国なんです。平気で差別しますよこいつらは。一方の迷惑ともう一方の迷惑があったときに、自分の感情で共感できる方が善、その反対が悪と無意識に思っちゃうんです。そこに論理的思考は存在しません。無意識のうちに直感で判断しているんです。普通に考えたらさ、送るのは自由かもしれないけど、それがありなら処分するのも自由だよね。そうしないと対等にならない。送る側ともらう側が対等じゃないという証明ができるならまだしも。このケースは基本的に対等だと思うのだが。

 

それにね、出品をやめさせたいならば、この件に関してコメントなんかすべきじゃないのよ。一般人もそうだけど、新井や片岡みたいな有名人が意見を言うと、この問題が存在していることが世の中に伝わるわけ。私自身、この甲子園の土の問題に関して、新井が激怒しているというネットニュースで知ったもん。つまり、甲子園の土を欲しい人にとってはメルカリなどに行けば、そういうものが売っていることが分かっちゃう。そこに需要が生まれ、需要が生まれれば供給がさらに進む可能性がある。結果的に彼らは望まない結果を自ら促進しているわけですよね。実際、彼らは単に怒っているだけ。別の言い方をすれば感情論で憂さ晴らししているだけ。出品者からすれば、無視をすればすべて解決できる。だから、抑止力にはならないのよ。むしろ、さっき言ったように需要を増して、その結果として供給が増える状況を生む可能性があるわけですよ。ホリエモンが言っていた「バカはタダで拡散してくれる」状態です。出品者からすれば、甲子園の土の転売アンチが集客してくれている状況でしょう。これで客が減る状況はあり得ません。変わらないか、増える状況しか考えられません。まさにアンチは養分状態です。著名人が反対意見を述べることで、需要が低くなることはまずない。これは供給も同じ。こういう光景が望ましくないと世間が考えていることは誰だって想像がつく。そんな状況を気にしない人間が出品し、買うわけだから。だから、著名人が反対意見を述べても、売る気だった、買う気だった人間がそれをやめるということは考えづらいです。だから、需要は変わらないか、増えるしかないと思います。供給も同じです。

 

そして、これは1番重要な観点だが、いらないものを必要としている人に渡すのがどう考えても1番合理的ですよね。こんなものいらねーよ!と不満を抱えている状況よりも、それが欲しい!と思っている人に行き渡ることがなぜいけないのか?バカは感情論で、合理性なんか考えないですからね。このニュースを知って、企画した人たちがショックを受けているだろうという部分しか見てないんですよ。善意を踏みにじるとか言ってる奴もいるけど、善意を踏みにじる方が社会全体の効用は高まるんだよ。それの何がダメなんだ?それに善意の押し付けはなぜ問題じゃないんだ?甲子園の土の出品を許せば、高校球児とそれを買った人たちが満足するわけだ。どう考えてもそっちの方が理想だと思いますが。それにこういう事態が起きたことで、不特定多数の高校球児に甲子園の土を送ることは無駄でしかないということが判明したわけ。千羽鶴のケースもそうだけど、十分に意味がありますよね。次からはやり方を改良しようとか、そういう前進ができる機会を奪おうとしているわけよバカどもは。こうやってニュースにならなければ、同じような機会があったら、また全国でいらないものを受け取る高校生の被害者が増えるわけ。無駄が永遠に続くかもしれないのよ。今回でストップできてよかったじゃん!

 

だから、この甲子園の土をメルカリなどで販売している高校球児らを叩いてる頭の悪い大人は、何も良いことしてないのに、本人はその気になっているんでしょう。誰も幸せにならないことを平気で正しいと思ってしまう。そんな人間は私は心の底から軽蔑します。マジでかかわらない方がいいと思いますよ。理屈とは関係なく、自身の感情で善悪を語るような人間は、常に自分の都合のいいコトしか言わないから、何の根拠もないのに、自分が正しい人間だという前提でしか主張をしないから。理屈が存在しないってことはそういうことです。時間の無駄です。無視しましょう。反応するのは私みたいな暇人だけで十分です。そして、少なくとも高校球児に対して「許さない」とか言ってる連中は、マジでふざけるなよ?と言いたい。

 

バカとつき合うな

バカとつき合うな

 

 

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なぜ日本人は「貴社」と「御社」の無駄な使い分けに疑問を持たないのだろう?

日本語では、特定の会社などを敬って表現するときに「貴社」と「御社」という言葉を使います。貴社と御社という言葉の違いに関しては意味としてはありませんが、使うタイミングが異なります。貴社は基本的には文章で書くときなどです。御社は口で話すときです。そういった使い分けがあるのですが、そもそもなぜ2種類を使い分ける必要があるのか?ここが重要です。なぜ貴社と御社は意味は違わないのに、使うタイミングを分けているのか?というと、当初は御社という言葉はなく、貴社という言葉しかなかったらしいのですが、例えば帰社とか、同じようなジャンルで全く音が同じ言葉があって紛らわしいということで、口で話すとき用に御社という言葉ができたみたいです。

 

上記の理由を聞いて、へーって思う人もいるかもしれませんが、私は全く理解ができません(笑)なにそれ?(笑)としか思えないのです。貴社が紛らわしいから、話し言葉のときには御社に変えた?(笑)いやいや、なぜ書き言葉のときは貴社のままなのよ?(笑)これが意味が分からん!この結果、世の中には貴社と御社の2つの言葉ができてしまいました。なんで2つの言葉を残したの?普通に考えたらさ、両方とも御社にすればええやん!って思うのです。書き言葉が貴社じゃないといけない理由があるのか?と思う。だって、貴社と御社の両方が残っていると紛らわしいわけです。で、就活とかの時期になると、貴社と御社の違いを調べる人が確実に出てきます。というか、就活を経験した人であれば1度は調べたことがあるのではないか?と思えてきます。無駄だと思うんですよ。貴社と御社の使い分けをしないといけないわけで、就活などのケースではもちろん間違ってはいけないから、調べると思うのです。その作業が確実に必要になりますよね。貴社と御社はなぜ必要なのか?合理的な理由が1個も思いつかないんですけど、御社に統一すればいいのになと思うのです。貴社が紛らわしいとなった時点で、御社ができたみたいですが、もともと貴社という言葉1つだったわけです。使い分けは存在しません。だったら、御社に統一すればすべて済むことでしょう。

 

就活とかになると、履歴書が手書きは時間の無駄だという議論があるわけです。個人的には私も手書きの履歴書は無駄だと思ってるんですけど、こっちも無駄だと思うんですよね。無駄の度合いで言えば、履歴書を書くよりはマシだから、あまり気にしていない人が多いと思うんですよ。ただ、この貴社と御社の使い分けに関してはメリットが1個も浮かばないのです。手書きの履歴書はメリットがないわけではない気はします。デメリットの方が圧倒的に大きいと思っているから反対なんですけど。メリットが少なからずあれば、そこに意味を見出す人がいるかもしれないなくらいには思えます。しかし、貴社と御社に関しては両方存在するメリットは本当に分からない。貴社と御社の違いをいちいち調べる時間って1分もかからないくらいだと思うのですが、無駄には違いないと思うのです。手書きの履歴書は無駄であるという意見が割と見られるのに、貴社と御社の使い分けが無駄であるという意見は私はほとんど見たことがない。疑問にすら思ったことがない人が多いんじゃないか?と思えるほどです。

 

実際、私が経験した中で言うと、「貴社」って言葉、パソコンとかで変換するときに面倒なんですよ。記者とか、帰社という言葉を使う機会が、貴社と同じくらいあって、1回でそれぞれを変換するのが難しいときがあります。御社に関しては、「おんしゃ」と読む漢字は、私は御社しかほぼ使いません。だから、変換が楽なんです。そういう部分も含めて、書き言葉も御社にしてほしいと思っています。ここは人によって違いが出る部分かもしれないですけど。私にとって、貴社という言葉が存在する価値を全く感じられない。そんな状況なので、世の中的には貴社と御社が両方あることに関して、疑問を感じていない人が多いのかな?と思っていますけど、それはちょっと不思議な感じです。実際、貴社と御社の違いについて説明しているサイトは山ほどあります。しかし、両者がともに存在している理由について説明しているサイトは見たことがないのです。どこかにあるかもしれないですけど。だから、こういった状況を見ていると、日本ではこれからも貴社と御社という2つの言葉が存在し続けるんだろうなと思っています。どっちも意味は同じで、どっちも敬語であると。私からすれば、貴社の存在意義が分かりません。御社だけになってほしいと考えているのですが、そうはなりそうにないですね。日本人にとっては、貴社と御社が両方あることは無駄に思えないのかもしれませんけど(笑)

 

就活のバカヤロー (光文社新書)

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裁判官を批判している連中にもバカが大量に含まれている事実を知りましょう

この前は裁判官が無能であるという記事を書いたが、今日はそんな裁判官を批判する人たちについてです。裁判官に対して批判的なことを言っている人は世の中に大量にいると思いますけど、彼らがじゃあ的を射たことを言っているのか?というと、私はそうは思えません。裁判官それ自体も理解できない頭をしている人が多々いると思いますが、彼らを批判する人たちも同様だと思っています。そういう意味では、裁判官と大衆は変わらないということです。私が見る限り、裁判官を批判する言動の多くは判決そのものなのです。判決に納得いかない部分で批判をしているように見える。要するに判決に至った部分よりは、判決そのものが納得いかないように見え、論理性を欠くような批判ばかりが見受けられる印象です。

 

判決がおかしいと言えるためには、本来はそれ以前の部分で批判が生じないといけないが、日本人がそんなことをしているシーンを見ることはあまりない。要するに、刑事事件の裁判で言えば、被告は悪者扱い決定で、悪い奴なんだから有罪にしろと言っているようにも見える。林真澄氏が死刑判決を受けた和歌山カレー毒殺事件に関して、あれはネット上では冤罪だという声が割とある。というのも、この事件では物的証拠が1つもないのだ。状況証拠のみで有罪にされているけど、世間の雰囲気としては真犯人に違いないと思っている人が多いように見受けられる。少なくとも多数派だと思っています。しかし、この人が犯人であるという根拠は、実はそれほど有力なものではない。この人ならできたというもの。この人がやったという証拠がない。ただ、この人以外で怪しい人物が特に浮かんでこないから、半ば消去法のような感じで有罪になっているようにも見える。世間はそんなもんだと思います。事件に詳しくない人、別の言い方をすれば詳しく調べようとしない人は、報道されている情報を信じ、思考停止で勝手に犯人だろうと思っているのです。

 

裁判官を批判する人の中に、こういうタイプの人は非常に多いように思う。悪い奴であると決めつけて、悪い奴を懲らしめろという感性の人が大量にいるんじゃないか?と思っている。で、恐らくだけど、被告を擁護すると、犯罪者擁護だ!とでも叫ぶんじゃないですか?(笑)そういう光景を過去に見たことがありますよ。犯罪者擁護だ!って言ってる時点で、それしか言えないってことがバレてますけどね。つまり、犯罪者、または犯罪者かもしれない人間を擁護できる余地があるから擁護したのだから、それを批判するならば擁護できないだろうという反論をすべきなのに、それができないから、こうやって論点をずらして批判をしてくるわけですね。私であれば、「擁護できる余地があるからしたまで。それのどこが悪いの?」と返すだろう。バカはすぐばれますよ。裁判官を叩いているのは所詮はこのレベルの人間だと思っているんですよ。基本的には論理的に考えることができる日本人って絶滅危惧種だと思っているので、裁判官に対する批判でそれができる人なんてほぼいないんです。

 

あと、裁判官を批判するときの問題点として非常に大きいと思う部分があります。それは当事者しか正確に判断できない部分を想像で勝手に解釈してしまうという点です。これは裁判官も同じことやってるんだろうけどね。それが「相次ぐ強姦の無罪判決に怒りの声。報道を読んだだけで感情的に熱狂する世論の危うさも | ハーバー・ビジネス・オンライン」の記事で紹介されている事案です。

 

毎日新聞は、判決をこう報じている。

「判決で西崎裁判長は、『女性はテキーラなどを数回一気飲みさせられ、嘔吐(おうと)しても眠り込んでおり、抵抗できない状態だった』と認定。そのうえで、女性が目を開けたり、何度か声を出したりしたことなどから、『女性が許容している、と被告が誤信してしまうような状況にあった』と判断した」(3月12日付毎日新聞より)  

女性が泥酔して抵抗できない状態だったと認めながらも、被告が「女性が許容している」と勘違いする状況にあったと判断したという。

しかし普通に考えて、目を開けたり、声を出したりしたりしたからといって、セックスに同意したことにはならないだろう。しかも被告が誤解すれば、罪に問われないと言わんばかりの報道だ。そのため、インターネット上では、「ついに日本は酔い潰れた女性を強姦しても罪に問われない国になってしまった」といった怒りの声が噴出した。

 

この事件における裁判官の判断に対して、違和感を覚えたのがこの上記で紹介した記事の筆者なのだろう。この筆者は女性の態度や仕草から見て性行為に同意したとは言えない主張している。しかし、「声を出した」っていうのは、そもそも具体的なセリフなどは書かれていない。この状態で「声を出す」ことが同意していないとなぜ断言できるの?だって、セリフの中身によっては同意したと言えるものがあるはずだから。具体的に書かれていないということは、聞き取れないようなものだったのかもしれないが。抵抗できる状態ならば、何かしらの拒否反応を示さなければ、同意したという解釈は私は納得できなくはない。しかし、問題は抵抗できない状態という部分です。ここが大問題なんですよ。何が問題か?というと、抵抗できない状態っていうのは、字面だけ見ても具体的に想像ができないのです。現実は抵抗できる、できないの2択じゃないですからね。黒と白の間にはグレーがあるわけですが、そのグレーは色の濃さがいろいろなものがありますよね。黒寄りのグレーもあれば、白寄りのグレーもあります。例えば、お酒に酔うっていうけど、酔っている程度はその都度違うわけでしょ?それと同様に、抵抗できないというのが、具体的にどのような身体の状況だったのか?はこの一言じゃ分からない。身体が全く動かない状況なのか?身体は一応動くが、日常よりは不自由な状況であるのか?この2つでは全然違うし、これ以外にももっと表現の仕方はあるわけです。抵抗できないっていうのが、全く抵抗できない寄りなのか?多少なりとも抵抗できる寄りなのか?は分からないです。「抵抗できない」と本人、または周りが感じたとしても、10人いれば、抵抗が可能な範囲というのは全部少なからず違うはずでしょう。

 

だから、実際の光景を見たときに、裁判官は抵抗できないって言ってるけど、「これは抵抗できる」って言えるんじゃないの?と感じる人もいるかもしれない。つまり、グレーな部分を含んだ状況を裁判官は無理やり白黒の2択で表現しようとするわけです。で、それを世間も鵜呑みにすると。どっちも無能だなと思えます。裁判官からすれば、グレーにすると結論を導き出せなくなるから、勘でもいいから決めざるを得ない事情もあるかもしれんがね。裁判官を批判するときには、裁判官の言っていることがそもそも現実的に妥当なのか?という疑う気持ちが大切だ。結局、前提条件に関しては個人の感覚でどうにでも変わってしまうもの。言うなれば正解なんかないんですよ。今回の件で言えば、100%抵抗できないという状況ならば、同意していないと言える余地が大きくなりそう。しかし、抵抗できないというのが、少なからず抵抗はできる状況であったならば、その状況で被告が、女性に拒否反応と思える仕草が見えなかったときには、同意していると言える余地が大きくなる。この拒否反応っていうのもいろいろなものがあるから、その都度解釈が変わってきますけどね。

 

だから、不確定な、不明瞭な事実を含めて裁判官の思考を批判してもしょうがないのです。現場にいた人たちしか正確に判断できないことではなく、裁判官が独自に話したことなどを批判するならば良いと思うけど。この筆者は「同意したことにはならない」と言っているが、私から見れば同意したとも、していないとも判断ができないとしか言いようがありません。そもそも同意する、同意しないってのもさ、具体的な行動などで、妥当性がその都度変わるはずですよね。この態度ならば同意していると70%の確率で言えるだろうとか、その確率はケースバイケースで変わると思います。だから、具体的場面を見ていない人間にとっては、こういうところを批判してもしょうがないと思うのです。さっきの例で言えば、「酔っている」という状態も、当然どのくらい?って部分はケースバイケースで違うでしょ。だから、人の人生を左右しかねない裁判の場において、本来は酔ってる、酔っていないの2択で考えるのはバカですよ。酔ってる程度はそれぞれで違うし、そもそも酔ってる、酔ってないの境界線すらはっきりしないんだから。ただ、こういった部分は、裁判の仕組みそのものを変えないとどうしようもないだろうな。

 

あとは「被告が誤解すれば罪に問われないと言わんばかりの報道」とも言っているが、誤解した全てのケースで罪に問われないとは言ってないですよね?今回は被告が誤解した、それが被告が無罪となった理由の1つであると言えるだけです。誤解したと被告が言っていても、それを妥当じゃないと裁判官が認めれば無罪にはならないんじゃないですか?この人は、日本の裁判官は、被告が誤解をしたと言えば絶対に無罪するんだと信じているのかもしれないがね(笑)そういう邪推をしないと否定できない時点で、この人の主張は終わってると思いますけど。その後の怒りの声とやらも同じレベルですね。裁判官の思考力は問題のある人が結構いるもんだなあと思ったことがあるけど、裁判官を叩いている正義面している人間はなんなの?と思う。裁判官を叩いている意見に関して、これまともだなと思ったことって、2回くらいしかないと思うんですよ。上記の裁判では、裁判官に向けて「感覚のおかしい人だな」という批判もあったらしいが、「感覚」で裁判をすること自体に疑問を持てない人なんだなと思いました。事実ではなく、感覚で裁判をするから、万人に納得されない判決が出るんですよ?まあ、被告を悪い奴と決めつけて、その悪い奴を懲らしめろという思想の人には、どういう裁判をしても納得いかない判決には批判をするんでしょうけどね。

 

バカの国 (新潮新書)

バカの国 (新潮新書)

  • 作者:百田 尚樹
  • 発売日: 2020/04/22
  • メディア: 新書
 

 

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裁判官の多くは、司法試験が得意なバカであるという事実を知りましょう

最初に言っておくと、私は裁判官という職業は大嫌いです。憎悪の感情すら浮かんでくる職業の1つです。実際に私は裁判官って、ろくな奴がいねーよなと何度も思ったことがある。裁判官って選ばれた人間しかなれない、エリートのような印象があるかもしれないけど、私は無能のイメージしかないです。自分が無能であることに気付かない無能が、いっちょまえに人を裁こうとしてしまう滑稽な職業というイメージしかないです。それゆえ裁判官に対して、いいイメージを持ったことがない。裁判官に触れる機会って、私は特定の公判のニュース記事などを見たときくらいだが、そのときにはほぼ毎回「なあにこれ?(笑)」と思うことがある。大半は判旨に関するものです。その記事に書いてあることを実際に裁判官が述べたという前提で言えば、これって小学生が考えた文章なの?(笑)と思うことが多々あるのです。要するに、判決に至った理由といったものが感情論なのよ。その感情論を許しているのが法律とも言えるわけだが、マジでこのレベルなの?と思えてしまう。因果関係が掴めない、成立しないことばっかり言ってるなと思うのです。

 

こういうことは今まで何度も見てきたから、挙げたらキリがないと思うのだが、1つ例を挙げると、過去に犯行の残虐性と更生の余地について述べたものがあったんですよ。簡単に言えば、「犯行は極めて残忍であり、よって更生の余地はない(期待できない)」といったものだったと思います。だいたい死刑判決が出るような事件に関して上記の文言は多く見られる。ただ、犯行が残忍であることと更生の余地に何の関係があるの?更生の余地がどれくらいあるか?というのは、その被告の人間性とか、反省の度合いによると思うのですよ。万引きだって更生が期待できないケースはあるはずですよね。軽い犯罪だからやめられないって状況があると思うのですが?犯行が残忍であることと更生が期待できないってさ、何がどうリンクするの?そこまで考えてるの?しかも、更生の余地がないとか、期待できないっていうけどね、この言い方からすれば1ミリでも更生したら、この裁判官の言っていることは間違いってことになるんだけど、マジで言ってるわけ?1ミリたりともありえない、つまり可能性の全否定だが、そんな状況が実際にあるの?私には考えられない。当然この判旨は判決にかかわっているわけで、重要な部分なんですが、私から見れば適当に考えているのかね?(笑)と思えてきます。どれだけ凶悪犯であっても、この犯人が可哀想に思えてきます。こんなのに裁かれてさ。私は判旨を見て、「あ!この裁判官まともだわ!」と思ったことは、今のところ1回もない。きちんと論理的思考ができている裁判官を1人も見たことがない。

 

あと、最近見た例(裁判長まで「死にたかったら勝手に死ね」と言うレイプ犯の人生 | モテる男を目指す人のためのWEBマガジン、ライフブースター LIFE BOOSTER)なんだけど、裁判官が法廷で「死にたかったら勝手に死んだらいいじゃない?」と被告に放ったらしいんですわ。なんでわざわざ犯罪者を煽ることをするのだろうか?犯罪者を煽ってさ、なんかいいことあるの?死にたいならば、勝手に死んだ方がいいという、その合理性をきちんと説明したならば、まだアドバイスになっているからまだ擁護できる余地はあると思うものの、恐らくそうではないのだろう。裁判官の本音がただ漏れただけなんだろうと思う。その本音に大衆の無能どもは共感するケースが多いから、こういう発言は問題視されない。以前もありましたけどね。「死にたいなら1人で死ね」と殺人犯に投げかける人があまり多く、それで波紋を広げたケースが。私はこういうことを言う人って、マジで想像力がないんだと思う。この発言がさ、一体何のメリットを生むんですか?被告は確実に挑発しているし、この発言はネット上で公開されてしまっているので、世の中に存在する潜在的な犯罪者を挑発することにもつながっている。いいことが1つでもあるんですか?デメリットは余裕であげられるけど。「勝手に死んだらいいじゃない?」って、あなたみたいな無能に対し(ry

 

首相を辞めると発表した安倍晋三も「テロに屈しない」と、マスゴミの前で発言し、わざわざテロリストを挑発するような言動を過去にしたらしいが、マジでこういう人たちって合理性の判断もできないような頭のレベルなんですよ。想像力の概念すらもないのでは?と思う。そんな人間がさ、政治家とか、裁判官とかやれてしまう状況が私は1番恐ろしいと思います。裁判官は司法試験は得意なんでしょう。でも、受験勉強が得意でも論理的に思考ができないバカな東大生とかもいるので、こういう裁判官がいても不思議な感じはしない。こういう犯罪者を無意識に煽っちゃう裁判官って、私はかなり危険な人だと思いますよ。後先考えないで自分の本能で行動しちゃうタイプ。自分の感情が正義だと思っているのならば、大衆と頭のレベルはマジで一緒だと思う。

 

今回のケース以外でも裁判官が法廷で、いきなり怒り出すケースとかあるらしいですからね。それくらいに被告に対して怒りを覚えているというこのなのだろうが、感情を抑えられないような裁判官とか、本当に害悪でしかない。こういう裁判官がさ、公平で公正なジャッジをするとは思えないんだけど?(笑)裁判官が自らの感情を法廷で披露するなんてのは、私は言語同断だと思っています。感情に流されやすいような人間が実際に人を裁いているという事実が判明し、社会不安を確実に与えてますよね。そこに気付かないような人が裁判官になっているんですよね。裁判官って優秀な人間がなるってイメージの人は現実を知らないだけだと思う。多くの裁判官は、その辺の一般人と思考力自体は大差ないと思います。彼らの多くは、私が見ている限りは、司法試験には長けている。でも、それ以外は並以下の能力しかないんです。こういう狂った状況を露呈する、もしくは潜在的にそのような部分を抱えている裁判官は私が知らないところでも数多くいると思います。

 

 

極論を否定した時点で、その人の主張は破綻を迎えているという事実

極論ってなぜか嫌われますよね。極論が嫌われる理由が私は十分に理解できますよ(笑)だって、極論って反論することが難しいわけです。そりゃ嫌われますよね(笑)というのも、極論を言っている側からすれば、反論に困ることが想像しやすいから極論を使うわけです。だから、ある意味嫌われて当然というか、そういう反応をするだろうなというのは簡単に予想できます。私も意図して極論を言うことがあるし、その状況で「それは極論だろ」って返されたことが何度かあるのですが、その場合には「極論の何が悪いの?」とテンプレ返答をすることにしています。99.9%これで論破できます。私の経験上、極論の何が悪いのか?を問うて、返信をしてくる人がほぼいない。呆れたことにして、返信ができない状況でも返信をしてこない人もいるんだろうけど(笑)返信をしてきた人は私の経験上2人くらいいたが、極論は現実離れしているとか、そういう理由だったと思います。現実離れしていることは重々承知してます。そのつもりで言ってるんですから。

 

極論をなぜ使うのか?その理由の1つは、今言ったように相手を論破しやすいから。もう1つは、相手の主張を否定しやすいからです。論破しやすいからという状況と似ているとは思うものの、相手の主張のおかしさを主張するときに、極端な例を持ってくるのは便利なのです。「あなたの使っている理屈を極端な例に当てはめると、こういうことになります。これは正しいと思うのでしょうか?」という言い方をすると、相手は正しいと肯定することがしづらくなる。だから、現実離れした例を持ってこないと意味がないわけ。じゃないと否定できないんだもん。そして、その現実離れした例に関して、あなたの言っていることはあてはまっているんですよ?という主張ができます。つまり、現実離れした状況が悪いとなったら、その現実離れした状況に適合する理屈を使っている人も悪いってことです。現実離れした例は、現実に存在する可能性があることですからね。

 

説明しているだけでは分かりづらいと思うから、具体例を持ってこようと思う。西村博之氏が時効が撤廃されることが決まったときに、時効撤廃に賛成した人たちを揶揄していたシーンがあったのです。彼の理屈では、時効が撤廃されると、特定の事件について永遠に捜査できてしまう。すると、解決の見込みがない事件に人員が割かれて、それは無駄であると。そして、「時効がない以上、例えば2000年前の事件などを捜査するってこともありえちゃう」と言っていたわけです。この2000年以上前の事件を捜査するってのは、要するに無駄なことでしかないという意味で、極論として例を出したと思われます。実際、時効がない状況で、警察が税金を使いながら2000年前の事件を調べることに賛成する人は、時効撤廃の賛成者の中にもほとんどいないと思われる。つまり、この2000年前の事件を捜査するという例は、時効撤廃に賛成していた人間の主張がおかしいという証明をするための極論なわけです。彼は時効の延長ならば賛成って言ってるんですよ。事件の犯人が生きていると思われる範囲で延長するならば賛成としており、撤廃は完全に反対という姿勢みたいです。

 

時間やお金が無駄にならない範囲で時効を伸ばすならば、基本的にこういう問題は起きないわけです。時効を撤廃した場合には、例えば20年前の事件について調べ続けることもあれば、2000年前のことについて調べ続ける可能性もある。前者はそんなに問題ないかもしれないが、後者は大問題であるならば、時効の撤廃は問題点をはらんでいるわけだよねと言えるわけです。そして、前者が問題なくて、後者が大問題であるならば、理想の結論は時効の撤廃じゃなくて、時効の延長じゃないの?という、西村氏の主張が妥当性を帯びてくるわけですな。20年前の事件を調べるなんて、現実的な話ばかりしていると、時効の撤廃の問題点が見えてこないわけです。極論を出すと、その問題点が明確になります。2000年前の事件を調べる人がいるか?というと、なかなかいないと思うが、そういう人が出てくる余地があるのとないのでは、ない方がいいのであれば、じゃあやっぱり時効の撤廃には問題点があるよなとなります。

 

つまり、時効の撤廃に賛成している人は、2000年前の事件についてまだ捜査している人が出てくる可能性、そして実際に出てきたときにはその人自身、または警察そのものを容認しないと矛盾が生じるわけですよね。現実にそういう人が出てくるか?ではなく、出てきた場合にあなたはそれを正しいと思えるの?に関して、問うことができるのです。別の言い方をすれば、税金や時間などを無駄にするリスクが存在することをあなたは正しいと思うの?(それらを無駄にしない制度で時効の延長があるのに)となります。2000年前の事件について調べ続けるなんて現実離れしているが、その現実離れしている行動を容認する姿勢じゃないとおかしいというのが、極論によって証明できる。現実離れを否定的に捉えていた人が、極論を非難して、実際に現実離れを否定した瞬間、自らの主張のおかしさがバレるという状況になります。否定した瞬間に主張の矛盾が生じるのです。今回のケースで言えば、極論を持ってこないと時効の撤廃によって時間やお金が無駄になる可能性を指摘しづらいわけです。で、極論を否定する人は、そんな非現実的な例を持ってくるな(そんな非現実的ないシーンは無視すべき)と言っているわけだから、時間やお金を無駄にする状況をどうでもいいと思っている状況にしか見えない。だから、改めて、「あなたは捜査にかかる時間やお金が無駄になる余地が生まれることを肯定するんですね?」と問うて、首を縦に振らなければ、極論を否定していたこの人の主張は破綻します。だって、上記の部分を実際に問題点であると認めたならば、この問題点は極論によって初めて噴出したわけで、極論に存在意義があると認めたことになりますからね(笑)

 

極論というのは、論点を明確にするときに便利な手段であり、数学とかで、特定の問題を解くときに、極端な数字を入れて計算が成り立つか?どうかを確認することがありますが、あれと一緒だと思います。特定のケースのみで正しいと思えるものでも、別の極端なケースでも正しいと思えなければ、その理屈は理屈として正しさを担保できないでしょう。つまり、この場合には特定の理屈が正しいと思えなければ、そのときには別の理屈を持ってくることになります。分かりやすく言えば、誹謗中傷をする奴はクズだ!とか言っておきながら、犯罪者などに対して罵詈雑言を浴びせる人とかね。こういう人は日本に山ほどいると思いますけどね(笑)みんなやってるから問題ないって思うんでしょうね(笑)本当に日本人って知能を使えないなと思うけれども。誹謗中傷が悪ならば、問答無用で誰に対してやっても悪だと思うのですが、こういう人は自分が悪人ならならいために、その都度例外を作ったり、正しさの理屈を変えるんですよ(笑)ガキのすることにしか見えないけど、これが日本人なんだなと思いながら、私は今日も生きています。

 

バカの国 (新潮新書)

バカの国 (新潮新書)

  • 作者:百田 尚樹
  • 発売日: 2020/04/22
  • メディア: 新書
 

 

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人間のうち、大半の者の知能は犬や猫のそれと大差ないと思う

この記事のタイトルを見て、イラっとした人がいれば、私はっその人を相当頭が悪いと思うでしょう。私はまだ犬や猫の知能の程度について全く述べていないですからね。犬や猫の知能に関して一切評価していません。その状況でイラっとした人、不快に思った人がいれば、犬や猫の知能を相当低く評価しているのだろうと想像されます。犬や猫からしたら相当失礼な状況でしょうねw私は犬や猫の知能レベルに関しては、この世に存在する生き物の中では2位だと思っています。これは非常に大雑把な評価でしかないけど、2位タイです。要するに一部の知能を発揮できる生物とそれ以外のほぼ知能を発揮できない生物の2種類しかいないと思っています。で、2位に該当する生物が99%だと思っているので、犬や猫の知能レベルってのは、私の中では圧倒的多数派であり、普通ってことです。で、そのレベルに人類の大半も該当していると思っています。

 

猫を例に挙げると、猫って知能を使っていると思える行動が私には一切見られない。ほぼ全ての行動が本能によって無意識に行われているのではないか?と、私は考えています。非常に面白いシーンがあって、以前Youtubeである動画を見たときの話をしたいと思います。、チュールという、猫は割と好きなクリーム状の食品があります。このチュールを紙コップの中に入れて猫の前に置いたらどうなるか?という検証をしていたのです。ちょっとかわいそうな面も感じるけれども。当然、チュールは紙コップの底の方に溜まっており、普通に舐めようとしても届きません。で、この状況で猫はどんな行動をとったのか?というと、予想通り顔を突っ込もうとしますが、全く入りません。その後は前足を紙コップの中に入れようとしますが、それも入りません。その後はこの2つの行動をとる以外はありませんでした。そして、最終的に諦めたのです。人間であればどういう行動をとるでしょうか?仮に私が頭は人間のままで、身体だけ猫になったとしたら、紙コップをひっくり返すでしょう。そうすれば、チュールは液体と固体の間のような形状なので、徐々に垂れてくるはずですから、それで舐めることができます。

 

恐らく同じような行動をとるだろうなと考える人が多いんじゃないですか?でも、これって知能じゃないですよね。これは知識なのです。人間には重力の知識がある。その知識があれば、チュールをなめる方法は一瞬で思いつくと思う。だから、これは頭で考えた結果ではなく、思い出した結果という言い方ができると思います。要するに飲み物を飲む行動と一緒なのよ。飲み物を飲むときにはコップをさかさまに近い状況に持ってくるわけだ。重力を利用して口の中に入れようとする。それをやっただけ。飲み物を飲むときに頭で考えて行動をしている人はまずいない。無意識のうちにやっている行動なのです。この猫が起こした行動のうち、顔を突っ込むに関しては、普段の食事の風景と同じ。つまり、無意識にやっている行動と同じであり、どの猫でもできる。何も考えなくてもできる。前足を突っ込む行動に関しては、普段の食事ではやらない行動だろうけど、前足を使って何かをするという行動、つまり前足を道具として使うということは普段からしている。歩くという行動がそうだね。これも考える間もなくできるだろうし、どの猫でも割と思いつくと思う。やるか?どうかは別ですけど。サイズ的に最初から無理だと諦めるケースもあるかもしれない。ただ、動画では2匹ともやってました。人間も届かないものを獲ろうとするときに手を伸ばすことは無意識にやるだろうね。手を伸ばしたら取れる確率が上がるかな?なんて考えないですよね。上がるに決まってんだろ!と無意識に思ってるんじゃないですか?

 

どの動物、どの個体でもほぼ行える行動というのは、ほぼ知能ではないと思っています。同じ種の遺伝により、それが無意識に行える状態になっていると思うのです。人間であれば言葉を話せるというのは代表的ですが。頭で考えた結果、言葉を話せるようになったわけじゃないですからね。母国語以外に関してもあらかじめ言語を身に付けるための方法論が存在していて、それを実践したから身に付いたわけだから、これは知識なんですよ。身に付けるために知識をアレンジしたりして、独自の方法を編み出したとかならば、知能と言える余地はあると思う。つまり、私に言わせれば、常識的な行動=知識、非常識な行動=知能だと思っているのです。全部が全部そうとは言えないかもしれないけど、傾向としてはそのように捉えています。他の人、他の動物ができないことを行い、自分の望みを達成した状況が知能だと思っています。結局、自分のこれまで蓄積されている知識に頼らないというか、知識のみに頼らないという点が、知能と言えるポイントだと、私は思っているわけです。知能って言葉も結構漠然としているので、どのように捉えるのか?は人によって異なる面があると思いますから、参考程度に聞いてほしいですが。

 

常識的な行動しかとれない人は、知能を活用しているシーンが限りなく0に近いと思っています。知能犯って言葉があるように、警察や民間人などが想定できないような手段で犯罪を行い、目的を達成した人間がいれば、その人は知能を使っているだろうな。オレオレ詐欺とか、振り込め詐欺を最初にやった人は私は本当に頭いいなと思いますよ。前にも似たようなことを書いたけど、損得じゃなくて、善悪で自分の行動を決定する人が世の中にはたくさんいます。このパターンの人はまさに知能が使えないタイプだと思う。この場合の善悪はたいてい、世の中の常識的な価値観に沿っているもの、もしくは自分が直感的に感じたものが基準になっている。どちらにしても、自分で考えた結果ではない。

 

人間以外の動物を見ていると、人間と比べて大きな違いを感じる部分があるのですが、それは自殺です。私は自殺は人間しかしないものだと思っています。実際はどうか?は分かりませんが。ネットで調べてみると、動物でも自殺をするケースがあると書かれていたことはあるのだが、それを読んでみると、これって自殺じゃなくて自殺行為のことだよね?と思えてきます。それも踏まえて人間以外の動物は、そもそも死という概念があるのか?が分からない。そして、自ら死ぬ方法を知っているのか?も怪しいと思っています。だから、無理なんじゃ?と思うのです。野良猫とか見るとさ、人間が餌をやると必死で食べている姿があるんだけど、こういうシーンを見ると、自殺ができないんだなと思うし、知能ではなく、本能のみで生きている印象になるわけです。だいたい野良猫って、腹がめちゃくちゃ減っているケースが多いと思うのですが、腹を満たしたところで、腹ペコの苦痛はまたやってくるのです。腹を満たすことは次なる不幸の前触れになってしまっています。飼い猫じゃない、野良猫の場合には、次餌にありつける保証はないでしょう。だから、腹を満たしたら、またそこから空腹を味わうケースが増えるだけ。野垂れ死んだ方がマシなのでは?と私はマジで思っている。人間のホームレスよりも悲惨です。人間は犯罪を含むならば、生き延びる方法がないわけじゃないし、知識として知っている。しかし、猫には確実に餌を見つけるための知識もないだろうし、方法論としても思いつかないだろう。

 

人間の場合、そこまで頭が及び、この先の自分の人生に絶望したときには自殺を選ぶ人がいるわけです。自分のこれまでの人生を振り返り、このまま生きていくならば死んだ方がマシと判断したときに自殺は行われる。そこはある種の知能の活用はある気がします。常識に沿っていないということもありますが、結局合理性を判断しないとできないことですから。無意識のうちに、突発的にするケースもあるんでしょうけど。でも、人間以外の動物はそもそも未来予測ができない可能性もあるが、未来予測ができたとしても、目先の利益に食いついてしまうわけだから、こういうシーンを見ていると本能的に生きているんだろうなと思えて仕方ないです。腹が減ったから餌を求めるという指令通りに生きている。私から見ればロボットと差をあまり感じないんですよね。人間には意思を持って生きているように見えても、実態はあらかじめインプットされたデータ通りに身体を動かしているだけ。だから、ロボットに見えるのです。ロボットの中にも生き物に近いものもあるんだろうけど。ただ、そこで一部の人間と他の動物の知能の差を感じます。本能的に生きようとしてしまうことが非合理的であるという可能性が恐らくないと思うのです。ただ、本当に本能で生きているならば、不幸という感情もほとんどないはずなので、それ自体が問題とも言えないわけですけど。そういう意味では、本能的に野良猫が餌を食べようとする状況もどうでもいいって評価になります。ただ、知能の面で言えば、世の中に1%くらい存在していると思われる一部の存在との違いを感じる部分として、個人的にはかなり印象的だったのです。私が見ている限り知能をまともに使えている存在は、人類の中にもほぼいないように感じます。

 

ケーキの切れない非行少年たち(新潮新書)
 

 

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